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日曜日

頼朝杉④ ~源 頼政 エピソード2~

神護寺への勧請強要を後白河法皇に迫り、伊豆流刑に処された文覚(もんがく)。

その流刑地選定に関して、先の大きな時代の流れを読み、陰で画策した人物が居ます。それが前回、鵺退治のエピソードを描きました源 頼政(よりまさ)です。(前回のエピソードはこちら

今回もまた、この頼政に関するエピソードを2つ描かせてください。

1.歌による立身出世

「のぼるべき たよりなき身は 木の下に椎(シイ)をひろひて 世をわたるかな」

これが頼政が出世のための一世一代の歌となりました。

①平清盛像(六波羅蜜寺蔵)
元々、平安貴族社会において、武士の身分が低いのは皆さんもご存知の通りです。この当時は平清盛が太政大臣で従一位となった超ウルトラC以外、源氏は河内源氏が没落(義朝や頼朝)し、摂津源氏である頼政が従四位と振るわなかったのです。

この当時の源氏(というか平家以外の武士たち)には、四位と三位の間に突破できそうにないガラスの天井があったようです。

そこで詠んだのが、上の歌です。そう「椎(シイ)」と「四位(シイ)」を掛けたのです。

つまり、歌の裏の意味は以下の通りです。

「(平家一門が清盛殿などの身内に頼りに出世するのに対し)源氏である我が身は頼るべき人が居ません。朝廷のハイアラーキという木の下で、拾わせていただいた椎(四位)で食いつないで生きていきます。」

この歌を知った平清盛は「あれ?頼政は四位だったのか。あれも良い歳やし、ずいぶんと尽くしてくれた。では三位にしてやるか。」と思ったようです。

従三位に昇格した頼政は、当時の源氏としては破格の出世だったのです。周囲の貴族たちも、「おお、とうとう武士も平家だけでなく源氏まで三位になれる時代となった。」と変化を感じながらも、決して頼政に対して妬みを持つことは少なかったようです。それはやはり頼政は歌が上手く、三位以上の貴族たちに政敵を持たなかった温厚な性格だったからこそ、ガラスの天井を打ち破り、昇進することが出来たのだと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

ただ、後に源 頼朝は正二位まで昇進していますが、一、二位よりも「大将軍」という役職にのみ拘ったようです。多分に頼朝は朝廷の政治体制に組み込まれることを嫌がり、朝廷の中央政権から離れた場所・鎌倉に独立政権である幕府を開くことに集中したのです。「大将軍」を欲したのも栄誉が欲しいというよりは、鎌倉に幕府を開く大義名分的な役職が欲しかったのでしょう。当時、世にイノベーティブな変化をもたらすのには、それしか方法はないと頼朝は考えたのです。

一方、頼政はどうだったのでしょう?
彼は大きな組織の中で順当に出世することにより、その組織内でゲットした権力を行使し、自分の考えを完遂したいと考えるタイプだったのかもしれません。

現代でも「偉くなるまではなるべく我慢し、偉くなって発言権が大きくなったら、自分のやりたいことを言うのが、デカいことを成すやり方」と信じていらっしゃる方が多いように感じます。比較的大きな会社や官僚の方に多い考え方なのではないでしょうか。

②平家打倒に敗れ辞世の句を詠む頼政
頼政は、この後、以仁王の挙兵に合わせ、平家に対して旗揚げをするのです。ある意味、政体の中で破格ともいうべき三位になるまでは、嫌いな平家も我慢し昇進に集中。そして三位ゲット後に自分のやりたいこと、つまり平家打倒の実現に乗り出すのです。

頼政の挙兵が頼朝より3か月早いだけであることを考えると、頼朝のように成功するのか、頼政のように失敗するのかは紙一重だったのかもしれません。ただ、頼朝は時代のイノベーターです。現代社会においても官僚や大企業からイノベーターが輩出された例は少なく感じます。なのでこれは私の考えでしかありませんが、頼政はもし挙兵自体が成功したとしても、頼朝のようなイノベーターには成れなかったかもしれません。

ちなみに旗揚げ失敗し、切腹する直前の辞世の句は以下の通りです。(絵②)

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」

鵺を退治し、歌も上手く、昇進の末、三位までいったのですから、十分花咲いた感がある頼政が死ぬ間際になって、このような歌を詠む理由があるとすれば、やはり前述のように昇進は彼にとっては手段であって、かれの人生の目的(夢)は平家転覆だったのかもしれませんね。

皆さまはどう思われますか?

ただ、頼政のように偉くなりたければ、さりげなく、しかし上記の歌のように権者に対してオブラードに包みながらも出世したい意志を伝えるスマートさが必要なことはこの時代から現代に至るまで変わらないようです。

2.菖蒲(あやめ)御前

③菖蒲(あやめ)御前
3つ目のエピソードは菖蒲御前の話です。(絵③)

前回描きました頼政が鵺退治をした後の話です。頼政はひそかに心を寄せている女性が居ました。菖蒲御前という美しい女性なのですが、なんと近衛天皇のお父さん・鳥羽院(院政を布いていた)に仕えていた女官だったのです。

奥仕えの女官ですから、何かの折にチラリと見えただけで頼政は一目惚れ。以後は文(ふみ)等の取り交わしを続け、3年経っていました。

鵺退治で、息子・近衛天皇を助けてくれた頼政に、鳥羽院も何か与えたいと思っていたところに、この噂が飛び込んできたのです。

ーよしよし、頼政が一番欲しいものを与えよう。菖蒲御前じゃ。ー

と鳥羽院は考えました。

ただ、そのまま菖蒲御前を頼政に渡すのは面白くありません。鳥羽院は考え、菖蒲御前と同い年くらいの美しい女官12人を菖蒲御前と同じ着物を着せ、御簾の前に並んで座らせました。

そこに頼政を呼び、こう言います。(対面時に御簾にお隠れになる朝廷の慣習として、実際には鳥羽院自らは言葉を発しません。代行する女官に言わせたのです。)

「頼政、息子・近衛をよくぞ助けてくれた。朕からも礼を言うぞ。そして今夜、朕からは『浅香の菖蒲』をくだそう。菖蒲の根は長い。朕は老齢ゆえ菖蒲を引いて掘り起こすのには疲れてしまう。よって頼政自身が、この中から菖蒲を引いて掘り出してほしい。」

ご存知のように「いずれが、菖蒲(あやめ)か、カキツバタか」というように、菖蒲やカキツバタは似たような花が、同じ時期に同じ場所で咲くのです。写真④は私の家の近所にある菖蒲園の花たちですが、まあこの2つは本当に似ていますね。良く分からないです(笑)。(写真④)

④菖蒲園(枡形城跡)
※どれが菖蒲(あやめ)で
どれがカキツバタか?

ちなみに『浅香の菖蒲』とは、現在の福島県郡山近辺、安積(あさか)疎水で有名な土地にあったと言われる浅香沼に咲く菖蒲で、古くから万葉集等の歌にも使われ、菖蒲の枕詞(まくらことば)になっているものです。つまり最高級の菖蒲を鳥羽院がくださるという意味ですね。

菖蒲御前の美しさを、このような花たちの群生になぞらえ、菖蒲に似た姿をさせた12人の女官たちの中から、カキツバタではなくて、菖蒲を選んで引けという鳥羽院の企画は、流石、平安時代の風流さを感じさせます。

しかし、仕える姿をチラリと見ただけの菖蒲御前を、その後何年も会っていないのに、頼政に選べというのは、ある意味、非常に「いじわる」な企画でもあります。

頼政が間違えて他の女性を選んでしまった場合、菖蒲御前は相当シラケるでしょう。長い年月に渡る文の交わしで築いてきた恋愛感情も、この企画の成り行きによっては、即、恋愛終了!という事態にもなりかねません。

皆さんが頼政ならどうされますか?

◆ ◇ ◆ ◇

頼政は、12人の女官を見廻しました。どの女性も美しいですが、今までの文のやり取りの中から、その容貌に現れるものを探そうとします。

ー多分、この方かもしれない。ー

と思う女性は3人に絞れましたが、菖蒲御前は1人です。

しばらく3人の女官たちを見廻しながら、苦渋する頼政。

そこに鳥羽院の代弁をする女官から

「どうして誰の手も引かないのですか?」

と催促の言葉。

そこで、頼政はまた歌で正直な心情を返します。

「五月雨に 沢辺の真薦(まこも)も水こゑて 何れあやめと 引ぞわづらふ」

ー五月雨が降ったことで、浅香の沼の水辺を示す真薦(菖蒲に似た葉を持つ植物)も、水嵩が増して没してしまいました。となると、花が菖蒲(あやめ)かカキツバタなのかもわからなくなってしまいました。なので菖蒲を引けと言われても困っているのです。ー

菖蒲たちが咲く時期は梅雨の季節です。この五月雨とは梅雨のことなのです。花咲く季節が梅雨で増水→菖蒲の花が分からなくなる というウイットな言い訳です。

また、もう一つウイットに富むのは、菖蒲が沢辺に咲く花であることを頼政は知っているということです。カキツバタは湿地帯の水の中に根を張りますが、菖蒲は沢辺の乾地に根を張ります。なので普段は根の張り方で、菖蒲とカキツバタを見分けられますが、五月雨で水嵩が増えた今、どちらも水中に没し分からなくなってしまったという、植生図鑑的な知識も織り交ぜたウイットさがこの歌には秘められているのです。(図⑤)

⑤あやめ(菖蒲)とカキツバタ
等の生育場所の違い
EvergreenのHPから

更にこの歌を深く解釈すると、五月雨は梅雨ですが、どしゃ降りを意味する表現なのです。なので、「鬱陶しい 」という意味合いがあります。特に真剣に恋愛をしている頼政にとって、菖蒲御前を含めた女性たちを、まるでモノのように扱う鳥羽院に対しても少々不快に感じたのかもしれません。

つまり、鳥羽院のこの「いたずら」企画を「どしゃ降りの雨みたいな企画やな。あぁ、鬱陶しい 。」という隠れた批判も裏に込めているのです。

この批判的要素に気が付いた関白太政大臣・藤原基実(もとざね)。

ーヤバい!鳥羽院が頼政の批判に気が付いたら険悪な雰囲気になる!ー

と思ったのでしょう。パッと行動に出ます。

「おおっ、流石は頼政殿、上手い!上手い!」

とまず、頼政をはやしたてます。鳥羽院は代弁の女官に菖蒲とカキツバタの生育場所の違い等、歌を解説して貰っています。頼政の批判的なニュアンスにはまったく気が付いていません。

そこで基実は次に、自ら菖蒲御前の袖をひいて、「これこそ、そなたの妻!」と頼政にひきあわせ、この場を納めることに成功したのです。

後日、頼政のこの場で作った歌こそが、着実に菖蒲御前を自分のものにできるよう、全部読み通し練られたものであると気が付いた基実らは、頼政の頭の良さ・歌のすごさに舌を巻くのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

第84回源氏あやめ祭りの様子
この菖蒲御前、頼政とは33歳差があったようですが、仲睦まじくその後を過ごしたようです。
しかし、1180年に頼政が以仁王と平家打倒の挙兵をする直前、累が彼女に及ばないように、彼女の故郷の伊豆長岡の奈古に逃すのです。そして頼政が自害したとの知らせを聞くと、尼になり伊豆で一生を終えるのです。

今でも伊豆の国市では、『源氏あやめ祭り』を毎年開催して、菖蒲御前の霊を弔っています。(写真⑥)

これは私の想像ですが、菖蒲御前が逃げた伊豆の奈古は文覚が流された地・奈古谷のすぐ隣です。もしかしたら、先に流しておいた文覚を頼りに頼政は菖蒲御前を逃がしたのかもしれませんね。

3.頼政のエピソードの終わりに

いかがでしたでしょうか?源 頼政のエピソード、前回は、鵺退治という武人らしい頼政、今回は歌による立身出世と恋愛成就という文人としての才。

いずれにしてもタダモノではない感のある頼政でしたが、やはり源氏の棟梁となることは出来ませんでした。彼だけではなく渡辺橋の渡辺党を含めた摂津源氏は、河内源氏である頼朝が全国制覇を果たすと、一御家人としてしか歴史には出てこないのですが、大江山の鬼退治をした頼光以来五代後の頼政まで、ある意味、大人にも子供にも夢のある話が多い摂津源氏は、素晴らしいと思います。

先に書きました頼政の辞世の句

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」

の彼の主観がどうしてそう思ったのかについては、前述の通りですが、私たちから見ると、十分花を咲かせた頼政だと思うのですが、いかがでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇

文覚が伊豆に流されてくる背景に、頼政という黒幕がいるという話から展開した頼政のエピソードはこれにて終了し、次回からまた時系列を戻して、文覚が伊豆に流された後の話から描きたいと思います。

なお、前回アナウンスした頼政挙兵時における渡辺党の活躍エピソードについては、予定を変更し、この時系列にのっとった中でお話させていただければと存じます。

ご精読ありがとうございました。


⑦「次回はきっと私たちにも出番がありますね。」
「おお、そうだな。今日の富士山は格別綺麗だ。」

【菖蒲御前跡(あやめ池)】〒410-2201 静岡県伊豆の国市古奈53−1

土曜日

頼朝杉③ ~源 頼政 エピソード1~

 さて、前回、遠藤盛遠(もりとお)が人妻である袈裟御前に懸想してしまい、袈裟御前が我が身を持って盛遠に教え、盛遠は出家し、文覚になる経緯を描きました。(リンクはここをクリック

そして話が前後して恐縮ですが、前々回のブログで、僧になった文覚が弘法大師・空海が建てた神護寺復興のために強引に後白河法皇に迫り、結果、法皇の不興を買い、伊豆に流されるという経緯を描きました。(リンクはここをクリック

この文覚の伊豆に流罪となる経緯は、調べれば調べるほど、興味深いエピソードが沢山見えてきました。今回、文覚の伊豆での話を描く予定だったのですが、また少し文覚の伊豆流刑に係る寄り道話もさせてください。(写真①)

①文覚と頼朝が流された伊豆(狩野川氾濫域)
北条義時が居城・守山城から写す

◆ ◇ ◆ ◇

②鵺に矢を射る源 頼政

文覚の流刑地を伊豆と決定したのは、この時より13年前に、この地に流されていた源 頼朝(よりとも)が居ることを意識した選択だったのではないかとの説があります。

では誰が選択したのでしょうか?それが今回の主人公である摂津源氏・源 頼政(よりまさ)です。(絵②)

と言っても、確証的なものがある訳ではなく、あくまで状況証拠によっての論考ですので、よろしくお願いします。

まず論考の第一は、文覚が後白河法皇の御所で神護寺支援を強訴し捕らえられた後、預けられた先は頼政の息子・伊豆守仲綱(なかつな)です。そして文覚を伊豆まで護送するのは渡辺 省(はぶく)という頼政の郎党です。

前回、文覚が遠藤盛遠という武士時代に、斬ってしまった袈裟御前の夫は渡辺 渡(わたる)。そもそも文覚の出身・遠藤家自体が、摂津源氏・渡辺党の縁戚筋であるというお話を書きました。

そう、つまりこの伊豆行は、文覚と関係の深い人脈の中で行われたのです。伊豆へ護送する船も、前回描いた文覚が盛遠時代に住んでいた現在の大阪・渡辺橋のあたりから出航したのです。

更に脱線しますが、頼政というのは絵②にあるように「鵺(ぬえ)」というバケモノ退治で武名を成した人物ですが、この祖父の源 頼光(よりみつ)は、「大江山の鬼退治」で有名です。

皆さんも、酒吞童子(しゅてんどうじ)等の本は小さなころに読まれたのではないでしょうか?

その酒吞童子を倒すために、頼光は頼光四天王という強ーい豪傑4人を従え、大江山に向かうのです。(絵③)

絵の中で、頼光は、左側の酒吞童子の鬼の首にかじられている武者です。

③大江山の鬼(酒吞童子)退治

絵の真ん中で、鎖やら鬼の腕やらで絡めとられながらも奮戦している二人。

二人の右側の人は、これも皆さん絵本等でよく知っている、クマにまたがりマサカリ担いだ「金太郎」さんの豪傑バージョン、坂田公時(金時:さかたのきんとき)。

そして左側が渡辺 綱(わたなべのつな)。なんかツナみたいな名前ですが、渡辺家は伝統的に名前を一文字にしていたようです。渡辺綱とか渡辺省、先週の盛遠時代の袈裟の夫・渡辺渡など、皆一字ですよね。『平家物語』では「渡辺の一文字名ども」なんてよばれています。

この時からのつながりなのです。渡辺党と摂津源氏との関係は。であれば、盛遠こと文覚の身請け引き渡しを頼政の息子・仲綱が実施し、文覚と出自が近い渡辺 省が伊豆に護送したことを、頼政の意志とは関係なく、単なる偶然とみるのは難しい気がします。

そして第二の論考は、文覚はひっ捕らえられた時に「遠くは3年、近くは3か月のうちに、思い知らせ申さん!」と叫んだと言われています。まあ、ひっ捕らえられた時すでに何か確証的なことがあった訳ではなく、単なる悔しい思いを年月を区切った言い方で現実味を持ったように言ったのだとは思いますが、少なくともそのような思いがあったことは、宮中の皆が知るところとなり、これを利用しようとしたのが頼政ではないかと。

④宇治平等院で挙兵する頼政
※3人もの渡辺党がいます(渡辺 清、渡辺 競、渡辺 省)

もしかしたら、頼政と文覚、ひっ捕らえられ伊豆に流されるまでの間、どこかで二人で密談をしていたかもしれません。

「文覚、どうだ一つ世の中をひっくり返してみないか?」

「頼政殿、3年でやってみせましょう!今の政(まつりごと)では、弘法大師の遺志を具現化することはできません。新しい世を作って、拙僧は大師の仏法を隅々まで行きわたらせ、また大師の造った堂宇を復興したい。」

「よし、では文覚。頼光四天王ならぬ、頼政四天王のうちの一人になってくれ。ついては、頼光が足柄山の金太郎を同志に加えたように、伊豆韮山の頼朝を我々の同志に加えるように画策してほしい。」

「なるほど!心得えましてござりまする。頼政殿」

なんて会話があったらと思うとゾクゾクします(笑)。というのは頼政は、これから7年後、後白河法皇の息子・以仁王を立てて、平家に対し最初の旗揚げをする源氏となるのです。(絵④)

平治の乱で源氏の棟梁とされた河内源氏の義朝(よしとも)の嫡子・頼朝を取り込もうという駆け引きが、当時の政(まつりごと)における中核・三位まで昇格した程の頼政が考えない訳がありません。

東の伊豆での頼朝挙兵、西の頼政挙兵、これを同時に行うことで平家殲滅を図りたかったのではないかと思いますが、残念ながら計画が平家側に発覚し、準備が固まらないうちに以仁王を助けるために、頼政は宇治平等院で挙兵し敗れるのです。

⑤大阪・渡辺橋とその周辺
敗れたとは言え、この戦にもいろいろなエピソードがあり、特にまた渡辺党の一人、渡辺 競(きそう)は胸のすくような活躍をしていますので、次回(?)にご紹介します。

この摂津源氏が盛んな頃には、渡辺橋周辺に起居した渡辺党の活躍は目覚ましいものがありますが、残念なことにその後、頼朝が挙兵に成功し河内源氏の世となると、摂津源氏も一御家人に凋落。渡辺党もあまり注目されなくなります。

ただ、これからも詳細は描いていきますが、頼朝の挙兵が成功した裏の立役者は文覚であり、文覚もまた渡辺党であったことを考えると、武士の時代を創生した大事業にいかに渡辺橋近辺の渡辺党が重要な役割を成したのか。関東にある鎌倉の成り立ちに大阪・渡辺橋が大いに貢献していると思うと面白く感じるのは私だけでしょうか?(写真⑤)

◆ ◇ ◆ ◇

読者の皆様には怒られるかも知れませんが、伊豆での文覚を描くと前回も言っておきながら、なかなか描き始められません(笑)。

というのは、本シリーズは『平家物語』や『源平盛衰記』を調べながら進めていますが、まあ出てくる人物に関するエピソードはてんこ盛りで、皆さんは良く知っているかもしれませんが、歴史初心者の私は恥ずかしながら、いつも「へー、へー」と言って、紹介したくなる衝動を抑えられません。

ですので、大変申し訳ありませんが、もう少し伊豆での文覚の様子を先に延ばし、この頼政や渡辺党のエピソードをご紹介させてください。

◆ ◇ ◆ ◇

⑥御所上空の黒煙の中の鵺

頼政は、上の絵②や絵④に見られるような、勇猛果敢な武士なだけではありません。文武両道に長けていたこともあり、源氏としては当時破格の三位まで位階を上げることができた人物です。特に歌人としても大したものなので、それらのエピソードを3つさせてください。

1つは、やはり「鵺(ぬえ)退治」。これは頼政一番の武勇伝と伝えられることが多いですが、弓の名人と言われる頼政の活躍以上に、これに関する歌がまた粋なのです。

鵺(ぬえ)は「得体の知れないもの」という意味らしいです。「夜の鳥」と書くだけあって、普通、フクロウ以外は夜中に鳴く鳥は日本ではあまり見ませんね。ところが、後白河天皇の先代である近衛天皇の時に、御所上空から細い不気味な鳴き声が夜な夜な響いてきました。

最近の研究では、これはトラツグミという渡り鳥ではないかと言われています。夏はシベリアから朝鮮半島で過ごしますが、冬はインドやインドシナ、フィリピンに渡り過ごす渡りの途中の漂鳥が、京都御所の周辺にたどり着いたのではないかと。主に夜中に鳴くのです。鳴き声は下の動画で聞いてみてください。鵺の声に聞こえますか?(動画⑦)

⑦トラツグミの声(動画)

この鳴き声を毎晩・毎晩聞いて体調を崩したのが近衛天皇。まあ、確かに夜中に聞いたら少々不気味な感は否めないですよね。このトラツグミの声は。

当時、一部では近衛天皇の先代の崇徳上皇の怨霊だとか、この後、始まる保元の乱や平治の乱など、平安末期が平安ならぬ不安末期の象徴の声だとか、色々と噂されます。

もともと近衛天皇は若い時から体調が勝れぬ質(たち)だったようですが、これら祟りのように言われ、鵺の形状にも尾ひれ羽ひれが付いて、絵⑥のようになってしまいました。

頭が猿、手足が虎、尻尾が蛇 です。後述しますが、一説にはこれは「得体の知れないもの」を方角で拡大解釈したものらしいです。そしてこのバケモノが東三条の藤原氏大邸宅の庭(現:東三条院址)から黒煙と一緒に御所の上空に現れるとのことでした。

有験(うげん)の高僧の祈りも効目がありません。この時、左少弁・源雅頼(まさより)が、「こんなバケモノは、酒吞童子を倒した頼光の孫・頼政に倒してもらうのが良いでしょう!」と近衛天皇に奏上します。

⑧鵺に止めを刺す猪早太

「なるほど!」と天皇は頷き、頼政に勅命を出します。

これを聞いた頼政、「私はバケモノ退治のために宮仕えしているのではありません。」と憤ります。

というのは、まあ現実的にはトラツグミあたりの話であり、退治したと言っても相変わらず近衛天皇の体調は戻らないだろうし、小鳥一羽夜中に追い回しても、またどこかで鳴かれたらと思うと、これは政治的なライバル(村上源氏)である雅頼が、頼政を陥れるために仕組んだ罠と疑いたくなる節を感じたからです。

ただ、勅命に従わないわけにはいきません。そこで猪早太(いのはやた)という部下だけを連れて、夜中に御所の上空に現れた黒煙に向かい、

「南無八幡大菩薩」と唱え、

頼光伝来の弓で矢を、ヒョーと射たところ

ギャー

と黒煙中に手ごたえがあり、

ドサッ

と落ちたところに、猪早太が駆けつけ、9回程喉を刀で突き、止めを刺しました。(絵⑧)

このバケモノ退治の話を近衛天皇に奏上すると、天皇は大層喜び、「獅子王」という名刀を頼政に下賜されたということです。現在この刀は東京国立博物館に重要文化財として保存されています。さすが美しい刀ですね!(写真⑨)

⑨名刀:獅子王

さて、この話はこれだけに終わらず、頼政の教養が如何に高かったかの話もついています。さすが文武両道の頼政。

というのは、この獅子王を頼政に渡したのが、当時の左大臣、藤原頼長。この人物後に悪左府と呼ばれることでも有名です。(絵⑩)

⑩悪左府 藤原頼長

渡す時に、以下の歌の上の句を詠みます。

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

これに対して、頼政、すかさず下の句を返します。

「弓張り月のいるにまかせて」

これは、頼長が「頼政、すごい!まるでホトトギスが空の雲まで名き声を轟かすように、あなたも名をあげましたね」と掛けたのに対して

「いやいや、弓張り月(半月)の方向に適当に射っただけですよ。」と、謙遜する頼政。

「弓張り月」と「弓を張って、月の方向に」という意を重ね、「いる(そこにある)にまかせて」と「射るにまかせて」の意も重ねて、裏の意図を表現しているところに、頼長も近衛天皇も、弓だけでなく歌も上手い上、謙遜する頼政に心酔したとかしないとか(笑)。ちなみに悪左府は男色家。

ただ、現実的な解釈では、頼政はやはり鵺退治と称して、鏑矢(かぶらや)をおまじないとして四方に射たのが実態で、「適当に射た」というのは本当のところのようです。ちなみに鵺の形容と猪早太、これらセットで方角を表すと言われています。つまり、頭が猿=未申(南西)、尻尾が蛇=辰巳(南東)手足が虎=丑寅(北東)、猪早太=戌亥(北西)ということで、猪早太自身創作だという話もあります。この方角へ鏑矢を頼政は射たという訳です。

私の勝手な解釈をします。以下の想像は怒らないで笑い飛ばしてください。

頼長が

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

⇒黒雲(黒煙)の中に居たモノの名は、鵺ではなくて小鳥(ホトトギス)
 だったのではないですか?
 (裏の意:それで名をあげられるとは羨ましいこと。)

と上の句を詠んだことに対し

「弓張り月のいるにまかせて」

⇒ええ、半月の方向(南西)にいたみたいなのでテキトーに射ってみました。
 (裏の意:東三条の藤原邸(東三条は御所から南西の方角)から来るのですか
      ら、頼長さんはやはり正体を小鳥だとご存知でしたか。)

とお互い隠れた歌の応酬で、真実の報告をしたのではないでしょうか。

何分、近衛天皇の健康悪化は悪左府が呪詛したという噂があるくらいなので、藤原邸から鵺であるトラツグミを飛ばしていたかもしれません。

ただ、獅子王を下賜くださるほどの騒ぎになっているのですから、こんな真実報告レベルではなくて、もっと頼政のすばらしさが分かるような解釈にしたのではないかという想像は下衆の勘繰りですね(笑)。

実存するかしないかも分からない猪早太だけを連れて、鵺退治というのも、しっかり退治したという報告を創作するために限定した人たちだけでやったような気がしてなりません。

どう思われますか?

あ、決して頼政を貶めるように考えているわけではありません。もし上記歌のやり取りが本当だとしてもそれはそれですごい歌人には変わりないのですから。

すみません。長くなりすぎたので、あと2つのエピソードも次回、頼政の挙兵時における渡辺党の活躍と一緒に描きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【渡辺橋】〒530-0004 大阪府大阪市北区1

【東三条院址(藤原氏邸跡)】〒604-0035 京都府京都市中京区上松屋町

【京都御所】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3