マイナー・史跡巡り: 北斗七星を追え④ ~ハレー彗星と紫式部 現る~ -->

金曜日

北斗七星を追え④ ~ハレー彗星と紫式部 現る~

 前回までのあらすじ

安倍晴明が常陸国(現・茨城県)の出身であることが簠簋内伝に書かれている伝承をご紹介しました。出身は諸説あるようですが、京の大学で天文学を学び、陰陽師として高名となった晴明。式神等、かなり怪しい技を使う伝承が生まれると同時に、当時の若き天皇・花山天皇を介した藤原北家の陰謀の渦中にも、エピソードを残しています。

①山科の元慶寺

藤原道長の父・兼家は、自分の外孫(娘の孫)である一条天皇を即位させ、権力を掌握したいと強く願っていました。そのためには若干19歳の花山天皇をどう退位させるか。これが課題です。しかしチャンス到来。花山天皇は愛する忯子が亡くなると、失望のあまり出家すると言い出すのです。これは一時の感情でしかないと兼家含め、周囲の貴族は皆分かりますが、出家頂ければ、一条天皇の即位が可能です。そこで兼家は息子たちも総動員し、なんとしても花山天皇のこの一時の気の迷いに付け込んで出家させてしまおうとします。

息子・道兼を花山天皇の愚痴聞き役に付け、道兼自ら「自分も出家するから、これから山科の元慶寺で一緒に出家しましょう!」と誘い、三種の神器を一条天皇の邸宅に移し、2人で山科へ向かうのです。世にいう「寛和の変」です。(写真①)

丁度、安倍晴明の屋敷前を通りかかると、邸内から晴明の声が聞こえます。

「帝が退位すべきとの兆候が天体活動に見られた。これを奏上して来なさい。式神!」

今回は、この続きからです。

1.安倍晴明が観察していた天体活動とは?

②歳星(木星)
安倍晴明が見ていた事象は、歳星(木星)と氐宿(ていしゅく)の距星(てんびん座アルファ星)が 0.5度まで接近していたことだそうです。古来中国では、木星はその天空上の位置によりその年(歳)の名前が決められたことから、歳星と言われたようです。またその方位によっては大きな災いが地上に起こると陰陽道では考えられていたため、陰陽師たちは、この歳星の動静を常に意識して観測していたようです。(写真②)

特に、この歳星の0.7度以内に他の星が接近することを「犯」と言い、凶事とされました。ことに宿星(中国の星座)の距星(その星座の中の代表する星)が接近することは、すなわち天皇は逃げなければならない(退位しなければならない)と判じたようです。

2.晴明クーデター加担説

実は、この「犯」は陰陽師ならかなり以前から天体の動きで予測できることから、「安倍晴明は、この花山天皇の退位(出家)クーデターに加担していたのではないか?」との考察をする人もいます。

ちょっと話が横道に逸れますが、安倍晴明は、藤原道長とは仲が良く、後に道長が、甥の伊周と、権力闘争となった時に、こんなエピソードもあるくらいです。

◆ ◇ ◆ ◇

③道満の呪物を見破る安倍晴明
(晴明神社パネルより)
藤原伊周が、晴明の陰陽師としてのライバル、芦屋道満(どうまん)に命じて、路に呪物を埋め、呪詛を藤原道長にかけようとしました。ところが、それを道長が飼っていた白犬が見つけて吠え、道長の裾を咥えて引き留めようとしました。

「何かある!」と思った道長は、早速使いをやって安倍晴明を呼んでくると

「この先の路に呪物が埋めてあります。」と晴明。

その道を掘ると、素焼きの土器を十文字にからげた呪物が出てきました。(絵③)

「この呪術を使うのは道満に違いありません。」と晴明。

道長は、これにより道満を播磨国(兵庫県)に流したという話です。

伊周までに類は及ばなかったようですが、呪詛までしようという伊周と道長の確執は延々と続きます。いずれにせよ、晴明は道長とはかなり懇意だったようです。

◆ ◇ ◆ ◇

話を元に戻します。既に数週間前からこの「犯」が起きることが分かっていた安倍晴明は、藤原道長にこの事を話します。道長は

「晴明殿、その件は、実際に「犯」が起こるまで、誰にも黙っていて頂けないか。」

ということで、道長は早速、父・兼家と兄・道兼にこの話をします。

④元慶寺にある花山天皇
の御落飾(ご剃髪)記念碑
「それは使えるな。」と父・兼家。兼家は道兼に

「道兼、花山天皇に、「犯」が起きる当日、出家するように勧めよ。出家しないと民の安寧を崩す事態が起きるという陰陽道の話もせよ。」

「はっ、ただ私は陰陽師ではないので、どこがどう「犯」が起きているのかと帝に問われても、答えられる自信がありませぬ。帝と出家に向かう途中、晴明の屋敷の前を通るので、晴明から一言『帝が退位すべき兆候が天体に見える』と叫んでいただけまいか。さすれば花山天皇も、都第一の陰陽師・安倍晴明が言うのであるから間違いないと決意を固くされるでしょう。道長、晴明殿に頼んでおいて頂けぬか。」

「分かりました。」

ということで、前回のブログにも書きました通り、当日、晴明は道兼と花山天皇が屋敷の前を通りかかると

「帝が退位すべきとの兆候が天体活動に見られた。これを奏上して来なさい。式神!」

と言うのです。これにより花山天皇の出家の決意が固まったということも前回描いた通りです。

なので、安倍晴明は仲の良い道長の依頼により、このクーデターの片棒を担いだのではないかという説です。

2.兼家の謀略成功!

さて、この晴明の一言で、出家の決心ができた花山天皇。山科の元慶寺で髪を剃り落とし出家します。(写真④、⑤)

⑤花山天皇の剃髪を埋めたところに
目印として大岩を置いた?(元慶寺)

「道兼!どうした?お前も一緒に出家してくれるとさっき清涼殿で申したろう?」

と剃髪した頭を撫でながら、道兼に催促します。

「すみません。流石に出家して、もう家族とも縁を切るとなると、最後に父・兼家には最後の別れの言葉を述べて参ります。」

「えっ?・・・ちょっと待て!」

⑥藤原北家系図
※前回のものに道隆の息子・伊周や娘・定子を追記

と花山帝から花山院となったばかりの院の制止も振り切って、元慶寺を飛び出す道兼。その足でスタコラサッサと父・兼家の屋敷に飛び込むと

「父上!大成功でございます!」

「なに!よし、兼ねての手筈通りに進めよ。道長は関白・頼忠のところへ走り、花山帝が出家なさったことを伝えよ。」

「道綱は、既に懐仁親王の舎へ運び込んである三種の神器をもって、直ぐに践祚の儀(懐仁親王の天皇即位の前段)に移れ!」

と手際良く指示を出します。

懐仁親王は一条天皇として即位。また道長が頼忠へ花山天皇の出家を伝えると、これを止めることが出来なかった頼忠も責任を感じ関白の職を辞し、新たな摂関政治の主体は兼家に移るのです。そしてこの後に起きる長徳の変と併せ、この寛和の変の2つで藤原道長が「望月の欠けたることもなし」と詠む全盛がきます。

このクーデター話の最後に書きました道兼の出家の件ですが、彼は花山天皇と約束した「連れ出家」、毛頭する気はありません。最初から騙しですよ。花山天皇(院)は後に、騙されたことを知って大変悔しがるのですが、まだまだ花山院は、この後も「長徳の変」という藤原北家の権力闘争に翻弄される運命が待っていることを知りません。

3.当時の天文的事実の政治に与える影響

安倍晴明が天文観察という観点で「犯」についての事実を基に、道長等が動き、このクーデターを成功させ、ついには藤原道長の全盛期に辿り着くとなると、この天体観測による歴史的影響力は計り知れないものがありますね。

今の科学技術からすれば、天体の動きが政治的な施策に具体的な影響を与えるということは少々滑稽に感じるかもしれませんが、当時は本気で吉兆が動く兆しとして大変重要視されていました。

一番分かりやすい例が、このクーデターの3年後、989年に起こります。

⑦939年(永祚元年)のハレー彗星接近想像図
ハレ―彗星の出現です。しかも、この年のハレー彗星は太陽と地球との間に入り、なんと彗星の尾は地球にかかったのではないかと、現代の天文学者は分析しています。

ドラえもんの漫画でも取り上げられたので、皆さんもご存じと思いますが、1910年(明治43年)にもハレー彗星が地球に接近しました。この時も、地球に彗星の尾が掛かるということで、大騒ぎになりました。(のび太のご先祖が亡くなるかもしれないと慌ててタイムマシーンでドラえもんとのび太が救出に向かいます。)

「ハレー彗星の尾が地球の空気を汚染する」と。ただ、流石に1910年は科学技術が進んでいるので、もう少し話はまともになり、「彗星の尾に含まれるシアン等の有毒ガスによって、彗星の尾が地球にさしかかる5分間だけ大気が汚染される」という学説がまことしやかに噂されるようになり、当時、5分間呼吸をしない練習や、浮き輪が売れて中に入れた空気を吸うことで難を逃れようとした等、やはり色々な流言があったようです。実際は何も起きませんでしたが。。。(絵⑧)

⑧当時は浮き輪やチューブで5分間の
難を逃れようという噂もあった

1910年当時でもこの有様ですから、989年に同じような状況であると当時の日本人が認識できたら、それこそ日本中の神社仏閣を上げて、元寇来襲時以上の加持祈祷がなされたかもしれません(笑)。

実際に、そこまでせずに済んだのは、彗星の尾が地球に当たるという予測ができるほどに科学が進んでなかったこと(そもそも地球という概念がきちんと認識されていたかどうかも怪しい)が大きかったと思います。

ただ、「この彗星接近は、通常の接近と違い大きな忌事になる」と当時の陰陽師たちは予測したのでしょう。彗星が現れた翌月、元号を「永祚」(天からくだされる幸福という意味)に改変しています。現代では考えられませんね。

逆に、当時は自然災害から身を護るには「祈り」しかなかったのでしょう。なので、災難が来そうな予感を抑え、「天から幸福が来る!」と逆説的な元号に変えることが最大の防衛手段だったのかもしれません。浮き輪とどちらが有用でしょうか。

残念ながら、この件に関する史料等は殆ど無く、伝承としても安倍晴明ら陰陽師の活動等は残っていないようです。ただ、天文観測を基本とする陰陽師を束ねる68歳の彼が、この改元の検討に係わっていると考える方が自然でしょう。

勿論、現代に比べて科学的論拠の少ない時代、「物忌み」や「憑依」等と同じように超自然現象的に扱われた事は多かったでしょう。ただ、天文観測という1点において、解釈が科学的でなくても、動きを見る観察能力は科学的であった陰陽道だったと思います。式神とか、呪術のような「あやかし」のように見たのは、逆にこれらの学問を理解できない当時の人たちが作り上げた虚構であり、陰陽道を勉強し、世間の役に立てたいとした人たち自体は、誠実に真理探究に取り組んでいたものと思いたいですね。

4.競べ弓(弓争い)

989年の彗星大接近、これが忌事かどうかは置いておいて、ここから我々が良く知る平安時代のビックウェイブがやってくるトリガーになっているように感じます。

藤原北家内の権力闘争が大いに盛り上がり、皇后宮・定子、中宮・彰子や、それらの女官につく清少納言や紫式部。「枕草子」や「源氏物語」等、1018年に道長が「望月の欠けたることも無し」と詠むまでの20年弱は、平安時代の文化・政治の溢れ出る時期ですね。流石改元するほどの彗星接近は、人間の精神にも作用するようです。

まず995年までの6年間にあった有名な話を2つ程致します。

その1つが、高校の古文の教科書にも載っている「競べ弓(弓争い)」です。

気付くと、藤原北家は道長とその兄・道隆の権力闘争となっていました。系図⑨をご覧ください。兄・道隆の家は「中関白家(なかのかんぱくけ)」として関白の位を頂き、その栄華は絶頂を極めたのです。

その次の代、藤原伊周(これちか)、藤原隆家(たかいえ)、藤原定子(ていし)らも道隆というしっかりとした後ろ盾により、将来を約束されていたのです。(系図⑨)

⑨道長は長兄である道隆の息子・伊周らと対立

この頃の様子は定子に仕えていた清少納言によって書かれています。

と書けば、5男坊の道長なんて長男・道隆の闘争相手になれたの?と思われる方多いでしょう。

そんな道隆圧倒的優位の頃に起こったのが、この競べ弓の話です。

◆ ◇ ◆ ◇

「大鏡」に記されているこの話を簡単にまとめると以下のようになります。

ある時、中関白家では、弓の引き競べ会がありました。年若い藤原伊周が、圧倒的な強さ。関白・道隆も息子・伊周の活躍に面目躍如といったところです。

そこに何故か藤原道長がやってきます。関白・道隆の弟なので、「おもてなし」ということで、「まずは弓をお引きあそばせ。」と半分お遊びですよー、とのノリで伊周と弓の的当て競技をするのです。当然、年若い伊周が、集中力と技により余裕で道長に勝つだろうとの周囲の予測を裏切り、道長は伊周より2つ程数多く、的を射ぬきます。(絵⑩)

これは悔しい!と道隆も主家として心穏やかではありません。ここは中関白家の庭、道隆・伊周の家人ばかりです。

「道長殿、あと2回、あと2回延長なさいませ!」

⑩伊周と道長の競べ弓(弓争い)」
と道隆が叫ぶと、周囲の家人たちも声を揃えて「あと2回!あと2回」とやんややんや言います(笑)。

「くそ~、こやつら!何としても伊周の負けを認めたくないのだな!」

と少し腹が立つ道長は、弓矢を取って立ち上がるも、腹立ちまぎれに以下の掛け声と同時に射矢するのです。

「もし道長の家に帝や后が立つことあらば、この矢当たれ!!」

ドン!

と当たった矢は、的のど真ん中。

お~お~

流石の家人たちも吃驚します。
次に打つ伊周は戦意喪失。矢は当たるどころかヘロヘロと的外れな場所に飛んでいきます。当の伊周も、その父・道隆も茫然。

さて、これで勢いづいた道長。次の矢を番えて、また大音声で

「もし道長が、摂政、関白するなら、この矢当たれ!!」

ドン!

と当たった矢は、またもや的のど真ん中。

道隆は、完全に「しらけて」しまいました。やっとこの頃になって戦意を取り戻してきた伊周。ところが、矢を射ようとする伊周に対して、道隆は

「やめよ!競べ矢は終わりだ!」

と競技を中止し、伊周を、この場から引きずり下ろすという、気まずい、雰囲気の悪い状況になったようです。

この一事で分かるのは、道長の胆力の凄さです。1発ならいざ知らず、将来を宣言してそれを殆ど起こらないこと(的のど真ん中に当てること)に賭ける、偶然のようですが、2回もその宣言通りにしてしまうというのは、相当心臓に毛が生えた図太さがないと出来ない芸当ですよね。

5.紫式部登場!

さて、今年の大河ドラマの主役・紫式部がこの辺りで登場します。(系図⑪)

⑪紫式部が仕えた彰子こそ、道長栄華への切り札

実は、先に述べた寛和の変で花山天皇が出家したことにより、花山天皇の読書役だった紫式部の父・藤原為時の出世が凍結されたのです。その時、為時は式部大丞(しきぶのだいじょう、式部は式部省の略で、今で言う文部科学省のような部署、大丞は省内の第四位)という役職だったことから、後に、紫式部も「式部」と呼ばれるようになったようです。ちなみに「紫」は、源氏物語のヒロイン「紫の上」から来ているようですね。
⑫源氏物語の構想を練った石山寺にある紫式部像

その紫式部が寛和の変で父を追い落とすこととなった藤原道長の娘・彰子に仕えたのです。当時中宮という天皇の奥さんとなった彰子の退屈しのぎのために作成し始めたのが「源氏物語」という訳です。(写真⑫)

一条天皇ご自身は、最初の皇后である定子を深く愛しておられたのですが、道長の妹・詮子が道長を高く買っていたため、道長の助言を受け入れるよう息子・一条天皇に進言します。つまり道長の娘・彰子を定子と同格の后として迎えるようにと。そこで一条天皇はしぶしぶ、定子を皇后宮、彰子を中宮という后としては同格の地位にし、道長の面目を立てたのです。(写真⑬)

先の第1の矢、「もし道長の家に帝や后が立つことあらば、この矢当たれ!!」
はここに成就します。
⑬一条院跡 紫式部が日記に書いた「内裏」がここ。
当時の文化サロンの舞台となっていたようです。

6.長徳の変

道長の圧力は分かるが、どうして道隆・伊周ら中関白家が一条天皇に圧力を掛けないのかと思われるかもしれません。この時すでに、中関白家は「長徳の変」によって道長に駆逐されてしまっているのです。花山法皇も関係するこの事件、長くなりましたので、次回描きたいと存じます。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。