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頼朝杉⑲ ~旗挙げ2:挙兵のリスクヘッジ~

大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市辺り)の豪族・大庭景親(かげちか)が頼朝を討伐する計画であるとの雑説(ぞうぜつ、情報のこと)が、伊豆の頼朝たちにもたらされます。

これは、それまで頼朝らが想定していたことと大きく違うのです。想定では、京でクーデターを起こした源頼政(よりまさ)の残党狩りのため、平家軍が西から来ると考えていました。

このため、頼朝の参謀格である文覚を中心に、頼朝の旗挙げの計画を北条一族や頼朝らと一緒に大幅に修正することになるのです。大庭景親が急に攻めてくることが分かったので、時間的猶予はありません。攻めてくる前に、少人数の兵力しか集まらない状況で先制攻撃が必要なのです。そこで攻撃対象を数十人の兵しか持たない伊豆国目代・山木兼隆(やまきかねたか)にします。挙兵の計画遂行日は8月17日の三嶋大社の祭礼の日と決めました。

というのが前回までのあらすじです。

①三嶋大社本殿

1.頼朝面談

文覚は安心していられません。山木兼隆に勝利するのはそう難くはないにせよ。それで勝利したからといって、その後の大庭景親との衝突は不可避と考えるからです。

「よろしいか、頼朝殿。まずは初戦で勝利を得ることです。頼朝殿の弱みは何か。戦には弱いことです。では強みは何か。人心掌握に長け、先を見通す力があることですぞ!」

「文覚殿。以前から貴方は私が写経と読経ばかりで戦術を知らんと申されるが、私は孫子を初め軍略本は一通り読んでいる。戦にも長けていると自負しておるがいかがか。」

「いいえ、そんな机上の勉強ばかりでは実戦には役に立ちません。私はかつて遠藤盛遠という北面の武士でしたので、戦ができる武人かどうかは嗅覚で分かるのです。頼朝殿はその部分を伸ばすのは諦めた方が良い。むしろ先ほど申した通り、現在の強みである人を活かす力と先読みの力をもっと活用しなされ。」

「・・・」

文覚に戦が出来ないと言われ、少し腹が立つ頼朝。しかし、頼朝は変なプライドに拘る男ではありません。「そんなものか」と文覚のアドバイスに納得すると、今回参加する武者一人一人と直接話をすることを決心します。

頼朝のところに呼ばれた武者の名前は「吾妻鏡」には以下の通りとあります。

工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉 以下・・・

この中で伊豆近隣の以外の武将は、岡崎四郎義実、佐々木盛綱の2名だけです。
それ以外は近場の武将ばかり。(地図②参照)

②頼朝挙兵前に一人一人呼ばれる伊豆の有力豪族

如何にこの挙兵計画が時間をかけて練られたものでなく、慌てて即席のように仕立てられたかが良く分かります。

「まだ誰にも話していない事ですが、あなただけが頼りなのでこうやって話をするのです。」

頼朝は、一人ひとりを自分の部屋へ招き入れて、上記同じ言葉を繰り返し言い続けたことは有名です。ちなみに吾妻鏡が後の執権北条一族の編纂によるものだなあと感じるのは、そう言っておきながら一番大事なことは北条時政としか相談しなかったと書かれていることです(笑)。

③佐々木盛綱
確かに頼朝は、人心掌握のつもりでこの直接対話をやったのかもしれませんが、この時の頼朝は本当に余裕が無く、すがる思いでこれら近場の武士たちをあてにしたのかもしれません。

2.佐々木兄弟の動き

さて、この時、先の佐々木兄弟の一人、佐々木盛綱も頼朝の私室に呼び出され

「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」
 ー雖未口外、偏依恃汝ー(吾妻鏡)

と先に口語にしたような言い方で人心掌握を計ろうとする頼朝は話出します。(写真③)

勿論、佐々木兄弟は、今回の大庭景親が攻めてくるとの情報ももたらしてくれる等、伊豆に流されてきて以来、頼朝にとっては第一の信用を置いている兄弟たちなのです。

「挙兵前に1つだけお願いがございます。」

頼朝の挙兵遂行に当たっての細かな計画を聞いた後に、盛綱は言います。

「何でしょう?」

「平治の乱の直後、父・佐々木秀義が渋谷荘(現在の神奈川県綾瀬市)に留め置かれることとなった時、近江源氏先祖伝来の鎧兜を渋谷荘に置いてまいりました。この度の挙兵、我々佐々木四兄弟が参戦させて頂くということは、近江源氏再興の挙兵でもあります。なので是非この先祖伝来の鎧兜を着て参戦したいのです。できればこれから渋谷荘に急ぎ戻り、その鎧兜に着替え、こちらに戻ってきたいと存じます。」

「近江源氏・佐々木殿のその心意気、河内源氏・源頼朝!承りましたぞ!是非その立派な大鎧の四兄弟の勇姿を見せてくだされ!」

ということで、佐々木四兄弟は、この日のうちに渋谷荘に戻り始めます。挙兵の前日16日夜までは戻る約束をしてなのですが、実はこれも後で頼朝を少しイライラさせることになります。

3.最後の周旋に走る文覚

文覚は頼朝にアドバイスした後、直ぐに大庭景親との戦に敗れた場合のリスクヘッジのために、最後の周旋に伊豆から東に向かいます。

まず、三浦義明と衣笠城で会い、17日の挙兵後、頼朝軍は東下し相模湾沿いに移動してこの衣笠城に入る手筈を確認します。(写真④、地図⑤)

④三浦一族の本拠・衣笠城

文覚は三浦義明に

伊豆で源氏の旗挙げが成功し、頼朝殿が東に移動し、三浦殿の衣笠城にて坂東武者の参集を待つのは、反平家勢力増大には非常に効果がある。ただ1つの懸念点は、大庭景親の所領・大庭御厨を通過しないと衣笠城へは入れない。つまり、頼朝殿の移動時に大庭軍との1戦あるのは間違い無い。その前に三浦殿の軍が頼朝軍と合流していただかないととても勝ち目は無い。

と焚きつけるのです。(地図⑤)

⑤当初予定した挙兵後の頼朝軍ルート

「相分かった。わしらが頼朝殿を支えよう。だがな。三浦が一族こぞって西へ頼朝殿を助けに行ったとしても、現在出せる兵力は500が精一杯じゃ。しかし、大庭景親殿が近隣諸国にも声を掛けているとなると、敵の数は数千にはなるじゃろうな。実は昨日、孫の畠山重忠が文をよこしてきてな。秩父平氏である自分や、河越重頼、江戸重長らと大庭殿の基へ馳せ参じる故、お爺殿もと言ってきおった。」

義明は文覚にこう打ち明けると、文覚は遠くを見ながら、こう言います。(絵⑥)

⑥三浦義明

「義明殿、正直三浦軍が頼朝殿と合流できたとしても大庭景親の連合軍に勝てるかどうかは半々だと思っています。逆にいえば、合流できなければ間違いなく頼朝挙兵軍は散り散りになる程に負けることは確実でしょうな。いずれにせよ、負けた時の危機対策は必要なのです。今日、ここに来たのは、単に軍を西へ動かしてくださいということだけではなくて、いざという場合、安房の、三浦殿が制御できる場所に頼朝殿の安全を確保頂きたいのです。それを含めてのご支援を賜りたい。」

「頼朝殿を安房へ逃すと・・・」

「はい、いざとなったら。そのため、この衣笠城までの行程は海沿いを進軍させます。」

「では、一気に伊豆から舟で衣笠城へ入れば良いのでは?」

「集めた兵全てを舟で衣笠城まで連れて行くことは難しいですし、分散して衣笠城近くの葉山辺りに上陸すれば、待ってましたとばかりに大庭の大軍に個別撃破される可能性もあります。なので、やはり基本は陸路です。

ちなみに大庭軍が仮に3000でこの衣笠城を攻めてきた場合、義明殿、籠城兵力は如何ほどで守り切る自信がございますかな。」

「そうですな。まあ、攻め手の約半分であれば守り抜くことはできると思いますので1500というところですかな。」

「現在の三浦殿の兵力は?」

「ざっと1000」

「ということは、頼朝軍の増加数が500は最低必要ということになる。うーむ。」

「500程度も集まらぬと申しますか?」

「はい。何分性急に兵を集めておりますので。もしかすると衣笠城が落とされる危険もありますな。いずれにせよ。頼朝殿の安全を確保するには直ぐに大庭軍が追いかけてこられないような場所にする必要があるのです。そこで三浦殿は本拠であるこの三浦半島の対岸、房総は安房の一部にそのような土地をお持ちであるとの噂を聞き申した。その場所は大庭景親含め、知る人は少ないでしょう。であれば、そこに頼朝殿を逃した後、上総国、下総国、武蔵国等の味方する坂東武者を集め、大庭軍をはじめとする平家側勢力と対抗できる兵数を集めたいと存じます。」

「流石は頼朝殿の知恵袋と言われるだけある文覚殿、分かり申した。此度の頼朝殿の挙兵、この三浦義明、命を捧げご支援致そう。」

「ありがたい。もう1つお願いがござる。拙僧はこれから大至急、安房へ渡り、千葉常胤殿をはじめとする坂東武者らに頼朝殿へ加勢するよう今一度お願いして廻りたいと考えております。そこで拙僧を、貴方の舟で安房の飛地まで送り届けて頂きたいのです。万が一の頼朝殿が避難する場所も見ておきたいですし。」

「分かり申した。安房の猟島という場所です。直ぐに案内させましょう。」

4.浦賀から房総半島へ

さて、文覚、三浦義明と衣笠城を後にすると、衣笠城より1里半(6km)先にある浦賀の湊に案内をしてもらいます。(写真⑦)

⑦浦賀の湊
※内陸まで細長い入江が続く
浦賀の湊は、入江が内陸の奥深くまで入り込んでおり、普段波は静かで天然の良港となっていることから、三浦一族はここに水軍を置き、江戸湾(東京湾)一帯や、伊豆は熱海の方までシーレーンを敷いていました。

この浦賀湊の西側に到着した文覚ですが、ちょうど、この時期は台風の到来時期で、これから横切ろうとする江戸湾が荒れているので、三浦水軍の長も舟を出すことを躊躇します。一昼夜その場所に起居した文覚(写真⑧)。大庭景親の動きを考えると、この場で愚図愚図としている時間はありません。

⑧文覚が起居した浦賀西側
自分の起居したすぐ近くに、石で簡易な祠を作ると、次のように念じます。

「これより波頭高き海を越え、我、鹿野山(房総の、以前に文覚が修行した場所)へ再び渡り、平家打倒の大願成就を叶えに参篭つかまつるものなり。もし事なりし時は社宇をここに建立するものなり。」

そして水軍の長ににっこり笑うと

「これにて安心して江戸湾を渡れます。」

「えっ、この悪天候をですか?」
と半信半疑の長ですが、文覚は譲りません。

「この文覚の大願成就の前には、以前もそうであったが水神は靡きます。」

と無理やりにも舟を出させます。

◆ ◇ ◆ ◇

ご加護があったのか、文覚の勢いに押されて舟のこぎ手が頑張ったのかは分かりませんが、文覚は無事、安房の猟島に辿り着きます。(写真⑨)

⑨安房・猟島の浜辺

まさに、文覚がリスクヘッジとして考えたとおり、この猟島に頼朝は、後日たった7騎で海上逃避してくることになるのです。

文覚は、この後、鹿野山の神野寺で頼朝挙兵必勝祈願をします。(写真⑩)

⑩鹿野山 神野寺
そこで弟子の千葉胤頼と会い、一緒に胤頼の父・千葉一族当主である常胤(つねたね)に、万が一頼朝が安房に上陸した際に、即駆け付け支援するように頼みこむのです。

詳細はまた後日書きますが、結果的には、文覚が想定した上記のリスクヘッジの通りとなります。文覚が千葉常胤の周旋もしっかりしていたおかげで、頼朝は命運尽きることなく、いやむしろ、数万の軍勢を引き連れて、鎌倉入りを果たす大成功につながるのです。

5.叶神社

現在、文覚が簡単な石で祠を作り、大願成就を祈念した場所には「叶(かなえ)神社」という立派な神社が建っております。(写真⑪)

⑪浦賀の西に建つ叶神社

この神社こそ、文覚が安房に渡る前に、平家打倒の大願成就がなされたあかつきには、社宇をここに建てると約束した神社なのです。「文治二年(1186年)に源氏再興の大願が叶ったことから、叶大明神と称するようになりました。」と縁起を書いた看板にありました。

如何でしょうか?頼朝の挙兵が、数十騎で堤信遠や山木兼隆館を襲うところから始まったという史実はよく語られますが、その裏では坂東武者に対する周旋が用意周到に行われていたようです。全て、文覚がやったとまでは言いませんが、研究家の中には、挙兵計画に文覚がかなり深く係わっていたとみる人もいます。

さて、次回から、挙兵本番に話は移ります。お楽しみに。
ご精読ありがとうございました。
《つづく》