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金曜日

頼朝杉㉑ ~旗挙げ4:山木館襲撃 後編~

ついに挙兵をした頼朝。伊豆目代の山木兼隆の屋敷を数十人の少数精鋭で襲います。

ところが山木の首を上げたという狼煙が、山木館から2km離れた守山館(北条一族の館があった守山という狩野川沿いの小山にある館、挙兵当日、頼朝はここに居ました。)から、なかなか視認できません。

頼朝は焦ります。

守山館の守備を命じていた加藤景廉(かげかど)、佐々木盛綱(もりつな)、堀親家(ほり ちかいえ)らを呼びつけ、

「至急、時政殿の応援に山木館へ向かってほしい。」

と下知します。

「はっ!」

と一斉に飛び出していく3人。頼朝は、「待て、景廉!」と加藤景廉を呼び止めます。

①加藤景廉へ薙刀を渡す頼朝
「これで兼隆の首を討ってくれい!」

自分の薙刀を加藤景廉へ手渡します。(絵①)

景廉は、薙刀を拝受する際、頼朝の目を見ると、それは切羽詰まった武将のものではなく、景廉が間違いなく、それをやってくれるという確信に満ちた、大将然とした余裕のある目のように感じます。

「はっ!お任せください。」

「2度目だな・・・」

頼朝はボソリと言います。

そう、山木館襲撃の応援に出す3人の中で、景廉へのみ、頼朝が薙刀を渡し、兼隆の首を討ち取るように下知したのには意味があるのです。

前回は、ここまででした。話を続けます。

1.加藤景廉

加藤景廉が最初に薙刀を振って落とした首は、なんと頼朝の叔父にあたる為朝なのです。

加藤一族は、伊勢に勢力を張る豪族でしたが、伊勢平氏である平清盛との争いに負け、伊豆の牧之郷で、工藤茂光(くどうしげみつ:後に石橋山合戦の敗戦後に、北条宗時(義時の兄)と一緒に北条の里への帰国を目指す途中で殺害される)に招かれます。(写真②)

②伊豆・牧之郷にある加藤景廉一族のお墓

そこで定着して平和に暮らしていました。

一方、保元の乱で敗れ、伊豆大島へ島流しとなった源為朝(鎮西八郎為朝)。島流しの際、強弓が引けないように切られた腕の筋が復活し、伊豆七島を制圧。保元の乱で負けた鬱憤からか、伊豆七島で乱暴の限りを尽くします。

③左の小さな五輪塔が工藤茂光のお墓
(右は北条宗時の墓)
伊豆は函南駅の隣に
こぢんまりとあります
これに困ったのが工藤茂光です。(写真③)

伊豆七島は当時、工藤茂光の領地だったのです。年貢も納めさせない為朝。ついに工藤茂光は上洛し、為朝の乱暴狼藉を院へ訴え、討伐の院宣を取り付けるのです。

そして伊豆・牧之郷へ帰国した茂光は為朝討伐軍を仕立てます。伊東氏、北条氏、宇佐美氏等500余騎、20艘の船を仕立てて為朝のいる伊豆大島へ討伐に向かいます。

招集された武将の中に、工藤茂光のところの加藤景廉がいたのは当然のことですね。

この為朝征伐で、景廉が活躍するのです。

2.為朝成敗の薙刀

20艘の船団で伊豆大島へ大挙して押しかける工藤茂光ら伊豆豪族連合。

為朝は「一矢(いっし)報いたい!」と云ったかどうかは定かではありませんが、その弾道ミサイルさながらの一矢(ひとや)を300の兵を乗せた船にヒョーと射かけるのです。見事命中、為朝の弾道ミサイル並の矢を受けた船はあっという間に沈没。(絵④)

④「為朝弓勢之図」(国芳画)
※右奥の為朝が射った矢が左上の軍船に当たり
沈めている。絵の題の通り、如何に為朝の矢が
ミサイル並みだったのかを国芳が表現した1枚

しかし、残りの200を載せた船が到着する前に、館に戻った彼は

「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」

とつぶやきます。伊豆の猛者たち全部を敵に回し、討伐の院宣で朝廷より賊とされた為朝に勝ち目はありません。

9歳になる息子の首を刎ね、自分も倒れぬよう柱に体をもたせたまま、割腹して果てるのです。

武士で初めて切腹したのが為朝という説もあります。

◆ ◇ ◆ ◇

ところが工藤茂光らは、300もの兵が乗っている船を一気に撃沈されたショックは大きく、強弓の為朝らを恐れ、大島に中々上陸できないでいます。

既に為朝は上記のように自害しているのですが、それを知らない工藤茂光らは、大島は不気味に沈黙しているように感じられ、

「我々が上陸した途端、為朝らはゲリラ的にあのランボウ(古い!)顔負けの矢で攻撃してくる。これは怖い!」

と、怖気づいてしまったのです。

そこに薙刀を脇に抱えた加藤景廉、島近くでウロウロしている船から、ドボンと浅海に飛び込み、走り上陸すると一目散に為朝の館に走ります。

「おいおい、景廉を一人死にさせるわけには参らぬ。皆ども続け!」と工藤茂光らも続き上陸を始めます。

景廉が為朝の館を覗くと、柱にもたれながらも立ち尽くし、クワッと目をこちらに向けて睨んでいる為朝。(写真⑤)

⑤伊豆大島の為朝館

恐怖を押さえつけ、蛮勇奮い、薙刀を構えならが、為朝にソロリソロリと近づく景廉。

「えいっ!」

と遠間から一気に為朝の首を薙刀で振います。既に絶命している為朝の首は目を開けたまま、ゴロンと転がり落ちました。

「為朝の首取ったり―!」

と、景廉が大音声で呼ばわると、ウォーと伊豆豪族連合軍の鯨波が湧きあがるのでした。

3.山木兼隆を討ち取る

頼朝挙兵話に戻ります。

「2度目だな・・・」

と薙刀を景廉へ渡す頼朝がボソリと言うのは、この話を良く覚えていたからです。自分の叔父、源氏の中では有名な鎮西八郎為朝の首を刎ねた景廉に、源氏再興の挙兵時の第一の功・山木兼隆の首を討ち取らせるというのは、かなり複雑な心境だったのではないでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇

山木館を攻めるも、なかなか落とせない北条時政や佐々木兄弟たちを含めた数十騎。

何故かと言うと、この日、三嶋大社の大祭で遊びに行っている家人とは違い、館に残っていた家人たちは、山木兼隆から離れてはいけない、何かあってはいけないと普段から意識の高い強者たちなので、懸命に兼隆を守り、粘り強く防戦していたからと吾妻鏡にはあります。

そうは言っても、やはり不意を討たれ、家人も頼朝軍に比べれば少ない山木館。
次第に押されてきます。

そこに、新たに元気の良い加藤、佐々木、堀と豪傑が3人も入ってきたので、山木館は総崩れに近い状況となります。

山木兼隆自身は、実は奥の部屋で刀を抜いて、密かに戦況を見極めていたのです。(絵⑥)

⑥山木兼隆は館の奥で刀を抜いて戦況を見極めていた(国芳画)

検非違使少尉を務めたこともある兼隆。現在の警察の高官の役職ですから、当時当然武芸にも秀でていたはず。無頼の徒を斬るのはお手の物。

なので、障子の裏から気配を伺い、何か動くものが障子の外であれば、刀で即突くことにより防衛する戦術だったようです。しかもこの日は月が出ており、兼隆の立っている障子の反対側に月光が煌々と当たっているため、人影が障子に近づけば月光による影が生じ、直ぐに分かるようになっています。なんというきめ細かい防衛戦術を建てるのでしょうね。兼隆は。
自分はギリギリまで障子には近づかず、敵がそこに居る!と分かった瞬間に障子越しに刀で突くのです。敵から兼隆は見えないので、兼隆との距離感を把握できず、突き殺されてしまうという、かなり玄人な戦術です。

この兼隆の戦術を即座に察知したのが加藤景廉。景廉は勘が非常に鋭く、この場所にそーっと近づくと、時間を掛けて障子の向こう側を、物陰から観察していた結果、これに気が付きました。

不用意に障子に近づけば、月光の影でバレてしまい、不意に障子の向こうから突かれ殺られる。

ーどうすれば良いか・・・そうだ!ー

景廉はおもむろに付けていた兜を脱ぐと、先程頼朝に渡された薙刀の先にひっかけます。(絵⑥参照)

そしてその薙刀の先の兜を、さっと障子に近づけると・・・

ガツッ!

と予想通り、障子から刀が飛び出してきました。兼隆は、素早く動く兜の影を見て、「すわ、敵襲!」と勘違いしたのでしょう。その兼隆の刀の突きで兜が吹き飛ばされます。

次の瞬間、

ドカッ!

と兜が無くなった景廉の薙刀の先が、刀の出てきた障子の辺りにグサッと突っ込まれ、手ごたえがありました。(絵⑦)

「ぐわっ!」

と叫び声が聞こえ、障子に鮮血が飛び散ります。

「兼隆、覚悟!」と障子を蹴飛ばし、部屋に飛び込んだ景廉。鮮血にまみれながらもがき苦しんでいる山木兼隆の首を、落とします。

そして返り血を浴びながらも、加藤景廉は大音声で

「山木判官(はんがん)兼隆の首とったりー!」

と叫びます。

⑦加藤景廉が山木兼隆を刺し殺す瞬間(月岡芳年作)
※但し、月明かりが山木兼隆の影を映してしまっています。
月明かりで影ができるのはこちら(加藤景廉)側なので
この絵の月明かりは反対に描いていると思われます。

「おおーっ!」

どーッと湧く頼朝軍。佐々木兄弟たちは喜び乱舞するように、館に火を掛けて廻ります。(写真⑧)

⑧現在の山木館跡
※焼け落ちたのち、現在何も残っていません

◆ ◇ ◆ ◇

「おお、火の手があがったぞ!」

守山の館から、山木館方面を伺っていた頼朝。彼は明け始めた山木館方面の山の手から上がる火の手を眺めます。(写真⑨)

⑨守山の館から山木兼隆屋敷の炎上を見た頼朝も
この距離感は今も変わらない筈です

ーああ、本当に智満寺の私の杉の杖は根付く奇跡が起こり、私の捲土重来(けんどちょうらい)の夢も、同じ奇跡のように成就するかもしれないー

と信じ始めた頼朝。袖の中の持仏像をまた手のひらに戻すと、ギュッと握り直し

ー根付け!根付いてくれ!ー

と祈るのでした。

4.山木判官兼隆の首

治承4年(1180年)8月18日早朝、山木兼隆の首を携えて、意気揚々と加藤景廉を始め、大活躍の佐々木兄弟、北条時政らが守山館へ戻ってきました。首実検のため、縁側に腰掛ける頼朝の前に兼隆の首を首桶から出して置きます。

勿論従容として死についた首ではないのであるから、いかに無念の形相をしているかと想像して首実検に臨んだ頼朝が意外に感じたのは

ー笑っていないかー

凄い形相にも見えるその首は、しかし、笑っているようにも見えるのです。

「頼朝、やっちまったな。とうとう・・・もう後戻りはできんぞ!」

と山木兼隆の首は言っているようです。
頼朝はしばらくその首とジッと対面すると、何か憑き物を払うように

「うむ、間違いなく山木判官の首だ!勝鬨を上げよ!」

と全軍に響き渡る声で怒鳴り、自ら率先して

えいえいおーっ

と掛け声を掛けるのです。まるで自分で自分を奮い立たせているようです。

と、顔を見合わせた頼朝挙兵軍は、最初はぎこちなくも、段々と声を合わせて

えいえいおーっ、えいえいおーっ、えいえいおーっ・・・

と夏の朝に伊豆の山々に勝鬨を響き渡らせるのでした。

⑩山木館の近くの香山寺にある山木兼隆のお墓

ご精読ありがとうございました!

《つづく》

【加藤景廉一族の墓】〒410-2401 静岡県伊豆市牧之郷53−35

【工藤茂光・北条宗時の墓】〒419-0121 静岡県田方郡函南町大竹218−4

【山木館跡】〒410-2141 静岡県伊豆の国市韮山山木820−5

【守山館(守山八幡宮)】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204−1

【香山寺(山木兼隆墓)】〒410-2141 静岡県伊豆の国市韮山山木868−1


頼朝杉⑳ ~旗挙げ3:山木館襲撃 前編~

 頼朝挙兵前の最後の周旋を文覚が、相模の三浦半島や房総半島で行っている間、伊豆は守山の頼朝挙兵準備も、ほぼ出来上がりました。

そして挙兵当日。

今回は1180年8月17日の挙兵当日の模様をお伝えしたいと思います。

1.佐々木兄弟の遅延

計画では、前日16日夜に頼朝を含め全員守山館に集まり、朝を待って、山木館を襲撃することとしていました。

ところが、ずっと懇意にしてた佐々木四兄弟が、約束をした夜になっても現れません。

「うーむ、大庭景親に捕まったか・・・」

と頼朝の中に不安が過ぎります。よもや、山木館襲撃の情報を大庭景親に簡単に漏らすようなことを、近江源氏の流れを汲むプライド高き佐々木一族がするわけはないと思いながらも、実は渋谷荘の早川城へ戻ったのは、景親に寝返り、こちらの挙兵情報を伝えるためだったのではないのか・・・。(写真①)

①佐々木四兄弟が戻った渋谷荘
(丹沢の大山と左にうっすら富士山が)

しかし、今となっては総大将たるもの、少しでも不安を表に出せば、今、ここに参集している土肥実平を始めとする数十騎への動揺を与えかねません。旗揚げは失敗するかもしれないのです。

「いいや、この後に及んで誰一人疑ってはいけない。これだけ神仏に縋ってきたのだ。旗揚げが失敗する訳が無い。」

頼朝は、子供の頃から大事な場面では肌身離さずの小さな持仏観音像を手の中で握りしめます。(写真②)

②頼朝の持仏(髻)観音(伊豆の国市大河ドラマ館)

◆ ◇ ◆ ◇

脱線しますが、頼朝の信心深いエピソードが挙兵に関してもいくつかあります。

今度の挙兵に臨み、頼朝は事を起こす前に法華経を千回読む計画を立てていました。ところが、大庭景親が攻めてくるということで大幅な挙兵計画の前倒し。800回しか読めそうにないのです。

頼朝は意外とゲン担ぎの性格でもあります。

この物語の原点、智満寺で「この杖が大木に育った時に、自分は源氏再興の大願を果たせることができる」と宣言し、文覚をもって杖が大木になった奇跡を確認させています。

今回の挙兵も、千回読むと決めたことができないのは、マズいのではないかと、わざわざ伊豆山権現の覚淵(かくえん)に相談する始末。

「800回でもご利益はある」

との覚淵の言葉に安心し、この持仏観音を綺麗に洗浄し、挙兵に臨んだのです。

◆ ◇ ◆ ◇

頼朝は、現場で具体的な襲撃指示をする北条時政と相談し、今晩中に佐々木四兄弟が戻らなかった場合も想定しての対応を協議します。

集まった武者達の間に、「なんだ、なんだ。」「佐々木兄弟が来ていないらしい。」「もう計画が漏れたか。」等、動揺が広がります。

そんな状況を察し、この気弱で若い頼朝を少しでも楽にしてあげようと時政が頼朝に言います。

「佐々木兄弟が遅れてくるのは三嶋大社の神々が明日の早朝の旗挙げは止めよと言っているのでしょうな。明日は三嶋大社の御神事、それが始まる前に弓矢を取ること候はずということでしょう。とりあえず早朝の挙兵は延期しましょう。逆に三嶋大社に奉幣使(ほうへいし、神社に代理で詣でる使者)を遣わし、まずは挙兵の成功を祈らせましょう。」

それを聞いて頼朝は、また少し安心しました。この頃の頼朝は兎に角、流人生活が長かったせいか、何をやるのにも自信がないのです。

翌朝には戻るだろう・・・

頼朝は、朝日が昇る暁七つ(午前4時頃)には起き出し、佐々木兄弟が今戻るか、今戻るかと悶々としておりました。

結局、佐々木兄弟が帰ってきたのは、翌17日の午後2時を回った頃でした。計画では、15日の夜中には頼朝との約束通り、戻るつもりで行動していたのです。

彼らは、今回の一大事に、是非先祖伝来の近江源氏の由緒ある鎧を着たいと感じ、相模の早川城に取りに戻ったのは前回お話した通りです。ところが、台風の影響により河川の氾濫等で行く手を遮られ、この遅参が生じたのです。

頼朝の挙兵時は台風による河川の氾濫が多発していたようで、これはこの挙兵後の石橋山合戦の敗戦の一原因にもなっています。

頼朝は佐々木四兄弟を強く叱責し、この失態は挙兵時における四兄弟の大活躍で償ってもらうとまで言い切りました。

内心は「佐々木兄弟は近江源氏の由緒ある鎧を着たいと張り切っている。誰も裏切っていない。やはり今回の旗揚げは幸先いい。」と正観音像を強く握りしめます。

そして、全軍に「山木と雌雄を決し、源氏再興の吉凶を占う!」と宣言し、来襲計画変更で不安になりかけた同志を鼓舞します。

2.三嶋大社への願掛け

③三嶋大社の安達盛長警護の跡
さて翌日、頼朝は北条時政の言を取り入れ、三嶋大社の大祭当日の夜に旗揚げをすることから、三嶋大社に祀られる神々に、安達盛長を奉幣使として、早朝に参拝させ、挙兵成功を祈ります。

◆ ◇ ◆ ◇

また脱線しますが、頼朝自身、三嶋大社に百日詣をして挙兵の成功を祈ったとの伝承もあります。百日間、頼朝の居館(蛭ヶ小島や守山)から北北西約2里(8km)の距離にある三嶋大社まで毎日往復し、挙兵成功を祈ったのです。

地元である伊豆の国市には、この百日詣に関する数々の伝承が残っていますし、三嶋大社にも、「百日間毎暁蛭ヶ小島より三嶋大社に日参するに際し、従者・盛長が此処の所で警護したと伝えられる」箇所があります。(写真③)

この百日詣、もし4月27日に叔父・源行家が頼朝へ以仁王の令旨を届けてから始めたとすると、8月17日挙兵の直前までかかったことになります。先の経文千回の話もそうですが、頼朝って結構完璧主義者というのか、験担ぎというところがあるというのか、信心深いのか。ちょっと気弱な性格が見え隠れもしますしね。

でも本当は、先の先まで見えていた人で、わざとそう見せていたのかもしれません。そのような抜けたところが無いと、挙兵以前に平家側に殺される可能性があるわけです。源氏の嫡流なだけに。そういった頼朝固有の事情による処世術だったと考えても不自然ではないのです。

④三嶋大社にある「旗揚げの碑」
※この碑には以下のことが書いてあります。

⑤旗挙げの碑にかいてあることとは
三嶋大社の御大祭は8月16日であり、その日夜討ちにて
山木(八牧)兼高を討つべしと頼朝が時政に相談すると
時政は「今夜は三島社の御神事にて国中には弓矢とる事
候わず」と答え、挙兵は翌日17日となったとあります。
微妙に挙兵の日時が文献その他によって違うのですね。

3.挙兵

さて、その日の夜半、山木判官屋敷に夜襲を掛けます。(地図⑥)
⑥頼朝挙兵の進軍路(緑と黄色の矢印)

その晩は三島明神の祭礼日であり、地図⑥の山木判官屋敷の前、北側に伸びる道路(「三嶋大社」と書かれた矢印方向)は人が溢れます。

そこで北条時政は「守山から出て、南側から迂回し、蛭が小島の右脇の丘陵地(これは後北条早雲時代の韮山城と幕末の江川太郎左衛門の屋敷跡)の間道を北上して、襲撃した方が、三嶋大社参詣の人たちに邪魔されず良いのでは?」と提言します。(地図⑥の白線の矢印)

頼朝は「自分も最初はそう考えた。しかし、旗揚げの草創にそのような小手先的なやり方はしたくない。また北側からでないと騎馬が使えないので、堂々と真ん中(地図⑥の緑のルート)を行くべきだろう」と指示を出します。

このような頼朝の総大将的な風格を醸し出したことで、数十騎の寡兵ではありますが、旗揚げの雰囲気は、更に盛り上がるのです。

佐々木兄弟は、遅参の負い目を感じたのか、この夜襲では素晴らしい働きをします。
山木兼隆の館に行く直前、北条時政に指示され、佐々木兄弟は、まず山木兼隆の後見人・堤信遠(のぶとお)を倒します。(地図⑥黄色点線)
大河ドラマ等では、隣接する地域を治める北条氏との不仲を強調するような場面もありましたが、吾妻鏡では、北条時政が、山木館襲撃直前に、ふと思いついたように、佐々木定綱に言います。
「堤信遠、こいつはなかなかの勇者なんだ。これを生かしておいては、山木兼隆を討った後、色々と面倒なことになるなあ。定綱、悪いが佐々木兄弟で山木館襲撃前に堤信遠も討っておいてくれ。道先案内人をつけるから。」

なんか行き当たりばったりな感が否めませんが、定綱をはじめとする佐々木兄弟は了解します。兄弟で屋敷の南北から挟み撃ちにする作戦で行きます。
夜と言っても月あかりが煌々と照らす明るい夜だったようです。

この時、攻める佐々木兄弟の2番目・経高が放った矢が、平家打倒の最初の矢となりました。
⑦頼朝の守山方面から堤信遠屋敷方面を見る

堤信遠は、時政が「勇者」と言っただけあって、太刀を振って、経高に向かっていきます。経高も弓を捨て、太刀で応戦します。乱闘中、信遠の家人が放った矢が経高に当たり、経高は信遠に討ち取られそうになります。

そこに、経高とは反対側から館を襲った定綱と高綱が駆け付け、経高に助太刀し、信遠を討ち取ることに成功します。そして屋敷に火を掛けます。(写真⑦)

佐々木兄弟のチームプレーの勝利です。

4.山木館への討ち入り①

さて、佐々木兄弟が堤信遠を討つために乱闘している一方で、北条時政ら数十騎は、月光が煌々と降り注ぐ中、粛々と山木兼隆館への兵馬を進めます。(写真⑧)
⑧山木兼隆館跡から見た北側の平地
(雲に隠れているのは富士山)
この先に三嶋大社があり、この方向から
頼朝軍は攻めてきたのでしょう

予想通り、山木館の大部分の使用人は、三嶋大社の祭りで出た後、夜になっても黄瀬川宿(現在の沼津)で遊んでいて帰りませんでした。

ただ、山木館にわずかに残っている兼隆の家来たちは非常に腕のたつものばかり。
時政らが鬨の声を上げて討ちかかると、彼らは死に物狂いで防戦を始めました。

半刻も経つと、堤信遠を討ち取った佐々木兄弟も遅れて参戦しますが、戦況は一進一退。
山木兼隆を討ち取ったら、館に火を掛けることによって、半里(2km)離れた頼朝がいる守山へ「挙兵成功!」の狼煙を上げる手筈となっています。

頼朝は守山の頂に登って、山木館から火の手が上がるのを今か今かと待っていました。(地図⑨)
⑨守山館から山木館を見るも、兼隆討ち取ったりの
合図の火の手がなかなか上がらない

ところが、なかなか火の手は上がりません。頼朝は焦れてきました。
そこで、守山館の守備を命じていた加藤景廉(かげかど)、佐々木盛綱(もりつな)、堀親家(ほり ちかいえ)らを呼びつけ、

「至急、時政殿の応援に山木館へ向かってほしい。」

と下知します。

「はっ!」
⑩加藤景廉へ薙刀を渡す頼朝

と一斉に飛び出していく3人。頼朝は「待て景廉!」と加藤景廉を呼び止めます。

「これで兼隆の首を討ってくれい!」

自分の薙刀を加藤景廉へ手渡します。(絵⑩)

景廉は、薙刀を拝受する際、頼朝の目を見ると、それは切羽詰まった武将のものではなく、景廉が間違いなく、それをやってくれるという確信に満ちた、大将然とした余裕のある目のように感じます。

「はっ!お任せください。」
「2度目だな・・・」

頼朝はボソリと言います。
そう、3人の中で、景廉へのみ、頼朝が薙刀を渡し、兼隆の首を討ち取るように下知したのには意味があるのです。次回その辺り、加藤景廉の過去をお話します。

ご精読ありがとうございました。
《つづく》


日曜日

頼朝杉⑲ ~旗挙げ2:挙兵のリスクヘッジ~

大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市辺り)の豪族・大庭景親(かげちか)が頼朝を討伐する計画であるとの雑説(ぞうぜつ、情報のこと)が、伊豆の頼朝たちにもたらされます。

これは、それまで頼朝らが想定していたことと大きく違うのです。想定では、京でクーデターを起こした源頼政(よりまさ)の残党狩りのため、平家軍が西から来ると考えていました。

このため、頼朝の参謀格である文覚を中心に、頼朝の旗挙げの計画を北条一族や頼朝らと一緒に大幅に修正することになるのです。大庭景親が急に攻めてくることが分かったので、時間的猶予はありません。攻めてくる前に、少人数の兵力しか集まらない状況で先制攻撃が必要なのです。そこで攻撃対象を数十人の兵しか持たない伊豆国目代・山木兼隆(やまきかねたか)にします。挙兵の計画遂行日は8月17日の三嶋大社の祭礼の日と決めました。

というのが前回までのあらすじです。

①三嶋大社本殿

1.頼朝面談

文覚は安心していられません。山木兼隆に勝利するのはそう難くはないにせよ。それで勝利したからといって、その後の大庭景親との衝突は不可避と考えるからです。

「よろしいか、頼朝殿。まずは初戦で勝利を得ることです。頼朝殿の弱みは何か。戦には弱いことです。では強みは何か。人心掌握に長け、先を見通す力があることですぞ!」

「文覚殿。以前から貴方は私が写経と読経ばかりで戦術を知らんと申されるが、私は孫子を初め軍略本は一通り読んでいる。戦にも長けていると自負しておるがいかがか。」

「いいえ、そんな机上の勉強ばかりでは実戦には役に立ちません。私はかつて遠藤盛遠という北面の武士でしたので、戦ができる武人かどうかは嗅覚で分かるのです。頼朝殿はその部分を伸ばすのは諦めた方が良い。むしろ先ほど申した通り、現在の強みである人を活かす力と先読みの力をもっと活用しなされ。」

「・・・」

文覚に戦が出来ないと言われ、少し腹が立つ頼朝。しかし、頼朝は変なプライドに拘る男ではありません。「そんなものか」と文覚のアドバイスに納得すると、今回参加する武者一人一人と直接話をすることを決心します。

頼朝のところに呼ばれた武者の名前は「吾妻鏡」には以下の通りとあります。

工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉 以下・・・

この中で伊豆近隣の以外の武将は、岡崎四郎義実、佐々木盛綱の2名だけです。
それ以外は近場の武将ばかり。(地図②参照)

②頼朝挙兵前に一人一人呼ばれる伊豆の有力豪族

如何にこの挙兵計画が時間をかけて練られたものでなく、慌てて即席のように仕立てられたかが良く分かります。

「まだ誰にも話していない事ですが、あなただけが頼りなのでこうやって話をするのです。」

頼朝は、一人ひとりを自分の部屋へ招き入れて、上記同じ言葉を繰り返し言い続けたことは有名です。ちなみに吾妻鏡が後の執権北条一族の編纂によるものだなあと感じるのは、そう言っておきながら一番大事なことは北条時政としか相談しなかったと書かれていることです(笑)。

③佐々木盛綱
確かに頼朝は、人心掌握のつもりでこの直接対話をやったのかもしれませんが、この時の頼朝は本当に余裕が無く、すがる思いでこれら近場の武士たちをあてにしたのかもしれません。

2.佐々木兄弟の動き

さて、この時、先の佐々木兄弟の一人、佐々木盛綱も頼朝の私室に呼び出され

「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」
 ー雖未口外、偏依恃汝ー(吾妻鏡)

と先に口語にしたような言い方で人心掌握を計ろうとする頼朝は話出します。(写真③)

勿論、佐々木兄弟は、今回の大庭景親が攻めてくるとの情報ももたらしてくれる等、伊豆に流されてきて以来、頼朝にとっては第一の信用を置いている兄弟たちなのです。

「挙兵前に1つだけお願いがございます。」

頼朝の挙兵遂行に当たっての細かな計画を聞いた後に、盛綱は言います。

「何でしょう?」

「平治の乱の直後、父・佐々木秀義が渋谷荘(現在の神奈川県綾瀬市)に留め置かれることとなった時、近江源氏先祖伝来の鎧兜を渋谷荘に置いてまいりました。この度の挙兵、我々佐々木四兄弟が参戦させて頂くということは、近江源氏再興の挙兵でもあります。なので是非この先祖伝来の鎧兜を着て参戦したいのです。できればこれから渋谷荘に急ぎ戻り、その鎧兜に着替え、こちらに戻ってきたいと存じます。」

「近江源氏・佐々木殿のその心意気、河内源氏・源頼朝!承りましたぞ!是非その立派な大鎧の四兄弟の勇姿を見せてくだされ!」

ということで、佐々木四兄弟は、この日のうちに渋谷荘に戻り始めます。挙兵の前日16日夜までは戻る約束をしてなのですが、実はこれも後で頼朝を少しイライラさせることになります。

3.最後の周旋に走る文覚

文覚は頼朝にアドバイスした後、直ぐに大庭景親との戦に敗れた場合のリスクヘッジのために、最後の周旋に伊豆から東に向かいます。

まず、三浦義明と衣笠城で会い、17日の挙兵後、頼朝軍は東下し相模湾沿いに移動してこの衣笠城に入る手筈を確認します。(写真④、地図⑤)

④三浦一族の本拠・衣笠城

文覚は三浦義明に

伊豆で源氏の旗挙げが成功し、頼朝殿が東に移動し、三浦殿の衣笠城にて坂東武者の参集を待つのは、反平家勢力増大には非常に効果がある。ただ1つの懸念点は、大庭景親の所領・大庭御厨を通過しないと衣笠城へは入れない。つまり、頼朝殿の移動時に大庭軍との1戦あるのは間違い無い。その前に三浦殿の軍が頼朝軍と合流していただかないととても勝ち目は無い。

と焚きつけるのです。(地図⑤)

⑤当初予定した挙兵後の頼朝軍ルート

「相分かった。わしらが頼朝殿を支えよう。だがな。三浦が一族こぞって西へ頼朝殿を助けに行ったとしても、現在出せる兵力は500が精一杯じゃ。しかし、大庭景親殿が近隣諸国にも声を掛けているとなると、敵の数は数千にはなるじゃろうな。実は昨日、孫の畠山重忠が文をよこしてきてな。秩父平氏である自分や、河越重頼、江戸重長らと大庭殿の基へ馳せ参じる故、お爺殿もと言ってきおった。」

義明は文覚にこう打ち明けると、文覚は遠くを見ながら、こう言います。(絵⑥)

⑥三浦義明

「義明殿、正直三浦軍が頼朝殿と合流できたとしても大庭景親の連合軍に勝てるかどうかは半々だと思っています。逆にいえば、合流できなければ間違いなく頼朝挙兵軍は散り散りになる程に負けることは確実でしょうな。いずれにせよ、負けた時の危機対策は必要なのです。今日、ここに来たのは、単に軍を西へ動かしてくださいということだけではなくて、いざという場合、安房の、三浦殿が制御できる場所に頼朝殿の安全を確保頂きたいのです。それを含めてのご支援を賜りたい。」

「頼朝殿を安房へ逃すと・・・」

「はい、いざとなったら。そのため、この衣笠城までの行程は海沿いを進軍させます。」

「では、一気に伊豆から舟で衣笠城へ入れば良いのでは?」

「集めた兵全てを舟で衣笠城まで連れて行くことは難しいですし、分散して衣笠城近くの葉山辺りに上陸すれば、待ってましたとばかりに大庭の大軍に個別撃破される可能性もあります。なので、やはり基本は陸路です。

ちなみに大庭軍が仮に3000でこの衣笠城を攻めてきた場合、義明殿、籠城兵力は如何ほどで守り切る自信がございますかな。」

「そうですな。まあ、攻め手の約半分であれば守り抜くことはできると思いますので1500というところですかな。」

「現在の三浦殿の兵力は?」

「ざっと1000」

「ということは、頼朝軍の増加数が500は最低必要ということになる。うーむ。」

「500程度も集まらぬと申しますか?」

「はい。何分性急に兵を集めておりますので。もしかすると衣笠城が落とされる危険もありますな。いずれにせよ。頼朝殿の安全を確保するには直ぐに大庭軍が追いかけてこられないような場所にする必要があるのです。そこで三浦殿は本拠であるこの三浦半島の対岸、房総は安房の一部にそのような土地をお持ちであるとの噂を聞き申した。その場所は大庭景親含め、知る人は少ないでしょう。であれば、そこに頼朝殿を逃した後、上総国、下総国、武蔵国等の味方する坂東武者を集め、大庭軍をはじめとする平家側勢力と対抗できる兵数を集めたいと存じます。」

「流石は頼朝殿の知恵袋と言われるだけある文覚殿、分かり申した。此度の頼朝殿の挙兵、この三浦義明、命を捧げご支援致そう。」

「ありがたい。もう1つお願いがござる。拙僧はこれから大至急、安房へ渡り、千葉常胤殿をはじめとする坂東武者らに頼朝殿へ加勢するよう今一度お願いして廻りたいと考えております。そこで拙僧を、貴方の舟で安房の飛地まで送り届けて頂きたいのです。万が一の頼朝殿が避難する場所も見ておきたいですし。」

「分かり申した。安房の猟島という場所です。直ぐに案内させましょう。」

4.浦賀から房総半島へ

さて、文覚、三浦義明と衣笠城を後にすると、衣笠城より1里半(6km)先にある浦賀の湊に案内をしてもらいます。(写真⑦)

⑦浦賀の湊
※内陸まで細長い入江が続く
浦賀の湊は、入江が内陸の奥深くまで入り込んでおり、普段波は静かで天然の良港となっていることから、三浦一族はここに水軍を置き、江戸湾(東京湾)一帯や、伊豆は熱海の方までシーレーンを敷いていました。

この浦賀湊の西側に到着した文覚ですが、ちょうど、この時期は台風の到来時期で、これから横切ろうとする江戸湾が荒れているので、三浦水軍の長も舟を出すことを躊躇します。一昼夜その場所に起居した文覚(写真⑧)。大庭景親の動きを考えると、この場で愚図愚図としている時間はありません。

⑧文覚が起居した浦賀西側
自分の起居したすぐ近くに、石で簡易な祠を作ると、次のように念じます。

「これより波頭高き海を越え、我、鹿野山(房総の、以前に文覚が修行した場所)へ再び渡り、平家打倒の大願成就を叶えに参篭つかまつるものなり。もし事なりし時は社宇をここに建立するものなり。」

そして水軍の長ににっこり笑うと

「これにて安心して江戸湾を渡れます。」

「えっ、この悪天候をですか?」
と半信半疑の長ですが、文覚は譲りません。

「この文覚の大願成就の前には、以前もそうであったが水神は靡きます。」

と無理やりにも舟を出させます。

◆ ◇ ◆ ◇

ご加護があったのか、文覚の勢いに押されて舟のこぎ手が頑張ったのかは分かりませんが、文覚は無事、安房の猟島に辿り着きます。(写真⑨)

⑨安房・猟島の浜辺

まさに、文覚がリスクヘッジとして考えたとおり、この猟島に頼朝は、後日たった7騎で海上逃避してくることになるのです。

文覚は、この後、鹿野山の神野寺で頼朝挙兵必勝祈願をします。(写真⑩)

⑩鹿野山 神野寺
そこで弟子の千葉胤頼と会い、一緒に胤頼の父・千葉一族当主である常胤(つねたね)に、万が一頼朝が安房に上陸した際に、即駆け付け支援するように頼みこむのです。

詳細はまた後日書きますが、結果的には、文覚が想定した上記のリスクヘッジの通りとなります。文覚が千葉常胤の周旋もしっかりしていたおかげで、頼朝は命運尽きることなく、いやむしろ、数万の軍勢を引き連れて、鎌倉入りを果たす大成功につながるのです。

5.叶神社

現在、文覚が簡単な石で祠を作り、大願成就を祈念した場所には「叶(かなえ)神社」という立派な神社が建っております。(写真⑪)

⑪浦賀の西に建つ叶神社

この神社こそ、文覚が安房に渡る前に、平家打倒の大願成就がなされたあかつきには、社宇をここに建てると約束した神社なのです。「文治二年(1186年)に源氏再興の大願が叶ったことから、叶大明神と称するようになりました。」と縁起を書いた看板にありました。

如何でしょうか?頼朝の挙兵が、数十騎で堤信遠や山木兼隆館を襲うところから始まったという史実はよく語られますが、その裏では坂東武者に対する周旋が用意周到に行われていたようです。全て、文覚がやったとまでは言いませんが、研究家の中には、挙兵計画に文覚がかなり深く係わっていたとみる人もいます。

さて、次回から、挙兵本番に話は移ります。お楽しみに。
ご精読ありがとうございました。
《つづく》


頼朝杉⑱ ~旗挙げ1:挙兵は少人数に限る~

 以仁王と源頼政(よりまさ)の挙兵は治承4年(1180年)5月15日に始まって、26日に平等院周辺で鎮圧されます。この挙兵に当初連携して挙兵しようとした頼朝でしたが、近隣の坂東武者たちの周旋に走っている文覚や安達盛長らから、

「(周旋に)とても間に合いません!10月頃に挙兵できれば上々でしょう。」

ということで、挙兵一致を断念する頼朝。

これが前回までの話(「頼朝杉⑮」)ですが、今回はこの続きからです。どうして頼朝は10月ではなくて、この頼政の謀反による政変から、3か月後の8月に前倒しで挙兵したのでしょうか。今回はその辺りの経緯から描きたいと思います。

1.頼政・仲綱の残党狩り

①源三窟における有綱
頼政とその息子・仲綱(なかつな)が、平家打倒の令旨を発出した以仁王を庇い、味方である南都興国寺を頼って南下します。

なんとか宇治の平等院まで逃げることはできましたが、ここで平家軍に追いつかれ、3人とも自刃して果てるのです。

この後、当然の習わしとして、この摂津源氏である頼政・仲綱の残党狩りが始まります。

頼政は伊豆の知行国主であり、仲綱は伊豆守。二人とも伊豆国とは縁が深いことは、今までも度々お話してきました。

では、伊豆に誰か他にも縁者がいたのではないか?と考えるのが普通です。

そう、居ました。この宇治の橋合戦の頃、仲綱の子である有綱(ありつな)が目代として伊豆に在国していたのです。(写真①、図⑥も参照)

有綱を頼政の残党とみなし、残党狩りを清盛が、方々に命じているとの噂が京の都に流布します。

この話、以仁王の挙兵時に大番役で在京していた文覚の弟子・胤頼(たねより、千葉常胤の六男)と三浦義澄(よしずみ)が、挙兵失敗を見届けた後、自国に引き上げる途中で、頼朝の居る伊豆の守山北の屋敷に立ち寄り、頼朝や文覚、安達盛長らに伝えるのです。(写真②)

2.三浦義澄と千葉胤頼の伊豆立ち寄り

②頼朝挙兵時の屋敷跡(現:守山八幡宮)

「これから源氏掃討戦が起きる可能性がございますれば、頼朝殿は奥州の藤原秀衡(ひでひら)殿を頼って身を隠された方が剣呑を避けることができるかと。」

と胤頼。

「なに?私が藤原秀衡殿を頼れと。なるほど。それも良いかもしれない。奥州は今、中尊寺、毛越寺、無量光院等、極楽浄土を体現した大寺院が建立されていると聞く。そこで経文を唱えて過ごすのも一興だろう。」

と、この緊張した場を解そうと、すっとぼけた会話をする頼朝。
義澄と胤頼はお互い顔を見合わせ、戸惑います。

ここまでの話を聞いて文覚は思います。

ー三浦義澄殿の父・義明(よしあき)殿も、胤頼殿の父・常胤(つねたね)殿にも、挙兵の話をし、支援の約定は取り付けてある。このお二方は、一度頼朝殿が奥州へ下向し、秀衡殿を頼って奥州17万騎と言われる軍勢を操って、平家打倒の挙兵を行えば良いとでも考えているのだろうか。確かにそれも一理ある。しかし、大軍対大軍の戦いになれば、奥州藤原氏と強固な結びつきを築けていない頼朝殿より、平家一門で固めた平家軍の方に分があるのではないか。ー

「良く分かった。京の状況を教えてくれて助かった。帰国道中気を付けて戻ってほしい。各々の父君にも宜しく伝えて欲しい。またこちらも色々と準備ができれば連絡する。」

と頼朝は義澄・胤頼にねぎらいの言葉を掛け送り出しました。

3.佐々木秀義と大庭景親

「文覚殿、10月に挙兵等と言っておりましたな。そんな悠長なことを言っておると、こちらが潰されてしまいますぞ!」

文覚は素直にこれを認めます。

「確かに!安達盛長殿と拙僧で伊豆の豪族は言うに及ばず、坂東の豪族も周旋し、10月の挙兵には数万が集まる目算をつけておりましたが、有綱殿を討伐に平家軍が来るとなると、これは急がなければなりません。今は、この坂東における大軍準備による挙兵を想定して策を練っておりましたが、変更しなければなりませんな。とりあえずは各武将の周旋を仕上げると同時に、西から攻めてくる平家軍の状況を三善殿と連携して注視していきましょう。

ということで、文覚は京にいる三善康信に文を書き、平家軍がこの伊豆に向けて軍を発する等の動きが少しでも見たら至急連絡するように依頼するのです。

そして坂東各武将の周旋の仕上げにまた奔走するのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

ところが意外なところから、更に挙兵を急がねばならない状況を伝える情報が入ってきました。

佐々木四兄弟の一人、佐々木定綱(さだつな)です。
それは8月の10日を過ぎた頃の事でした。京から平家が討伐軍を編成した等の情報が、いっこうに無いことを、文覚が不安に感じ始めていたころでした。

「大庭景親(おおばかげちか)殿が攻めてきます!」

セミの声がやかましい伊豆守山の頼朝の屋敷に、佐々木定綱は飛び込むやいなや、庭先から頼朝に向かってこう叫びました。

「待て、定綱!」

頼朝は定綱とは古くから面識があります。というのは定綱の父親、佐々木秀義(ひでよし)は近江源氏、頼朝は河内源氏。先の平治の乱で近江源氏の佐々木一族も凋落し、佐々木秀義は息子四兄弟を伴って、京から奥州藤原氏を頼って東下している最中に、渋谷重国(しげくに)という渋谷駅の辺りの豪族に声を掛けられます。(この辺り、「頼朝杉⑭ ~挙兵準備~」にも書いています。)

「何も奥州まで行かずとも、ここで私が匿って差し上げましょう。」

と重国は引き留めるのです。秀義もこの重国の好意を受け入れ、重国の娘をめとることに同意します。
その時に秀義や四兄弟が留まったのは、現在の東京の渋谷ではなく、神奈川県のちょうど真ん中あたりにある綾瀬市の早川城というところになります。(写真③)
当時、このあたりを渋谷荘(しぶやのしょう)と呼んでいました。

③渋谷荘・早川城(綾瀬市)

早川城は、大庭景親が領有する土地、大庭御厨(おおばみくり、現在の神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の隣です。

◆ ◇ ◆ ◇

ちょっと脱線しますが、大庭御厨の御厨とは伊勢神宮の荘園の事を指す言葉のようです。大庭景親の領有するこの大庭御厨は典型的な寄進型荘園であり、大庭景親は伊勢神宮の荘園の在庁官人だったということですね。

大庭景親の屋敷については写真④の大庭城だったという説(写真④)。
④大庭景親の屋敷だった?大庭城址

大庭城は北条早雲とも関係が深く、戦国初期に作られた城なので平安時代末期の大庭景親の屋敷は別のところであるという説があります。それが大庭城南西の宗賢院(そうけんいん)の辺りという説(写真⑤)。
⑤大庭景親の屋敷があった説・宗賢院

この2つの説が有力なのです。確かに平安時代末期は、戦国時代のような城という概念とは違い、鎌倉のお寺等に見られる四囲を山に囲まれ、正面、寺門のような箇所だけが開かれているスタイルが武家の屋敷に多かったことを考えると、宗賢院は谷戸の奥に鎮座するスタイルであることから、こちらかもしれないなと思いながら、私は2か所を見て廻りました。

◆ ◇ ◆ ◇

話を元に戻します。大庭景親は京に大番役に行っていたのですが、その任を解かれ、8月頭には大庭御厨に戻ってきました。重大な情報を掴んで。

ー頼朝が挙兵しようとしているらしい。ー

多分、後白河法皇の密旨の宣布等、文覚の京や福原における動きを平清盛側が察知したのかもしれません。

そして、大庭景親はこの情報を隣国にいる佐々木秀義を招いて相談するのです。

-自分(大庭景親)は、この挙兵を阻止せんがため、頼朝を討伐するつもりだ。ー

という言葉を付け足して。

大庭景親は秀義の息子たちが、伊豆の頼朝のところに出入りしていることを知っていて、上記のことを漏らすのです。景親としては、親しい秀義の息子たちをこの討伐戦から外しなさいというニュアンスで秀義に伝えた、いわば「思いやり」のある行動のつもりだったのかもしれませんね。

まあ、この当時の状況ではどんなに頼朝が足掻こうとも、大庭景親を初め平家一門の力からすれば、頼朝は滅ぼされると見るのが普通でしょう。だから佐々木兄弟が頼朝のところの出入りを止めれば、生き残れるかもしれませんが共に挙兵になぞ出れば討ち取られるだけ、ならば生き残れる情けを佐々木家にかけてやろうという景親らしい優しさだったのではないでしょうか。

⑥早川城にいる佐々木秀義と
佐々木四兄弟(大河ドラマ)
これを聞いた佐々木秀義は焦ります。

早川城へ戻ってくると、丁度その時、四兄弟の長男・定綱(さだつな)が来ていました。秀義は定綱に頼朝挙兵の事実を確認します。すると定綱は

「父上、何故それをご存じで?どこからその情報を仕入れられたのですか?」

と言うではありませんか。

「やはり、事実か。。。定綱、よく聞け。大至急頼朝殿のところへ走り、これから言う事実を伝えなさい。今日ここから2里(8㎞)離れた
大庭御厨へ行ってきた。そこで大庭景親殿とお会いしたのだ。大庭殿は言っておった『頼朝殿が挙兵するという噂が京で広まっている。自分が討伐する』とな。」

それを聞くや否や、定綱は早川城を飛び出します。頼朝のいる守山まで約70㎞強、約2日の距離ですが、いつ大庭景親が攻めに行くか分かりません。

2日間走り続け、守山の頼朝のところに辿り着くことができました。

4.挙兵計画の変更

「大庭景親殿が攻めてきます!」
「待て、定綱!」

先程の場面に戻ります。

三島宿からは当時の駅制度で設置してある馬を守山まで走らせた定綱。守山の頼朝屋敷に馬ごと飛び込むと、上がった息も隠さず、頼朝の居る間に駆け上ります。

「なに!大庭の景親が!いつ攻めてくるのじゃ!」
「分かりませぬ。分かりませぬが、早川城からここに来る途中、大庭御厨を経由したのですが、かなりの馬が集められ、箱根に向かう街道沿いでも弓や矢を大量に運ぶ人夫たちや兵ともすれ違いますれば、あと数日で挙兵する可能性が高いと推測されます。」
「なんと早急な。文覚殿、文覚殿!」

頼朝は最近、屋敷に常駐している文覚を呼び寄せます。

「三善殿からの連絡が無いと思っておったら、なんと大庭が攻め寄せるそうだ。」
「なんと大庭殿でござったか。」

なるほどとばかりになんの動揺も無く、頼朝と定綱の前に座る文覚。頼朝は

「文覚殿、なんでそんなに落ち着いていられるのか?貴方は平家軍が西から攻めてくるから迎え撃つ形での挙兵を考えておったではないか。大丈夫なのか?」
「はい、想定内の事態です。」
「想定内?」

文覚は言います。
「頼朝殿、お義父殿をはじめ、北条のものも今晩にでもお集めいただけまいか?」

◇ ◆ ◇ ◆

さて、その日の晩、守山の北条の屋敷から、時政、宗時、義時の3人、安達盛長が集まってきました。これに頼朝、佐々木定綱、文覚の合計7人が顔を突き合わせて、狩野川流域のことに蒸し暑いこの屋敷で談義をはじめるのです。

定綱が大庭景親の頼朝討伐の立ち上げ状況を伝えると、やはり北条側にも動揺が走ります。

しかし、文覚が冷静に話を始めます。
「そこで、新しい計画案をお話したいと思います。まず北条殿の手下だけでどれくらいの兵を集めることができますかな?時政殿。」
「うちは伊豆でも伊東祐親殿のような大きな在庁官人ではないので、あって30人程度が関の山でしょう。」

文覚はちょっと苦笑し、「佐々木四兄弟はご参戦いただけますな?」
と定綱に念押しします。

「喜んで」

と定綱。文覚は続けます。

「我々が周旋した工藤、天野、仁田等、伊豆の近隣豪族にも声がけしましょう。それでも40騎程度が限度ですな。ははは!」

というと、頼朝も苦い笑みを浮かべ言います。

「40騎程度でどうやって大庭景親殿に勝利するのだ。御厨は伊勢神宮の荘園ぞ!大庭だけで数百騎は集まる。とても40騎では勝ち目はあるまい。」

「確かに、大庭景親と相模国でぶつかるのを最初の旗揚げとするのは危険極まりない。下手をすると負けます。いや今のままでは下手をしなくても負けます。緒戦で勝てない旗揚げは、古来より、全て失敗に終わっています。」

少し怒り気味の頼朝は投げやりに怒鳴ります。

「胤頼が申していた通り、やはり奥州に下って、平泉の大寺院群の中で読経三昧の日々の方がよさそうだな!」

文覚はそれには何も答えず、続けます。

「たったの40騎ですが、旗挙げには十分です。この40騎で最初に平家側のしかるべき人物を打倒し、『頼朝ここにあり!本日今源氏再興の挙兵を行ったので、坂東武者は駆け付けるが良い』との喧伝をするのです。と同時に三浦殿の衣笠城へ拙僧がこれから至急使者として向かいます。皆さまは、挙兵成功後に東に向かってください。挙兵の噂を聞きつけ、伊豆では先ほどの近隣豪族以外に、田代、大見、宇佐見等も集まり、武者達数千騎は集まるでしょう。三浦殿にも千騎以上は出してもらい、西に向かいます。(藤沢、茅ケ崎あたりの)大庭軍を東と西から挟撃するのです。」

「・・・」

皆、ここ数日で大庭軍が攻めてくるという情報を聞いた途端に、「敵は大庭軍!」が当たり前と考えていただけに、文覚のこの大庭軍との戦の前に、1戦するとは想像もできなかったのです。
文覚のこの突飛な作戦に、皆しばらく声も出ません。

「で、誰を最初に血祭りにあげるのじゃ?文覚殿」

しばらく間を置いて、質問をしたのは北条時政です。文覚は答えます。

「何事も最初の一勝が大事です。40騎程度しか集まらない現状で、一勝を上げるのに、有綱殿の代わりとなる新しい目代を狙うのは如何でしょうか?」

「新しい目代?山木か!最近着任したばかりで奴の屋敷に武人は数十程度しかいないはずじゃ。なるほど!」(表⑦)

⑦政変前後の伊豆知行国責任者の変遷

と頼朝が言うと、すかさず時政が割入ってきます。

「なるほど、寡少な兵力しか集まらないうちに、平家側の軍が攻めてきては勝ち目が無い。だから寡兵を持ってして一勝を上げる。それが、かつての大知行国主・源頼政の孫・有綱に取って代わった山木目代であれば、以仁王や頼政殿の意志を継ぎ挙兵するという意思表示にピッタリだ。
また、確かに最近着任してきたばかりの山木なぞ、使用人で数十人程度の屋敷だ。ここから半里しか離れておらんしな。」

時政は、ただでさえ、自分の領有するこの韮山の一角に屋敷を構えはじめた山木兼隆に、苛々するものを感じていたようです。山木兼隆は、元は罪人で伊豆に流されてきたのですが、平時忠と懇意であったこともあり、いきなり流人から目代に抜擢されたという訳です。

もっとも、時政を一番苛立たせたのは、山木兼隆の流人中、後見人として、函南方面を領有する堤 信遠(つつみのぶとお)が申し出たことです。この堤氏と北条氏は隣国同士なので犬猿の仲だったのです。一方、北条時政が後見人になった流人・源頼朝は、今回、更に討伐の対象になっています。
⑧堤信遠に激しく侮辱される北条時政
(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から)

確かにこれでは、時政は思いっきり大貧乏くじを引いたと思ってもおかしくは無いですね。

ちなみに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、更にドラステックにするために、堤信遠が北条時政の顔に
茄子を潰して擦り付け、侮蔑の言葉を掛けていましたね。

という悔しさも相まって、北条側は新しい目代・山木兼隆をぶっ潰すことで平家打倒の挙兵戦に勝利をするのには大賛成です。勿論、堤信遠も同時にぶっ潰すのです。山木屋敷の少し北側に堤屋敷があったようです。

文覚が言います。

「では、各々方、挙兵は山木判官兼隆殿を討つということで一致ですな。では早々に挙兵準備を。実は8月17日が三嶋大社の祭礼の日です。伊豆の人民の1/3が集まるというこの大祭、山木兼隆の屋敷、堤信遠の使用人たちも出払うでしょう。この日を挙兵の日にしたいので、各々方早々に挙兵準備を!」

それまで黙っていた北条義時(よしとき)が1つ質問をします。

「三嶋大社の祭礼の日、山木兼隆自身が祭りに出てしまっていたらどうされます?屋敷を襲うのは取りやめますか?」

これには時政が答えます。

「四郎、くだらないことを聞くな。もし祭りに出ていても、屋敷が挙兵した頼朝に襲われていると知れば、戻り戦うのが目代だろう。腰抜けで屋敷が全滅しても平家方に逃げていくなら末代まで笑われるのが落ち。その日祭礼に行って命拾いをしようがしまいが、屋敷を焼かれ目代として機能しなくなればそれまでの話だ。我々は山木兼隆などという豪傑でもなんでもないちっぽけな武士を潰すのではない。目代という組織を潰せばいいのじゃ。」

「なるほど!では8月17日決行ということで!」

義時もそこに居並ぶ6人も何故か時政のこの一声で、既に目代を潰したような気分になっていました。

◇ ◆ ◇ ◆

長くなりましたので挙兵戦は次回。お楽しみに。
ご精読ありがとうございました。

《つづく