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頼朝杉⑥ ~文覚と頼朝~

文覚は、後白河法皇に持論を論破され、落ち込むところを描きました。その後、法皇は、側近の藤原光能(みつよし)に、文覚に密命を伝えるよう申し付けました。そして、光能は源 頼政(よりまさ)を呼び出します。

今回のお話は、光能・頼政が平家政権の問題を文覚に説明し、頼朝の挙兵説得を依頼するところから始まります。その後、伊豆に流された文覚は、頼朝と平家打倒について話を始めるのです。

お付き合いをお願いします。

1.打倒平家

①瓶子(へいし)
底面が小さい
ので倒れやすい
※平氏(瓶子)が倒れた
と騒いだ鹿ケ谷事件
 は有名ですね!   
さて、頼政の屋敷に使いをやり、御所の一角に頼政が来るのを待つ文覚と光能。

うなだれている文覚の前に、どこから持ってきたのか瓶子(へいし、写真①)をドカッと置く光能。

「まあ、飲め。」

瓶子から、かわらけ(写真②)へ酒を注ぎ、文覚の方へすいーっと置くと、自分はまた別の瓶子から直接ラッパのみを始めます。これでまあ良く四位もの高位が務まるものだと文覚があきれ顔で見ていると

「お前、摂津渡辺党(写真③)だったんだろう?じゃあ、頼政公を知らない訳はないな。」

「知っています。」

文覚は、頼政公の話をしようとする光能をぼんやり見ながら、実は別のことを考えていました。やはり法皇と清盛の2つの体制が均衡を取る必要性があるのではないだろうかと。

2つの体制。

摂関家である藤原氏が実質的な権力を持っていたことはあります。ただ、それは2つの体制が均衡を保たなければならないというものではなく、朝廷権威に従属する1つの経済基盤、いわばピラミッド型に階層化された体制に準じる経済力を各々の貴族が持つ中で、ボコッと藤原氏の経済力だけが瘤のように飛び出しているようなものだったと文覚は思います。

②かわらけ

ーまして藤原氏が朝廷がいる京以外の土地で政権を持つなぞ、夢にも考えたこともないだろうー

ーもし、平家が福原(現在の神戸)に政権を持つならば、どうなるのだろうか?また奥州は平泉という遠隔の土地で独立政権を作っている。新しい時代は、齢を取った京からは始まらないのかもしれないな。ー

瓶子の口に注がれた酒を飲まず、ずっとその水面に浮かぶ燈明の焔を眺めながら思いに耽っている文覚。

すると見たことのある小柄な男が案内されて入ってきました。

「おお、頼政殿、こちらへこちらへ。」

だいぶ酒が回り出来上がってしまっている光能。頼政が敷物の上に着座すると、かわらけを渡し酒を注ぎます。

ーなんだ酒宴なのか、またも。ー

と文覚は顔をしかめつつ、頼政へ平伏して話し出します。

③摂津渡辺党の港は
「渡辺津」と呼ばれた

「拙僧、文覚と申します。元・摂津渡辺党の遠藤盛遠でございます。」

「遠藤?そなたは遠藤左近将監持遠(もちとお)殿のご子息かな?」

「はい、父のような立派な武士を通すことは出来ませなんだ。」

なぜ?とは頼政は聞きません。じっと文覚を見ていましたが、

「そちは出家前に上西門院(鳥羽天皇の皇女)に仕えておったな。」

「はい、短い期間ですが上西門院の武者所に務めておりました。」

「ならば頼朝を覚えているかな。」

「頼朝ですか・・・。ああ、上西門院・蔵人(くろうど)の。」

当時は保元の乱(1156年)が終わった直後であり、河内源氏の棟梁・義朝の嫡男というだけで、鳴り物入りで蔵人に就任。しかし、文覚が当時の頼朝の姿を覚えているのは、ひょろひょろと青白く、およそ武人としては大成しそうもない若者。

ー平治の乱で源義朝が殺された後は、どこかに流されたと聞くが・・・。ー

「頼朝は今、伊豆に流されてかれこれ13年経つ。」

ー伊豆か。もうそんな前のことだったのだな。ー

「文覚、単刀直入に言う。頼朝を説得し、頼政殿と同時に挙兵させるのだ」

と言ったのは、かなり酔いが回った光能でした。

「頼朝をですか?」

「そうだ、頼政殿は摂津源氏、頼朝は河内源氏。同じ源氏同士が手を結べば、今の世をひっくり返すことなど訳もないことだ。」

「源氏が結束して平家を倒すということですか?」

「しっ!声が大きい。」

「倒してどうするのです?」

「先ほどの法皇の話だけでは、法皇がどれ程清盛に苦慮しているのか分からなかったようだな。文覚。」

「・・・」

光能の見下したような言い方に少々腹が立つ文覚。

ー分かってはいるさ。ただ、法皇がどんなに苦慮していたとしても、本当に清盛は間違っているのだろうか?それが俺には分からん。こやつらは所詮、法皇に対する忖度で動いているだけなのではないのか?ー

「まあまあ、文覚殿に急に政(まつりごと)の話をぶつけまくっても、それはそれで無理難題というもの。順を追ってお話せねばならないと思うが、いかがじゃの?文覚殿。」

と源頼政が、あえて柔らかい口調で諭すように続けます。

「お願いします。」

2.出作(でさく)問題

④神護寺の1荘園図
 後、文覚の活躍で神護寺に
寄進のあった荘園の地図
「文覚殿は、神護寺への荘園寄進を懇願しに後白河法皇のところに来られたと聞いておるが、現在の法皇の荘園事情は存じておられるかな?」

「ぬ、詳しくは聞いておりませぬが、法皇は長講堂領を皮切りに、かなりの荘園を摂関家(旧・藤原家)から集めたと聞いており申す。」

「なるほどな。確かに沢山持っておる。しかし、荘園は相対的な保有数が、政の中の力関係を決定するのは分かりますな?」

「と申しますと、やはり清盛殿と比
しては少ないのですか?」

「法皇の長講堂領が約180か所に対し、清盛の持つものは全国500近くはある。まあ、朝廷は他にも八条院領もあれば公領(荘園ではない正式な国保有農地)もある。また個々の荘園でも取高は違うので一概に清盛の方が多いとはいいがたいが、拮抗するには十分な数だな。」

「そんなに多いのですか。」

「文覚殿、勿論、荘園の数は大問題ではあるが、もっと問題なのは荘園制自体にあるのじゃ。この問題を解決しようと、今までに朝廷から出された荘園整理令の数をご存知かな?」

「いえ」

「ざっと延喜2年(902年)から数えて11回ですぞ。しかし一向に荘園は減らず、荘園制度が内包していた問題点は複雑化する一方。」

⑤荘園の棚田(イメージ)

「内包している問題とは?」

「1つの大きなものは出作という問題での。これは、平家の荘園の農作民が、周りにある、朝廷他の公領や荘園を耕し、そこからの収穫を胡麻化して平家の荘園からの収穫として申請するのじゃ。何故か。平家の荘園の方が租税率が低いから、他の公領や荘園より払う年貢が少なくてすむのじゃ。

これはたまらない。しかも、これはかなり巧妙に裏で行われておる。

また被害にあっている公領の国司や荘官(荘園を管理する人)も見て見ぬふりをするように賄賂を掴まされていることもある。さらには平家の荘官は武人が多い。被害にあっている国司・荘官が下手に武力に訴えれば、逆に命に係わることもある。なので、出作をやられている国司・荘官は、自領からの収穫高を低く帳簿につければ揉め事になることは殆どない。自分たちの実入りが減る分は賄賂等で賄えるからの。収穫高は気候や災害等によって変動するので、わざと低く付けていると詮議されることもない。

勿論、この問題はかなり以前からあったのじゃが、現地で武力を持つもの持たざるものの差が歴然としてきたのは、保元の乱(1156年)以降なのじゃよ。」

⑥荘園の出作問題簡略図

ーなるほど、そのような裏からのやり方には対処しづらいのは確かだ。ー

文覚は思います。

「その問題に対して清盛殿はどうお考えなのですか?」

「清盛も、勿論法皇が痛くその件でお悩みなのはご存知で、たまに上がってくる出作の訴訟に関しては厳しく詮議し、対処はしておる。また、法皇が苦しんでいる様子を見て、逆に清盛の方から、日宋貿易で上がる利益を朝廷に一部を献上するとの申し出もある状況じゃ。

「ならばよろしいではないですか?」

「本当にそうお思いか?文覚殿。確かに清盛のこうした好意に対して、法皇も毎年、清盛の日宋貿易の港・大輪田泊(おおわだのとまり)のある福原(神戸)に行幸される。表向きの関係は良好じゃよ。ただ貿易自体を牛耳っているのは清盛なのだ。つまりこの日の本の国の土地に関して法皇ら朝廷は制御不能、貿易に関しても富の分配権は平家が握っている。これは非常に危ういことではないか?

そもそも土地問題は、現地の国司、荘官も皆喜んでこの矛盾を受け入れている訳ではない。平家以前であれば、荘園領主である貴族に出作を訴え出れば、貴族間で紛争解決してくれた。その解決能力の一番高い藤原氏が一時栄華を誇った時期もあったわけじゃ。

ところが昨今は訴え出ることも難しい複雑な状況が出来上がりつつある。事件は現場で起こっている という訳じゃ。なので国司、荘官らが常に考えていることは、自分たちの武装勢力を強くして、隣の荘園と紛争解決力を高めねばということだけ。これは不安な毎日じゃろ。これを解決しない限り、世の不満は高まる一方じゃ。」

ーなるほど。度重なる荘園整理令で、朝廷から公式に認められない荘園は廃止される方向にはなりつつあるが、出作という抜け穴等を上手く使って平家がまた力を蓄えている可能性が高いということか。先ほどの法皇自らの話では良く分からなかったが、この頼政殿の話で得心した。が、しかし。ー

「頼政殿は清盛殿を倒した後、どうするおつもりですか?」

今まで黙って1人手酌で飲んでいた藤原光能は、何をまだ疑うのだ?とばかりに、あからさまに酔ったうろんな目を文覚に向けます。

場の雰囲気が良くない流れと感じとったのか、かわらけで酒をぐいと飲みほした頼政。笑みを浮かべながら文覚に言います。

「源氏がこれら武装勢力・武人を束ね、朝廷の制御下に入ろうと思う、文覚殿。そなたも、弘法大師様の時代に戻したいのであろう。今の世が不安定であるのは古(いにしえ)の心を失ったからじゃ。闘争が闘争を呼んでいる。源氏は一時的に武人を束ねはするが、その後はまた武装解除の平和な方向に世を変え、大師様の頃の中央集権国家に戻したいのだ。協力してくれぬか、文覚殿。

3.頼朝への期待

伊豆にいる源頼朝が、京の頼政と同調して平家打倒の挙兵ができるように、頼朝の説得工作のミッションを言い渡され、伊豆に流されてきた文覚。

前回お話したように、頼朝と文覚は伊豆の奈古谷に作った文覚のにわか温泉や、蛭が小島の頼朝の屋敷を行き来するうちに、かなり懇意となりました。

特に頼朝も文覚も、北面の武士として、同じ上西門院に務めていたことは、共通の話題として盛り上がりました。二人は互いに見知った禁中の様子や、そこに出入りする様々な人たちについて語らうことも多かったのです。

いつしか頼朝も

ー文覚は初見の時に感じた程、変な僧ではなさそうだ。ー

と思うようになってきた丁度その頃。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

と文覚は言い出します。とうとう源頼政から依頼されていた行動に出たのです。

◆ ◇ ◆ ◇

時は1176年、文覚が流されてきてから3年の月日が経っていました。

この時、京では後白河法皇と平清盛の対立が激化しはじめたのです。

そのきっかけは「鹿ケ谷事件」です。

⑦俊寛・鹿ケ谷山荘の碑
この事件、簡単に言いますと、安元3年(1177年)6月1日の深夜、密告によって、京は東山鹿ケ谷の俊寛(しゅんかん)山荘で、平家殲滅の密議が行われたことが、平清盛に露見しました。(写真⑦)

清盛は間髪入れずに行動を起こし、密議に加わった連中を一網打尽にしたのです。その時捕まった俊寛をはじめ、一味はすべて後白河法皇の近臣であり、この密議の中心に後白河法皇がいるのは明らかだったのです。死罪2名、俊寛は鹿児島県沖の喜界島へ島流し、その他3名も島流しと厳罰に処したのです。さすがに後白河法皇に裁きを下すようなことは出来ませんが、それでも後白河法皇に与えた心理的な打撃は大きく、またこの後、急速に後白河法皇と平清盛は大きな対立が見られるようになるのです。

この影響が、伊豆に流されている文覚のところにも、何等かの形であったのでしょう。

それまでは文覚は、後白河法皇や源頼政から平家の弊害の説教を聞いたとはいえ、しばらくは自分なりに平清盛の動静と源頼朝の人物を観察していました。

文覚はある意味、平清盛を2つの先進性で高く評価しても良いのではないかと逡巡していたのです。それは、

今まで土地にしがみついて収益をあげることの発想しか無かった日本の支配者とは違う、貿易による収益という経済的先進性

2権分立を、京から距離を置く福原という都市で実現しようとする先進性

です。

なので、光能と頼政に言われるがまま、安易に平家打倒の挙兵をすべきという気は起らなかったのです。

⑧北条時政の館があった守山頂上から韮山方面を臨む
頼朝が流されていた蛭が小島(写真矢印)
周辺は狩野川流域であり肥沃な荘園地帯
ただ、昨今懇意となった頼朝と話をしていると、頼朝は案外、京の雅(みやび)な北面の武士、泥臭い土地の事などさっぱり分からない単なる貴公子ではないようです。

この伊豆の肥沃な狩野川流域の田園地帯に流されて16年も経つからなのか、土地からの収益基盤ということに色々な思いがあるように感じます。(写真⑧)

それは、そんじょ其処らの農民の感覚とは違い、米の実りをどのように集め、そしてそれらがどのような形で、京の人の口に入るのか、米以外の商品に化けたりするのかという流通まで含めた米の価値、それに伴う富の集散の仕組みが身をもって分かっているようなのです。

ーこれは大したものだ。ー

と文覚は感心しました。

⑨蛭が小島の頼朝と政子の像は
現地の米の収穫を今も見つめている
多分に、妻である北条政子の父・北条時政が在庁官人(地方官僚)であったことから、国衙(地方)行政の実務が体得できてしまったのでしょう。(写真⑨)

ー頼朝殿とは、この国の財務基盤の考え方について、一度率直に話をする必要があるな。

と文覚は感じていました。

そしてある時、奈古谷に建てたにわか温泉に文覚と頼朝は一緒に入りながら、また京の話題をする中で、平清盛の貿易等の経済的先進性について話をしてみました。

「なるほど、清盛殿には、そのような先進性があったのですね。」

風呂の中で、頼朝は目から鱗と言わんばかりに、清盛の日宋貿易について感心します。しばらく、もうもうと立ち上る湯面からの湯気を眺めていましたが、急に

「しかし、それは、この国の問題の第一を真正面から捉え、変えようということとは違いますな。なるほど外国との交易は高度な商業手法です。ただ、この国はそれこそ数百年間に渡る土地の不健全な私有化を食い止めないといけないのに、清盛殿はそれには手を付けずに、一足飛びに貿易という手法で自分の財ばかり増やすやり方はやはり、間違っていますね。多少朝廷にその交易からの実入りを分けたとしても、まずは土地の財務基盤である荘園制度の見直しからでしょう。清盛殿の交易重視は後白河法皇も困っているのではないでしょうか。多分、鹿ケ谷事件の本質はそこにあるのでしょうね。」

と見通す達感に、文覚は、再び感心してしまいました。

ーこの人に天下をとらせよう。清盛の2つの先進性については、後々、この人の政権下でも実現可能な気がする。

そこでこの章の冒頭の問いかけです。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

4.院宣

文覚の藪から棒な質問、平家打倒をしないのかの質問に対し、頼朝は湯気の中、最初はまじまじと文覚を見つめていました。文覚は続けます。

「頼朝殿がおっしゃる通り、後白河法皇は困っておいでです。この国の本質的な問題もご達観の通りです。平家はねじ曲がり続ける私有地化制度を変えるどころか、先の藤原氏時代の延長で放置するありさま。頼朝殿が政権を取り、土地の基盤問題にテコ入れをすれば、この国は私が理想とするものになる。」

これに対し、頼朝は少し笑みを浮かべながら言います。

「いやいや文覚殿、私は既に29歳。六孫王の子孫であれば、とっくに国守であってもおかしくはない身分にもかかわらず、勅勘(天皇の勅命による勘当)の身であり、何も持っていないことはここに13歳の時に来てから16年間変わらずだ。そんな身の上で清盛殿のような権勢に立ち向かえる訳がない。」

⑩文覚は一計講じ、流刑中でありながら
ここから京へ向かうため芸をします
「頼朝殿、これから政権を取られ理想国を作り上げるまで、この文覚が戦略を授け続けます。まず、後白河法皇が頼朝殿を勅勘の身などと考えてはおらず、平家を倒して欲しいと考えている証として、拙僧はこれから、法皇の院宣を京へ出向いてとってきましょう。」

「院宣とな?しかし、文覚殿も勅勘の身、この奈古谷から京へ向かえば、ここを管轄している北条殿や山木殿から逃亡者として厳しく追手が差し向けられますぞ!」

「ご心配なく。拙僧には法力がございますでの。なあに7,8日程度もあれば院宣をとって戻ってきましょうぞ。」

◆ ◇ ◆ ◇

少々長くなりましたので、続きは次回にします。
ご精読ありがとうございました。

《つづく》

 

【俊寛・鹿ケ谷山荘の碑】〒606-8442 京都府京都市左京区
【蛭が小島】〒410-2123 静岡県伊豆の国市四日町12
【守山展望台(北条館跡)】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204
【文覚上人流寓之跡】〒410-2132 静岡県伊豆の国市奈古谷1729