なんとか宇治の平等院まで逃げることはできましたが、ここで平家軍に追いつかれ、3人とも自刃して果てるのです。この後、当然の習わしとして、この摂津源氏である頼政・仲綱の残党狩りが始まります。
頼政は伊豆の知行国主であり、仲綱は伊豆守。二人とも伊豆国とは縁が深いことは、今までも度々お話してきました。
では、伊豆に誰か他にも縁者がいたのではないか?と考えるのが普通です。
そう、居ました。この宇治の橋合戦の頃、仲綱の子である有綱(ありつな)が目代として伊豆に在国していたのです。(写真①、図⑥も参照)
有綱を頼政の残党とみなし、残党狩りを清盛が、方々に命じているとの噂が京の都に流布します。
この話、以仁王の挙兵時に大番役で在京していた文覚の弟子・胤頼(たねより、千葉常胤の六男)と三浦義澄(よしずみ)が、挙兵失敗を見届けた後、自国に引き上げる途中で、頼朝の居る伊豆の守山北の屋敷に立ち寄り、頼朝や文覚、安達盛長らに伝えるのです。(写真②)
2.三浦義澄と千葉胤頼の伊豆立ち寄り
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②頼朝挙兵時の屋敷跡(現:守山八幡宮) |
「これから源氏掃討戦が起きる可能性がございますれば、頼朝殿は奥州の藤原秀衡(ひでひら)殿を頼って身を隠された方が剣呑を避けることができるかと。」
と胤頼。
「なに?私が藤原秀衡殿を頼れと。なるほど。それも良いかもしれない。奥州は今、中尊寺、毛越寺、無量光院等、極楽浄土を体現した大寺院が建立されていると聞く。そこで経文を唱えて過ごすのも一興だろう。」
と、この緊張した場を解そうと、すっとぼけた会話をする頼朝。
義澄と胤頼はお互い顔を見合わせ、戸惑います。
ここまでの話を聞いて文覚は思います。
ー三浦義澄殿の父・義明(よしあき)殿も、胤頼殿の父・常胤(つねたね)殿にも、挙兵の話をし、支援の約定は取り付けてある。このお二方は、一度頼朝殿が奥州へ下向し、秀衡殿を頼って奥州17万騎と言われる軍勢を操って、平家打倒の挙兵を行えば良いとでも考えているのだろうか。確かにそれも一理ある。しかし、大軍対大軍の戦いになれば、奥州藤原氏と強固な結びつきを築けていない頼朝殿より、平家一門で固めた平家軍の方に分があるのではないか。ー
「良く分かった。京の状況を教えてくれて助かった。帰国道中気を付けて戻ってほしい。各々の父君にも宜しく伝えて欲しい。またこちらも色々と準備ができれば連絡する。」
と頼朝は義澄・胤頼にねぎらいの言葉を掛け送り出しました。
3.佐々木秀義と大庭景親
「文覚殿、10月に挙兵等と言っておりましたな。そんな悠長なことを言っておると、こちらが潰されてしまいますぞ!」
文覚は素直にこれを認めます。
「確かに!安達盛長殿と拙僧で伊豆の豪族は言うに及ばず、坂東の豪族も周旋し、10月の挙兵には数万が集まる目算をつけておりましたが、有綱殿を討伐に平家軍が来るとなると、これは急がなければなりません。今は、この坂東における大軍準備による挙兵を想定して策を練っておりましたが、変更しなければなりませんな。とりあえずは各武将の周旋を仕上げると同時に、西から攻めてくる平家軍の状況を三善殿と連携して注視していきましょう。」
ということで、文覚は京にいる三善康信に文を書き、平家軍がこの伊豆に向けて軍を発する等の動きが少しでも見たら至急連絡するように依頼するのです。
そして坂東各武将の周旋の仕上げにまた奔走するのでした。
◆ ◇ ◆ ◇
ところが意外なところから、更に挙兵を急がねばならない状況を伝える情報が入ってきました。
佐々木四兄弟の一人、佐々木定綱(さだつな)です。
それは8月の10日を過ぎた頃の事でした。京から平家が討伐軍を編成した等の情報が、いっこうに無いことを、文覚が不安に感じ始めていたころでした。
「大庭景親(おおばかげちか)殿が攻めてきます!」
セミの声がやかましい伊豆守山の頼朝の屋敷に、佐々木定綱は飛び込むやいなや、庭先から頼朝に向かってこう叫びました。
「待て、定綱!」
頼朝は定綱とは古くから面識があります。というのは定綱の父親、佐々木秀義(ひでよし)は近江源氏、頼朝は河内源氏。先の平治の乱で近江源氏の佐々木一族も凋落し、佐々木秀義は息子四兄弟を伴って、京から奥州藤原氏を頼って東下している最中に、渋谷重国(しげくに)という渋谷駅の辺りの豪族に声を掛けられます。(この辺り、「頼朝杉⑭ ~挙兵準備~」にも書いています。)
「何も奥州まで行かずとも、ここで私が匿って差し上げましょう。」
と重国は引き留めるのです。秀義もこの重国の好意を受け入れ、重国の娘をめとることに同意します。
その時に秀義や四兄弟が留まったのは、現在の東京の渋谷ではなく、神奈川県のちょうど真ん中あたりにある綾瀬市の早川城というところになります。(写真③)
当時、このあたりを渋谷荘(しぶやのしょう)と呼んでいました。
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③渋谷荘・早川城(綾瀬市) |
早川城は、大庭景親が領有する土地、大庭御厨(おおばみくり、現在の神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の隣です。
◆ ◇ ◆ ◇
ちょっと脱線しますが、大庭御厨の御厨とは伊勢神宮の荘園の事を指す言葉のようです。大庭景親の領有するこの大庭御厨は典型的な寄進型荘園であり、大庭景親は伊勢神宮の荘園の在庁官人だったということですね。
大庭景親の屋敷については写真④の大庭城だったという説(写真④)。
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④大庭景親の屋敷だった?大庭城址 |
大庭城は北条早雲とも関係が深く、戦国初期に作られた城なので平安時代末期の大庭景親の屋敷は別のところであるという説があります。それが大庭城南西の宗賢院(そうけんいん)の辺りという説(写真⑤)。
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⑤大庭景親の屋敷があった説・宗賢院 |
この2つの説が有力なのです。確かに平安時代末期は、戦国時代のような城という概念とは違い、鎌倉のお寺等に見られる四囲を山に囲まれ、正面、寺門のような箇所だけが開かれているスタイルが武家の屋敷に多かったことを考えると、宗賢院は谷戸の奥に鎮座するスタイルであることから、こちらかもしれないなと思いながら、私は2か所を見て廻りました。
◆ ◇ ◆ ◇
話を元に戻します。大庭景親は京に大番役に行っていたのですが、その任を解かれ、8月頭には大庭御厨に戻ってきました。重大な情報を掴んで。
ー頼朝が挙兵しようとしているらしい。ー
多分、後白河法皇の密旨の宣布等、文覚の京や福原における動きを平清盛側が察知したのかもしれません。
そして、大庭景親はこの情報を隣国にいる佐々木秀義を招いて相談するのです。
-自分(大庭景親)は、この挙兵を阻止せんがため、頼朝を討伐するつもりだ。ー
という言葉を付け足して。
大庭景親は秀義の息子たちが、伊豆の頼朝のところに出入りしていることを知っていて、上記のことを漏らすのです。景親としては、親しい秀義の息子たちをこの討伐戦から外しなさいというニュアンスで秀義に伝えた、いわば「思いやり」のある行動のつもりだったのかもしれませんね。
まあ、この当時の状況ではどんなに頼朝が足掻こうとも、大庭景親を初め平家一門の力からすれば、頼朝は滅ぼされると見るのが普通でしょう。だから佐々木兄弟が頼朝のところの出入りを止めれば、生き残れるかもしれませんが共に挙兵になぞ出れば討ち取られるだけ、ならば生き残れる情けを佐々木家にかけてやろうという景親らしい優しさだったのではないでしょうか。
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⑥早川城にいる佐々木秀義と 佐々木四兄弟(大河ドラマ) |
これを聞いた佐々木秀義は焦ります。
早川城へ戻ってくると、丁度その時、四兄弟の長男・定綱(さだつな)が来ていました。秀義は定綱に頼朝挙兵の事実を確認します。すると定綱は
「父上、何故それをご存じで?どこからその情報を仕入れられたのですか?」
と言うではありませんか。
「やはり、事実か。。。定綱、よく聞け。大至急頼朝殿のところへ走り、これから言う事実を伝えなさい。今日ここから2里(8㎞)離れた大庭御厨へ行ってきた。そこで大庭景親殿とお会いしたのだ。大庭殿は言っておった『頼朝殿が挙兵するという噂が京で広まっている。自分が討伐する』とな。」
それを聞くや否や、定綱は早川城を飛び出します。頼朝のいる守山まで約70㎞強、約2日の距離ですが、いつ大庭景親が攻めに行くか分かりません。
2日間走り続け、守山の頼朝のところに辿り着くことができました。
4.挙兵計画の変更
「大庭景親殿が攻めてきます!」
「待て、定綱!」
先程の場面に戻ります。
三島宿からは当時の駅制度で設置してある馬を守山まで走らせた定綱。守山の頼朝屋敷に馬ごと飛び込むと、上がった息も隠さず、頼朝の居る間に駆け上ります。
「なに!大庭の景親が!いつ攻めてくるのじゃ!」
「分かりませぬ。分かりませぬが、早川城からここに来る途中、大庭御厨を経由したのですが、かなりの馬が集められ、箱根に向かう街道沿いでも弓や矢を大量に運ぶ人夫たちや兵ともすれ違いますれば、あと数日で挙兵する可能性が高いと推測されます。」
「なんと早急な。文覚殿、文覚殿!」
頼朝は最近、屋敷に常駐している文覚を呼び寄せます。
「三善殿からの連絡が無いと思っておったら、なんと大庭が攻め寄せるそうだ。」
「なんと大庭殿でござったか。」
なるほどとばかりになんの動揺も無く、頼朝と定綱の前に座る文覚。頼朝は
「文覚殿、なんでそんなに落ち着いていられるのか?貴方は平家軍が西から攻めてくるから迎え撃つ形での挙兵を考えておったではないか。大丈夫なのか?」
「はい、想定内の事態です。」
「想定内?」
文覚は言います。
「頼朝殿、お義父殿をはじめ、北条のものも今晩にでもお集めいただけまいか?」
◇ ◆ ◇ ◆
さて、その日の晩、守山の北条の屋敷から、時政、宗時、義時の3人、安達盛長が集まってきました。これに頼朝、佐々木定綱、文覚の合計7人が顔を突き合わせて、狩野川流域のことに蒸し暑いこの屋敷で談義をはじめるのです。
定綱が大庭景親の頼朝討伐の立ち上げ状況を伝えると、やはり北条側にも動揺が走ります。
しかし、文覚が冷静に話を始めます。
「そこで、新しい計画案をお話したいと思います。まず北条殿の手下だけでどれくらいの兵を集めることができますかな?時政殿。」
「うちは伊豆でも伊東祐親殿のような大きな在庁官人ではないので、あって30人程度が関の山でしょう。」
文覚はちょっと苦笑し、「佐々木四兄弟はご参戦いただけますな?」
と定綱に念押しします。
「喜んで」
と定綱。文覚は続けます。
「我々が周旋した工藤、天野、仁田等、伊豆の近隣豪族にも声がけしましょう。それでも40騎程度が限度ですな。ははは!」
というと、頼朝も苦い笑みを浮かべ言います。
「40騎程度でどうやって大庭景親殿に勝利するのだ。御厨は伊勢神宮の荘園ぞ!大庭だけで数百騎は集まる。とても40騎では勝ち目はあるまい。」
「確かに、大庭景親と相模国でぶつかるのを最初の旗揚げとするのは危険極まりない。下手をすると負けます。いや今のままでは下手をしなくても負けます。緒戦で勝てない旗揚げは、古来より、全て失敗に終わっています。」
少し怒り気味の頼朝は投げやりに怒鳴ります。
「胤頼が申していた通り、やはり奥州に下って、平泉の大寺院群の中で読経三昧の日々の方がよさそうだな!」
文覚はそれには何も答えず、続けます。
「たったの40騎ですが、旗挙げには十分です。この40騎で最初に平家側のしかるべき人物を打倒し、『頼朝ここにあり!本日今源氏再興の挙兵を行ったので、坂東武者は駆け付けるが良い』との喧伝をするのです。と同時に三浦殿の衣笠城へ拙僧がこれから至急使者として向かいます。皆さまは、挙兵成功後に東に向かってください。挙兵の噂を聞きつけ、伊豆では先ほどの近隣豪族以外に、田代、大見、宇佐見等も集まり、武者達数千騎は集まるでしょう。三浦殿にも千騎以上は出してもらい、西に向かいます。(藤沢、茅ケ崎あたりの)大庭軍を東と西から挟撃するのです。」
「・・・」
皆、ここ数日で大庭軍が攻めてくるという情報を聞いた途端に、「敵は大庭軍!」が当たり前と考えていただけに、文覚のこの大庭軍との戦の前に、1戦するとは想像もできなかったのです。
文覚のこの突飛な作戦に、皆しばらく声も出ません。
「で、誰を最初に血祭りにあげるのじゃ?文覚殿」
しばらく間を置いて、質問をしたのは北条時政です。文覚は答えます。
「何事も最初の一勝が大事です。40騎程度しか集まらない現状で、一勝を上げるのに、有綱殿の代わりとなる新しい目代を狙うのは如何でしょうか?」
「新しい目代?山木か!最近着任したばかりで奴の屋敷に武人は数十程度しかいないはずじゃ。なるほど!」(表⑦)
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⑦政変前後の伊豆知行国責任者の変遷 |
と頼朝が言うと、すかさず時政が割入ってきます。
「なるほど、寡少な兵力しか集まらないうちに、平家側の軍が攻めてきては勝ち目が無い。だから寡兵を持ってして一勝を上げる。それが、かつての大知行国主・源頼政の孫・有綱に取って代わった山木目代であれば、以仁王や頼政殿の意志を継ぎ挙兵するという意思表示にピッタリだ。
また、確かに最近着任してきたばかりの山木なぞ、使用人で数十人程度の屋敷だ。ここから半里しか離れておらんしな。」
時政は、ただでさえ、自分の領有するこの韮山の一角に屋敷を構えはじめた山木兼隆に、苛々するものを感じていたようです。山木兼隆は、元は罪人で伊豆に流されてきたのですが、平時忠と懇意であったこともあり、いきなり流人から目代に抜擢されたという訳です。
もっとも、時政を一番苛立たせたのは、山木兼隆の流人中、後見人として、函南方面を領有する堤 信遠(つつみのぶとお)が申し出たことです。この堤氏と北条氏は隣国同士なので犬猿の仲だったのです。一方、北条時政が後見人になった流人・源頼朝は、今回、更に討伐の対象になっています。
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⑧堤信遠に激しく侮辱される北条時政 (大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から) |
確かにこれでは、時政は思いっきり大貧乏くじを引いたと思ってもおかしくは無いですね。
ちなみに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、更にドラステックにするために、堤信遠が北条時政の顔に茄子を潰して擦り付け、侮蔑の言葉を掛けていましたね。
という悔しさも相まって、北条側は新しい目代・山木兼隆をぶっ潰すことで平家打倒の挙兵戦に勝利をするのには大賛成です。勿論、堤信遠も同時にぶっ潰すのです。山木屋敷の少し北側に堤屋敷があったようです。
文覚が言います。
「では、各々方、挙兵は山木判官兼隆殿を討つということで一致ですな。では早々に挙兵準備を。実は8月17日が三嶋大社の祭礼の日です。伊豆の人民の1/3が集まるというこの大祭、山木兼隆の屋敷、堤信遠の使用人たちも出払うでしょう。この日を挙兵の日にしたいので、各々方早々に挙兵準備を!」
それまで黙っていた北条義時(よしとき)が1つ質問をします。
「三嶋大社の祭礼の日、山木兼隆自身が祭りに出てしまっていたらどうされます?屋敷を襲うのは取りやめますか?」
これには時政が答えます。
「四郎、くだらないことを聞くな。もし祭りに出ていても、屋敷が挙兵した頼朝に襲われていると知れば、戻り戦うのが目代だろう。腰抜けで屋敷が全滅しても平家方に逃げていくなら末代まで笑われるのが落ち。その日祭礼に行って命拾いをしようがしまいが、屋敷を焼かれ目代として機能しなくなればそれまでの話だ。我々は山木兼隆などという豪傑でもなんでもないちっぽけな武士を潰すのではない。目代という組織を潰せばいいのじゃ。」
「なるほど!では8月17日決行ということで!」
義時もそこに居並ぶ6人も何故か時政のこの一声で、既に目代を潰したような気分になっていました。
◇ ◆ ◇ ◆
長くなりましたので挙兵戦は次回。お楽しみに。
ご精読ありがとうございました。
《つづく》