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日曜日

頼朝杉⑥ ~文覚と頼朝~

文覚は、後白河法皇に持論を論破され、落ち込むところを描きました。その後、法皇は、側近の藤原光能(みつよし)に、文覚に密命を伝えるよう申し付けました。そして、光能は源 頼政(よりまさ)を呼び出します。

今回のお話は、光能・頼政が平家政権の問題を文覚に説明し、頼朝の挙兵説得を依頼するところから始まります。その後、伊豆に流された文覚は、頼朝と平家打倒について話を始めるのです。

お付き合いをお願いします。

1.打倒平家

①瓶子(へいし)
底面が小さい
ので倒れやすい
※平氏(瓶子)が倒れた
と騒いだ鹿ケ谷事件
 は有名ですね!   
さて、頼政の屋敷に使いをやり、御所の一角に頼政が来るのを待つ文覚と光能。

うなだれている文覚の前に、どこから持ってきたのか瓶子(へいし、写真①)をドカッと置く光能。

「まあ、飲め。」

瓶子から、かわらけ(写真②)へ酒を注ぎ、文覚の方へすいーっと置くと、自分はまた別の瓶子から直接ラッパのみを始めます。これでまあ良く四位もの高位が務まるものだと文覚があきれ顔で見ていると

「お前、摂津渡辺党(写真③)だったんだろう?じゃあ、頼政公を知らない訳はないな。」

「知っています。」

文覚は、頼政公の話をしようとする光能をぼんやり見ながら、実は別のことを考えていました。やはり法皇と清盛の2つの体制が均衡を取る必要性があるのではないだろうかと。

2つの体制。

摂関家である藤原氏が実質的な権力を持っていたことはあります。ただ、それは2つの体制が均衡を保たなければならないというものではなく、朝廷権威に従属する1つの経済基盤、いわばピラミッド型に階層化された体制に準じる経済力を各々の貴族が持つ中で、ボコッと藤原氏の経済力だけが瘤のように飛び出しているようなものだったと文覚は思います。

②かわらけ

ーまして藤原氏が朝廷がいる京以外の土地で政権を持つなぞ、夢にも考えたこともないだろうー

ーもし、平家が福原(現在の神戸)に政権を持つならば、どうなるのだろうか?また奥州は平泉という遠隔の土地で独立政権を作っている。新しい時代は、齢を取った京からは始まらないのかもしれないな。ー

瓶子の口に注がれた酒を飲まず、ずっとその水面に浮かぶ燈明の焔を眺めながら思いに耽っている文覚。

すると見たことのある小柄な男が案内されて入ってきました。

「おお、頼政殿、こちらへこちらへ。」

だいぶ酒が回り出来上がってしまっている光能。頼政が敷物の上に着座すると、かわらけを渡し酒を注ぎます。

ーなんだ酒宴なのか、またも。ー

と文覚は顔をしかめつつ、頼政へ平伏して話し出します。

③摂津渡辺党の港は
「渡辺津」と呼ばれた

「拙僧、文覚と申します。元・摂津渡辺党の遠藤盛遠でございます。」

「遠藤?そなたは遠藤左近将監持遠(もちとお)殿のご子息かな?」

「はい、父のような立派な武士を通すことは出来ませなんだ。」

なぜ?とは頼政は聞きません。じっと文覚を見ていましたが、

「そちは出家前に上西門院(鳥羽天皇の皇女)に仕えておったな。」

「はい、短い期間ですが上西門院の武者所に務めておりました。」

「ならば頼朝を覚えているかな。」

「頼朝ですか・・・。ああ、上西門院・蔵人(くろうど)の。」

当時は保元の乱(1156年)が終わった直後であり、河内源氏の棟梁・義朝の嫡男というだけで、鳴り物入りで蔵人に就任。しかし、文覚が当時の頼朝の姿を覚えているのは、ひょろひょろと青白く、およそ武人としては大成しそうもない若者。

ー平治の乱で源義朝が殺された後は、どこかに流されたと聞くが・・・。ー

「頼朝は今、伊豆に流されてかれこれ13年経つ。」

ー伊豆か。もうそんな前のことだったのだな。ー

「文覚、単刀直入に言う。頼朝を説得し、頼政殿と同時に挙兵させるのだ」

と言ったのは、かなり酔いが回った光能でした。

「頼朝をですか?」

「そうだ、頼政殿は摂津源氏、頼朝は河内源氏。同じ源氏同士が手を結べば、今の世をひっくり返すことなど訳もないことだ。」

「源氏が結束して平家を倒すということですか?」

「しっ!声が大きい。」

「倒してどうするのです?」

「先ほどの法皇の話だけでは、法皇がどれ程清盛に苦慮しているのか分からなかったようだな。文覚。」

「・・・」

光能の見下したような言い方に少々腹が立つ文覚。

ー分かってはいるさ。ただ、法皇がどんなに苦慮していたとしても、本当に清盛は間違っているのだろうか?それが俺には分からん。こやつらは所詮、法皇に対する忖度で動いているだけなのではないのか?ー

「まあまあ、文覚殿に急に政(まつりごと)の話をぶつけまくっても、それはそれで無理難題というもの。順を追ってお話せねばならないと思うが、いかがじゃの?文覚殿。」

と源頼政が、あえて柔らかい口調で諭すように続けます。

「お願いします。」

2.出作(でさく)問題

④神護寺の1荘園図
 後、文覚の活躍で神護寺に
寄進のあった荘園の地図
「文覚殿は、神護寺への荘園寄進を懇願しに後白河法皇のところに来られたと聞いておるが、現在の法皇の荘園事情は存じておられるかな?」

「ぬ、詳しくは聞いておりませぬが、法皇は長講堂領を皮切りに、かなりの荘園を摂関家(旧・藤原家)から集めたと聞いており申す。」

「なるほどな。確かに沢山持っておる。しかし、荘園は相対的な保有数が、政の中の力関係を決定するのは分かりますな?」

「と申しますと、やはり清盛殿と比
しては少ないのですか?」

「法皇の長講堂領が約180か所に対し、清盛の持つものは全国500近くはある。まあ、朝廷は他にも八条院領もあれば公領(荘園ではない正式な国保有農地)もある。また個々の荘園でも取高は違うので一概に清盛の方が多いとはいいがたいが、拮抗するには十分な数だな。」

「そんなに多いのですか。」

「文覚殿、勿論、荘園の数は大問題ではあるが、もっと問題なのは荘園制自体にあるのじゃ。この問題を解決しようと、今までに朝廷から出された荘園整理令の数をご存知かな?」

「いえ」

「ざっと延喜2年(902年)から数えて11回ですぞ。しかし一向に荘園は減らず、荘園制度が内包していた問題点は複雑化する一方。」

⑤荘園の棚田(イメージ)

「内包している問題とは?」

「1つの大きなものは出作という問題での。これは、平家の荘園の農作民が、周りにある、朝廷他の公領や荘園を耕し、そこからの収穫を胡麻化して平家の荘園からの収穫として申請するのじゃ。何故か。平家の荘園の方が租税率が低いから、他の公領や荘園より払う年貢が少なくてすむのじゃ。

これはたまらない。しかも、これはかなり巧妙に裏で行われておる。

また被害にあっている公領の国司や荘官(荘園を管理する人)も見て見ぬふりをするように賄賂を掴まされていることもある。さらには平家の荘官は武人が多い。被害にあっている国司・荘官が下手に武力に訴えれば、逆に命に係わることもある。なので、出作をやられている国司・荘官は、自領からの収穫高を低く帳簿につければ揉め事になることは殆どない。自分たちの実入りが減る分は賄賂等で賄えるからの。収穫高は気候や災害等によって変動するので、わざと低く付けていると詮議されることもない。

勿論、この問題はかなり以前からあったのじゃが、現地で武力を持つもの持たざるものの差が歴然としてきたのは、保元の乱(1156年)以降なのじゃよ。」

⑥荘園の出作問題簡略図

ーなるほど、そのような裏からのやり方には対処しづらいのは確かだ。ー

文覚は思います。

「その問題に対して清盛殿はどうお考えなのですか?」

「清盛も、勿論法皇が痛くその件でお悩みなのはご存知で、たまに上がってくる出作の訴訟に関しては厳しく詮議し、対処はしておる。また、法皇が苦しんでいる様子を見て、逆に清盛の方から、日宋貿易で上がる利益を朝廷に一部を献上するとの申し出もある状況じゃ。

「ならばよろしいではないですか?」

「本当にそうお思いか?文覚殿。確かに清盛のこうした好意に対して、法皇も毎年、清盛の日宋貿易の港・大輪田泊(おおわだのとまり)のある福原(神戸)に行幸される。表向きの関係は良好じゃよ。ただ貿易自体を牛耳っているのは清盛なのだ。つまりこの日の本の国の土地に関して法皇ら朝廷は制御不能、貿易に関しても富の分配権は平家が握っている。これは非常に危ういことではないか?

そもそも土地問題は、現地の国司、荘官も皆喜んでこの矛盾を受け入れている訳ではない。平家以前であれば、荘園領主である貴族に出作を訴え出れば、貴族間で紛争解決してくれた。その解決能力の一番高い藤原氏が一時栄華を誇った時期もあったわけじゃ。

ところが昨今は訴え出ることも難しい複雑な状況が出来上がりつつある。事件は現場で起こっている という訳じゃ。なので国司、荘官らが常に考えていることは、自分たちの武装勢力を強くして、隣の荘園と紛争解決力を高めねばということだけ。これは不安な毎日じゃろ。これを解決しない限り、世の不満は高まる一方じゃ。」

ーなるほど。度重なる荘園整理令で、朝廷から公式に認められない荘園は廃止される方向にはなりつつあるが、出作という抜け穴等を上手く使って平家がまた力を蓄えている可能性が高いということか。先ほどの法皇自らの話では良く分からなかったが、この頼政殿の話で得心した。が、しかし。ー

「頼政殿は清盛殿を倒した後、どうするおつもりですか?」

今まで黙って1人手酌で飲んでいた藤原光能は、何をまだ疑うのだ?とばかりに、あからさまに酔ったうろんな目を文覚に向けます。

場の雰囲気が良くない流れと感じとったのか、かわらけで酒をぐいと飲みほした頼政。笑みを浮かべながら文覚に言います。

「源氏がこれら武装勢力・武人を束ね、朝廷の制御下に入ろうと思う、文覚殿。そなたも、弘法大師様の時代に戻したいのであろう。今の世が不安定であるのは古(いにしえ)の心を失ったからじゃ。闘争が闘争を呼んでいる。源氏は一時的に武人を束ねはするが、その後はまた武装解除の平和な方向に世を変え、大師様の頃の中央集権国家に戻したいのだ。協力してくれぬか、文覚殿。

3.頼朝への期待

伊豆にいる源頼朝が、京の頼政と同調して平家打倒の挙兵ができるように、頼朝の説得工作のミッションを言い渡され、伊豆に流されてきた文覚。

前回お話したように、頼朝と文覚は伊豆の奈古谷に作った文覚のにわか温泉や、蛭が小島の頼朝の屋敷を行き来するうちに、かなり懇意となりました。

特に頼朝も文覚も、北面の武士として、同じ上西門院に務めていたことは、共通の話題として盛り上がりました。二人は互いに見知った禁中の様子や、そこに出入りする様々な人たちについて語らうことも多かったのです。

いつしか頼朝も

ー文覚は初見の時に感じた程、変な僧ではなさそうだ。ー

と思うようになってきた丁度その頃。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

と文覚は言い出します。とうとう源頼政から依頼されていた行動に出たのです。

◆ ◇ ◆ ◇

時は1176年、文覚が流されてきてから3年の月日が経っていました。

この時、京では後白河法皇と平清盛の対立が激化しはじめたのです。

そのきっかけは「鹿ケ谷事件」です。

⑦俊寛・鹿ケ谷山荘の碑
この事件、簡単に言いますと、安元3年(1177年)6月1日の深夜、密告によって、京は東山鹿ケ谷の俊寛(しゅんかん)山荘で、平家殲滅の密議が行われたことが、平清盛に露見しました。(写真⑦)

清盛は間髪入れずに行動を起こし、密議に加わった連中を一網打尽にしたのです。その時捕まった俊寛をはじめ、一味はすべて後白河法皇の近臣であり、この密議の中心に後白河法皇がいるのは明らかだったのです。死罪2名、俊寛は鹿児島県沖の喜界島へ島流し、その他3名も島流しと厳罰に処したのです。さすがに後白河法皇に裁きを下すようなことは出来ませんが、それでも後白河法皇に与えた心理的な打撃は大きく、またこの後、急速に後白河法皇と平清盛は大きな対立が見られるようになるのです。

この影響が、伊豆に流されている文覚のところにも、何等かの形であったのでしょう。

それまでは文覚は、後白河法皇や源頼政から平家の弊害の説教を聞いたとはいえ、しばらくは自分なりに平清盛の動静と源頼朝の人物を観察していました。

文覚はある意味、平清盛を2つの先進性で高く評価しても良いのではないかと逡巡していたのです。それは、

今まで土地にしがみついて収益をあげることの発想しか無かった日本の支配者とは違う、貿易による収益という経済的先進性

2権分立を、京から距離を置く福原という都市で実現しようとする先進性

です。

なので、光能と頼政に言われるがまま、安易に平家打倒の挙兵をすべきという気は起らなかったのです。

⑧北条時政の館があった守山頂上から韮山方面を臨む
頼朝が流されていた蛭が小島(写真矢印)
周辺は狩野川流域であり肥沃な荘園地帯
ただ、昨今懇意となった頼朝と話をしていると、頼朝は案外、京の雅(みやび)な北面の武士、泥臭い土地の事などさっぱり分からない単なる貴公子ではないようです。

この伊豆の肥沃な狩野川流域の田園地帯に流されて16年も経つからなのか、土地からの収益基盤ということに色々な思いがあるように感じます。(写真⑧)

それは、そんじょ其処らの農民の感覚とは違い、米の実りをどのように集め、そしてそれらがどのような形で、京の人の口に入るのか、米以外の商品に化けたりするのかという流通まで含めた米の価値、それに伴う富の集散の仕組みが身をもって分かっているようなのです。

ーこれは大したものだ。ー

と文覚は感心しました。

⑨蛭が小島の頼朝と政子の像は
現地の米の収穫を今も見つめている
多分に、妻である北条政子の父・北条時政が在庁官人(地方官僚)であったことから、国衙(地方)行政の実務が体得できてしまったのでしょう。(写真⑨)

ー頼朝殿とは、この国の財務基盤の考え方について、一度率直に話をする必要があるな。

と文覚は感じていました。

そしてある時、奈古谷に建てたにわか温泉に文覚と頼朝は一緒に入りながら、また京の話題をする中で、平清盛の貿易等の経済的先進性について話をしてみました。

「なるほど、清盛殿には、そのような先進性があったのですね。」

風呂の中で、頼朝は目から鱗と言わんばかりに、清盛の日宋貿易について感心します。しばらく、もうもうと立ち上る湯面からの湯気を眺めていましたが、急に

「しかし、それは、この国の問題の第一を真正面から捉え、変えようということとは違いますな。なるほど外国との交易は高度な商業手法です。ただ、この国はそれこそ数百年間に渡る土地の不健全な私有化を食い止めないといけないのに、清盛殿はそれには手を付けずに、一足飛びに貿易という手法で自分の財ばかり増やすやり方はやはり、間違っていますね。多少朝廷にその交易からの実入りを分けたとしても、まずは土地の財務基盤である荘園制度の見直しからでしょう。清盛殿の交易重視は後白河法皇も困っているのではないでしょうか。多分、鹿ケ谷事件の本質はそこにあるのでしょうね。」

と見通す達感に、文覚は、再び感心してしまいました。

ーこの人に天下をとらせよう。清盛の2つの先進性については、後々、この人の政権下でも実現可能な気がする。

そこでこの章の冒頭の問いかけです。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

4.院宣

文覚の藪から棒な質問、平家打倒をしないのかの質問に対し、頼朝は湯気の中、最初はまじまじと文覚を見つめていました。文覚は続けます。

「頼朝殿がおっしゃる通り、後白河法皇は困っておいでです。この国の本質的な問題もご達観の通りです。平家はねじ曲がり続ける私有地化制度を変えるどころか、先の藤原氏時代の延長で放置するありさま。頼朝殿が政権を取り、土地の基盤問題にテコ入れをすれば、この国は私が理想とするものになる。」

これに対し、頼朝は少し笑みを浮かべながら言います。

「いやいや文覚殿、私は既に29歳。六孫王の子孫であれば、とっくに国守であってもおかしくはない身分にもかかわらず、勅勘(天皇の勅命による勘当)の身であり、何も持っていないことはここに13歳の時に来てから16年間変わらずだ。そんな身の上で清盛殿のような権勢に立ち向かえる訳がない。」

⑩文覚は一計講じ、流刑中でありながら
ここから京へ向かうため芸をします
「頼朝殿、これから政権を取られ理想国を作り上げるまで、この文覚が戦略を授け続けます。まず、後白河法皇が頼朝殿を勅勘の身などと考えてはおらず、平家を倒して欲しいと考えている証として、拙僧はこれから、法皇の院宣を京へ出向いてとってきましょう。」

「院宣とな?しかし、文覚殿も勅勘の身、この奈古谷から京へ向かえば、ここを管轄している北条殿や山木殿から逃亡者として厳しく追手が差し向けられますぞ!」

「ご心配なく。拙僧には法力がございますでの。なあに7,8日程度もあれば院宣をとって戻ってきましょうぞ。」

◆ ◇ ◆ ◇

少々長くなりましたので、続きは次回にします。
ご精読ありがとうございました。

《つづく》

 

【俊寛・鹿ケ谷山荘の碑】〒606-8442 京都府京都市左京区
【蛭が小島】〒410-2123 静岡県伊豆の国市四日町12
【守山展望台(北条館跡)】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204
【文覚上人流寓之跡】〒410-2132 静岡県伊豆の国市奈古谷1729

頼朝杉⑤ ~伊豆の文覚~

 文覚(もんがく)に話を戻します。

京都・神護寺への勧請を、後白河天皇に強く迫ったことで、伊豆に流されることとなった文覚。

流刑地を伊豆に決定したのは、源 頼政(よりまさ)の差配が入ったことは間違いなさそうです。勿論、それは源 頼朝がすでに13年前から伊豆に流されていたことが重要な要因となっています。(写真①)

①伊豆の蛭が小島に立つ
流刑中の頼朝と政子の像
(頼朝31歳、政子21歳)

②藤原光能(みつよし)
神護寺蔵

頼朝杉③にも書きました通り、文覚の流罪地の決定には源頼政が大きく絡み、文覚も頼政からの密命をもって、流罪地・伊豆で源頼朝と接触をするのです。目的は勿論、源氏旗揚げです。平家一門に対する反逆の狼煙を上げるのです。

と、このような陰謀説は、結構あちこちの本等で見かけますが、正直、決定的な証拠は今のところ見つかっていません。

ただ、色々と調べていくと、黒幕は頼政だけに限らず、あと二人の名前が挙げられます。一人は藤原光能(みつよし)。(絵②)

もう一人は、皆さん良くご存知、後白河法皇です。(写真③)

奢る平家に対して、後白河法皇をはじめとする三位以上の貴族たちが、これを良しとせず、平家の勢力をこそぎ落とすための画策を徐々に開始したのも、この頃です。

平清盛に三位にしてもらい、恩義を感じていた頼政が、平家打倒で挙兵したのも、この朝廷の意を汲んだ行動だったのだと想定されます。(現に頼政は後白河法皇の息子・以仁王の挙兵を助けるために宇治平等院に兵を出すのです。)

その目的のために、文覚の利用を頼政も後白河法皇も考えていたとしても何ら不自然はありません。そして後白河法皇は後にも述べますが、絶対に平家打倒の首謀者たる尻尾を出しません。では後白河法皇のエージェントとして活躍したのはだれか?それが絵②にある藤原光能なのです。

1.伊豆における文覚

話を文覚に戻します。伊豆に流された文覚が頼朝の住む蛭が小島から約1里以内の場所・奈古谷という土地に住んだという話は以前もしました。頼政の息のかかった一族・渡辺党の1人である渡辺省(はぶく)に護送されてきた文覚は、在庁官人であった北条時政に引き渡されます。

③後白河法皇
(江里仏師作)

平家の多くの武将は在庁官人では無かったのです。つまり平家一門として出世を考えるなら在庁ではなく、中央に自分は進出し、所領については部下に任す、これがこの当時のエリート平家のトレンドだったのですが、北条時政は愚直に在庁を守ったのです。それはもしかしたら源頼朝という重要人物の監視役を平清盛から授かっているという自負もあったのかもしれません。

いずれにせよ、北条時政は文覚に対しても、蛭が小島の頼朝と同様に、自分の監視がきく奈古谷を指定してそこに住まわせたのだと思われます。

『神護寺旧記』には「深山の中に尋ね入り、棘(いばら)を刈り掃い、一宇の草庵を構えて居住」(苅掃荊棘、一宇草庵所令居住地成)とあります。また『平家物語』『源平盛衰記』はともに「奈古屋が奥にぞ住み居ける」「籠居したる場所をば奈古屋寺と云ふ」と記しています。

奈古谷には国清寺という室町時代にはかなり大きな古刹となった寺院があり、そこから山奥に伸びる道が延々とあります。

現在、この道は「文覚さんと毘沙門道」なんてユーモアのある名前がついています(笑)。(写真④)

④文覚ロードとあだ名される「文覚さんと毘沙門道」

このような歴史上の人物の名前が付いた道路ってあまりないですよね。しかも「文覚さん」なんて親しげな呼び方。これは昭和54年の大河ドラマ「草燃える」の影響もあるようです。

この道路沿いに国清寺から南東の山奥に進んでいくと文覚上人流寓之跡があります。(写真⑤)

⑤文覚上人流寓之跡

どうやら、この場所に文覚は草庵を建て、日夜行法に打ち込んだようです。
行法に打ち込む文覚に対し、奈古谷の住民たちはたちまち信頼を寄せるようになりました。
特に文覚は人相を見ることに長けているとの評判立ち、草庵への訪問者がひっきりなしに現れるようになったと伝えられています。

そしてこの地の目代(もくだい)が田30町分(30ヘクタール:東京ドーム6個分の広さ)を寄進してくれました。

これらの寄進に報いるために、文覚は毘沙門像を安置し、また草庵の脇に湯屋を作り、奈古谷の人たちが自由に入浴できるようにしたのです。(写真⑥)

⑥毘沙門堂
※看板の上に「NHK大河ドラマ」と
大河ドラマにより観光に来た当時
の面影を残しているのですね。

この湯屋に1風呂浴びに来た男が居ます。

そう頼朝です。勿論風呂を浴びに来ただけではなくて、京から来た文覚に非常に興味がありました。
京から来た文覚に、都の様子を聞きたい、また人相見が良いと評判の文覚に自分の将来も占ってほしいという気持ちがあったようです。

ひと風呂浴びた頼朝は、文覚に人相見を頼みます。人相見は日を改め、蛭が小島の頼朝宅で行われることとなりました。

◆ ◇ ◆ ◇

⑦説教する文覚
(手塚治虫作中)
さて人相見当日。

文覚が気の荒い法師であると聞いていた頼朝は、文覚が人相見に来たと知ると、ビクビクします。

ーこの坊さんにいつ殴られるか?ー

そう、この時の文覚の行動も変なのです。
頼朝の待つ座敷に通されたはずの文覚。いつになっても現れません。

ーどうしたことか?ー

と頼朝が様子を見に立ち上がろうとしたその瞬間。

パン

と座敷の障子が開いた音がしたので、頼朝がすわと障子の方向を見ると、驚いたことに文覚が障子から頭だけ出し、じっとこっちを見ています。あまりに奇抜なその光景に頼朝は目を逸らし、自分の前に着座してくるだろう文覚を期待して待ちます。
しかし、いつまで経っても文覚は目の前に現れません。

ーどうしたのか?ー

かなり時間が経っています。まさかまだ障子のところにはおるまいと思って、また障子の方へ頼朝が目を移した瞬間、ぎょっとして思わず頼朝は立ち上がるところでした。

なんと文覚は、頼朝を片目で眺めているのです。

ーなんだ。こいつ、変な奴だなー

と心で思いつつ、平常心を装いながら頼朝はまたじっと正面を見て座り続けます。
その後も文覚は、立ち上がっては睨み、這いつくばっては睨み、異様な様子で頼朝を眺めます。

頼朝も内心冷や汗を流しながら、それでも文覚のこの異様な雰囲気に飲み込まれないよう、平常心を装い座り続けるのです。

と、急に文覚は大声で頼朝に向かって話しだしたのです。

「拙僧、日本国中を修行して回り、あちらこちらで六孫王(源氏の始祖)の末葉(子孫たち)を見てきたが、大将として一天四海(天下の意)をおさめられる力量があるように見える人物はいなかった。御辺を見るに、穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相がある。御辺はこれから頼もしき人だ。めでたしめでたし。」

何がめでたいのか頼朝は良く分からなかったのですが、もしかしたら文覚が自分が変な行動に出ているのに頼朝が眼無視(ガンムシ)していたことを「穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相」と勝手に決めつけたのだろうと想像しました。

それから何度か頼朝と文覚はお互いの家を行き来するようになったとあります。
さも、この時文覚は初めて頼朝と会い、そしてその尋常ならざる人相を感じたような表現をしていますが、このあたり文覚はかなり以前から決めていた予定行動である可能性が高いのです。

それは文覚が三位・源 頼政のところで、平家打倒の計画を打ち明けられ、元渡辺党で頼政にも恩義のある自分もこれに参画すべく、まずは伊豆に流されている頼朝の基に、流刑地を頼政に周旋してもらった頃から、頼朝に対する行動を決め始めたのだと思われます。

そもそも、文覚は、袈裟御前を切ってしまった遠藤盛遠から文覚という僧に出家して全国を修行しまわる中で1つの大きなビジョンが出来てきました。このビジョンは1度潰れます。そして文覚は様々な人物と会ううちに、考えが練りに練られ、その練りが後の鎌倉幕府という素晴らしいイノベーションに繋がるのです。

ちょっとこの辺りの文覚の経緯を詳細にお話しないと、頼朝への文覚の行動や、その後の頼朝の行動について理解が進みづらいと思いますので、文覚の最初のビジョンができる頃に遡り、お話をさせてください。

2.文覚の最初のビジョン

それは袈裟を殺してしまい、出家した文覚が全国を修行しながら廻っている最中に、平泉の奥州政権を見た時からでした。摂津で育ってきた頃から奥州政権の話は聞いていましたが、どちらかといえば「蝦夷(えみし)」「俘囚」(ふしゅう、陸奥・出羽等の東北地方の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったものの意)というように、辺々に住む未開の民族のように言い、京に比べればダメダメな人たちの集まりと思っていました。

ところが、文覚は平泉に修行で行き、目から鱗だったのは、その巧みな経済機構です。今の東北地方である奥州は金や名馬、刀剣等々、京の貴族たちが泣いて喜ぶ名産を生み出していました。(写真⑧)

⑧平泉 中尊寺金色堂
※右は内部 ふんだんに黄金が使われている
マルコポーロが「黄金の国」と誤解した場所

奥州政権はこれらの宝を使い、自分たちの懐を肥やすだけではなく、巧みな賄賂活用により、京の中央で彼らを監視すべき地位にある役人たちの目を逸らさせ、自由に奥州政権を拡大する方向に、ロビー活動をしていたのです。

これは「蝦夷」「俘囚」と、中央から蔑まれていたこととも相まって、非常に効果的に財力のある大きな地方政権、「奥州王国」と呼んでも過言ではない、現国家の上に成り立つバーチャル国家のような様相を呈していたのです。これこそ「名を捨て実を取る」です。

京では朝廷や貴族、それを模倣する平家一門が、ただ日々宴会に浮かれているだけで、このことに気が付き、国家としての統一感が失われつつある日々に危機感を感じる様子もありません。

⑨滝修行中の文覚
伝・自彫
(証菩提寺蔵)
ーこのままでは現国家はいつか破綻する。どうすべきか?ー

密教の原点、自然と一体となす修行をしながら文覚は考えます。(写真⑨)

ー空海が起こした真言密教の衰退。これが現国家への求心力低下につながり、廃頽の原因である。朝廷を含む貴族の真言密教を軽視する風潮が悪い。世間は中央政権に白け、奥州政権のように地方は独自の密教寺を求心力の中心に据えている。中尊寺しかり、毛越寺しかり。この腐りかかっている中央政権を変えるには、今一度、京に空海の法力の復活を図る必要がある。それは神護寺と東寺の再興なのだ!ー

それで文覚は、このシリーズのはじめにお話ししましたように空海の建てた神護寺の再興から取り掛かるのです。そして後白河法皇の御所に神護寺再興のための寄進を訴えに行ったのです。

ところが、丁度その時、法皇は酒宴の真っ只中でした。

ーなんと!後白河法皇まで・・・ー

門番が制するのも聞かずに御所の宴内に入り込み、

ー情けなや!ー

と宴に参加する貴族らを睥睨すると、強引に勧進帳を読み上げはじめるのです。
文覚の目には涙が溜まっていました。

3.砕かれたビジョン

すぐさま警護の武士たちが文覚を取り押さえようとしますが、文覚は腕に覚えがありますのでこれら警護の者どもを掴んでは投げ、掴んでは投げ(笑)。

しかし、警護の多人数には敵いません。結局、牢に入れられた文覚。

ここで先のブログにも書きました通り、源 頼政とも会い平家打倒の話をしたのでしょう。
いくつかの文献にも、文覚が頼政の息子・仲綱が伊豆守を務める伊豆へ流罪になったのは、頼政の平家打倒の片棒を担いだからという説がのっております。

ただ、上記文覚のビジョンからすると、「中央政権が腐っている」と考える文覚がなぜ「平家打倒」となるのか、少々論理の飛躍があるように私は感じました。

そこで、源頼政と文覚が会う前に、藤原光能と後白河法皇が文覚と会っていたのではないかという論考をしました。(状況証拠は主に光能の院宣等がありますが、これは先のブログで書きます。)

ご存知のように、後白河法皇は、後日、頼朝から「大天狗」とあだ名されるほどの大策士。
宴に乱入してきた文覚が勧進帳を読み上げる時の涙の意味を知りたい、もしかしたらこの坊主使えるかもしれん と想像してもおかしくありません。

「右近中将(藤原光能のこと)、あの暴れ坊主を呼んでまいれ」

「あの怪力だけが取り柄の粗野な文覚と会われるのですか?奴は『行あれど学は無し』と言われる坊主で、法皇とまともにお話できる人物とは思われませんが。。。元々、渡辺党の武士で人の女房に懸想して殺してしまった程の下司(げす)ですよ。」

「おう、それは面白い。益々話を聞いてみたくなった。今宵の酒の肴話にもってこいではないか。はよ呼んでこい。」

⑩荻原碌山「文覚」
(1908年作、碌山美術館蔵)
ということで、光能は牢から文覚をそっと連れ出し、着の身着のままで後白河法皇の前に連れて行きます。後白河法皇はそもそも「今様」のたしなみ等から、白拍子や傀儡師等、怪しい庶民と頻繁に交流があるため、汚い身なりの文覚が対面することを不審に思う者はいないのです。

平伏している文覚に後白河法皇は声を掛けます。

「面(おもて)を上げよ!文覚。」

無言で顔を上げる文覚を見て法皇は言います。

「不屈の強面(こわおもて)や。良い面構えじゃ。」

文覚は先日の宴の時にすでに法皇にも失望しています。法皇に対する静かな怒りが強面となって表れたのでしょう。(写真⑩)

「何故泣いた?」法皇は続けます。

「は?」

「御(み:自分のこと)は見ていた。話すがよい。」

ああ、あの時のことかと文覚は思い返し、今更ながら神護寺の窮状から話を始めます。

法皇は聞き上手でした。深い傾聴と承認。文覚はついつい自分の深いところへ法皇が入り込んでいるのも気づかず話を続けていたのです。修行の話、奥州の話、空海の話、袈裟御前の話、一方的に一刻(二時間)は話したでしょうか。その頃になってやっと文覚は、少し話過ぎたと思うと同時に、話す前に感じた法皇に対する失望と怒りが不思議と消えていくことに気が付いたのです。

「あの宴での神護寺再興勧進は、拙僧の願いではなく、無上菩薩の大願です。なので幾ら法皇のご勘当を蒙っても、全く考えを変えるつもりはありません。拙僧は死んでも菩薩の行を退くつもりはないのです。もし赦されるとしても、この間と同様にまた何度でも参上し、大願の由を訴え続けます。死罪や配流の刑を賜ろうとも、拙僧のこの願は世世生生退転しません!」

と文覚は自分の話を締めくくります。

傾聴して聞いていた法皇。その目は文覚に対する慈愛に溢れています。法皇は真っすぐな文覚を信用したようです。ただ、その締めくくり方には苦笑しながら、今度は御が話すぞとばかりに始めました。

「ほう、良く分かった。文覚。何度も宴の最中に乱入されても困るな。やはり遠くにいってもらうしかないな。

ただ、文覚、御も怠惰で宴に酔っているのではないぞ。ぬしの奥州政権論なぞ数十年前から知っておったわ。知っていて潰さなんだは、そのような多様性がこの国には必要な面もある。
律令国家の多様化するその歩みを止め、元の強力な中央集権に戻すのがこの国のためになるというのは青臭い理想論だ。0か1かではない。つまりどこまでこの国の多様性を上手く均衡していくか。それに腐心しているのだ。

しかし、最近御が酒宴三昧で気を紛らわせているのは、その均衡が破られつつあることに深く憂慮しているからじゃ。

御に憂慮をもたらすのは平清盛。

正直、奥州の山々の中で、ほれ金だ、鉄だ、名馬だと生産し、それを都へ献上して多少富を蓄えるような奥州政権は可愛いものだ。

伊勢平氏の清盛も、地元伊勢で取れる水銀を都の周旋に使うとか国内で売りまわって財を作るとかであれば、奥州政権と同じように御はさほど気にかけなんだ。

ところが奴はその水銀を大宋国(中国)に輸出することにより、奥州なぞは比較にならん程の財を築こうとした。これを阻止するために、御も過去の侍人には考えられない太政大臣のような高い地位まで与え、懐柔を図ってきた。

残念ながら清盛めはそれで留まるどころか、更に増長しておるのじゃ。100年以上に渡り、大宰府や博多を中心に行われてきた日宋貿易の拠点を、大輪田泊(おおわだのとまり、今の神戸港)に移し、本格的にやるつもりだ。それに留まらず、都を京からその大輪田泊付近の福原に移すと言い出しおった。

⑪大輪田泊付近に立つ清盛塚と清盛の像

文覚、考えても見よ。ぬしが幾ら、荒廃した京の再興は空海の真言密教である神護寺・東寺の再興であるなぞぬかしても、都が福原に移ればなんの意味もないではないか?」

文覚はこの話を聞いてハッとしました。

ーもしかしたら後白河法皇の方が自分より余程憂国の思慮が深いのではないだろうか?しかし...ー

「し、しかし法皇が京におわしさえすれば、いくら清盛めが福原で財を成しても関係ないのでは?」

「文覚、本当にそう思うのか?清盛も朝廷が福原遷都を嫌がっていることは重々承知なのだ。

ただ清盛は頭が良い。ぬしが言うようにいっそ何度誘っても朝廷は遷都に反対だったという事実があれば、かえって奴が福原に幕府を開く名目ができる。

都は2分され競争になるが、貿易による財力には勝てない。次第に福原には人が集まり、そこが日本の中心になっていくであろう。

それはな。今までのような寺社を中心とした鎮護国家ではなく、安芸の宮島(厳島神社)を清盛が盛り立てたように、海洋国家を目指したものとなっていく。

神護寺・東寺だけでなく、比叡山、高野のお山、荘園という陸からの利益だけで成り立っている京の寺社は、海からの恩恵にはなかなか預かれないだろう。
そうなると相対的にすべて干上がってしまうのだぞ、文覚。

⑫厳島神社

そうならないように御が福原遷都の受容を含めてどれほど苦悩しているのか、ぬしには分かるまい。」

文覚はぐうの音も出ませんでした。

法皇が酒宴三昧で気を紛らわせていることなどは取るに足らない問題です。いかに自分のビジョンが直線的で稚拙なもの、宴に飛び込んで神護寺への寄付を迫るなぞは、児戯にも等しい行為だったかを思い知る文覚でした。

4.密命

文覚はうなだれています。沈黙は半刻も続いたでしょうか?

その間、じっと文覚を見ていた法皇はおもむろに立ち上がり、側にいる藤原光能に声を掛けます。

「右近中将、三位(源頼政のこと)を呼び、右近中将と三位で、この痴れ者へ密命を伝えよ。」

「はっ!」

それだけ言うと、法皇はその場を後にするのでした。

《つづく》