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金曜日

頼朝杉㉑ ~旗挙げ4:山木館襲撃 後編~

ついに挙兵をした頼朝。伊豆目代の山木兼隆の屋敷を数十人の少数精鋭で襲います。

ところが山木の首を上げたという狼煙が、山木館から2km離れた守山館(北条一族の館があった守山という狩野川沿いの小山にある館、挙兵当日、頼朝はここに居ました。)から、なかなか視認できません。

頼朝は焦ります。

守山館の守備を命じていた加藤景廉(かげかど)、佐々木盛綱(もりつな)、堀親家(ほり ちかいえ)らを呼びつけ、

「至急、時政殿の応援に山木館へ向かってほしい。」

と下知します。

「はっ!」

と一斉に飛び出していく3人。頼朝は、「待て、景廉!」と加藤景廉を呼び止めます。

①加藤景廉へ薙刀を渡す頼朝
「これで兼隆の首を討ってくれい!」

自分の薙刀を加藤景廉へ手渡します。(絵①)

景廉は、薙刀を拝受する際、頼朝の目を見ると、それは切羽詰まった武将のものではなく、景廉が間違いなく、それをやってくれるという確信に満ちた、大将然とした余裕のある目のように感じます。

「はっ!お任せください。」

「2度目だな・・・」

頼朝はボソリと言います。

そう、山木館襲撃の応援に出す3人の中で、景廉へのみ、頼朝が薙刀を渡し、兼隆の首を討ち取るように下知したのには意味があるのです。

前回は、ここまででした。話を続けます。

1.加藤景廉

加藤景廉が最初に薙刀を振って落とした首は、なんと頼朝の叔父にあたる為朝なのです。

加藤一族は、伊勢に勢力を張る豪族でしたが、伊勢平氏である平清盛との争いに負け、伊豆の牧之郷で、工藤茂光(くどうしげみつ:後に石橋山合戦の敗戦後に、北条宗時(義時の兄)と一緒に北条の里への帰国を目指す途中で殺害される)に招かれます。(写真②)

②伊豆・牧之郷にある加藤景廉一族のお墓

そこで定着して平和に暮らしていました。

一方、保元の乱で敗れ、伊豆大島へ島流しとなった源為朝(鎮西八郎為朝)。島流しの際、強弓が引けないように切られた腕の筋が復活し、伊豆七島を制圧。保元の乱で負けた鬱憤からか、伊豆七島で乱暴の限りを尽くします。

③左の小さな五輪塔が工藤茂光のお墓
(右は北条宗時の墓)
伊豆は函南駅の隣に
こぢんまりとあります
これに困ったのが工藤茂光です。(写真③)

伊豆七島は当時、工藤茂光の領地だったのです。年貢も納めさせない為朝。ついに工藤茂光は上洛し、為朝の乱暴狼藉を院へ訴え、討伐の院宣を取り付けるのです。

そして伊豆・牧之郷へ帰国した茂光は為朝討伐軍を仕立てます。伊東氏、北条氏、宇佐美氏等500余騎、20艘の船を仕立てて為朝のいる伊豆大島へ討伐に向かいます。

招集された武将の中に、工藤茂光のところの加藤景廉がいたのは当然のことですね。

この為朝征伐で、景廉が活躍するのです。

2.為朝成敗の薙刀

20艘の船団で伊豆大島へ大挙して押しかける工藤茂光ら伊豆豪族連合。

為朝は「一矢(いっし)報いたい!」と云ったかどうかは定かではありませんが、その弾道ミサイルさながらの一矢(ひとや)を300の兵を乗せた船にヒョーと射かけるのです。見事命中、為朝の弾道ミサイル並の矢を受けた船はあっという間に沈没。(絵④)

④「為朝弓勢之図」(国芳画)
※右奥の為朝が射った矢が左上の軍船に当たり
沈めている。絵の題の通り、如何に為朝の矢が
ミサイル並みだったのかを国芳が表現した1枚

しかし、残りの200を載せた船が到着する前に、館に戻った彼は

「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」

とつぶやきます。伊豆の猛者たち全部を敵に回し、討伐の院宣で朝廷より賊とされた為朝に勝ち目はありません。

9歳になる息子の首を刎ね、自分も倒れぬよう柱に体をもたせたまま、割腹して果てるのです。

武士で初めて切腹したのが為朝という説もあります。

◆ ◇ ◆ ◇

ところが工藤茂光らは、300もの兵が乗っている船を一気に撃沈されたショックは大きく、強弓の為朝らを恐れ、大島に中々上陸できないでいます。

既に為朝は上記のように自害しているのですが、それを知らない工藤茂光らは、大島は不気味に沈黙しているように感じられ、

「我々が上陸した途端、為朝らはゲリラ的にあのランボウ(古い!)顔負けの矢で攻撃してくる。これは怖い!」

と、怖気づいてしまったのです。

そこに薙刀を脇に抱えた加藤景廉、島近くでウロウロしている船から、ドボンと浅海に飛び込み、走り上陸すると一目散に為朝の館に走ります。

「おいおい、景廉を一人死にさせるわけには参らぬ。皆ども続け!」と工藤茂光らも続き上陸を始めます。

景廉が為朝の館を覗くと、柱にもたれながらも立ち尽くし、クワッと目をこちらに向けて睨んでいる為朝。(写真⑤)

⑤伊豆大島の為朝館

恐怖を押さえつけ、蛮勇奮い、薙刀を構えならが、為朝にソロリソロリと近づく景廉。

「えいっ!」

と遠間から一気に為朝の首を薙刀で振います。既に絶命している為朝の首は目を開けたまま、ゴロンと転がり落ちました。

「為朝の首取ったり―!」

と、景廉が大音声で呼ばわると、ウォーと伊豆豪族連合軍の鯨波が湧きあがるのでした。

3.山木兼隆を討ち取る

頼朝挙兵話に戻ります。

「2度目だな・・・」

と薙刀を景廉へ渡す頼朝がボソリと言うのは、この話を良く覚えていたからです。自分の叔父、源氏の中では有名な鎮西八郎為朝の首を刎ねた景廉に、源氏再興の挙兵時の第一の功・山木兼隆の首を討ち取らせるというのは、かなり複雑な心境だったのではないでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇

山木館を攻めるも、なかなか落とせない北条時政や佐々木兄弟たちを含めた数十騎。

何故かと言うと、この日、三嶋大社の大祭で遊びに行っている家人とは違い、館に残っていた家人たちは、山木兼隆から離れてはいけない、何かあってはいけないと普段から意識の高い強者たちなので、懸命に兼隆を守り、粘り強く防戦していたからと吾妻鏡にはあります。

そうは言っても、やはり不意を討たれ、家人も頼朝軍に比べれば少ない山木館。
次第に押されてきます。

そこに、新たに元気の良い加藤、佐々木、堀と豪傑が3人も入ってきたので、山木館は総崩れに近い状況となります。

山木兼隆自身は、実は奥の部屋で刀を抜いて、密かに戦況を見極めていたのです。(絵⑥)

⑥山木兼隆は館の奥で刀を抜いて戦況を見極めていた(国芳画)

検非違使少尉を務めたこともある兼隆。現在の警察の高官の役職ですから、当時当然武芸にも秀でていたはず。無頼の徒を斬るのはお手の物。

なので、障子の裏から気配を伺い、何か動くものが障子の外であれば、刀で即突くことにより防衛する戦術だったようです。しかもこの日は月が出ており、兼隆の立っている障子の反対側に月光が煌々と当たっているため、人影が障子に近づけば月光による影が生じ、直ぐに分かるようになっています。なんというきめ細かい防衛戦術を建てるのでしょうね。兼隆は。
自分はギリギリまで障子には近づかず、敵がそこに居る!と分かった瞬間に障子越しに刀で突くのです。敵から兼隆は見えないので、兼隆との距離感を把握できず、突き殺されてしまうという、かなり玄人な戦術です。

この兼隆の戦術を即座に察知したのが加藤景廉。景廉は勘が非常に鋭く、この場所にそーっと近づくと、時間を掛けて障子の向こう側を、物陰から観察していた結果、これに気が付きました。

不用意に障子に近づけば、月光の影でバレてしまい、不意に障子の向こうから突かれ殺られる。

ーどうすれば良いか・・・そうだ!ー

景廉はおもむろに付けていた兜を脱ぐと、先程頼朝に渡された薙刀の先にひっかけます。(絵⑥参照)

そしてその薙刀の先の兜を、さっと障子に近づけると・・・

ガツッ!

と予想通り、障子から刀が飛び出してきました。兼隆は、素早く動く兜の影を見て、「すわ、敵襲!」と勘違いしたのでしょう。その兼隆の刀の突きで兜が吹き飛ばされます。

次の瞬間、

ドカッ!

と兜が無くなった景廉の薙刀の先が、刀の出てきた障子の辺りにグサッと突っ込まれ、手ごたえがありました。(絵⑦)

「ぐわっ!」

と叫び声が聞こえ、障子に鮮血が飛び散ります。

「兼隆、覚悟!」と障子を蹴飛ばし、部屋に飛び込んだ景廉。鮮血にまみれながらもがき苦しんでいる山木兼隆の首を、落とします。

そして返り血を浴びながらも、加藤景廉は大音声で

「山木判官(はんがん)兼隆の首とったりー!」

と叫びます。

⑦加藤景廉が山木兼隆を刺し殺す瞬間(月岡芳年作)
※但し、月明かりが山木兼隆の影を映してしまっています。
月明かりで影ができるのはこちら(加藤景廉)側なので
この絵の月明かりは反対に描いていると思われます。

「おおーっ!」

どーッと湧く頼朝軍。佐々木兄弟たちは喜び乱舞するように、館に火を掛けて廻ります。(写真⑧)

⑧現在の山木館跡
※焼け落ちたのち、現在何も残っていません

◆ ◇ ◆ ◇

「おお、火の手があがったぞ!」

守山の館から、山木館方面を伺っていた頼朝。彼は明け始めた山木館方面の山の手から上がる火の手を眺めます。(写真⑨)

⑨守山の館から山木兼隆屋敷の炎上を見た頼朝も
この距離感は今も変わらない筈です

ーああ、本当に智満寺の私の杉の杖は根付く奇跡が起こり、私の捲土重来(けんどちょうらい)の夢も、同じ奇跡のように成就するかもしれないー

と信じ始めた頼朝。袖の中の持仏像をまた手のひらに戻すと、ギュッと握り直し

ー根付け!根付いてくれ!ー

と祈るのでした。

4.山木判官兼隆の首

治承4年(1180年)8月18日早朝、山木兼隆の首を携えて、意気揚々と加藤景廉を始め、大活躍の佐々木兄弟、北条時政らが守山館へ戻ってきました。首実検のため、縁側に腰掛ける頼朝の前に兼隆の首を首桶から出して置きます。

勿論従容として死についた首ではないのであるから、いかに無念の形相をしているかと想像して首実検に臨んだ頼朝が意外に感じたのは

ー笑っていないかー

凄い形相にも見えるその首は、しかし、笑っているようにも見えるのです。

「頼朝、やっちまったな。とうとう・・・もう後戻りはできんぞ!」

と山木兼隆の首は言っているようです。
頼朝はしばらくその首とジッと対面すると、何か憑き物を払うように

「うむ、間違いなく山木判官の首だ!勝鬨を上げよ!」

と全軍に響き渡る声で怒鳴り、自ら率先して

えいえいおーっ

と掛け声を掛けるのです。まるで自分で自分を奮い立たせているようです。

と、顔を見合わせた頼朝挙兵軍は、最初はぎこちなくも、段々と声を合わせて

えいえいおーっ、えいえいおーっ、えいえいおーっ・・・

と夏の朝に伊豆の山々に勝鬨を響き渡らせるのでした。

⑩山木館の近くの香山寺にある山木兼隆のお墓

ご精読ありがとうございました!

《つづく》

【加藤景廉一族の墓】〒410-2401 静岡県伊豆市牧之郷53−35

【工藤茂光・北条宗時の墓】〒419-0121 静岡県田方郡函南町大竹218−4

【山木館跡】〒410-2141 静岡県伊豆の国市韮山山木820−5

【守山館(守山八幡宮)】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204−1

【香山寺(山木兼隆墓)】〒410-2141 静岡県伊豆の国市韮山山木868−1


頼朝杉⑳ ~旗挙げ3:山木館襲撃 前編~

 頼朝挙兵前の最後の周旋を文覚が、相模の三浦半島や房総半島で行っている間、伊豆は守山の頼朝挙兵準備も、ほぼ出来上がりました。

そして挙兵当日。

今回は1180年8月17日の挙兵当日の模様をお伝えしたいと思います。

1.佐々木兄弟の遅延

計画では、前日16日夜に頼朝を含め全員守山館に集まり、朝を待って、山木館を襲撃することとしていました。

ところが、ずっと懇意にしてた佐々木四兄弟が、約束をした夜になっても現れません。

「うーむ、大庭景親に捕まったか・・・」

と頼朝の中に不安が過ぎります。よもや、山木館襲撃の情報を大庭景親に簡単に漏らすようなことを、近江源氏の流れを汲むプライド高き佐々木一族がするわけはないと思いながらも、実は渋谷荘の早川城へ戻ったのは、景親に寝返り、こちらの挙兵情報を伝えるためだったのではないのか・・・。(写真①)

①佐々木四兄弟が戻った渋谷荘
(丹沢の大山と左にうっすら富士山が)

しかし、今となっては総大将たるもの、少しでも不安を表に出せば、今、ここに参集している土肥実平を始めとする数十騎への動揺を与えかねません。旗揚げは失敗するかもしれないのです。

「いいや、この後に及んで誰一人疑ってはいけない。これだけ神仏に縋ってきたのだ。旗揚げが失敗する訳が無い。」

頼朝は、子供の頃から大事な場面では肌身離さずの小さな持仏観音像を手の中で握りしめます。(写真②)

②頼朝の持仏(髻)観音(伊豆の国市大河ドラマ館)

◆ ◇ ◆ ◇

脱線しますが、頼朝の信心深いエピソードが挙兵に関してもいくつかあります。

今度の挙兵に臨み、頼朝は事を起こす前に法華経を千回読む計画を立てていました。ところが、大庭景親が攻めてくるということで大幅な挙兵計画の前倒し。800回しか読めそうにないのです。

頼朝は意外とゲン担ぎの性格でもあります。

この物語の原点、智満寺で「この杖が大木に育った時に、自分は源氏再興の大願を果たせることができる」と宣言し、文覚をもって杖が大木になった奇跡を確認させています。

今回の挙兵も、千回読むと決めたことができないのは、マズいのではないかと、わざわざ伊豆山権現の覚淵(かくえん)に相談する始末。

「800回でもご利益はある」

との覚淵の言葉に安心し、この持仏観音を綺麗に洗浄し、挙兵に臨んだのです。

◆ ◇ ◆ ◇

頼朝は、現場で具体的な襲撃指示をする北条時政と相談し、今晩中に佐々木四兄弟が戻らなかった場合も想定しての対応を協議します。

集まった武者達の間に、「なんだ、なんだ。」「佐々木兄弟が来ていないらしい。」「もう計画が漏れたか。」等、動揺が広がります。

そんな状況を察し、この気弱で若い頼朝を少しでも楽にしてあげようと時政が頼朝に言います。

「佐々木兄弟が遅れてくるのは三嶋大社の神々が明日の早朝の旗挙げは止めよと言っているのでしょうな。明日は三嶋大社の御神事、それが始まる前に弓矢を取ること候はずということでしょう。とりあえず早朝の挙兵は延期しましょう。逆に三嶋大社に奉幣使(ほうへいし、神社に代理で詣でる使者)を遣わし、まずは挙兵の成功を祈らせましょう。」

それを聞いて頼朝は、また少し安心しました。この頃の頼朝は兎に角、流人生活が長かったせいか、何をやるのにも自信がないのです。

翌朝には戻るだろう・・・

頼朝は、朝日が昇る暁七つ(午前4時頃)には起き出し、佐々木兄弟が今戻るか、今戻るかと悶々としておりました。

結局、佐々木兄弟が帰ってきたのは、翌17日の午後2時を回った頃でした。計画では、15日の夜中には頼朝との約束通り、戻るつもりで行動していたのです。

彼らは、今回の一大事に、是非先祖伝来の近江源氏の由緒ある鎧を着たいと感じ、相模の早川城に取りに戻ったのは前回お話した通りです。ところが、台風の影響により河川の氾濫等で行く手を遮られ、この遅参が生じたのです。

頼朝の挙兵時は台風による河川の氾濫が多発していたようで、これはこの挙兵後の石橋山合戦の敗戦の一原因にもなっています。

頼朝は佐々木四兄弟を強く叱責し、この失態は挙兵時における四兄弟の大活躍で償ってもらうとまで言い切りました。

内心は「佐々木兄弟は近江源氏の由緒ある鎧を着たいと張り切っている。誰も裏切っていない。やはり今回の旗揚げは幸先いい。」と正観音像を強く握りしめます。

そして、全軍に「山木と雌雄を決し、源氏再興の吉凶を占う!」と宣言し、来襲計画変更で不安になりかけた同志を鼓舞します。

2.三嶋大社への願掛け

③三嶋大社の安達盛長警護の跡
さて翌日、頼朝は北条時政の言を取り入れ、三嶋大社の大祭当日の夜に旗揚げをすることから、三嶋大社に祀られる神々に、安達盛長を奉幣使として、早朝に参拝させ、挙兵成功を祈ります。

◆ ◇ ◆ ◇

また脱線しますが、頼朝自身、三嶋大社に百日詣をして挙兵の成功を祈ったとの伝承もあります。百日間、頼朝の居館(蛭ヶ小島や守山)から北北西約2里(8km)の距離にある三嶋大社まで毎日往復し、挙兵成功を祈ったのです。

地元である伊豆の国市には、この百日詣に関する数々の伝承が残っていますし、三嶋大社にも、「百日間毎暁蛭ヶ小島より三嶋大社に日参するに際し、従者・盛長が此処の所で警護したと伝えられる」箇所があります。(写真③)

この百日詣、もし4月27日に叔父・源行家が頼朝へ以仁王の令旨を届けてから始めたとすると、8月17日挙兵の直前までかかったことになります。先の経文千回の話もそうですが、頼朝って結構完璧主義者というのか、験担ぎというところがあるというのか、信心深いのか。ちょっと気弱な性格が見え隠れもしますしね。

でも本当は、先の先まで見えていた人で、わざとそう見せていたのかもしれません。そのような抜けたところが無いと、挙兵以前に平家側に殺される可能性があるわけです。源氏の嫡流なだけに。そういった頼朝固有の事情による処世術だったと考えても不自然ではないのです。

④三嶋大社にある「旗揚げの碑」
※この碑には以下のことが書いてあります。

⑤旗挙げの碑にかいてあることとは
三嶋大社の御大祭は8月16日であり、その日夜討ちにて
山木(八牧)兼高を討つべしと頼朝が時政に相談すると
時政は「今夜は三島社の御神事にて国中には弓矢とる事
候わず」と答え、挙兵は翌日17日となったとあります。
微妙に挙兵の日時が文献その他によって違うのですね。

3.挙兵

さて、その日の夜半、山木判官屋敷に夜襲を掛けます。(地図⑥)
⑥頼朝挙兵の進軍路(緑と黄色の矢印)

その晩は三島明神の祭礼日であり、地図⑥の山木判官屋敷の前、北側に伸びる道路(「三嶋大社」と書かれた矢印方向)は人が溢れます。

そこで北条時政は「守山から出て、南側から迂回し、蛭が小島の右脇の丘陵地(これは後北条早雲時代の韮山城と幕末の江川太郎左衛門の屋敷跡)の間道を北上して、襲撃した方が、三嶋大社参詣の人たちに邪魔されず良いのでは?」と提言します。(地図⑥の白線の矢印)

頼朝は「自分も最初はそう考えた。しかし、旗揚げの草創にそのような小手先的なやり方はしたくない。また北側からでないと騎馬が使えないので、堂々と真ん中(地図⑥の緑のルート)を行くべきだろう」と指示を出します。

このような頼朝の総大将的な風格を醸し出したことで、数十騎の寡兵ではありますが、旗揚げの雰囲気は、更に盛り上がるのです。

佐々木兄弟は、遅参の負い目を感じたのか、この夜襲では素晴らしい働きをします。
山木兼隆の館に行く直前、北条時政に指示され、佐々木兄弟は、まず山木兼隆の後見人・堤信遠(のぶとお)を倒します。(地図⑥黄色点線)
大河ドラマ等では、隣接する地域を治める北条氏との不仲を強調するような場面もありましたが、吾妻鏡では、北条時政が、山木館襲撃直前に、ふと思いついたように、佐々木定綱に言います。
「堤信遠、こいつはなかなかの勇者なんだ。これを生かしておいては、山木兼隆を討った後、色々と面倒なことになるなあ。定綱、悪いが佐々木兄弟で山木館襲撃前に堤信遠も討っておいてくれ。道先案内人をつけるから。」

なんか行き当たりばったりな感が否めませんが、定綱をはじめとする佐々木兄弟は了解します。兄弟で屋敷の南北から挟み撃ちにする作戦で行きます。
夜と言っても月あかりが煌々と照らす明るい夜だったようです。

この時、攻める佐々木兄弟の2番目・経高が放った矢が、平家打倒の最初の矢となりました。
⑦頼朝の守山方面から堤信遠屋敷方面を見る

堤信遠は、時政が「勇者」と言っただけあって、太刀を振って、経高に向かっていきます。経高も弓を捨て、太刀で応戦します。乱闘中、信遠の家人が放った矢が経高に当たり、経高は信遠に討ち取られそうになります。

そこに、経高とは反対側から館を襲った定綱と高綱が駆け付け、経高に助太刀し、信遠を討ち取ることに成功します。そして屋敷に火を掛けます。(写真⑦)

佐々木兄弟のチームプレーの勝利です。

4.山木館への討ち入り①

さて、佐々木兄弟が堤信遠を討つために乱闘している一方で、北条時政ら数十騎は、月光が煌々と降り注ぐ中、粛々と山木兼隆館への兵馬を進めます。(写真⑧)
⑧山木兼隆館跡から見た北側の平地
(雲に隠れているのは富士山)
この先に三嶋大社があり、この方向から
頼朝軍は攻めてきたのでしょう

予想通り、山木館の大部分の使用人は、三嶋大社の祭りで出た後、夜になっても黄瀬川宿(現在の沼津)で遊んでいて帰りませんでした。

ただ、山木館にわずかに残っている兼隆の家来たちは非常に腕のたつものばかり。
時政らが鬨の声を上げて討ちかかると、彼らは死に物狂いで防戦を始めました。

半刻も経つと、堤信遠を討ち取った佐々木兄弟も遅れて参戦しますが、戦況は一進一退。
山木兼隆を討ち取ったら、館に火を掛けることによって、半里(2km)離れた頼朝がいる守山へ「挙兵成功!」の狼煙を上げる手筈となっています。

頼朝は守山の頂に登って、山木館から火の手が上がるのを今か今かと待っていました。(地図⑨)
⑨守山館から山木館を見るも、兼隆討ち取ったりの
合図の火の手がなかなか上がらない

ところが、なかなか火の手は上がりません。頼朝は焦れてきました。
そこで、守山館の守備を命じていた加藤景廉(かげかど)、佐々木盛綱(もりつな)、堀親家(ほり ちかいえ)らを呼びつけ、

「至急、時政殿の応援に山木館へ向かってほしい。」

と下知します。

「はっ!」
⑩加藤景廉へ薙刀を渡す頼朝

と一斉に飛び出していく3人。頼朝は「待て景廉!」と加藤景廉を呼び止めます。

「これで兼隆の首を討ってくれい!」

自分の薙刀を加藤景廉へ手渡します。(絵⑩)

景廉は、薙刀を拝受する際、頼朝の目を見ると、それは切羽詰まった武将のものではなく、景廉が間違いなく、それをやってくれるという確信に満ちた、大将然とした余裕のある目のように感じます。

「はっ!お任せください。」
「2度目だな・・・」

頼朝はボソリと言います。
そう、3人の中で、景廉へのみ、頼朝が薙刀を渡し、兼隆の首を討ち取るように下知したのには意味があるのです。次回その辺り、加藤景廉の過去をお話します。

ご精読ありがとうございました。
《つづく》