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伊能忠敬と高橋家 ~北斗七星を追え 番外編~

伊能忠敬(いのうただたか)は、ご存じのように50歳を超えてから、当時39歳の天文学者・高橋至時(よしとき)に師事し、55歳から測量を始め、「大日本沿海輿地全図」を71歳までの16年間、日本全国を測量して完成させたことで有名ですね。(写真①)

大日本沿海輿地全図(全体)
出典:Wikipedia

彼の地図の作りが、現代の地図にも引けをとらないような緻密さがあることの主要因が北極星にあることは、土地の測量技術の勘所をご存じの皆様は直ぐ理解できるところと思います。
このシリーズの冒頭・平将門から続く北極星信仰は千葉一族に引き継がれました。そして伊能家は、代々千葉一族の家臣だったのです。ということで番外編として伊能忠敬を取材してみたいと思います。北極星からの測定や、伊能家についての詳細は次回また詳細はお話するとして、今回は彼の師弟関係とお墓についてです。

◆ ◇ ◆ ◇

先日、東京都は台東区にある彼のお墓に行きました。(写真②)

②伊能忠敬のお墓

ちなみに伊能忠敬のお墓の少し左側に、彼の若き師匠・高橋至時(よしとき)のお墓があります。(銀色の看板が立っています。)
③伊能忠敬の左に師匠・高橋至時のお墓があります
共に燈篭・銀色の看板付きのお墓です

忠敬55歳の頃、子午線1度の距離がどれくらいかは、30里、32里、25里と色々な論があり、伊能忠敬は葛飾の自分の住居から、浅草にある高橋至時の居る幕府の天文所までの距離と緯度を計り、それで割り出そうとしました。

ここで大事なのが、「緯度」をどう計るかです。賢明な読者はもうお分かりだと思いますが、北極星に対する仰角を図るのですね。距離が分かる地点の仰角の差を割り出せば、1度の距離が割り出せるという理屈です。(図④)

④北極星は無限遠にあるため
仰角を図れば緯度が分かる

やはり伊能忠敬は千葉氏の家臣、北極星伝承だけではなく、合理的に北極星を活用します。

ところが、至時は言います。「そんな短い距離では誤差が大きすぎる」。「師匠、ではどれくらいの距離なら正確に割り出せますか?」と忠敬。「そうだな、江戸と蝦夷(北海道)くらいかな。」「ひえー、そんな遠くですか!」ということで、第1次測量が北関東~東北~蝦夷にかけて開始されました。

そして、割り出したのが28.2里。この直後に至時がオランダから取り寄せた西洋の天文書『ラランデ暦書』を解読。この本の子午線1度の距離が28.2里。ピッタリでした。そこでこの師匠・至時と弟子・忠敬は手を取り合って喜んだと言います。(写真⑤)

ラランデ暦書

ところがこの翌年、この高橋至時は伊能忠敬よりはるかに若いのに死んでしまいます。残り12年間、伊能忠敬は至時の息子・高橋景保と懸命に「大日本沿海輿地全図」の測量並びに作成に奮闘するのです。

写真③の至時のお墓の更に左奥、イチョウの木の先には、この至時の息子・高橋景保のお墓があります。ただ伊能忠敬や高橋至時のような看板等の解説が無いので、多くの方はスルーしてしまうようです。(写真⑥)

⑥高橋景保のお墓

伊能忠敬と一緒になり、忠敬が亡くなった後も「大日本沿海輿地全図」の完成に尽力した高橋景保のお墓が何故そのように扱われているのでしょうか?

どうやら、それはシーボルト事件が原因のようです。シーボルトがこの「大日本沿海輿地全図」を海外へ持ち出すことに加担したという罪で、景保は斬首刑となりました。罪人であるが故の悲しい扱いのようですね。(写真⑦)

⑦同じ墓所内にあるのに入口の石碑
に高橋景保の名前は無いのです

当時、海防に必死の幕府からすれば当然の扱いなのでしょうが、ちょっとかわいそうな気がしましたので、しっかりと高橋景保のお墓にも手を合わせて祈って参りました。

《おわり》

【伊能忠敬の墓】※私がGoogleマップに申請し受理されました
〒110-0015 東京都台東区東上野6丁目18−18