マイナー・史跡巡り: # 頼朝 -->
ラベル # 頼朝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル # 頼朝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

金曜日

頼朝杉㉑ ~旗挙げ4:山木館襲撃 後編~

ついに挙兵をした頼朝。伊豆目代の山木兼隆の屋敷を数十人の少数精鋭で襲います。

ところが山木の首を上げたという狼煙が、山木館から2km離れた守山館(北条一族の館があった守山という狩野川沿いの小山にある館、挙兵当日、頼朝はここに居ました。)から、なかなか視認できません。

頼朝は焦ります。

守山館の守備を命じていた加藤景廉(かげかど)、佐々木盛綱(もりつな)、堀親家(ほり ちかいえ)らを呼びつけ、

「至急、時政殿の応援に山木館へ向かってほしい。」

と下知します。

「はっ!」

と一斉に飛び出していく3人。頼朝は、「待て、景廉!」と加藤景廉を呼び止めます。

①加藤景廉へ薙刀を渡す頼朝
「これで兼隆の首を討ってくれい!」

自分の薙刀を加藤景廉へ手渡します。(絵①)

景廉は、薙刀を拝受する際、頼朝の目を見ると、それは切羽詰まった武将のものではなく、景廉が間違いなく、それをやってくれるという確信に満ちた、大将然とした余裕のある目のように感じます。

「はっ!お任せください。」

「2度目だな・・・」

頼朝はボソリと言います。

そう、山木館襲撃の応援に出す3人の中で、景廉へのみ、頼朝が薙刀を渡し、兼隆の首を討ち取るように下知したのには意味があるのです。

前回は、ここまででした。話を続けます。

1.加藤景廉

加藤景廉が最初に薙刀を振って落とした首は、なんと頼朝の叔父にあたる為朝なのです。

加藤一族は、伊勢に勢力を張る豪族でしたが、伊勢平氏である平清盛との争いに負け、伊豆の牧之郷で、工藤茂光(くどうしげみつ:後に石橋山合戦の敗戦後に、北条宗時(義時の兄)と一緒に北条の里への帰国を目指す途中で殺害される)に招かれます。(写真②)

②伊豆・牧之郷にある加藤景廉一族のお墓

そこで定着して平和に暮らしていました。

一方、保元の乱で敗れ、伊豆大島へ島流しとなった源為朝(鎮西八郎為朝)。島流しの際、強弓が引けないように切られた腕の筋が復活し、伊豆七島を制圧。保元の乱で負けた鬱憤からか、伊豆七島で乱暴の限りを尽くします。

③左の小さな五輪塔が工藤茂光のお墓
(右は北条宗時の墓)
伊豆は函南駅の隣に
こぢんまりとあります
これに困ったのが工藤茂光です。(写真③)

伊豆七島は当時、工藤茂光の領地だったのです。年貢も納めさせない為朝。ついに工藤茂光は上洛し、為朝の乱暴狼藉を院へ訴え、討伐の院宣を取り付けるのです。

そして伊豆・牧之郷へ帰国した茂光は為朝討伐軍を仕立てます。伊東氏、北条氏、宇佐美氏等500余騎、20艘の船を仕立てて為朝のいる伊豆大島へ討伐に向かいます。

招集された武将の中に、工藤茂光のところの加藤景廉がいたのは当然のことですね。

この為朝征伐で、景廉が活躍するのです。

2.為朝成敗の薙刀

20艘の船団で伊豆大島へ大挙して押しかける工藤茂光ら伊豆豪族連合。

為朝は「一矢(いっし)報いたい!」と云ったかどうかは定かではありませんが、その弾道ミサイルさながらの一矢(ひとや)を300の兵を乗せた船にヒョーと射かけるのです。見事命中、為朝の弾道ミサイル並の矢を受けた船はあっという間に沈没。(絵④)

④「為朝弓勢之図」(国芳画)
※右奥の為朝が射った矢が左上の軍船に当たり
沈めている。絵の題の通り、如何に為朝の矢が
ミサイル並みだったのかを国芳が表現した1枚

しかし、残りの200を載せた船が到着する前に、館に戻った彼は

「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」

とつぶやきます。伊豆の猛者たち全部を敵に回し、討伐の院宣で朝廷より賊とされた為朝に勝ち目はありません。

9歳になる息子の首を刎ね、自分も倒れぬよう柱に体をもたせたまま、割腹して果てるのです。

武士で初めて切腹したのが為朝という説もあります。

◆ ◇ ◆ ◇

ところが工藤茂光らは、300もの兵が乗っている船を一気に撃沈されたショックは大きく、強弓の為朝らを恐れ、大島に中々上陸できないでいます。

既に為朝は上記のように自害しているのですが、それを知らない工藤茂光らは、大島は不気味に沈黙しているように感じられ、

「我々が上陸した途端、為朝らはゲリラ的にあのランボウ(古い!)顔負けの矢で攻撃してくる。これは怖い!」

と、怖気づいてしまったのです。

そこに薙刀を脇に抱えた加藤景廉、島近くでウロウロしている船から、ドボンと浅海に飛び込み、走り上陸すると一目散に為朝の館に走ります。

「おいおい、景廉を一人死にさせるわけには参らぬ。皆ども続け!」と工藤茂光らも続き上陸を始めます。

景廉が為朝の館を覗くと、柱にもたれながらも立ち尽くし、クワッと目をこちらに向けて睨んでいる為朝。(写真⑤)

⑤伊豆大島の為朝館

恐怖を押さえつけ、蛮勇奮い、薙刀を構えならが、為朝にソロリソロリと近づく景廉。

「えいっ!」

と遠間から一気に為朝の首を薙刀で振います。既に絶命している為朝の首は目を開けたまま、ゴロンと転がり落ちました。

「為朝の首取ったり―!」

と、景廉が大音声で呼ばわると、ウォーと伊豆豪族連合軍の鯨波が湧きあがるのでした。

3.山木兼隆を討ち取る

頼朝挙兵話に戻ります。

「2度目だな・・・」

と薙刀を景廉へ渡す頼朝がボソリと言うのは、この話を良く覚えていたからです。自分の叔父、源氏の中では有名な鎮西八郎為朝の首を刎ねた景廉に、源氏再興の挙兵時の第一の功・山木兼隆の首を討ち取らせるというのは、かなり複雑な心境だったのではないでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇

山木館を攻めるも、なかなか落とせない北条時政や佐々木兄弟たちを含めた数十騎。

何故かと言うと、この日、三嶋大社の大祭で遊びに行っている家人とは違い、館に残っていた家人たちは、山木兼隆から離れてはいけない、何かあってはいけないと普段から意識の高い強者たちなので、懸命に兼隆を守り、粘り強く防戦していたからと吾妻鏡にはあります。

そうは言っても、やはり不意を討たれ、家人も頼朝軍に比べれば少ない山木館。
次第に押されてきます。

そこに、新たに元気の良い加藤、佐々木、堀と豪傑が3人も入ってきたので、山木館は総崩れに近い状況となります。

山木兼隆自身は、実は奥の部屋で刀を抜いて、密かに戦況を見極めていたのです。(絵⑥)

⑥山木兼隆は館の奥で刀を抜いて戦況を見極めていた(国芳画)

検非違使少尉を務めたこともある兼隆。現在の警察の高官の役職ですから、当時当然武芸にも秀でていたはず。無頼の徒を斬るのはお手の物。

なので、障子の裏から気配を伺い、何か動くものが障子の外であれば、刀で即突くことにより防衛する戦術だったようです。しかもこの日は月が出ており、兼隆の立っている障子の反対側に月光が煌々と当たっているため、人影が障子に近づけば月光による影が生じ、直ぐに分かるようになっています。なんというきめ細かい防衛戦術を建てるのでしょうね。兼隆は。
自分はギリギリまで障子には近づかず、敵がそこに居る!と分かった瞬間に障子越しに刀で突くのです。敵から兼隆は見えないので、兼隆との距離感を把握できず、突き殺されてしまうという、かなり玄人な戦術です。

この兼隆の戦術を即座に察知したのが加藤景廉。景廉は勘が非常に鋭く、この場所にそーっと近づくと、時間を掛けて障子の向こう側を、物陰から観察していた結果、これに気が付きました。

不用意に障子に近づけば、月光の影でバレてしまい、不意に障子の向こうから突かれ殺られる。

ーどうすれば良いか・・・そうだ!ー

景廉はおもむろに付けていた兜を脱ぐと、先程頼朝に渡された薙刀の先にひっかけます。(絵⑥参照)

そしてその薙刀の先の兜を、さっと障子に近づけると・・・

ガツッ!

と予想通り、障子から刀が飛び出してきました。兼隆は、素早く動く兜の影を見て、「すわ、敵襲!」と勘違いしたのでしょう。その兼隆の刀の突きで兜が吹き飛ばされます。

次の瞬間、

ドカッ!

と兜が無くなった景廉の薙刀の先が、刀の出てきた障子の辺りにグサッと突っ込まれ、手ごたえがありました。(絵⑦)

「ぐわっ!」

と叫び声が聞こえ、障子に鮮血が飛び散ります。

「兼隆、覚悟!」と障子を蹴飛ばし、部屋に飛び込んだ景廉。鮮血にまみれながらもがき苦しんでいる山木兼隆の首を、落とします。

そして返り血を浴びながらも、加藤景廉は大音声で

「山木判官(はんがん)兼隆の首とったりー!」

と叫びます。

⑦加藤景廉が山木兼隆を刺し殺す瞬間(月岡芳年作)
※但し、月明かりが山木兼隆の影を映してしまっています。
月明かりで影ができるのはこちら(加藤景廉)側なので
この絵の月明かりは反対に描いていると思われます。

「おおーっ!」

どーッと湧く頼朝軍。佐々木兄弟たちは喜び乱舞するように、館に火を掛けて廻ります。(写真⑧)

⑧現在の山木館跡
※焼け落ちたのち、現在何も残っていません

◆ ◇ ◆ ◇

「おお、火の手があがったぞ!」

守山の館から、山木館方面を伺っていた頼朝。彼は明け始めた山木館方面の山の手から上がる火の手を眺めます。(写真⑨)

⑨守山の館から山木兼隆屋敷の炎上を見た頼朝も
この距離感は今も変わらない筈です

ーああ、本当に智満寺の私の杉の杖は根付く奇跡が起こり、私の捲土重来(けんどちょうらい)の夢も、同じ奇跡のように成就するかもしれないー

と信じ始めた頼朝。袖の中の持仏像をまた手のひらに戻すと、ギュッと握り直し

ー根付け!根付いてくれ!ー

と祈るのでした。

4.山木判官兼隆の首

治承4年(1180年)8月18日早朝、山木兼隆の首を携えて、意気揚々と加藤景廉を始め、大活躍の佐々木兄弟、北条時政らが守山館へ戻ってきました。首実検のため、縁側に腰掛ける頼朝の前に兼隆の首を首桶から出して置きます。

勿論従容として死についた首ではないのであるから、いかに無念の形相をしているかと想像して首実検に臨んだ頼朝が意外に感じたのは

ー笑っていないかー

凄い形相にも見えるその首は、しかし、笑っているようにも見えるのです。

「頼朝、やっちまったな。とうとう・・・もう後戻りはできんぞ!」

と山木兼隆の首は言っているようです。
頼朝はしばらくその首とジッと対面すると、何か憑き物を払うように

「うむ、間違いなく山木判官の首だ!勝鬨を上げよ!」

と全軍に響き渡る声で怒鳴り、自ら率先して

えいえいおーっ

と掛け声を掛けるのです。まるで自分で自分を奮い立たせているようです。

と、顔を見合わせた頼朝挙兵軍は、最初はぎこちなくも、段々と声を合わせて

えいえいおーっ、えいえいおーっ、えいえいおーっ・・・

と夏の朝に伊豆の山々に勝鬨を響き渡らせるのでした。

⑩山木館の近くの香山寺にある山木兼隆のお墓

ご精読ありがとうございました!

《つづく》

【加藤景廉一族の墓】〒410-2401 静岡県伊豆市牧之郷53−35

【工藤茂光・北条宗時の墓】〒419-0121 静岡県田方郡函南町大竹218−4

【山木館跡】〒410-2141 静岡県伊豆の国市韮山山木820−5

【守山館(守山八幡宮)】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204−1

【香山寺(山木兼隆墓)】〒410-2141 静岡県伊豆の国市韮山山木868−1


頼朝杉⑳ ~旗挙げ3:山木館襲撃 前編~

 頼朝挙兵前の最後の周旋を文覚が、相模の三浦半島や房総半島で行っている間、伊豆は守山の頼朝挙兵準備も、ほぼ出来上がりました。

そして挙兵当日。

今回は1180年8月17日の挙兵当日の模様をお伝えしたいと思います。

1.佐々木兄弟の遅延

計画では、前日16日夜に頼朝を含め全員守山館に集まり、朝を待って、山木館を襲撃することとしていました。

ところが、ずっと懇意にしてた佐々木四兄弟が、約束をした夜になっても現れません。

「うーむ、大庭景親に捕まったか・・・」

と頼朝の中に不安が過ぎります。よもや、山木館襲撃の情報を大庭景親に簡単に漏らすようなことを、近江源氏の流れを汲むプライド高き佐々木一族がするわけはないと思いながらも、実は渋谷荘の早川城へ戻ったのは、景親に寝返り、こちらの挙兵情報を伝えるためだったのではないのか・・・。(写真①)

①佐々木四兄弟が戻った渋谷荘
(丹沢の大山と左にうっすら富士山が)

しかし、今となっては総大将たるもの、少しでも不安を表に出せば、今、ここに参集している土肥実平を始めとする数十騎への動揺を与えかねません。旗揚げは失敗するかもしれないのです。

「いいや、この後に及んで誰一人疑ってはいけない。これだけ神仏に縋ってきたのだ。旗揚げが失敗する訳が無い。」

頼朝は、子供の頃から大事な場面では肌身離さずの小さな持仏観音像を手の中で握りしめます。(写真②)

②頼朝の持仏(髻)観音(伊豆の国市大河ドラマ館)

◆ ◇ ◆ ◇

脱線しますが、頼朝の信心深いエピソードが挙兵に関してもいくつかあります。

今度の挙兵に臨み、頼朝は事を起こす前に法華経を千回読む計画を立てていました。ところが、大庭景親が攻めてくるということで大幅な挙兵計画の前倒し。800回しか読めそうにないのです。

頼朝は意外とゲン担ぎの性格でもあります。

この物語の原点、智満寺で「この杖が大木に育った時に、自分は源氏再興の大願を果たせることができる」と宣言し、文覚をもって杖が大木になった奇跡を確認させています。

今回の挙兵も、千回読むと決めたことができないのは、マズいのではないかと、わざわざ伊豆山権現の覚淵(かくえん)に相談する始末。

「800回でもご利益はある」

との覚淵の言葉に安心し、この持仏観音を綺麗に洗浄し、挙兵に臨んだのです。

◆ ◇ ◆ ◇

頼朝は、現場で具体的な襲撃指示をする北条時政と相談し、今晩中に佐々木四兄弟が戻らなかった場合も想定しての対応を協議します。

集まった武者達の間に、「なんだ、なんだ。」「佐々木兄弟が来ていないらしい。」「もう計画が漏れたか。」等、動揺が広がります。

そんな状況を察し、この気弱で若い頼朝を少しでも楽にしてあげようと時政が頼朝に言います。

「佐々木兄弟が遅れてくるのは三嶋大社の神々が明日の早朝の旗挙げは止めよと言っているのでしょうな。明日は三嶋大社の御神事、それが始まる前に弓矢を取ること候はずということでしょう。とりあえず早朝の挙兵は延期しましょう。逆に三嶋大社に奉幣使(ほうへいし、神社に代理で詣でる使者)を遣わし、まずは挙兵の成功を祈らせましょう。」

それを聞いて頼朝は、また少し安心しました。この頃の頼朝は兎に角、流人生活が長かったせいか、何をやるのにも自信がないのです。

翌朝には戻るだろう・・・

頼朝は、朝日が昇る暁七つ(午前4時頃)には起き出し、佐々木兄弟が今戻るか、今戻るかと悶々としておりました。

結局、佐々木兄弟が帰ってきたのは、翌17日の午後2時を回った頃でした。計画では、15日の夜中には頼朝との約束通り、戻るつもりで行動していたのです。

彼らは、今回の一大事に、是非先祖伝来の近江源氏の由緒ある鎧を着たいと感じ、相模の早川城に取りに戻ったのは前回お話した通りです。ところが、台風の影響により河川の氾濫等で行く手を遮られ、この遅参が生じたのです。

頼朝の挙兵時は台風による河川の氾濫が多発していたようで、これはこの挙兵後の石橋山合戦の敗戦の一原因にもなっています。

頼朝は佐々木四兄弟を強く叱責し、この失態は挙兵時における四兄弟の大活躍で償ってもらうとまで言い切りました。

内心は「佐々木兄弟は近江源氏の由緒ある鎧を着たいと張り切っている。誰も裏切っていない。やはり今回の旗揚げは幸先いい。」と正観音像を強く握りしめます。

そして、全軍に「山木と雌雄を決し、源氏再興の吉凶を占う!」と宣言し、来襲計画変更で不安になりかけた同志を鼓舞します。

2.三嶋大社への願掛け

③三嶋大社の安達盛長警護の跡
さて翌日、頼朝は北条時政の言を取り入れ、三嶋大社の大祭当日の夜に旗揚げをすることから、三嶋大社に祀られる神々に、安達盛長を奉幣使として、早朝に参拝させ、挙兵成功を祈ります。

◆ ◇ ◆ ◇

また脱線しますが、頼朝自身、三嶋大社に百日詣をして挙兵の成功を祈ったとの伝承もあります。百日間、頼朝の居館(蛭ヶ小島や守山)から北北西約2里(8km)の距離にある三嶋大社まで毎日往復し、挙兵成功を祈ったのです。

地元である伊豆の国市には、この百日詣に関する数々の伝承が残っていますし、三嶋大社にも、「百日間毎暁蛭ヶ小島より三嶋大社に日参するに際し、従者・盛長が此処の所で警護したと伝えられる」箇所があります。(写真③)

この百日詣、もし4月27日に叔父・源行家が頼朝へ以仁王の令旨を届けてから始めたとすると、8月17日挙兵の直前までかかったことになります。先の経文千回の話もそうですが、頼朝って結構完璧主義者というのか、験担ぎというところがあるというのか、信心深いのか。ちょっと気弱な性格が見え隠れもしますしね。

でも本当は、先の先まで見えていた人で、わざとそう見せていたのかもしれません。そのような抜けたところが無いと、挙兵以前に平家側に殺される可能性があるわけです。源氏の嫡流なだけに。そういった頼朝固有の事情による処世術だったと考えても不自然ではないのです。

④三嶋大社にある「旗揚げの碑」
※この碑には以下のことが書いてあります。

⑤旗挙げの碑にかいてあることとは
三嶋大社の御大祭は8月16日であり、その日夜討ちにて
山木(八牧)兼高を討つべしと頼朝が時政に相談すると
時政は「今夜は三島社の御神事にて国中には弓矢とる事
候わず」と答え、挙兵は翌日17日となったとあります。
微妙に挙兵の日時が文献その他によって違うのですね。

3.挙兵

さて、その日の夜半、山木判官屋敷に夜襲を掛けます。(地図⑥)
⑥頼朝挙兵の進軍路(緑と黄色の矢印)

その晩は三島明神の祭礼日であり、地図⑥の山木判官屋敷の前、北側に伸びる道路(「三嶋大社」と書かれた矢印方向)は人が溢れます。

そこで北条時政は「守山から出て、南側から迂回し、蛭が小島の右脇の丘陵地(これは後北条早雲時代の韮山城と幕末の江川太郎左衛門の屋敷跡)の間道を北上して、襲撃した方が、三嶋大社参詣の人たちに邪魔されず良いのでは?」と提言します。(地図⑥の白線の矢印)

頼朝は「自分も最初はそう考えた。しかし、旗揚げの草創にそのような小手先的なやり方はしたくない。また北側からでないと騎馬が使えないので、堂々と真ん中(地図⑥の緑のルート)を行くべきだろう」と指示を出します。

このような頼朝の総大将的な風格を醸し出したことで、数十騎の寡兵ではありますが、旗揚げの雰囲気は、更に盛り上がるのです。

佐々木兄弟は、遅参の負い目を感じたのか、この夜襲では素晴らしい働きをします。
山木兼隆の館に行く直前、北条時政に指示され、佐々木兄弟は、まず山木兼隆の後見人・堤信遠(のぶとお)を倒します。(地図⑥黄色点線)
大河ドラマ等では、隣接する地域を治める北条氏との不仲を強調するような場面もありましたが、吾妻鏡では、北条時政が、山木館襲撃直前に、ふと思いついたように、佐々木定綱に言います。
「堤信遠、こいつはなかなかの勇者なんだ。これを生かしておいては、山木兼隆を討った後、色々と面倒なことになるなあ。定綱、悪いが佐々木兄弟で山木館襲撃前に堤信遠も討っておいてくれ。道先案内人をつけるから。」

なんか行き当たりばったりな感が否めませんが、定綱をはじめとする佐々木兄弟は了解します。兄弟で屋敷の南北から挟み撃ちにする作戦で行きます。
夜と言っても月あかりが煌々と照らす明るい夜だったようです。

この時、攻める佐々木兄弟の2番目・経高が放った矢が、平家打倒の最初の矢となりました。
⑦頼朝の守山方面から堤信遠屋敷方面を見る

堤信遠は、時政が「勇者」と言っただけあって、太刀を振って、経高に向かっていきます。経高も弓を捨て、太刀で応戦します。乱闘中、信遠の家人が放った矢が経高に当たり、経高は信遠に討ち取られそうになります。

そこに、経高とは反対側から館を襲った定綱と高綱が駆け付け、経高に助太刀し、信遠を討ち取ることに成功します。そして屋敷に火を掛けます。(写真⑦)

佐々木兄弟のチームプレーの勝利です。

4.山木館への討ち入り①

さて、佐々木兄弟が堤信遠を討つために乱闘している一方で、北条時政ら数十騎は、月光が煌々と降り注ぐ中、粛々と山木兼隆館への兵馬を進めます。(写真⑧)
⑧山木兼隆館跡から見た北側の平地
(雲に隠れているのは富士山)
この先に三嶋大社があり、この方向から
頼朝軍は攻めてきたのでしょう

予想通り、山木館の大部分の使用人は、三嶋大社の祭りで出た後、夜になっても黄瀬川宿(現在の沼津)で遊んでいて帰りませんでした。

ただ、山木館にわずかに残っている兼隆の家来たちは非常に腕のたつものばかり。
時政らが鬨の声を上げて討ちかかると、彼らは死に物狂いで防戦を始めました。

半刻も経つと、堤信遠を討ち取った佐々木兄弟も遅れて参戦しますが、戦況は一進一退。
山木兼隆を討ち取ったら、館に火を掛けることによって、半里(2km)離れた頼朝がいる守山へ「挙兵成功!」の狼煙を上げる手筈となっています。

頼朝は守山の頂に登って、山木館から火の手が上がるのを今か今かと待っていました。(地図⑨)
⑨守山館から山木館を見るも、兼隆討ち取ったりの
合図の火の手がなかなか上がらない

ところが、なかなか火の手は上がりません。頼朝は焦れてきました。
そこで、守山館の守備を命じていた加藤景廉(かげかど)、佐々木盛綱(もりつな)、堀親家(ほり ちかいえ)らを呼びつけ、

「至急、時政殿の応援に山木館へ向かってほしい。」

と下知します。

「はっ!」
⑩加藤景廉へ薙刀を渡す頼朝

と一斉に飛び出していく3人。頼朝は「待て景廉!」と加藤景廉を呼び止めます。

「これで兼隆の首を討ってくれい!」

自分の薙刀を加藤景廉へ手渡します。(絵⑩)

景廉は、薙刀を拝受する際、頼朝の目を見ると、それは切羽詰まった武将のものではなく、景廉が間違いなく、それをやってくれるという確信に満ちた、大将然とした余裕のある目のように感じます。

「はっ!お任せください。」
「2度目だな・・・」

頼朝はボソリと言います。
そう、3人の中で、景廉へのみ、頼朝が薙刀を渡し、兼隆の首を討ち取るように下知したのには意味があるのです。次回その辺り、加藤景廉の過去をお話します。

ご精読ありがとうございました。
《つづく》


日曜日

頼朝杉⑲ ~旗挙げ2:挙兵のリスクヘッジ~

大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市辺り)の豪族・大庭景親(かげちか)が頼朝を討伐する計画であるとの雑説(ぞうぜつ、情報のこと)が、伊豆の頼朝たちにもたらされます。

これは、それまで頼朝らが想定していたことと大きく違うのです。想定では、京でクーデターを起こした源頼政(よりまさ)の残党狩りのため、平家軍が西から来ると考えていました。

このため、頼朝の参謀格である文覚を中心に、頼朝の旗挙げの計画を北条一族や頼朝らと一緒に大幅に修正することになるのです。大庭景親が急に攻めてくることが分かったので、時間的猶予はありません。攻めてくる前に、少人数の兵力しか集まらない状況で先制攻撃が必要なのです。そこで攻撃対象を数十人の兵しか持たない伊豆国目代・山木兼隆(やまきかねたか)にします。挙兵の計画遂行日は8月17日の三嶋大社の祭礼の日と決めました。

というのが前回までのあらすじです。

①三嶋大社本殿

1.頼朝面談

文覚は安心していられません。山木兼隆に勝利するのはそう難くはないにせよ。それで勝利したからといって、その後の大庭景親との衝突は不可避と考えるからです。

「よろしいか、頼朝殿。まずは初戦で勝利を得ることです。頼朝殿の弱みは何か。戦には弱いことです。では強みは何か。人心掌握に長け、先を見通す力があることですぞ!」

「文覚殿。以前から貴方は私が写経と読経ばかりで戦術を知らんと申されるが、私は孫子を初め軍略本は一通り読んでいる。戦にも長けていると自負しておるがいかがか。」

「いいえ、そんな机上の勉強ばかりでは実戦には役に立ちません。私はかつて遠藤盛遠という北面の武士でしたので、戦ができる武人かどうかは嗅覚で分かるのです。頼朝殿はその部分を伸ばすのは諦めた方が良い。むしろ先ほど申した通り、現在の強みである人を活かす力と先読みの力をもっと活用しなされ。」

「・・・」

文覚に戦が出来ないと言われ、少し腹が立つ頼朝。しかし、頼朝は変なプライドに拘る男ではありません。「そんなものか」と文覚のアドバイスに納得すると、今回参加する武者一人一人と直接話をすることを決心します。

頼朝のところに呼ばれた武者の名前は「吾妻鏡」には以下の通りとあります。

工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉 以下・・・

この中で伊豆近隣の以外の武将は、岡崎四郎義実、佐々木盛綱の2名だけです。
それ以外は近場の武将ばかり。(地図②参照)

②頼朝挙兵前に一人一人呼ばれる伊豆の有力豪族

如何にこの挙兵計画が時間をかけて練られたものでなく、慌てて即席のように仕立てられたかが良く分かります。

「まだ誰にも話していない事ですが、あなただけが頼りなのでこうやって話をするのです。」

頼朝は、一人ひとりを自分の部屋へ招き入れて、上記同じ言葉を繰り返し言い続けたことは有名です。ちなみに吾妻鏡が後の執権北条一族の編纂によるものだなあと感じるのは、そう言っておきながら一番大事なことは北条時政としか相談しなかったと書かれていることです(笑)。

③佐々木盛綱
確かに頼朝は、人心掌握のつもりでこの直接対話をやったのかもしれませんが、この時の頼朝は本当に余裕が無く、すがる思いでこれら近場の武士たちをあてにしたのかもしれません。

2.佐々木兄弟の動き

さて、この時、先の佐々木兄弟の一人、佐々木盛綱も頼朝の私室に呼び出され

「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」
 ー雖未口外、偏依恃汝ー(吾妻鏡)

と先に口語にしたような言い方で人心掌握を計ろうとする頼朝は話出します。(写真③)

勿論、佐々木兄弟は、今回の大庭景親が攻めてくるとの情報ももたらしてくれる等、伊豆に流されてきて以来、頼朝にとっては第一の信用を置いている兄弟たちなのです。

「挙兵前に1つだけお願いがございます。」

頼朝の挙兵遂行に当たっての細かな計画を聞いた後に、盛綱は言います。

「何でしょう?」

「平治の乱の直後、父・佐々木秀義が渋谷荘(現在の神奈川県綾瀬市)に留め置かれることとなった時、近江源氏先祖伝来の鎧兜を渋谷荘に置いてまいりました。この度の挙兵、我々佐々木四兄弟が参戦させて頂くということは、近江源氏再興の挙兵でもあります。なので是非この先祖伝来の鎧兜を着て参戦したいのです。できればこれから渋谷荘に急ぎ戻り、その鎧兜に着替え、こちらに戻ってきたいと存じます。」

「近江源氏・佐々木殿のその心意気、河内源氏・源頼朝!承りましたぞ!是非その立派な大鎧の四兄弟の勇姿を見せてくだされ!」

ということで、佐々木四兄弟は、この日のうちに渋谷荘に戻り始めます。挙兵の前日16日夜までは戻る約束をしてなのですが、実はこれも後で頼朝を少しイライラさせることになります。

3.最後の周旋に走る文覚

文覚は頼朝にアドバイスした後、直ぐに大庭景親との戦に敗れた場合のリスクヘッジのために、最後の周旋に伊豆から東に向かいます。

まず、三浦義明と衣笠城で会い、17日の挙兵後、頼朝軍は東下し相模湾沿いに移動してこの衣笠城に入る手筈を確認します。(写真④、地図⑤)

④三浦一族の本拠・衣笠城

文覚は三浦義明に

伊豆で源氏の旗挙げが成功し、頼朝殿が東に移動し、三浦殿の衣笠城にて坂東武者の参集を待つのは、反平家勢力増大には非常に効果がある。ただ1つの懸念点は、大庭景親の所領・大庭御厨を通過しないと衣笠城へは入れない。つまり、頼朝殿の移動時に大庭軍との1戦あるのは間違い無い。その前に三浦殿の軍が頼朝軍と合流していただかないととても勝ち目は無い。

と焚きつけるのです。(地図⑤)

⑤当初予定した挙兵後の頼朝軍ルート

「相分かった。わしらが頼朝殿を支えよう。だがな。三浦が一族こぞって西へ頼朝殿を助けに行ったとしても、現在出せる兵力は500が精一杯じゃ。しかし、大庭景親殿が近隣諸国にも声を掛けているとなると、敵の数は数千にはなるじゃろうな。実は昨日、孫の畠山重忠が文をよこしてきてな。秩父平氏である自分や、河越重頼、江戸重長らと大庭殿の基へ馳せ参じる故、お爺殿もと言ってきおった。」

義明は文覚にこう打ち明けると、文覚は遠くを見ながら、こう言います。(絵⑥)

⑥三浦義明

「義明殿、正直三浦軍が頼朝殿と合流できたとしても大庭景親の連合軍に勝てるかどうかは半々だと思っています。逆にいえば、合流できなければ間違いなく頼朝挙兵軍は散り散りになる程に負けることは確実でしょうな。いずれにせよ、負けた時の危機対策は必要なのです。今日、ここに来たのは、単に軍を西へ動かしてくださいということだけではなくて、いざという場合、安房の、三浦殿が制御できる場所に頼朝殿の安全を確保頂きたいのです。それを含めてのご支援を賜りたい。」

「頼朝殿を安房へ逃すと・・・」

「はい、いざとなったら。そのため、この衣笠城までの行程は海沿いを進軍させます。」

「では、一気に伊豆から舟で衣笠城へ入れば良いのでは?」

「集めた兵全てを舟で衣笠城まで連れて行くことは難しいですし、分散して衣笠城近くの葉山辺りに上陸すれば、待ってましたとばかりに大庭の大軍に個別撃破される可能性もあります。なので、やはり基本は陸路です。

ちなみに大庭軍が仮に3000でこの衣笠城を攻めてきた場合、義明殿、籠城兵力は如何ほどで守り切る自信がございますかな。」

「そうですな。まあ、攻め手の約半分であれば守り抜くことはできると思いますので1500というところですかな。」

「現在の三浦殿の兵力は?」

「ざっと1000」

「ということは、頼朝軍の増加数が500は最低必要ということになる。うーむ。」

「500程度も集まらぬと申しますか?」

「はい。何分性急に兵を集めておりますので。もしかすると衣笠城が落とされる危険もありますな。いずれにせよ。頼朝殿の安全を確保するには直ぐに大庭軍が追いかけてこられないような場所にする必要があるのです。そこで三浦殿は本拠であるこの三浦半島の対岸、房総は安房の一部にそのような土地をお持ちであるとの噂を聞き申した。その場所は大庭景親含め、知る人は少ないでしょう。であれば、そこに頼朝殿を逃した後、上総国、下総国、武蔵国等の味方する坂東武者を集め、大庭軍をはじめとする平家側勢力と対抗できる兵数を集めたいと存じます。」

「流石は頼朝殿の知恵袋と言われるだけある文覚殿、分かり申した。此度の頼朝殿の挙兵、この三浦義明、命を捧げご支援致そう。」

「ありがたい。もう1つお願いがござる。拙僧はこれから大至急、安房へ渡り、千葉常胤殿をはじめとする坂東武者らに頼朝殿へ加勢するよう今一度お願いして廻りたいと考えております。そこで拙僧を、貴方の舟で安房の飛地まで送り届けて頂きたいのです。万が一の頼朝殿が避難する場所も見ておきたいですし。」

「分かり申した。安房の猟島という場所です。直ぐに案内させましょう。」

4.浦賀から房総半島へ

さて、文覚、三浦義明と衣笠城を後にすると、衣笠城より1里半(6km)先にある浦賀の湊に案内をしてもらいます。(写真⑦)

⑦浦賀の湊
※内陸まで細長い入江が続く
浦賀の湊は、入江が内陸の奥深くまで入り込んでおり、普段波は静かで天然の良港となっていることから、三浦一族はここに水軍を置き、江戸湾(東京湾)一帯や、伊豆は熱海の方までシーレーンを敷いていました。

この浦賀湊の西側に到着した文覚ですが、ちょうど、この時期は台風の到来時期で、これから横切ろうとする江戸湾が荒れているので、三浦水軍の長も舟を出すことを躊躇します。一昼夜その場所に起居した文覚(写真⑧)。大庭景親の動きを考えると、この場で愚図愚図としている時間はありません。

⑧文覚が起居した浦賀西側
自分の起居したすぐ近くに、石で簡易な祠を作ると、次のように念じます。

「これより波頭高き海を越え、我、鹿野山(房総の、以前に文覚が修行した場所)へ再び渡り、平家打倒の大願成就を叶えに参篭つかまつるものなり。もし事なりし時は社宇をここに建立するものなり。」

そして水軍の長ににっこり笑うと

「これにて安心して江戸湾を渡れます。」

「えっ、この悪天候をですか?」
と半信半疑の長ですが、文覚は譲りません。

「この文覚の大願成就の前には、以前もそうであったが水神は靡きます。」

と無理やりにも舟を出させます。

◆ ◇ ◆ ◇

ご加護があったのか、文覚の勢いに押されて舟のこぎ手が頑張ったのかは分かりませんが、文覚は無事、安房の猟島に辿り着きます。(写真⑨)

⑨安房・猟島の浜辺

まさに、文覚がリスクヘッジとして考えたとおり、この猟島に頼朝は、後日たった7騎で海上逃避してくることになるのです。

文覚は、この後、鹿野山の神野寺で頼朝挙兵必勝祈願をします。(写真⑩)

⑩鹿野山 神野寺
そこで弟子の千葉胤頼と会い、一緒に胤頼の父・千葉一族当主である常胤(つねたね)に、万が一頼朝が安房に上陸した際に、即駆け付け支援するように頼みこむのです。

詳細はまた後日書きますが、結果的には、文覚が想定した上記のリスクヘッジの通りとなります。文覚が千葉常胤の周旋もしっかりしていたおかげで、頼朝は命運尽きることなく、いやむしろ、数万の軍勢を引き連れて、鎌倉入りを果たす大成功につながるのです。

5.叶神社

現在、文覚が簡単な石で祠を作り、大願成就を祈念した場所には「叶(かなえ)神社」という立派な神社が建っております。(写真⑪)

⑪浦賀の西に建つ叶神社

この神社こそ、文覚が安房に渡る前に、平家打倒の大願成就がなされたあかつきには、社宇をここに建てると約束した神社なのです。「文治二年(1186年)に源氏再興の大願が叶ったことから、叶大明神と称するようになりました。」と縁起を書いた看板にありました。

如何でしょうか?頼朝の挙兵が、数十騎で堤信遠や山木兼隆館を襲うところから始まったという史実はよく語られますが、その裏では坂東武者に対する周旋が用意周到に行われていたようです。全て、文覚がやったとまでは言いませんが、研究家の中には、挙兵計画に文覚がかなり深く係わっていたとみる人もいます。

さて、次回から、挙兵本番に話は移ります。お楽しみに。
ご精読ありがとうございました。
《つづく》


善光寺と戦国武将について ~歩き廻る御本尊~

私は、このブログ調査のために行った場所で、他の史跡等にもついつい寄り道をします。

甲斐善光寺にて
寄り道した場所の話はショートなものなので、もう一つの拙著ブログ「Tsure-Tsure」の方に「外小話」として掲載するのですが、今回の話は、ショートではなくある程度ちゃんとお話ししたいので、こちらのブログに掲載し直しました。

さて、何の話かと言うと

「牛にひかれて善光寺参り」

と言っても、本元の信濃善光寺ではなく、甲斐善光寺です。

【※写真・地図・絵はクリックすると拡大します。】

1.甲斐善光寺

ご存じのように、「牛にひかれて善光寺参り」とは、ことわざで、
信濃善光寺御開帳

「思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ。」

なので、今回「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」のブログ関係で訪問した東光寺の帰りに、この甲斐善光寺にお参り出来たことは、偶然とは言え、きっと良い方面へ導かれていると信じます。(笑)

善光寺が、何故このことわざになる位、全国的に有名なのかについては、諸説ありますが、私が思うに

「宗派を問わない」ことと、「一生に一度お参りすれば、極楽浄土へ行ける」と言う簡素ながら分かりやすい教えが広まったお陰だと思います。

遠くとも 一度は詣れ善光寺
救い給うぞ 弥陀の誓願

甲斐善光寺の前立仏
本家本元の信濃善光寺は、去年5月に、最大の行事である7年に1度の御開帳の最中に、15歳の少年がドローンを飛ばし、墜落させたことでも、ニュースになりましたね。

ドローンというIoT時代のエッジ的な技術と、善光寺や姫路城(白亜に塗り替えられた姫路城にもぶつかって墜落しました。)等の日本のレガシーとの共存が話題性を持っていたように感じます。

彼も上空からの御開帳の中継に熱心の余りの墜落行為だったようです。

このように、どの時代の日本人をも惹き付けて止まない善光寺ですが、御本尊(如来像)は秘仏で、誰も見たことがありません。

代理の如来像を前立仏と言います。

これは全国に複数あります。

信濃善光寺の御開帳時でも、前立仏を御開帳し、あくまで御本尊は出て来ません。(これについては後程またお話します。)

また、現在の甲斐善光寺にも、この前立仏が、この寺の本尊として祀られているという訳です。

2.実はアクティブな善光寺御本尊

このように、丁寧に、信濃善光寺の奥の奥にしまってある感の御本尊・秘仏如来像ですが、実はかなりアクティブな仏像様なのです。

歴史のメインストリームに自ら積極的に係わりに行っています。

(1)欽明天皇、蘇我氏、物部氏

御本尊は、天竺(インド)で作られ、百済(韓国)へ渡り、そして日本の欽明天皇のところにやって来ます。

甲斐善光寺本堂
欽明天皇は、この仏像を拝むべきか、蘇我氏物部氏に相談しました。

そもそも蘇我氏は仏教擁護派、物部氏は反対派であることは有名です。

後の聖徳太子は、蘇我氏側で、物部氏を蘇我氏と一緒に滅ぼしたからこそ、法隆寺を始め、伝来仏教の普及を行うことができたのです。

話を戻しますが、欽明天皇の問いかけに蘇我稲目(そがのいなめ)が拝むべきということで、蘇我の屋敷に持ち帰り、お堂を建てました。

ところが、この後、全国に疫病が流行しました。

それみたことかと八百万の神信仰の物部尾輿(もののべのおこし)が、蘇我氏の屋敷を焼討にし、この御本尊を難波の堀へ投げ込んでしまうそうです。かなり過激な行為に思えます。

数年後に、本田善光という信濃(飯田市)の人が、この堀を通りかかると、「善光、善光・・・」と言って、御本尊がこの人の前に堀の水から飛び出してきました。

そして本田氏が、信濃にご本尊を持ち帰り彼の名前「善光」を取って、今の善光寺の基となった訳です。


(2)上杉謙信、武田信玄(川中島の戦い)
信濃善光寺と川中島は8km程度しか離れていない

その後、源頼朝が詣でたりしましたが、著名人が神社・仏閣に詣でるのは、ある意味珍しくはありません。

この御本尊の凄いところは、自分から移動するのです。

縁起にあるように、天竺から信濃まで移動してこられたのが最初だとすると、次の移動は戦国時代なのです。

戦乱の世が大丈夫かどうか、御本尊自ら歩き回って確かめたようです。

当時、信濃善光寺のすぐ近くでは、あの有名な川中島の戦いで、上杉謙信と武田信玄が国境紛争を繰り返していました。

当然、紛争地域のこの善光寺が戦火にまみれて、御本尊が燃えてしまわないかと、両武将とも心配します。一応、両者とも坊主ですからね。とてもそうは見えませんが。特に信玄(笑)。

右上の写真を見ると分かるように、川中島古戦場と善光寺は2里(約8km)しか離れていません。

まず謙信から、御本尊を新潟は直江津に持ち帰る行動に出ます。

第4次川中島合戦
但し、この時は実は偽物を掴まされていたそうです。

既に善光寺には信玄派の人間が入り込んでいたのです。

そして、1558年、あの有名な謙信と信玄の一騎打ちが行われる第4次川中島合戦の3年前に、信玄は甲斐に御本尊を含め、信濃善光寺組織ごと甲斐善光寺へ移行したのです。

甲斐の人々は狂喜乱舞しました。逆に長野の人々はがっかりします。

その恨みもあってか、あの第4次川中島合戦は世に残る大戦(おおいくさ)になったのかも知れません。(写真右上)

(3)織田信長・徳川家康

1582年に武田勝頼は、田野にて滅びます。

この時、甲斐善光寺の御本尊は、甲州征伐の総大将である織田信忠の弟である信雄(のぶかつ)によって、尾張清州城下に持ち去られます。

そして、ここでもまた御本尊は、滅びゆく織田家を見る訳です。本能寺の変の後、この善光寺御本尊を引き継ぐのは徳川家康です。

彼は、御本尊を甲斐善光寺へ戻しました。

武田家が1582年の3月に滅び、織田家が3か月後の6月に本能寺の変と短期間に大物武将が亡くなるを見て、世間では少しづつ、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」とか「武田家の怨念だ」と言う噂が出始めました。
方広寺の大仏頭部
(頭部の木像のみは近年まで残っていたそうです)

家康も当初は、浜松の鴨江寺に移したのですが、この祟りの噂を聴いたのか、直ぐに甲斐善光寺に戻しています。

(4)豊臣秀吉

さて、最後に御本尊が出向いて会うのは、豊臣秀吉です。

1596年の慶長元年に、近畿を中心とした大地震(推定マグニチュード7.5)が起きます。

夜中に起きたこの大地震、当時伏見城に居た豊臣秀吉は、かなり慌てふためいた事でも有名ですが、この地震により、当時建設中であった方広寺の大仏殿が崩れ落ちます。

奈良東大寺の大仏より大きくしようと、秀吉は自分の権力の一つの象徴にしたかったので、この崩壊は痛いところです。
方広寺の鐘

そこで、大仏に劣らぬ権威と思い、甲斐善光寺より、また御本尊を方広寺にお連れし、方広寺の御本尊とする訳です。

ところが、これをした頃から秀吉の体調が崩れ始めます。

もしかすると、甲斐善光寺の御本尊を方広寺へと勧めたのは、豊臣家を退け、天下を狙う家康ではないか?と私は邪推します。

ただ、世間でも当時盛んに「善光寺御本尊の祟りでは?」と噂されたようです。

そして、ある日この御本尊は秀吉の夢枕に立ちます。

「秀吉や。そろそろ、信濃の国へ帰しておくれ。」

慶長3年(1598年)、秀吉は急いで信州長野の現在の善光寺へ御本尊を送り返しましたが、御本尊が出発した翌日、秀吉は亡くなりました。

そして、御本尊が居た方広寺は、彼の有名な「国家安康」で「家康」の2文字を切り離したという言いがかりを付けられ、豊臣家が滅びるきっかけとなったことは、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」の法則に則ったものでした。

雲海の下にある甲斐善光寺
ざっと40年間、善光寺御本尊は信濃善光寺を出て、戦国時代の時の有力者たちを見回して、信濃へ戻ってきました。

3.おわりに

如何ですか?

このように有名武将の間を時代の流れとともに、全国を回ってきた仏像は珍しいと思います。

ところが、意外な事に、この御本尊、誰も見たことが無いのです。

これは、我々のような一般庶民が ということではありません。信濃善光寺に運ばれてから10年ほど経つ頃に自身のお告げにより、御隠れになったと、縁起に書かれています。

「聖☆おにいさん」のブッダ
なので、現在に至るまで参拝者のみでなく、善光寺の僧侶ですら見たことが無いのだそうです。

一応、善光寺本堂の厨子の中に安置されているということですが、Web等では「本当にあるの?」「誰も見たことないってどういうこと?」等の疑問が結構出ています。

もしかしたら、御本尊を見たら・・・

等、考えてしまいます。

また、このようにアクティブに出回る御本尊は、生身(しょうじん)すなわち本当に生命が宿っている霊像として信じられています。


もしかしたら、結構、身近にお友達感覚で、我々と一緒に生活しているかも・・・
雲海で湖のような甲斐の国

と最近流行った漫画で、聖人2人が若者の姿で、東京の下宿生活を、「バカンス」と言って過ごすという「聖☆おにいさん」というのがありますが、その中の主人公の1人がブッダ。(右上絵)

不謹慎で申し訳ありませんが、御本尊がこの漫画のようなキャラクタだったらと、勝手に想像してしまい、1人で吹き出しながら、雲海で湖のようになった甲斐の国を後に、東京に車を走らせていました。

ご精読頂き、ありがとうございます。