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日曜日

頼朝杉⑦ ~髑髏と密旨~

勅勘(天皇の勅命による勘当)の身では何もできないと平家打倒の挙兵をあきらめている頼朝。一方、後白河法皇等は頼朝を勘当どころか実は頼っているという証拠を見せるために、流刑の身でありながら、後白河法皇の密旨(院宣)を取ってくると頼朝に豪語する文覚。

文覚も勅勘の身です。流刑地から簡単に抜け出すことなど出来ないはずです。この頃の島流しというのは付近の住民皆が監視役のようなもので、頼朝でも文覚でも不在期間が2日でも続くと、管理監督者である目代や北条時政ら在庁官人らが捜索に乗り出してしまいます。

ではどうやって?頼朝が文覚に聞くと

「法力を使います。」と平然とのたまうのです。

1.生入定(いきにゅうじょう)

さて、奈古谷の庵に戻った文覚。早速近隣の人々に7日間の入定(弘法大師が始めた伝説的信仰・永遠の瞑想に入ること)をすると触れ回りました。

すると噂が噂を呼び、ありがたい僧侶の入定の様子を一目見ようと伊豆国の人たちは遠くは西伊豆方面からも、この堂に集まってくるのです。(360°写真①)

 ①奈古谷の毘沙門堂(360°写真)

「奈古谷の上人の入定とて、国中の貴賤市の如くに集ってこれを拝む」(源平盛衰記)

◇ ◆ ◇ ◆

またこの入定より過去の話に寄り道させてください。

実は文覚、伊豆に流される以前、京で罪人として監禁中に「神通自在」の技(わざ)を衆人に見せています。幸若舞「文覚」には次のように記されています。

文覚は、京の民衆が見守る中、役人たちの手で七条大路の土牢へ入れられ、上から土をかぶせられました。後白河院への乱暴・闖入(ちんにゅう)は死罪にも匹敵しますが、文覚が僧であることから、簡単には死罪にはできないので、土牢に押し込めて自然に死ぬのを待つという方法をとることにしたのです。

土をかぶせてから100日が経ったので、掘り起こして供養するかということで、役人たちが土を除けてみると「につこと笑って出で給へば、官人肝を消し」状態でした。

これは京中にあっという間に有名となり、「神通自在」「其の身は芥子(けし)のごとにて」と言われたのです。

②薬師如来が持つ「瑠璃の壺」
(末代山妙楽寺者写真より)

この時、文覚を救ったのは比叡山の中堂薬師・医王善逝(ぜんせい)の使者でした。「瑠璃(るり)の壺」をもって土牢内の文覚を守ったということです。そもそも「瑠璃の壺」というのは薬師如来が左手に持つ万能薬の壺なので、この霊薬によって土の中でも100日間生きることが出来たということ自体が少々合理性に疑問が残るのですが。。。(写真②)

ちなみにこの土牢があった場所は、現在の住所で京都市下京区文覚町です。京都駅から直ぐ近くですので、京都に行かれた際に通過するときは、このお話を思い出してください。

いずれにせよ、伊豆で入定をする時点では、この裏話まではまだ流布されていなかったようで、文覚は神通力や法力を持つ特殊な僧であるということのみがまことしやかに民衆の間には噂されたようです。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、話を戻します。

このように合掌し拝む人たちの前で文覚はお堂に入り、外から鍵を掛けさせます。

しばらくはお堂の中で、数珠をこすり合わせながら、瞑想する文覚。

③福原の都・計画地図

入って一刻(2時間)程経つと、お堂の周囲から人の気配が少なくなっているのが分かります。

「よし、今だ!」

と文覚は、もう一方の壁の間からこっそりとお堂を抜け出るのです。造作もないことなのです。文覚にとっては。

2.福原の都

さて、伊豆から京へ文覚は急ぎます。

ーこういう時坊主であることは非常に助かる。ー

文覚は思います。僧になったばかりの頃、修験僧として全国を回った経験がありますから、銭など持たなくても街道を難なく行くことができます。京まで400㎞行くのは散歩のようなものでしょう。

3日で京には着きました。しかし、後白河法皇は京にはいません。藤原光能(みつよし)の屋敷で聞けば、福原へ行幸中であるとのこと。右近中将である光能も一緒に出ているとのこと。急ぎ文覚は福原に向かいます。光能の屋敷で、先触れを出してくれるようお願いし、密旨が欲しい趣旨をさらさらとしたため、これに持たせたのです。

京から福原までは2日はかかる距離。一方、伊豆の奈古谷の庵における入定期間は7日です。それまでに奈古谷の庵に戻らなければ、伊豆の民衆の不審を買うことになります。

福原までの山陽道を急ぎます。

◆ ◇ ◆ ◇

④雪見御所跡の碑

福原の都は、現在の神戸港の発展の元となった大輪田泊(おおわだのとまり)に人工的に作った経ヶ島に向かい、六甲山からの傾斜を上手く使った約一里の長さの都です。(地図③参照)

北は六甲山、西は会下山(えげやま)、東は大倉山に囲まれ北風を防ぐこの地は、瀬戸内気候と相まって温暖で過ごしやすい場所です。

日宋貿易を大輪田泊で盛んにし、平家一族の富を上げる清盛は、この傾斜上の大輪田泊方面を見下ろす場所に雪見御所を建て、昔の神戸の景観を楽しんでいたようです。(写真④⑤)

ーなるほど、この都市計画が成就した暁には「福原幕府」なる平家の独立政権が、貿易の富を背景に、ここで京と対立しても不思議ではないな。ー

福原に来た文覚は思います。福原の都に興味は尽きませんが、時間がありません。

⑤福原の平清盛の屋敷(CG復元)

京の藤原光能邸で教えてもらった場所を頼りに、福原の光能邸に一直線に向います。

3.髑髏

先触れを出しておいたことが功を奏したようで、光能は、文覚の急ぐ状況を良く把握していました。

文覚が藤原光能邸に1日半近く掛け、お昼ごろに到着した時には、光能は既に午前中から後白河法皇のところへ密旨に取り付けに行っていました。

この辺りの連繋は、実は文覚が伊豆に流されている間、藤原光能・源頼政(よりまさ)の3人で密に文を交換して政の状況の共有をしあっていたので、何かあれば即対応ができる土台は出来上がっていたのです。(一説には光能は文覚の外戚という話もあります。)

⑥髑髏と蜥蜴(画:河鍋暁斎)

「こちらで少々お待ちを」と言って通された小さな四畳半の丸窓からは、良く晴れた大輪田泊の経が島から和田岬、更にその先の難波(大阪)湾の海が、南中する太陽の光をキラキラと反射させています。その先には紀州の山々が薄ぼんやりと見えています。その素晴らしい眺望を見ながら、文覚は思います。

ーこんな柔らかな光に満ちた安穏とした景色を見ながら、新しい国造りが出来たらそれはそれで楽しく充実した日々だろう。さすが清盛は良い土地を見つけたものだ。ー

等と考えているうちに、急ぎ旅の疲れか居眠りを始めてしまいました。

◆ ◇ ◆ ◇

「文覚、文覚!」

見ると文覚を呼ぶのは何と髑髏です。先ほどのうららかで安穏とした景色とは一変して、暗い荒涼とした土地に1つの髑髏が落ちており、その眼窩からは、この髑髏を棲み処としている蜥蜴(トカゲ)が出入りをしています。

唖然とする文覚。髑髏はなおも続けます。

「文覚、恐れるな。ワシは左馬頭じゃ。」

左馬頭とは頼朝の父親である義朝(よしとも)のことです。(絵⑦)

⑦平治の乱に敗れ敗走する義朝一行
上から義朝・鎌田政家・頼朝か?
(Wikipediaより)


「文覚、ぬしに1つだけ伝えたいことがある。よいか。頼政挙兵時に、頼朝は同時に挙兵してはならぬ。じっくりと四囲を固め、挙兵は頼朝だけでも成功すると確信が持てるまでは、軽挙妄動にならぬよう注意せよ。」

◇ ◆ ◇ ◆

ふっと、目を上げると今までの寂しい景色が嘘のように、先ほどの爽やかな景観が広がっています。柔らかな海風が文覚の頬を撫でるのでした。

4.密旨

ーなんだ夢か?しかし何と対照的な世界だろう。やはり勝者の平清盛が住むここと敗者の義朝の住む黄泉との違いはこれほどまでに大きいのか・・・ー

と目覚めた文覚が転寝(うたたね)の一瞬に見た夢について反芻し始めた頃、「光能様、お戻りになりました。もう少々お待ちください。」と中間の者が取り次いできます。

姿勢を直し、少し待つと、いつもの厳しい表情の光能が入ってきて、上座にドカッと座ると

「文覚、息災であったか。長旅ご苦労!密旨はとったぞ!」

ほぼ同時に入ってきた中間が、三宝の上に恭しく載せてある密旨を持ってきました。到着と同時に密旨を渡されるとは思っていなかった文覚は、光能の仕事の鮮やかさに感心しながら

「ありがとうございます!これで頼朝殿も晴れて勅勘の身という認識を改め、挙兵にまい進できます!」

と言うと、光能も

「うむ!」

と満足気に頷くのです。

「ときに、少々気になる夢を見ました。しかも今、この場に到着したほんの一瞬のことです。左馬頭殿が現れました。しかも髑髏(シャレコウベ)で。」

「ほう」

「左馬頭殿は言うのです。頼政殿と一緒に挙兵するなと。頼朝独力でも挙兵できるだけの体制を作っておいてから挙兵しろと。」

光能はその話を聞いて、少し考えこみました。しばらくすると

「夢にしては、かなり突っ込んだ話だな。」

と言って、次のような話をはじめました。

5.以仁王

「文覚、以仁王(もちひとおう)を知っているか?」

「以仁王ですか?後白河法皇のご子息ですね。それ以上はあまり存じませんが。」

⑧大河ドラマ「平清盛」で滋子を演じる
成海璃子。天然パーマは個性を強調する
ための創作らしいです。

「やはりあまり知らんか。そう第三皇子じゃ。以仁王は有力な皇位継承権を持つ人物と見込まれていたのだが、残念ながら(平)滋子によって継承権をはく奪されたのじゃ。なので、以仁王は平家をかなり恨みに思うておった。

つい最近、滋子が35歳という若さで亡くなった。後白河法皇と仲睦まじい滋子がいたからこそ、まだ清盛と後白河法皇の仲が取り持たれていたようなものだったが、彼女がいなくなると後白河法皇は勿論、以仁王も今までの平家への不満は爆発するやろなあ。

これに便乗しているのが源 頼政や。奴は鵺を倒した噂のある強者ではあるが、女と権威にはめっぽう弱い。

だから以仁王や後白河法皇のような権威に対しては、多少盲目的なところがある御仁なのじゃろ。それが軽挙妄動に繋がると言っているのかもしれない。

光能の分かったような分からないような解説は、ここまででした。

文覚は言います。

「光能殿、一つお願いがございます。左獄(東の獄門)の辺りに蜥蜴が住む髑髏が埋まっていないか探していただけませんか?」

ーもし蜥蜴が住む髑髏があり、夢の言葉通りに現実がなった場合は、その髑髏、まさに義朝殿に違いないだろう。ー

と文覚は思うのです。

「よし、分かった。後白河法皇にも話し、京に戻ったら早速左獄の獄門町を隈なく掘り起こして探してみようぞ。」


6.義朝のお墓(鎌倉)

この話、結論を先走ってしまいますが、夢の言葉通り、頼朝は、頼政に依存することなく旗揚げは成功し、鎌倉幕府開府に繋がる訳です。

そして光能から、文覚の話を聞いた後白河法皇が、刑官に命じ、左獄の辺りで、文覚のいう特徴ある髑髏を見つけ出させました。

平家が壇之浦で滅びた直後の1185年8月中旬頃、頼朝は文覚が見た夢が亡き父・義朝の成功へ導く予言だったことを確信し、その髑髏が義朝であると断定。後白河法皇にその髑髏を渡してほしいと願い出ます。

そこで法皇は、大江公朝を勅使とし、文覚の門弟(恵眼房)に髑髏を持たせ鎌倉へ向かわせます。

頼朝は、片瀬(現在の藤沢)まで出迎えて、父義朝の髑髏を受け取り、輿に乗せて鎌倉へ運びます。

そして頼朝は、鶴岡八幡宮より南東に建設した大寺院・勝長寿院に盛大な埋葬の儀礼を執り行いました。儀礼を担当するメインの僧の役割は、文覚の門弟・恵眼房が担当するのです。

この辺りも文覚が深く携わっているのですね。

この話を聞いて私も鎌倉の義朝のお墓に詣でてみました。(360°写真⑨)

⑨鎌倉・勝長寿院跡にある源 義朝(左)と
腹心・鎌田政家(右)の五輪塔

ちなみに義朝のお墓の横に埋葬された鎌田政家は、義朝の腹心であり、義朝が平治の乱で敗れ東国に逃れる時に、義朝共々尾張(名古屋)の長田父子に殺されました。(享年38歳)ちなみに義朝・政家同い年で乳母兄弟だったようです。

当時は、非常に大きな寺院だった勝長寿院も写真を見ていただくと分かりますように、現在は閑静な鎌倉の住宅街となっています。

⑩左・義朝、右・鎌田政家 の墓
静かなロケーションにあるこの五輪塔の二人、義朝とその腹心が、そもそも鎌倉に拠点を持ち、東国に源氏の基盤を作っていたからこそ、頼朝の鎌倉幕府開府が成功したと言っても過言ではありません。(写真⑩)

ここから1,2㎞離れた鶴岡八幡宮や小町通は多くの観光客で溢れていますが、この場所は1時間私が居ても、数回原チャリか徒歩の住人の方が通るだけの、立派(?)なマイナー史跡でした。

ただ、こここそ、後の鎌倉時代・武士の時代を作り上げた根っこに位置する人たちの記念すべき場所だと思うと感慨深いものがあります。本当に愛すべきマイナー史跡ですね。

7.あと2日

話を戻します。とにかく光能から後白河法皇の院宣を貰った文覚です。

ただ、時間がありません。入定期間は7日間と日を限って出てきたにもかかわらず、既に福原(神戸)にて5日経っています。あと2日で戻らねば!

焦る文覚へ光能が言います。

「そうじゃろうと思って準備しておいた。大輪田泊から船を出してやろう。」

流石は藤原光能。船なら、海流・風に乗れば2日で伊豆まで帰ることもやぶさかではありません。

ところが・・・。

長くなりましたので続きは次回でお願いします。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【奈古谷毘沙門堂】〒410-2132 静岡県伊豆の国市

【京の文覚の土牢】〒600-822 京都市下京区文覚町

【雪見御所】〒652-0031 兵庫県神戸市兵庫区雪御所町2−1

【勝長寿院跡・義朝墓】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目6−20

頼朝杉⑥ ~文覚と頼朝~

文覚は、後白河法皇に持論を論破され、落ち込むところを描きました。その後、法皇は、側近の藤原光能(みつよし)に、文覚に密命を伝えるよう申し付けました。そして、光能は源 頼政(よりまさ)を呼び出します。

今回のお話は、光能・頼政が平家政権の問題を文覚に説明し、頼朝の挙兵説得を依頼するところから始まります。その後、伊豆に流された文覚は、頼朝と平家打倒について話を始めるのです。

お付き合いをお願いします。

1.打倒平家

①瓶子(へいし)
底面が小さい
ので倒れやすい
※平氏(瓶子)が倒れた
と騒いだ鹿ケ谷事件
 は有名ですね!   
さて、頼政の屋敷に使いをやり、御所の一角に頼政が来るのを待つ文覚と光能。

うなだれている文覚の前に、どこから持ってきたのか瓶子(へいし、写真①)をドカッと置く光能。

「まあ、飲め。」

瓶子から、かわらけ(写真②)へ酒を注ぎ、文覚の方へすいーっと置くと、自分はまた別の瓶子から直接ラッパのみを始めます。これでまあ良く四位もの高位が務まるものだと文覚があきれ顔で見ていると

「お前、摂津渡辺党(写真③)だったんだろう?じゃあ、頼政公を知らない訳はないな。」

「知っています。」

文覚は、頼政公の話をしようとする光能をぼんやり見ながら、実は別のことを考えていました。やはり法皇と清盛の2つの体制が均衡を取る必要性があるのではないだろうかと。

2つの体制。

摂関家である藤原氏が実質的な権力を持っていたことはあります。ただ、それは2つの体制が均衡を保たなければならないというものではなく、朝廷権威に従属する1つの経済基盤、いわばピラミッド型に階層化された体制に準じる経済力を各々の貴族が持つ中で、ボコッと藤原氏の経済力だけが瘤のように飛び出しているようなものだったと文覚は思います。

②かわらけ

ーまして藤原氏が朝廷がいる京以外の土地で政権を持つなぞ、夢にも考えたこともないだろうー

ーもし、平家が福原(現在の神戸)に政権を持つならば、どうなるのだろうか?また奥州は平泉という遠隔の土地で独立政権を作っている。新しい時代は、齢を取った京からは始まらないのかもしれないな。ー

瓶子の口に注がれた酒を飲まず、ずっとその水面に浮かぶ燈明の焔を眺めながら思いに耽っている文覚。

すると見たことのある小柄な男が案内されて入ってきました。

「おお、頼政殿、こちらへこちらへ。」

だいぶ酒が回り出来上がってしまっている光能。頼政が敷物の上に着座すると、かわらけを渡し酒を注ぎます。

ーなんだ酒宴なのか、またも。ー

と文覚は顔をしかめつつ、頼政へ平伏して話し出します。

③摂津渡辺党の港は
「渡辺津」と呼ばれた

「拙僧、文覚と申します。元・摂津渡辺党の遠藤盛遠でございます。」

「遠藤?そなたは遠藤左近将監持遠(もちとお)殿のご子息かな?」

「はい、父のような立派な武士を通すことは出来ませなんだ。」

なぜ?とは頼政は聞きません。じっと文覚を見ていましたが、

「そちは出家前に上西門院(鳥羽天皇の皇女)に仕えておったな。」

「はい、短い期間ですが上西門院の武者所に務めておりました。」

「ならば頼朝を覚えているかな。」

「頼朝ですか・・・。ああ、上西門院・蔵人(くろうど)の。」

当時は保元の乱(1156年)が終わった直後であり、河内源氏の棟梁・義朝の嫡男というだけで、鳴り物入りで蔵人に就任。しかし、文覚が当時の頼朝の姿を覚えているのは、ひょろひょろと青白く、およそ武人としては大成しそうもない若者。

ー平治の乱で源義朝が殺された後は、どこかに流されたと聞くが・・・。ー

「頼朝は今、伊豆に流されてかれこれ13年経つ。」

ー伊豆か。もうそんな前のことだったのだな。ー

「文覚、単刀直入に言う。頼朝を説得し、頼政殿と同時に挙兵させるのだ」

と言ったのは、かなり酔いが回った光能でした。

「頼朝をですか?」

「そうだ、頼政殿は摂津源氏、頼朝は河内源氏。同じ源氏同士が手を結べば、今の世をひっくり返すことなど訳もないことだ。」

「源氏が結束して平家を倒すということですか?」

「しっ!声が大きい。」

「倒してどうするのです?」

「先ほどの法皇の話だけでは、法皇がどれ程清盛に苦慮しているのか分からなかったようだな。文覚。」

「・・・」

光能の見下したような言い方に少々腹が立つ文覚。

ー分かってはいるさ。ただ、法皇がどんなに苦慮していたとしても、本当に清盛は間違っているのだろうか?それが俺には分からん。こやつらは所詮、法皇に対する忖度で動いているだけなのではないのか?ー

「まあまあ、文覚殿に急に政(まつりごと)の話をぶつけまくっても、それはそれで無理難題というもの。順を追ってお話せねばならないと思うが、いかがじゃの?文覚殿。」

と源頼政が、あえて柔らかい口調で諭すように続けます。

「お願いします。」

2.出作(でさく)問題

④神護寺の1荘園図
 後、文覚の活躍で神護寺に
寄進のあった荘園の地図
「文覚殿は、神護寺への荘園寄進を懇願しに後白河法皇のところに来られたと聞いておるが、現在の法皇の荘園事情は存じておられるかな?」

「ぬ、詳しくは聞いておりませぬが、法皇は長講堂領を皮切りに、かなりの荘園を摂関家(旧・藤原家)から集めたと聞いており申す。」

「なるほどな。確かに沢山持っておる。しかし、荘園は相対的な保有数が、政の中の力関係を決定するのは分かりますな?」

「と申しますと、やはり清盛殿と比
しては少ないのですか?」

「法皇の長講堂領が約180か所に対し、清盛の持つものは全国500近くはある。まあ、朝廷は他にも八条院領もあれば公領(荘園ではない正式な国保有農地)もある。また個々の荘園でも取高は違うので一概に清盛の方が多いとはいいがたいが、拮抗するには十分な数だな。」

「そんなに多いのですか。」

「文覚殿、勿論、荘園の数は大問題ではあるが、もっと問題なのは荘園制自体にあるのじゃ。この問題を解決しようと、今までに朝廷から出された荘園整理令の数をご存知かな?」

「いえ」

「ざっと延喜2年(902年)から数えて11回ですぞ。しかし一向に荘園は減らず、荘園制度が内包していた問題点は複雑化する一方。」

⑤荘園の棚田(イメージ)

「内包している問題とは?」

「1つの大きなものは出作という問題での。これは、平家の荘園の農作民が、周りにある、朝廷他の公領や荘園を耕し、そこからの収穫を胡麻化して平家の荘園からの収穫として申請するのじゃ。何故か。平家の荘園の方が租税率が低いから、他の公領や荘園より払う年貢が少なくてすむのじゃ。

これはたまらない。しかも、これはかなり巧妙に裏で行われておる。

また被害にあっている公領の国司や荘官(荘園を管理する人)も見て見ぬふりをするように賄賂を掴まされていることもある。さらには平家の荘官は武人が多い。被害にあっている国司・荘官が下手に武力に訴えれば、逆に命に係わることもある。なので、出作をやられている国司・荘官は、自領からの収穫高を低く帳簿につければ揉め事になることは殆どない。自分たちの実入りが減る分は賄賂等で賄えるからの。収穫高は気候や災害等によって変動するので、わざと低く付けていると詮議されることもない。

勿論、この問題はかなり以前からあったのじゃが、現地で武力を持つもの持たざるものの差が歴然としてきたのは、保元の乱(1156年)以降なのじゃよ。」

⑥荘園の出作問題簡略図

ーなるほど、そのような裏からのやり方には対処しづらいのは確かだ。ー

文覚は思います。

「その問題に対して清盛殿はどうお考えなのですか?」

「清盛も、勿論法皇が痛くその件でお悩みなのはご存知で、たまに上がってくる出作の訴訟に関しては厳しく詮議し、対処はしておる。また、法皇が苦しんでいる様子を見て、逆に清盛の方から、日宋貿易で上がる利益を朝廷に一部を献上するとの申し出もある状況じゃ。

「ならばよろしいではないですか?」

「本当にそうお思いか?文覚殿。確かに清盛のこうした好意に対して、法皇も毎年、清盛の日宋貿易の港・大輪田泊(おおわだのとまり)のある福原(神戸)に行幸される。表向きの関係は良好じゃよ。ただ貿易自体を牛耳っているのは清盛なのだ。つまりこの日の本の国の土地に関して法皇ら朝廷は制御不能、貿易に関しても富の分配権は平家が握っている。これは非常に危ういことではないか?

そもそも土地問題は、現地の国司、荘官も皆喜んでこの矛盾を受け入れている訳ではない。平家以前であれば、荘園領主である貴族に出作を訴え出れば、貴族間で紛争解決してくれた。その解決能力の一番高い藤原氏が一時栄華を誇った時期もあったわけじゃ。

ところが昨今は訴え出ることも難しい複雑な状況が出来上がりつつある。事件は現場で起こっている という訳じゃ。なので国司、荘官らが常に考えていることは、自分たちの武装勢力を強くして、隣の荘園と紛争解決力を高めねばということだけ。これは不安な毎日じゃろ。これを解決しない限り、世の不満は高まる一方じゃ。」

ーなるほど。度重なる荘園整理令で、朝廷から公式に認められない荘園は廃止される方向にはなりつつあるが、出作という抜け穴等を上手く使って平家がまた力を蓄えている可能性が高いということか。先ほどの法皇自らの話では良く分からなかったが、この頼政殿の話で得心した。が、しかし。ー

「頼政殿は清盛殿を倒した後、どうするおつもりですか?」

今まで黙って1人手酌で飲んでいた藤原光能は、何をまだ疑うのだ?とばかりに、あからさまに酔ったうろんな目を文覚に向けます。

場の雰囲気が良くない流れと感じとったのか、かわらけで酒をぐいと飲みほした頼政。笑みを浮かべながら文覚に言います。

「源氏がこれら武装勢力・武人を束ね、朝廷の制御下に入ろうと思う、文覚殿。そなたも、弘法大師様の時代に戻したいのであろう。今の世が不安定であるのは古(いにしえ)の心を失ったからじゃ。闘争が闘争を呼んでいる。源氏は一時的に武人を束ねはするが、その後はまた武装解除の平和な方向に世を変え、大師様の頃の中央集権国家に戻したいのだ。協力してくれぬか、文覚殿。

3.頼朝への期待

伊豆にいる源頼朝が、京の頼政と同調して平家打倒の挙兵ができるように、頼朝の説得工作のミッションを言い渡され、伊豆に流されてきた文覚。

前回お話したように、頼朝と文覚は伊豆の奈古谷に作った文覚のにわか温泉や、蛭が小島の頼朝の屋敷を行き来するうちに、かなり懇意となりました。

特に頼朝も文覚も、北面の武士として、同じ上西門院に務めていたことは、共通の話題として盛り上がりました。二人は互いに見知った禁中の様子や、そこに出入りする様々な人たちについて語らうことも多かったのです。

いつしか頼朝も

ー文覚は初見の時に感じた程、変な僧ではなさそうだ。ー

と思うようになってきた丁度その頃。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

と文覚は言い出します。とうとう源頼政から依頼されていた行動に出たのです。

◆ ◇ ◆ ◇

時は1176年、文覚が流されてきてから3年の月日が経っていました。

この時、京では後白河法皇と平清盛の対立が激化しはじめたのです。

そのきっかけは「鹿ケ谷事件」です。

⑦俊寛・鹿ケ谷山荘の碑
この事件、簡単に言いますと、安元3年(1177年)6月1日の深夜、密告によって、京は東山鹿ケ谷の俊寛(しゅんかん)山荘で、平家殲滅の密議が行われたことが、平清盛に露見しました。(写真⑦)

清盛は間髪入れずに行動を起こし、密議に加わった連中を一網打尽にしたのです。その時捕まった俊寛をはじめ、一味はすべて後白河法皇の近臣であり、この密議の中心に後白河法皇がいるのは明らかだったのです。死罪2名、俊寛は鹿児島県沖の喜界島へ島流し、その他3名も島流しと厳罰に処したのです。さすがに後白河法皇に裁きを下すようなことは出来ませんが、それでも後白河法皇に与えた心理的な打撃は大きく、またこの後、急速に後白河法皇と平清盛は大きな対立が見られるようになるのです。

この影響が、伊豆に流されている文覚のところにも、何等かの形であったのでしょう。

それまでは文覚は、後白河法皇や源頼政から平家の弊害の説教を聞いたとはいえ、しばらくは自分なりに平清盛の動静と源頼朝の人物を観察していました。

文覚はある意味、平清盛を2つの先進性で高く評価しても良いのではないかと逡巡していたのです。それは、

今まで土地にしがみついて収益をあげることの発想しか無かった日本の支配者とは違う、貿易による収益という経済的先進性

2権分立を、京から距離を置く福原という都市で実現しようとする先進性

です。

なので、光能と頼政に言われるがまま、安易に平家打倒の挙兵をすべきという気は起らなかったのです。

⑧北条時政の館があった守山頂上から韮山方面を臨む
頼朝が流されていた蛭が小島(写真矢印)
周辺は狩野川流域であり肥沃な荘園地帯
ただ、昨今懇意となった頼朝と話をしていると、頼朝は案外、京の雅(みやび)な北面の武士、泥臭い土地の事などさっぱり分からない単なる貴公子ではないようです。

この伊豆の肥沃な狩野川流域の田園地帯に流されて16年も経つからなのか、土地からの収益基盤ということに色々な思いがあるように感じます。(写真⑧)

それは、そんじょ其処らの農民の感覚とは違い、米の実りをどのように集め、そしてそれらがどのような形で、京の人の口に入るのか、米以外の商品に化けたりするのかという流通まで含めた米の価値、それに伴う富の集散の仕組みが身をもって分かっているようなのです。

ーこれは大したものだ。ー

と文覚は感心しました。

⑨蛭が小島の頼朝と政子の像は
現地の米の収穫を今も見つめている
多分に、妻である北条政子の父・北条時政が在庁官人(地方官僚)であったことから、国衙(地方)行政の実務が体得できてしまったのでしょう。(写真⑨)

ー頼朝殿とは、この国の財務基盤の考え方について、一度率直に話をする必要があるな。

と文覚は感じていました。

そしてある時、奈古谷に建てたにわか温泉に文覚と頼朝は一緒に入りながら、また京の話題をする中で、平清盛の貿易等の経済的先進性について話をしてみました。

「なるほど、清盛殿には、そのような先進性があったのですね。」

風呂の中で、頼朝は目から鱗と言わんばかりに、清盛の日宋貿易について感心します。しばらく、もうもうと立ち上る湯面からの湯気を眺めていましたが、急に

「しかし、それは、この国の問題の第一を真正面から捉え、変えようということとは違いますな。なるほど外国との交易は高度な商業手法です。ただ、この国はそれこそ数百年間に渡る土地の不健全な私有化を食い止めないといけないのに、清盛殿はそれには手を付けずに、一足飛びに貿易という手法で自分の財ばかり増やすやり方はやはり、間違っていますね。多少朝廷にその交易からの実入りを分けたとしても、まずは土地の財務基盤である荘園制度の見直しからでしょう。清盛殿の交易重視は後白河法皇も困っているのではないでしょうか。多分、鹿ケ谷事件の本質はそこにあるのでしょうね。」

と見通す達感に、文覚は、再び感心してしまいました。

ーこの人に天下をとらせよう。清盛の2つの先進性については、後々、この人の政権下でも実現可能な気がする。

そこでこの章の冒頭の問いかけです。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

4.院宣

文覚の藪から棒な質問、平家打倒をしないのかの質問に対し、頼朝は湯気の中、最初はまじまじと文覚を見つめていました。文覚は続けます。

「頼朝殿がおっしゃる通り、後白河法皇は困っておいでです。この国の本質的な問題もご達観の通りです。平家はねじ曲がり続ける私有地化制度を変えるどころか、先の藤原氏時代の延長で放置するありさま。頼朝殿が政権を取り、土地の基盤問題にテコ入れをすれば、この国は私が理想とするものになる。」

これに対し、頼朝は少し笑みを浮かべながら言います。

「いやいや文覚殿、私は既に29歳。六孫王の子孫であれば、とっくに国守であってもおかしくはない身分にもかかわらず、勅勘(天皇の勅命による勘当)の身であり、何も持っていないことはここに13歳の時に来てから16年間変わらずだ。そんな身の上で清盛殿のような権勢に立ち向かえる訳がない。」

⑩文覚は一計講じ、流刑中でありながら
ここから京へ向かうため芸をします
「頼朝殿、これから政権を取られ理想国を作り上げるまで、この文覚が戦略を授け続けます。まず、後白河法皇が頼朝殿を勅勘の身などと考えてはおらず、平家を倒して欲しいと考えている証として、拙僧はこれから、法皇の院宣を京へ出向いてとってきましょう。」

「院宣とな?しかし、文覚殿も勅勘の身、この奈古谷から京へ向かえば、ここを管轄している北条殿や山木殿から逃亡者として厳しく追手が差し向けられますぞ!」

「ご心配なく。拙僧には法力がございますでの。なあに7,8日程度もあれば院宣をとって戻ってきましょうぞ。」

◆ ◇ ◆ ◇

少々長くなりましたので、続きは次回にします。
ご精読ありがとうございました。

《つづく》

 

【俊寛・鹿ケ谷山荘の碑】〒606-8442 京都府京都市左京区
【蛭が小島】〒410-2123 静岡県伊豆の国市四日町12
【守山展望台(北条館跡)】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204
【文覚上人流寓之跡】〒410-2132 静岡県伊豆の国市奈古谷1729

頼朝杉⑤ ~伊豆の文覚~

 文覚(もんがく)に話を戻します。

京都・神護寺への勧請を、後白河天皇に強く迫ったことで、伊豆に流されることとなった文覚。

流刑地を伊豆に決定したのは、源 頼政(よりまさ)の差配が入ったことは間違いなさそうです。勿論、それは源 頼朝がすでに13年前から伊豆に流されていたことが重要な要因となっています。(写真①)

①伊豆の蛭が小島に立つ
流刑中の頼朝と政子の像
(頼朝31歳、政子21歳)

②藤原光能(みつよし)
神護寺蔵

頼朝杉③にも書きました通り、文覚の流罪地の決定には源頼政が大きく絡み、文覚も頼政からの密命をもって、流罪地・伊豆で源頼朝と接触をするのです。目的は勿論、源氏旗揚げです。平家一門に対する反逆の狼煙を上げるのです。

と、このような陰謀説は、結構あちこちの本等で見かけますが、正直、決定的な証拠は今のところ見つかっていません。

ただ、色々と調べていくと、黒幕は頼政だけに限らず、あと二人の名前が挙げられます。一人は藤原光能(みつよし)。(絵②)

もう一人は、皆さん良くご存知、後白河法皇です。(写真③)

奢る平家に対して、後白河法皇をはじめとする三位以上の貴族たちが、これを良しとせず、平家の勢力をこそぎ落とすための画策を徐々に開始したのも、この頃です。

平清盛に三位にしてもらい、恩義を感じていた頼政が、平家打倒で挙兵したのも、この朝廷の意を汲んだ行動だったのだと想定されます。(現に頼政は後白河法皇の息子・以仁王の挙兵を助けるために宇治平等院に兵を出すのです。)

その目的のために、文覚の利用を頼政も後白河法皇も考えていたとしても何ら不自然はありません。そして後白河法皇は後にも述べますが、絶対に平家打倒の首謀者たる尻尾を出しません。では後白河法皇のエージェントとして活躍したのはだれか?それが絵②にある藤原光能なのです。

1.伊豆における文覚

話を文覚に戻します。伊豆に流された文覚が頼朝の住む蛭が小島から約1里以内の場所・奈古谷という土地に住んだという話は以前もしました。頼政の息のかかった一族・渡辺党の1人である渡辺省(はぶく)に護送されてきた文覚は、在庁官人であった北条時政に引き渡されます。

③後白河法皇
(江里仏師作)

平家の多くの武将は在庁官人では無かったのです。つまり平家一門として出世を考えるなら在庁ではなく、中央に自分は進出し、所領については部下に任す、これがこの当時のエリート平家のトレンドだったのですが、北条時政は愚直に在庁を守ったのです。それはもしかしたら源頼朝という重要人物の監視役を平清盛から授かっているという自負もあったのかもしれません。

いずれにせよ、北条時政は文覚に対しても、蛭が小島の頼朝と同様に、自分の監視がきく奈古谷を指定してそこに住まわせたのだと思われます。

『神護寺旧記』には「深山の中に尋ね入り、棘(いばら)を刈り掃い、一宇の草庵を構えて居住」(苅掃荊棘、一宇草庵所令居住地成)とあります。また『平家物語』『源平盛衰記』はともに「奈古屋が奥にぞ住み居ける」「籠居したる場所をば奈古屋寺と云ふ」と記しています。

奈古谷には国清寺という室町時代にはかなり大きな古刹となった寺院があり、そこから山奥に伸びる道が延々とあります。

現在、この道は「文覚さんと毘沙門道」なんてユーモアのある名前がついています(笑)。(写真④)

④文覚ロードとあだ名される「文覚さんと毘沙門道」

このような歴史上の人物の名前が付いた道路ってあまりないですよね。しかも「文覚さん」なんて親しげな呼び方。これは昭和54年の大河ドラマ「草燃える」の影響もあるようです。

この道路沿いに国清寺から南東の山奥に進んでいくと文覚上人流寓之跡があります。(写真⑤)

⑤文覚上人流寓之跡

どうやら、この場所に文覚は草庵を建て、日夜行法に打ち込んだようです。
行法に打ち込む文覚に対し、奈古谷の住民たちはたちまち信頼を寄せるようになりました。
特に文覚は人相を見ることに長けているとの評判立ち、草庵への訪問者がひっきりなしに現れるようになったと伝えられています。

そしてこの地の目代(もくだい)が田30町分(30ヘクタール:東京ドーム6個分の広さ)を寄進してくれました。

これらの寄進に報いるために、文覚は毘沙門像を安置し、また草庵の脇に湯屋を作り、奈古谷の人たちが自由に入浴できるようにしたのです。(写真⑥)

⑥毘沙門堂
※看板の上に「NHK大河ドラマ」と
大河ドラマにより観光に来た当時
の面影を残しているのですね。

この湯屋に1風呂浴びに来た男が居ます。

そう頼朝です。勿論風呂を浴びに来ただけではなくて、京から来た文覚に非常に興味がありました。
京から来た文覚に、都の様子を聞きたい、また人相見が良いと評判の文覚に自分の将来も占ってほしいという気持ちがあったようです。

ひと風呂浴びた頼朝は、文覚に人相見を頼みます。人相見は日を改め、蛭が小島の頼朝宅で行われることとなりました。

◆ ◇ ◆ ◇

⑦説教する文覚
(手塚治虫作中)
さて人相見当日。

文覚が気の荒い法師であると聞いていた頼朝は、文覚が人相見に来たと知ると、ビクビクします。

ーこの坊さんにいつ殴られるか?ー

そう、この時の文覚の行動も変なのです。
頼朝の待つ座敷に通されたはずの文覚。いつになっても現れません。

ーどうしたことか?ー

と頼朝が様子を見に立ち上がろうとしたその瞬間。

パン

と座敷の障子が開いた音がしたので、頼朝がすわと障子の方向を見ると、驚いたことに文覚が障子から頭だけ出し、じっとこっちを見ています。あまりに奇抜なその光景に頼朝は目を逸らし、自分の前に着座してくるだろう文覚を期待して待ちます。
しかし、いつまで経っても文覚は目の前に現れません。

ーどうしたのか?ー

かなり時間が経っています。まさかまだ障子のところにはおるまいと思って、また障子の方へ頼朝が目を移した瞬間、ぎょっとして思わず頼朝は立ち上がるところでした。

なんと文覚は、頼朝を片目で眺めているのです。

ーなんだ。こいつ、変な奴だなー

と心で思いつつ、平常心を装いながら頼朝はまたじっと正面を見て座り続けます。
その後も文覚は、立ち上がっては睨み、這いつくばっては睨み、異様な様子で頼朝を眺めます。

頼朝も内心冷や汗を流しながら、それでも文覚のこの異様な雰囲気に飲み込まれないよう、平常心を装い座り続けるのです。

と、急に文覚は大声で頼朝に向かって話しだしたのです。

「拙僧、日本国中を修行して回り、あちらこちらで六孫王(源氏の始祖)の末葉(子孫たち)を見てきたが、大将として一天四海(天下の意)をおさめられる力量があるように見える人物はいなかった。御辺を見るに、穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相がある。御辺はこれから頼もしき人だ。めでたしめでたし。」

何がめでたいのか頼朝は良く分からなかったのですが、もしかしたら文覚が自分が変な行動に出ているのに頼朝が眼無視(ガンムシ)していたことを「穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相」と勝手に決めつけたのだろうと想像しました。

それから何度か頼朝と文覚はお互いの家を行き来するようになったとあります。
さも、この時文覚は初めて頼朝と会い、そしてその尋常ならざる人相を感じたような表現をしていますが、このあたり文覚はかなり以前から決めていた予定行動である可能性が高いのです。

それは文覚が三位・源 頼政のところで、平家打倒の計画を打ち明けられ、元渡辺党で頼政にも恩義のある自分もこれに参画すべく、まずは伊豆に流されている頼朝の基に、流刑地を頼政に周旋してもらった頃から、頼朝に対する行動を決め始めたのだと思われます。

そもそも、文覚は、袈裟御前を切ってしまった遠藤盛遠から文覚という僧に出家して全国を修行しまわる中で1つの大きなビジョンが出来てきました。このビジョンは1度潰れます。そして文覚は様々な人物と会ううちに、考えが練りに練られ、その練りが後の鎌倉幕府という素晴らしいイノベーションに繋がるのです。

ちょっとこの辺りの文覚の経緯を詳細にお話しないと、頼朝への文覚の行動や、その後の頼朝の行動について理解が進みづらいと思いますので、文覚の最初のビジョンができる頃に遡り、お話をさせてください。

2.文覚の最初のビジョン

それは袈裟を殺してしまい、出家した文覚が全国を修行しながら廻っている最中に、平泉の奥州政権を見た時からでした。摂津で育ってきた頃から奥州政権の話は聞いていましたが、どちらかといえば「蝦夷(えみし)」「俘囚」(ふしゅう、陸奥・出羽等の東北地方の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったものの意)というように、辺々に住む未開の民族のように言い、京に比べればダメダメな人たちの集まりと思っていました。

ところが、文覚は平泉に修行で行き、目から鱗だったのは、その巧みな経済機構です。今の東北地方である奥州は金や名馬、刀剣等々、京の貴族たちが泣いて喜ぶ名産を生み出していました。(写真⑧)

⑧平泉 中尊寺金色堂
※右は内部 ふんだんに黄金が使われている
マルコポーロが「黄金の国」と誤解した場所

奥州政権はこれらの宝を使い、自分たちの懐を肥やすだけではなく、巧みな賄賂活用により、京の中央で彼らを監視すべき地位にある役人たちの目を逸らさせ、自由に奥州政権を拡大する方向に、ロビー活動をしていたのです。

これは「蝦夷」「俘囚」と、中央から蔑まれていたこととも相まって、非常に効果的に財力のある大きな地方政権、「奥州王国」と呼んでも過言ではない、現国家の上に成り立つバーチャル国家のような様相を呈していたのです。これこそ「名を捨て実を取る」です。

京では朝廷や貴族、それを模倣する平家一門が、ただ日々宴会に浮かれているだけで、このことに気が付き、国家としての統一感が失われつつある日々に危機感を感じる様子もありません。

⑨滝修行中の文覚
伝・自彫
(証菩提寺蔵)
ーこのままでは現国家はいつか破綻する。どうすべきか?ー

密教の原点、自然と一体となす修行をしながら文覚は考えます。(写真⑨)

ー空海が起こした真言密教の衰退。これが現国家への求心力低下につながり、廃頽の原因である。朝廷を含む貴族の真言密教を軽視する風潮が悪い。世間は中央政権に白け、奥州政権のように地方は独自の密教寺を求心力の中心に据えている。中尊寺しかり、毛越寺しかり。この腐りかかっている中央政権を変えるには、今一度、京に空海の法力の復活を図る必要がある。それは神護寺と東寺の再興なのだ!ー

それで文覚は、このシリーズのはじめにお話ししましたように空海の建てた神護寺の再興から取り掛かるのです。そして後白河法皇の御所に神護寺再興のための寄進を訴えに行ったのです。

ところが、丁度その時、法皇は酒宴の真っ只中でした。

ーなんと!後白河法皇まで・・・ー

門番が制するのも聞かずに御所の宴内に入り込み、

ー情けなや!ー

と宴に参加する貴族らを睥睨すると、強引に勧進帳を読み上げはじめるのです。
文覚の目には涙が溜まっていました。

3.砕かれたビジョン

すぐさま警護の武士たちが文覚を取り押さえようとしますが、文覚は腕に覚えがありますのでこれら警護の者どもを掴んでは投げ、掴んでは投げ(笑)。

しかし、警護の多人数には敵いません。結局、牢に入れられた文覚。

ここで先のブログにも書きました通り、源 頼政とも会い平家打倒の話をしたのでしょう。
いくつかの文献にも、文覚が頼政の息子・仲綱が伊豆守を務める伊豆へ流罪になったのは、頼政の平家打倒の片棒を担いだからという説がのっております。

ただ、上記文覚のビジョンからすると、「中央政権が腐っている」と考える文覚がなぜ「平家打倒」となるのか、少々論理の飛躍があるように私は感じました。

そこで、源頼政と文覚が会う前に、藤原光能と後白河法皇が文覚と会っていたのではないかという論考をしました。(状況証拠は主に光能の院宣等がありますが、これは先のブログで書きます。)

ご存知のように、後白河法皇は、後日、頼朝から「大天狗」とあだ名されるほどの大策士。
宴に乱入してきた文覚が勧進帳を読み上げる時の涙の意味を知りたい、もしかしたらこの坊主使えるかもしれん と想像してもおかしくありません。

「右近中将(藤原光能のこと)、あの暴れ坊主を呼んでまいれ」

「あの怪力だけが取り柄の粗野な文覚と会われるのですか?奴は『行あれど学は無し』と言われる坊主で、法皇とまともにお話できる人物とは思われませんが。。。元々、渡辺党の武士で人の女房に懸想して殺してしまった程の下司(げす)ですよ。」

「おう、それは面白い。益々話を聞いてみたくなった。今宵の酒の肴話にもってこいではないか。はよ呼んでこい。」

⑩荻原碌山「文覚」
(1908年作、碌山美術館蔵)
ということで、光能は牢から文覚をそっと連れ出し、着の身着のままで後白河法皇の前に連れて行きます。後白河法皇はそもそも「今様」のたしなみ等から、白拍子や傀儡師等、怪しい庶民と頻繁に交流があるため、汚い身なりの文覚が対面することを不審に思う者はいないのです。

平伏している文覚に後白河法皇は声を掛けます。

「面(おもて)を上げよ!文覚。」

無言で顔を上げる文覚を見て法皇は言います。

「不屈の強面(こわおもて)や。良い面構えじゃ。」

文覚は先日の宴の時にすでに法皇にも失望しています。法皇に対する静かな怒りが強面となって表れたのでしょう。(写真⑩)

「何故泣いた?」法皇は続けます。

「は?」

「御(み:自分のこと)は見ていた。話すがよい。」

ああ、あの時のことかと文覚は思い返し、今更ながら神護寺の窮状から話を始めます。

法皇は聞き上手でした。深い傾聴と承認。文覚はついつい自分の深いところへ法皇が入り込んでいるのも気づかず話を続けていたのです。修行の話、奥州の話、空海の話、袈裟御前の話、一方的に一刻(二時間)は話したでしょうか。その頃になってやっと文覚は、少し話過ぎたと思うと同時に、話す前に感じた法皇に対する失望と怒りが不思議と消えていくことに気が付いたのです。

「あの宴での神護寺再興勧進は、拙僧の願いではなく、無上菩薩の大願です。なので幾ら法皇のご勘当を蒙っても、全く考えを変えるつもりはありません。拙僧は死んでも菩薩の行を退くつもりはないのです。もし赦されるとしても、この間と同様にまた何度でも参上し、大願の由を訴え続けます。死罪や配流の刑を賜ろうとも、拙僧のこの願は世世生生退転しません!」

と文覚は自分の話を締めくくります。

傾聴して聞いていた法皇。その目は文覚に対する慈愛に溢れています。法皇は真っすぐな文覚を信用したようです。ただ、その締めくくり方には苦笑しながら、今度は御が話すぞとばかりに始めました。

「ほう、良く分かった。文覚。何度も宴の最中に乱入されても困るな。やはり遠くにいってもらうしかないな。

ただ、文覚、御も怠惰で宴に酔っているのではないぞ。ぬしの奥州政権論なぞ数十年前から知っておったわ。知っていて潰さなんだは、そのような多様性がこの国には必要な面もある。
律令国家の多様化するその歩みを止め、元の強力な中央集権に戻すのがこの国のためになるというのは青臭い理想論だ。0か1かではない。つまりどこまでこの国の多様性を上手く均衡していくか。それに腐心しているのだ。

しかし、最近御が酒宴三昧で気を紛らわせているのは、その均衡が破られつつあることに深く憂慮しているからじゃ。

御に憂慮をもたらすのは平清盛。

正直、奥州の山々の中で、ほれ金だ、鉄だ、名馬だと生産し、それを都へ献上して多少富を蓄えるような奥州政権は可愛いものだ。

伊勢平氏の清盛も、地元伊勢で取れる水銀を都の周旋に使うとか国内で売りまわって財を作るとかであれば、奥州政権と同じように御はさほど気にかけなんだ。

ところが奴はその水銀を大宋国(中国)に輸出することにより、奥州なぞは比較にならん程の財を築こうとした。これを阻止するために、御も過去の侍人には考えられない太政大臣のような高い地位まで与え、懐柔を図ってきた。

残念ながら清盛めはそれで留まるどころか、更に増長しておるのじゃ。100年以上に渡り、大宰府や博多を中心に行われてきた日宋貿易の拠点を、大輪田泊(おおわだのとまり、今の神戸港)に移し、本格的にやるつもりだ。それに留まらず、都を京からその大輪田泊付近の福原に移すと言い出しおった。

⑪大輪田泊付近に立つ清盛塚と清盛の像

文覚、考えても見よ。ぬしが幾ら、荒廃した京の再興は空海の真言密教である神護寺・東寺の再興であるなぞぬかしても、都が福原に移ればなんの意味もないではないか?」

文覚はこの話を聞いてハッとしました。

ーもしかしたら後白河法皇の方が自分より余程憂国の思慮が深いのではないだろうか?しかし...ー

「し、しかし法皇が京におわしさえすれば、いくら清盛めが福原で財を成しても関係ないのでは?」

「文覚、本当にそう思うのか?清盛も朝廷が福原遷都を嫌がっていることは重々承知なのだ。

ただ清盛は頭が良い。ぬしが言うようにいっそ何度誘っても朝廷は遷都に反対だったという事実があれば、かえって奴が福原に幕府を開く名目ができる。

都は2分され競争になるが、貿易による財力には勝てない。次第に福原には人が集まり、そこが日本の中心になっていくであろう。

それはな。今までのような寺社を中心とした鎮護国家ではなく、安芸の宮島(厳島神社)を清盛が盛り立てたように、海洋国家を目指したものとなっていく。

神護寺・東寺だけでなく、比叡山、高野のお山、荘園という陸からの利益だけで成り立っている京の寺社は、海からの恩恵にはなかなか預かれないだろう。
そうなると相対的にすべて干上がってしまうのだぞ、文覚。

⑫厳島神社

そうならないように御が福原遷都の受容を含めてどれほど苦悩しているのか、ぬしには分かるまい。」

文覚はぐうの音も出ませんでした。

法皇が酒宴三昧で気を紛らわせていることなどは取るに足らない問題です。いかに自分のビジョンが直線的で稚拙なもの、宴に飛び込んで神護寺への寄付を迫るなぞは、児戯にも等しい行為だったかを思い知る文覚でした。

4.密命

文覚はうなだれています。沈黙は半刻も続いたでしょうか?

その間、じっと文覚を見ていた法皇はおもむろに立ち上がり、側にいる藤原光能に声を掛けます。

「右近中将、三位(源頼政のこと)を呼び、右近中将と三位で、この痴れ者へ密命を伝えよ。」

「はっ!」

それだけ言うと、法皇はその場を後にするのでした。

《つづく》


頼朝杉④ ~源 頼政 エピソード2~

神護寺への勧請強要を後白河法皇に迫り、伊豆流刑に処された文覚(もんがく)。

その流刑地選定に関して、先の大きな時代の流れを読み、陰で画策した人物が居ます。それが前回、鵺退治のエピソードを描きました源 頼政(よりまさ)です。(前回のエピソードはこちら

今回もまた、この頼政に関するエピソードを2つ描かせてください。

1.歌による立身出世

「のぼるべき たよりなき身は 木の下に椎(シイ)をひろひて 世をわたるかな」

これが頼政が出世のための一世一代の歌となりました。

①平清盛像(六波羅蜜寺蔵)
元々、平安貴族社会において、武士の身分が低いのは皆さんもご存知の通りです。この当時は平清盛が太政大臣で従一位となった超ウルトラC以外、源氏は河内源氏が没落(義朝や頼朝)し、摂津源氏である頼政が従四位と振るわなかったのです。

この当時の源氏(というか平家以外の武士たち)には、四位と三位の間に突破できそうにないガラスの天井があったようです。

そこで詠んだのが、上の歌です。そう「椎(シイ)」と「四位(シイ)」を掛けたのです。

つまり、歌の裏の意味は以下の通りです。

「(平家一門が清盛殿などの身内に頼りに出世するのに対し)源氏である我が身は頼るべき人が居ません。朝廷のハイアラーキという木の下で、拾わせていただいた椎(四位)で食いつないで生きていきます。」

この歌を知った平清盛は「あれ?頼政は四位だったのか。あれも良い歳やし、ずいぶんと尽くしてくれた。では三位にしてやるか。」と思ったようです。

従三位に昇格した頼政は、当時の源氏としては破格の出世だったのです。周囲の貴族たちも、「おお、とうとう武士も平家だけでなく源氏まで三位になれる時代となった。」と変化を感じながらも、決して頼政に対して妬みを持つことは少なかったようです。それはやはり頼政は歌が上手く、三位以上の貴族たちに政敵を持たなかった温厚な性格だったからこそ、ガラスの天井を打ち破り、昇進することが出来たのだと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

ただ、後に源 頼朝は正二位まで昇進していますが、一、二位よりも「大将軍」という役職にのみ拘ったようです。多分に頼朝は朝廷の政治体制に組み込まれることを嫌がり、朝廷の中央政権から離れた場所・鎌倉に独立政権である幕府を開くことに集中したのです。「大将軍」を欲したのも栄誉が欲しいというよりは、鎌倉に幕府を開く大義名分的な役職が欲しかったのでしょう。当時、世にイノベーティブな変化をもたらすのには、それしか方法はないと頼朝は考えたのです。

一方、頼政はどうだったのでしょう?
彼は大きな組織の中で順当に出世することにより、その組織内でゲットした権力を行使し、自分の考えを完遂したいと考えるタイプだったのかもしれません。

現代でも「偉くなるまではなるべく我慢し、偉くなって発言権が大きくなったら、自分のやりたいことを言うのが、デカいことを成すやり方」と信じていらっしゃる方が多いように感じます。比較的大きな会社や官僚の方に多い考え方なのではないでしょうか。

②平家打倒に敗れ辞世の句を詠む頼政
頼政は、この後、以仁王の挙兵に合わせ、平家に対して旗揚げをするのです。ある意味、政体の中で破格ともいうべき三位になるまでは、嫌いな平家も我慢し昇進に集中。そして三位ゲット後に自分のやりたいこと、つまり平家打倒の実現に乗り出すのです。

頼政の挙兵が頼朝より3か月早いだけであることを考えると、頼朝のように成功するのか、頼政のように失敗するのかは紙一重だったのかもしれません。ただ、頼朝は時代のイノベーターです。現代社会においても官僚や大企業からイノベーターが輩出された例は少なく感じます。なのでこれは私の考えでしかありませんが、頼政はもし挙兵自体が成功したとしても、頼朝のようなイノベーターには成れなかったかもしれません。

ちなみに旗揚げ失敗し、切腹する直前の辞世の句は以下の通りです。(絵②)

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」

鵺を退治し、歌も上手く、昇進の末、三位までいったのですから、十分花咲いた感がある頼政が死ぬ間際になって、このような歌を詠む理由があるとすれば、やはり前述のように昇進は彼にとっては手段であって、かれの人生の目的(夢)は平家転覆だったのかもしれませんね。

皆さまはどう思われますか?

ただ、頼政のように偉くなりたければ、さりげなく、しかし上記の歌のように権者に対してオブラードに包みながらも出世したい意志を伝えるスマートさが必要なことはこの時代から現代に至るまで変わらないようです。

2.菖蒲(あやめ)御前

③菖蒲(あやめ)御前
3つ目のエピソードは菖蒲御前の話です。(絵③)

前回描きました頼政が鵺退治をした後の話です。頼政はひそかに心を寄せている女性が居ました。菖蒲御前という美しい女性なのですが、なんと近衛天皇のお父さん・鳥羽院(院政を布いていた)に仕えていた女官だったのです。

奥仕えの女官ですから、何かの折にチラリと見えただけで頼政は一目惚れ。以後は文(ふみ)等の取り交わしを続け、3年経っていました。

鵺退治で、息子・近衛天皇を助けてくれた頼政に、鳥羽院も何か与えたいと思っていたところに、この噂が飛び込んできたのです。

ーよしよし、頼政が一番欲しいものを与えよう。菖蒲御前じゃ。ー

と鳥羽院は考えました。

ただ、そのまま菖蒲御前を頼政に渡すのは面白くありません。鳥羽院は考え、菖蒲御前と同い年くらいの美しい女官12人を菖蒲御前と同じ着物を着せ、御簾の前に並んで座らせました。

そこに頼政を呼び、こう言います。(対面時に御簾にお隠れになる朝廷の慣習として、実際には鳥羽院自らは言葉を発しません。代行する女官に言わせたのです。)

「頼政、息子・近衛をよくぞ助けてくれた。朕からも礼を言うぞ。そして今夜、朕からは『浅香の菖蒲』をくだそう。菖蒲の根は長い。朕は老齢ゆえ菖蒲を引いて掘り起こすのには疲れてしまう。よって頼政自身が、この中から菖蒲を引いて掘り出してほしい。」

ご存知のように「いずれが、菖蒲(あやめ)か、カキツバタか」というように、菖蒲やカキツバタは似たような花が、同じ時期に同じ場所で咲くのです。写真④は私の家の近所にある菖蒲園の花たちですが、まあこの2つは本当に似ていますね。良く分からないです(笑)。(写真④)

④菖蒲園(枡形城跡)
※どれが菖蒲(あやめ)で
どれがカキツバタか?

ちなみに『浅香の菖蒲』とは、現在の福島県郡山近辺、安積(あさか)疎水で有名な土地にあったと言われる浅香沼に咲く菖蒲で、古くから万葉集等の歌にも使われ、菖蒲の枕詞(まくらことば)になっているものです。つまり最高級の菖蒲を鳥羽院がくださるという意味ですね。

菖蒲御前の美しさを、このような花たちの群生になぞらえ、菖蒲に似た姿をさせた12人の女官たちの中から、カキツバタではなくて、菖蒲を選んで引けという鳥羽院の企画は、流石、平安時代の風流さを感じさせます。

しかし、仕える姿をチラリと見ただけの菖蒲御前を、その後何年も会っていないのに、頼政に選べというのは、ある意味、非常に「いじわる」な企画でもあります。

頼政が間違えて他の女性を選んでしまった場合、菖蒲御前は相当シラケるでしょう。長い年月に渡る文の交わしで築いてきた恋愛感情も、この企画の成り行きによっては、即、恋愛終了!という事態にもなりかねません。

皆さんが頼政ならどうされますか?

◆ ◇ ◆ ◇

頼政は、12人の女官を見廻しました。どの女性も美しいですが、今までの文のやり取りの中から、その容貌に現れるものを探そうとします。

ー多分、この方かもしれない。ー

と思う女性は3人に絞れましたが、菖蒲御前は1人です。

しばらく3人の女官たちを見廻しながら、苦渋する頼政。

そこに鳥羽院の代弁をする女官から

「どうして誰の手も引かないのですか?」

と催促の言葉。

そこで、頼政はまた歌で正直な心情を返します。

「五月雨に 沢辺の真薦(まこも)も水こゑて 何れあやめと 引ぞわづらふ」

ー五月雨が降ったことで、浅香の沼の水辺を示す真薦(菖蒲に似た葉を持つ植物)も、水嵩が増して没してしまいました。となると、花が菖蒲(あやめ)かカキツバタなのかもわからなくなってしまいました。なので菖蒲を引けと言われても困っているのです。ー

菖蒲たちが咲く時期は梅雨の季節です。この五月雨とは梅雨のことなのです。花咲く季節が梅雨で増水→菖蒲の花が分からなくなる というウイットな言い訳です。

また、もう一つウイットに富むのは、菖蒲が沢辺に咲く花であることを頼政は知っているということです。カキツバタは湿地帯の水の中に根を張りますが、菖蒲は沢辺の乾地に根を張ります。なので普段は根の張り方で、菖蒲とカキツバタを見分けられますが、五月雨で水嵩が増えた今、どちらも水中に没し分からなくなってしまったという、植生図鑑的な知識も織り交ぜたウイットさがこの歌には秘められているのです。(図⑤)

⑤あやめ(菖蒲)とカキツバタ
等の生育場所の違い
EvergreenのHPから

更にこの歌を深く解釈すると、五月雨は梅雨ですが、どしゃ降りを意味する表現なのです。なので、「鬱陶しい 」という意味合いがあります。特に真剣に恋愛をしている頼政にとって、菖蒲御前を含めた女性たちを、まるでモノのように扱う鳥羽院に対しても少々不快に感じたのかもしれません。

つまり、鳥羽院のこの「いたずら」企画を「どしゃ降りの雨みたいな企画やな。あぁ、鬱陶しい 。」という隠れた批判も裏に込めているのです。

この批判的要素に気が付いた関白太政大臣・藤原基実(もとざね)。

ーヤバい!鳥羽院が頼政の批判に気が付いたら険悪な雰囲気になる!ー

と思ったのでしょう。パッと行動に出ます。

「おおっ、流石は頼政殿、上手い!上手い!」

とまず、頼政をはやしたてます。鳥羽院は代弁の女官に菖蒲とカキツバタの生育場所の違い等、歌を解説して貰っています。頼政の批判的なニュアンスにはまったく気が付いていません。

そこで基実は次に、自ら菖蒲御前の袖をひいて、「これこそ、そなたの妻!」と頼政にひきあわせ、この場を納めることに成功したのです。

後日、頼政のこの場で作った歌こそが、着実に菖蒲御前を自分のものにできるよう、全部読み通し練られたものであると気が付いた基実らは、頼政の頭の良さ・歌のすごさに舌を巻くのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

第84回源氏あやめ祭りの様子
この菖蒲御前、頼政とは33歳差があったようですが、仲睦まじくその後を過ごしたようです。
しかし、1180年に頼政が以仁王と平家打倒の挙兵をする直前、累が彼女に及ばないように、彼女の故郷の伊豆長岡の奈古に逃すのです。そして頼政が自害したとの知らせを聞くと、尼になり伊豆で一生を終えるのです。

今でも伊豆の国市では、『源氏あやめ祭り』を毎年開催して、菖蒲御前の霊を弔っています。(写真⑥)

これは私の想像ですが、菖蒲御前が逃げた伊豆の奈古は文覚が流された地・奈古谷のすぐ隣です。もしかしたら、先に流しておいた文覚を頼りに頼政は菖蒲御前を逃がしたのかもしれませんね。

3.頼政のエピソードの終わりに

いかがでしたでしょうか?源 頼政のエピソード、前回は、鵺退治という武人らしい頼政、今回は歌による立身出世と恋愛成就という文人としての才。

いずれにしてもタダモノではない感のある頼政でしたが、やはり源氏の棟梁となることは出来ませんでした。彼だけではなく渡辺橋の渡辺党を含めた摂津源氏は、河内源氏である頼朝が全国制覇を果たすと、一御家人としてしか歴史には出てこないのですが、大江山の鬼退治をした頼光以来五代後の頼政まで、ある意味、大人にも子供にも夢のある話が多い摂津源氏は、素晴らしいと思います。

先に書きました頼政の辞世の句

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」

の彼の主観がどうしてそう思ったのかについては、前述の通りですが、私たちから見ると、十分花を咲かせた頼政だと思うのですが、いかがでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇

文覚が伊豆に流されてくる背景に、頼政という黒幕がいるという話から展開した頼政のエピソードはこれにて終了し、次回からまた時系列を戻して、文覚が伊豆に流された後の話から描きたいと思います。

なお、前回アナウンスした頼政挙兵時における渡辺党の活躍エピソードについては、予定を変更し、この時系列にのっとった中でお話させていただければと存じます。

ご精読ありがとうございました。


⑦「次回はきっと私たちにも出番がありますね。」
「おお、そうだな。今日の富士山は格別綺麗だ。」

【菖蒲御前跡(あやめ池)】〒410-2201 静岡県伊豆の国市古奈53−1

土曜日

頼朝杉③ ~源 頼政 エピソード1~

 さて、前回、遠藤盛遠(もりとお)が人妻である袈裟御前に懸想してしまい、袈裟御前が我が身を持って盛遠に教え、盛遠は出家し、文覚になる経緯を描きました。(リンクはここをクリック

そして話が前後して恐縮ですが、前々回のブログで、僧になった文覚が弘法大師・空海が建てた神護寺復興のために強引に後白河法皇に迫り、結果、法皇の不興を買い、伊豆に流されるという経緯を描きました。(リンクはここをクリック

この文覚の伊豆に流罪となる経緯は、調べれば調べるほど、興味深いエピソードが沢山見えてきました。今回、文覚の伊豆での話を描く予定だったのですが、また少し文覚の伊豆流刑に係る寄り道話もさせてください。(写真①)

①文覚と頼朝が流された伊豆(狩野川氾濫域)
北条義時が居城・守山城から写す

◆ ◇ ◆ ◇

②鵺に矢を射る源 頼政

文覚の流刑地を伊豆と決定したのは、この時より13年前に、この地に流されていた源 頼朝(よりとも)が居ることを意識した選択だったのではないかとの説があります。

では誰が選択したのでしょうか?それが今回の主人公である摂津源氏・源 頼政(よりまさ)です。(絵②)

と言っても、確証的なものがある訳ではなく、あくまで状況証拠によっての論考ですので、よろしくお願いします。

まず論考の第一は、文覚が後白河法皇の御所で神護寺支援を強訴し捕らえられた後、預けられた先は頼政の息子・伊豆守仲綱(なかつな)です。そして文覚を伊豆まで護送するのは渡辺 省(はぶく)という頼政の郎党です。

前回、文覚が遠藤盛遠という武士時代に、斬ってしまった袈裟御前の夫は渡辺 渡(わたる)。そもそも文覚の出身・遠藤家自体が、摂津源氏・渡辺党の縁戚筋であるというお話を書きました。

そう、つまりこの伊豆行は、文覚と関係の深い人脈の中で行われたのです。伊豆へ護送する船も、前回描いた文覚が盛遠時代に住んでいた現在の大阪・渡辺橋のあたりから出航したのです。

更に脱線しますが、頼政というのは絵②にあるように「鵺(ぬえ)」というバケモノ退治で武名を成した人物ですが、この祖父の源 頼光(よりみつ)は、「大江山の鬼退治」で有名です。

皆さんも、酒吞童子(しゅてんどうじ)等の本は小さなころに読まれたのではないでしょうか?

その酒吞童子を倒すために、頼光は頼光四天王という強ーい豪傑4人を従え、大江山に向かうのです。(絵③)

絵の中で、頼光は、左側の酒吞童子の鬼の首にかじられている武者です。

③大江山の鬼(酒吞童子)退治

絵の真ん中で、鎖やら鬼の腕やらで絡めとられながらも奮戦している二人。

二人の右側の人は、これも皆さん絵本等でよく知っている、クマにまたがりマサカリ担いだ「金太郎」さんの豪傑バージョン、坂田公時(金時:さかたのきんとき)。

そして左側が渡辺 綱(わたなべのつな)。なんかツナみたいな名前ですが、渡辺家は伝統的に名前を一文字にしていたようです。渡辺綱とか渡辺省、先週の盛遠時代の袈裟の夫・渡辺渡など、皆一字ですよね。『平家物語』では「渡辺の一文字名ども」なんてよばれています。

この時からのつながりなのです。渡辺党と摂津源氏との関係は。であれば、盛遠こと文覚の身請け引き渡しを頼政の息子・仲綱が実施し、文覚と出自が近い渡辺 省が伊豆に護送したことを、頼政の意志とは関係なく、単なる偶然とみるのは難しい気がします。

そして第二の論考は、文覚はひっ捕らえられた時に「遠くは3年、近くは3か月のうちに、思い知らせ申さん!」と叫んだと言われています。まあ、ひっ捕らえられた時すでに何か確証的なことがあった訳ではなく、単なる悔しい思いを年月を区切った言い方で現実味を持ったように言ったのだとは思いますが、少なくともそのような思いがあったことは、宮中の皆が知るところとなり、これを利用しようとしたのが頼政ではないかと。

④宇治平等院で挙兵する頼政
※3人もの渡辺党がいます(渡辺 清、渡辺 競、渡辺 省)

もしかしたら、頼政と文覚、ひっ捕らえられ伊豆に流されるまでの間、どこかで二人で密談をしていたかもしれません。

「文覚、どうだ一つ世の中をひっくり返してみないか?」

「頼政殿、3年でやってみせましょう!今の政(まつりごと)では、弘法大師の遺志を具現化することはできません。新しい世を作って、拙僧は大師の仏法を隅々まで行きわたらせ、また大師の造った堂宇を復興したい。」

「よし、では文覚。頼光四天王ならぬ、頼政四天王のうちの一人になってくれ。ついては、頼光が足柄山の金太郎を同志に加えたように、伊豆韮山の頼朝を我々の同志に加えるように画策してほしい。」

「なるほど!心得えましてござりまする。頼政殿」

なんて会話があったらと思うとゾクゾクします(笑)。というのは頼政は、これから7年後、後白河法皇の息子・以仁王を立てて、平家に対し最初の旗揚げをする源氏となるのです。(絵④)

平治の乱で源氏の棟梁とされた河内源氏の義朝(よしとも)の嫡子・頼朝を取り込もうという駆け引きが、当時の政(まつりごと)における中核・三位まで昇格した程の頼政が考えない訳がありません。

東の伊豆での頼朝挙兵、西の頼政挙兵、これを同時に行うことで平家殲滅を図りたかったのではないかと思いますが、残念ながら計画が平家側に発覚し、準備が固まらないうちに以仁王を助けるために、頼政は宇治平等院で挙兵し敗れるのです。

⑤大阪・渡辺橋とその周辺
敗れたとは言え、この戦にもいろいろなエピソードがあり、特にまた渡辺党の一人、渡辺 競(きそう)は胸のすくような活躍をしていますので、次回(?)にご紹介します。

この摂津源氏が盛んな頃には、渡辺橋周辺に起居した渡辺党の活躍は目覚ましいものがありますが、残念なことにその後、頼朝が挙兵に成功し河内源氏の世となると、摂津源氏も一御家人に凋落。渡辺党もあまり注目されなくなります。

ただ、これからも詳細は描いていきますが、頼朝の挙兵が成功した裏の立役者は文覚であり、文覚もまた渡辺党であったことを考えると、武士の時代を創生した大事業にいかに渡辺橋近辺の渡辺党が重要な役割を成したのか。関東にある鎌倉の成り立ちに大阪・渡辺橋が大いに貢献していると思うと面白く感じるのは私だけでしょうか?(写真⑤)

◆ ◇ ◆ ◇

読者の皆様には怒られるかも知れませんが、伊豆での文覚を描くと前回も言っておきながら、なかなか描き始められません(笑)。

というのは、本シリーズは『平家物語』や『源平盛衰記』を調べながら進めていますが、まあ出てくる人物に関するエピソードはてんこ盛りで、皆さんは良く知っているかもしれませんが、歴史初心者の私は恥ずかしながら、いつも「へー、へー」と言って、紹介したくなる衝動を抑えられません。

ですので、大変申し訳ありませんが、もう少し伊豆での文覚の様子を先に延ばし、この頼政や渡辺党のエピソードをご紹介させてください。

◆ ◇ ◆ ◇

⑥御所上空の黒煙の中の鵺

頼政は、上の絵②や絵④に見られるような、勇猛果敢な武士なだけではありません。文武両道に長けていたこともあり、源氏としては当時破格の三位まで位階を上げることができた人物です。特に歌人としても大したものなので、それらのエピソードを3つさせてください。

1つは、やはり「鵺(ぬえ)退治」。これは頼政一番の武勇伝と伝えられることが多いですが、弓の名人と言われる頼政の活躍以上に、これに関する歌がまた粋なのです。

鵺(ぬえ)は「得体の知れないもの」という意味らしいです。「夜の鳥」と書くだけあって、普通、フクロウ以外は夜中に鳴く鳥は日本ではあまり見ませんね。ところが、後白河天皇の先代である近衛天皇の時に、御所上空から細い不気味な鳴き声が夜な夜な響いてきました。

最近の研究では、これはトラツグミという渡り鳥ではないかと言われています。夏はシベリアから朝鮮半島で過ごしますが、冬はインドやインドシナ、フィリピンに渡り過ごす渡りの途中の漂鳥が、京都御所の周辺にたどり着いたのではないかと。主に夜中に鳴くのです。鳴き声は下の動画で聞いてみてください。鵺の声に聞こえますか?(動画⑦)

⑦トラツグミの声(動画)

この鳴き声を毎晩・毎晩聞いて体調を崩したのが近衛天皇。まあ、確かに夜中に聞いたら少々不気味な感は否めないですよね。このトラツグミの声は。

当時、一部では近衛天皇の先代の崇徳上皇の怨霊だとか、この後、始まる保元の乱や平治の乱など、平安末期が平安ならぬ不安末期の象徴の声だとか、色々と噂されます。

もともと近衛天皇は若い時から体調が勝れぬ質(たち)だったようですが、これら祟りのように言われ、鵺の形状にも尾ひれ羽ひれが付いて、絵⑥のようになってしまいました。

頭が猿、手足が虎、尻尾が蛇 です。後述しますが、一説にはこれは「得体の知れないもの」を方角で拡大解釈したものらしいです。そしてこのバケモノが東三条の藤原氏大邸宅の庭(現:東三条院址)から黒煙と一緒に御所の上空に現れるとのことでした。

有験(うげん)の高僧の祈りも効目がありません。この時、左少弁・源雅頼(まさより)が、「こんなバケモノは、酒吞童子を倒した頼光の孫・頼政に倒してもらうのが良いでしょう!」と近衛天皇に奏上します。

⑧鵺に止めを刺す猪早太

「なるほど!」と天皇は頷き、頼政に勅命を出します。

これを聞いた頼政、「私はバケモノ退治のために宮仕えしているのではありません。」と憤ります。

というのは、まあ現実的にはトラツグミあたりの話であり、退治したと言っても相変わらず近衛天皇の体調は戻らないだろうし、小鳥一羽夜中に追い回しても、またどこかで鳴かれたらと思うと、これは政治的なライバル(村上源氏)である雅頼が、頼政を陥れるために仕組んだ罠と疑いたくなる節を感じたからです。

ただ、勅命に従わないわけにはいきません。そこで猪早太(いのはやた)という部下だけを連れて、夜中に御所の上空に現れた黒煙に向かい、

「南無八幡大菩薩」と唱え、

頼光伝来の弓で矢を、ヒョーと射たところ

ギャー

と黒煙中に手ごたえがあり、

ドサッ

と落ちたところに、猪早太が駆けつけ、9回程喉を刀で突き、止めを刺しました。(絵⑧)

このバケモノ退治の話を近衛天皇に奏上すると、天皇は大層喜び、「獅子王」という名刀を頼政に下賜されたということです。現在この刀は東京国立博物館に重要文化財として保存されています。さすが美しい刀ですね!(写真⑨)

⑨名刀:獅子王

さて、この話はこれだけに終わらず、頼政の教養が如何に高かったかの話もついています。さすが文武両道の頼政。

というのは、この獅子王を頼政に渡したのが、当時の左大臣、藤原頼長。この人物後に悪左府と呼ばれることでも有名です。(絵⑩)

⑩悪左府 藤原頼長

渡す時に、以下の歌の上の句を詠みます。

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

これに対して、頼政、すかさず下の句を返します。

「弓張り月のいるにまかせて」

これは、頼長が「頼政、すごい!まるでホトトギスが空の雲まで名き声を轟かすように、あなたも名をあげましたね」と掛けたのに対して

「いやいや、弓張り月(半月)の方向に適当に射っただけですよ。」と、謙遜する頼政。

「弓張り月」と「弓を張って、月の方向に」という意を重ね、「いる(そこにある)にまかせて」と「射るにまかせて」の意も重ねて、裏の意図を表現しているところに、頼長も近衛天皇も、弓だけでなく歌も上手い上、謙遜する頼政に心酔したとかしないとか(笑)。ちなみに悪左府は男色家。

ただ、現実的な解釈では、頼政はやはり鵺退治と称して、鏑矢(かぶらや)をおまじないとして四方に射たのが実態で、「適当に射た」というのは本当のところのようです。ちなみに鵺の形容と猪早太、これらセットで方角を表すと言われています。つまり、頭が猿=未申(南西)、尻尾が蛇=辰巳(南東)手足が虎=丑寅(北東)、猪早太=戌亥(北西)ということで、猪早太自身創作だという話もあります。この方角へ鏑矢を頼政は射たという訳です。

私の勝手な解釈をします。以下の想像は怒らないで笑い飛ばしてください。

頼長が

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

⇒黒雲(黒煙)の中に居たモノの名は、鵺ではなくて小鳥(ホトトギス)
 だったのではないですか?
 (裏の意:それで名をあげられるとは羨ましいこと。)

と上の句を詠んだことに対し

「弓張り月のいるにまかせて」

⇒ええ、半月の方向(南西)にいたみたいなのでテキトーに射ってみました。
 (裏の意:東三条の藤原邸(東三条は御所から南西の方角)から来るのですか
      ら、頼長さんはやはり正体を小鳥だとご存知でしたか。)

とお互い隠れた歌の応酬で、真実の報告をしたのではないでしょうか。

何分、近衛天皇の健康悪化は悪左府が呪詛したという噂があるくらいなので、藤原邸から鵺であるトラツグミを飛ばしていたかもしれません。

ただ、獅子王を下賜くださるほどの騒ぎになっているのですから、こんな真実報告レベルではなくて、もっと頼政のすばらしさが分かるような解釈にしたのではないかという想像は下衆の勘繰りですね(笑)。

実存するかしないかも分からない猪早太だけを連れて、鵺退治というのも、しっかり退治したという報告を創作するために限定した人たちだけでやったような気がしてなりません。

どう思われますか?

あ、決して頼政を貶めるように考えているわけではありません。もし上記歌のやり取りが本当だとしてもそれはそれですごい歌人には変わりないのですから。

すみません。長くなりすぎたので、あと2つのエピソードも次回、頼政の挙兵時における渡辺党の活躍と一緒に描きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【渡辺橋】〒530-0004 大阪府大阪市北区1

【東三条院址(藤原氏邸跡)】〒604-0035 京都府京都市中京区上松屋町

【京都御所】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3