マイナー・史跡巡り: 北斗七星を追え⑤ ~この夜をば~ -->

月曜日

北斗七星を追え⑤ ~この夜をば~

 前回のあらすじ

弱冠19歳の若き天皇・花山天皇の気の迷いに付け込むと同時に、安倍晴明の天体観測による客観的な占いを基に、花山天皇を出家させた藤原兼家は、外孫である一条天皇を即位させます。

これで兼家を中心とした藤原北家は摂政関白職を手中にし、権力掌握が加速し始めます。

ただ、この後、兼家の息子・道長が台頭してくるのは、皆さんの良く知るところですが、異母兄弟含む5男(本妻の3男)である道長がのし上がるには、やはり同じ藤原北家内における軋轢があるのは当然です。(系図①参照)

前回では、この道隆ら「中関白家」と道長の軋轢が始まる「競べ弓」のエピソードを書きました。

今回は道長が、中関白家がありながらも藤原北家の出世頭となって行き、有名な「この世をば」の歌を詠むに至ったのかについて、分かりやすく解説します。

①中関白家と道長の対立

1.飲水病(いんすいびょう)

系図①をご参照頂きたいのですが、長徳元年(995年)4月10日に兼家の長男・道隆が急死します。(絵②)

②藤原道隆(Wikipediaより)

酒の飲みすぎによる糖尿病が死因のようです。当時、糖尿病は、水ばかり沢山飲むので、飲水病と言って恐れられたようです。平安貴族には多い病気ですね。今のように栄養学的な知識も無い当時は、贅沢病の一種としてかかる人が多かったのでしょう。

ご存じのように、「脚気(かっけ)」も平安貴族には多い病気です。白米や日本酒等、高度に加工された炭水化物ばかり摂取し、ビタミンB1が不足すると起きる病気ですが、それもやはり栄養学を知らないことによるものですね。

ちなみに飲水病は織田信長も罹っていたようですよ。

話を戻します。

長男・道隆が亡くなると、関白職を継ぐのは花山天皇を出家に追い込んだ次男・道兼です。(絵③)

③汚れ役を兼家から任された道兼(Wikipediaより)
ところが、職を継いだ数日後に、病(流行病?)で道兼も亡くなってしまうのです。

「七日関白」と呼ばれていますね。

ただ、少し怪しくないですか?幾ら流行病だと言っても、995年4月27日に関白職の宣下を受けて、5月8日に亡くなるまでの間、ほぼ病臥しているなら病死というのも分かるのですが、一度「陣定(じんさだめ)」という新しい政権展望の会を開催しているのです。これは健常者でなければできないと思うのですよ。となると・・・呪詛?また表には出ない安倍晴明を介した誰かの陰謀とすれば・・・ 晴明と仲の良い友・道長の可能性大ですね。

まあ、これは文献を探しましたが、残念ながら見当たりません。でも今年の大河ドラマならやりそう(笑)。そんなチンケな話ではないですよね。「光る君」は。(と期待しておきます。)

2.長徳の変

道隆、道兼が相次いで亡くなると、お鉢が廻って来るのは、道長ということになります。ところが道隆の嫡男・伊周、彼が黙っていません。(絵④)

④藤原伊周(Wikipediaより)

多分、伊周は道長と前々から馬が合わなかったのでしょうね。「小右記」によると、道隆が亡くなって3か月も経つ頃、周囲も震え上がる程の凄まじい大口論を交わしたとか。

更に伊周の弟・隆家の従者が、道長の警護者を殺してしまうという事件も起き、道隆亡き後の中関白家の伊周・隆家兄弟と道長との険悪な雰囲気が最高潮に達します。

そこで起きたのが、長徳の変です。

◆ ◇ ◆ ◇

またもや花山法皇が出てきます。若干19歳で出家した花山法皇。当時まだ29歳ですから、まだまだお盛んなのは分かりますが、ある女性の所に通っていたのです。忯子(よしこ)が亡くなったことを悲観して出家した意味がないですね。しかもですよ、その女性は、忯子の妹なのですよ。四の君と言いました。忯子に似ていたのですかね。この当時、よく似た姫を好きになる殿方は多かったようです。

源氏物語にも宇治十帖という終盤のお話がありますが、あれも薫という貴族が恋をした宇治の姉が死んでしまい、従妹の浮舟という姫がそっくりなので恋をする、そんな話でした。もしかして浮舟は四の君がモデルかもしれません。

話を戻します。(2回目)

この四の君には、三の君という姉も同じ屋敷に住んでいました。この三の君は伊周の恋人だったのです。

で、この屋敷を出入りする花山法皇を見て、伊周は自分の恋人に会いに来ているのではないかと誤解するわけです。伊周はこの誤解を相当悩みます。花山法皇は皇室ですから。公然と非難する訳にもいきません。思いあぐねた伊周は、弟・隆家にだけはこの悩みを打ち明けるのです。

「隆家、本当に困った。あの花山法皇が私の恋人である三の君のところに通っているようなんだ。」

「またですか?あの御仁も困ったものですな。忯子様を悼んで御出家なさったかと思えば、妹である三の君に懸想ですか。しかも兄上の恋路の邪魔をするとは。少しお灸を据えないといけませぬな。」

隆家は、屋敷に戻ると、早速一人弓の達者な従者を呼び指示をします。

⑤為光公が建立した法住寺
「いいか、為光公(ためみつ:忯子、三の君、四の君の父親の名)の屋敷の南門を暁七つ(早朝の4時)の頃に弓矢を持って見張れ。門を坊主が出てきたら、その歩みの先に矢を突き立てよ。そいつは坊主の癖に夜這いに来ている不埒モノだからな。その坊主も、忍んできているのだから、為光公の守衛が賊と思い矢を射られるのは道理だと恐れをなして2度と来なくさせるのだ。」

「分かりました。確かに赦せない坊主です。脅しましょう。」

と従者は素直に従い、翌朝早暁には為光邸の門が良く見える付近の小丘の松の影に隠れます。

すると門の切戸がかすかな音を立てて、開くのが分かります。慌ててこの従者、矢立から矢を取り出し、番えます。真冬のまだ暗くて寒い早暁です。番えるのにも手が凍えてしまいます。

「おっ?」

従者は隆家の言葉から、若さにかまけて夜這いを掛けている程度の並みの若僧を想像していたのですが、かなり良いなりをしていることと、その若僧の後から二人の童子が出てきたことに驚きました。付き添いなのでしょう。

ーこれはもしかして高貴な方なのかもしれないが。。ー

ーえーい、ままよ!ー

とばかりに寒さに凍える手で矢を放つと、若僧の前の地面を狙ったのに、なんと若僧の衣の袖を射抜いて、後ろの童子二人の前の地面に突き刺さったのです。
⑥長徳の変を分かりやすく1枚のイラストにすると・・・
出典:「イラストで学ぶ楽しい日本史」

「ひいいい~」

と悲鳴を上げたのは、若僧ではなく童子です。一人の童子が矢を引き抜こうとその矢に近づいた瞬間

うぐ!

とその童子は胸から背にかけて、射抜かれました。

「ひいいい~」

と声を上げる暇もなく、次の瞬間、もう一人の童の首が地面に転がります。従者がその場に駆け付けていたのです。

若僧は、その場に腰を抜かしてガタガタ震えています。

「2度とこの屋敷には近寄りませぬように。」

と童子の首2つを持った従者は、花山法皇に低い声で言い置き、去っていきました。

◆ ◇ ◆ ◇

「百錬抄」という公家の日記により構成されている史料には、「童子二人を殺して首を持ち去った」と書いてあるのです。彼が童子というまだ幼き子を殺害した理由は、隆家の従者の仕業であることを隠蔽するための非常手段だったのでしょう。

花山法皇は、恐怖と体裁が悪いことから、このことを口外しませんでした。ところがやはり噂は広がるのです。どうやら為光邸の中からこれを見ていた者もいたのでしょうね。

3.陰陽師の影

この噂を大いに活用したのが藤原道長です。ライバルである伊周蹴落としの時機到来とばかりに行動します。まずは噂を京の都で大流行させます。本来、親族の起こした不祥事。被害にあった花山法皇の名誉のためにも、鎮火していくのが普通ですが、反対に、フイゴで火種を大きくするが如く噂を大きくするのです。

⑦芦屋道満(Wikipediaより)
そして、一条天皇の耳に、この噂が入ったところで、道長は行動を開始します。
花山法皇は、出家したとて元・天皇です。矢を射かけるなどもっての外。ということで、まずは隆家、出雲の国に左遷を決めます。従者はどうなったのかは分かりませんが、まず死罪は逃れられなかったのでは?彼に指示した隆家が左遷位で済んだのは、まだ良い方かもしれません。

次は伊周ですね。ただ、伊周は自分の恋人が花山院に寝取られたと誤解しただけです。それを隆家に相談したという程度では、伊周という中関白家の御曹司を左遷するのは難しいです。

ここで出てくるのが呪詛です。そうです。実は伊周は安倍晴明のライバル・芦屋道満を取り込んでいたのです。(正確には伊周の叔母・高階光子が雇っていました。)

そして、高階家は道長呪詛、詮子呪詛の疑いが持たれ、更に伊周は大元帥法という国家(朝廷)しか使ってはいけない呪術法を用いたということの罪も重ね上げられ、大宰府へ左遷させられることになるのです。

これももしかすると、高階家に雇われた芦屋道満が伊周らの裏で手を引いていて、道満の動静を常に意識している安倍晴明から道長へ、報告が上がっていたのかもしれません。それを基に伊周の追い落とし材料にしたのだとすれば、やはり長徳の変の裏にも、このブログのテーマである北斗七星を追う陰陽師の影響力がかなりあったのかもしれませんね。

いずれにせよ呪詛嫌疑で左遷される等、およそ今では考えられない世界ですが、この当時は真面目に捉えられていた。つまり呪詛の効能がハッキリしていたということなのですかね。怖いことです。

4.関白にならない道長

伊周と隆家の追い落としのきっかけを作ったこの「長徳の変」。ちょっとチャラい感じがしなくもないですが、道長も単に色恋沙汰の変事だけで軽はずみに、一条天皇に奏上したりはしていません。

そもそも一条天皇は、妻・定子との仲の良さから、中関白家とは好意的な付き合いをしてきたのです。(図①参照)

一条天皇の母親である詮子が泣いて頼んで道長を内覧という高い地位に推挙したので、しぶしぶ道長を持ち上げた一条天皇に下手な奏上を道長がすれば、直ちに中関白家と一条天皇はつるんで、道長の方が蹴落とされる可能性も高い状況なのです。

なので、花山法皇へ弓を引いた不敬罪に加えて、伊周の呪詛等、天皇家への不敬という形を取り、一条天皇が無視できない形にしたのです。

⑧摂政は天皇を補佐すべき事由が明確な時の役職
関白は事由なくても補佐役であるという役職
※出典:中学受験ナビ
これにより、伊周と隆家は左遷させられる訳ですが、その後、道長が簡単に上り詰めることができたかというとそれは違います。

一条天皇と反りが合わないのです。なので、関白には付きません。(図⑧)

関白になるということは常に天皇側に立った役割を果たし、実際の行政機能を持つ太政官と対立しなければならない場合も多々あります。

なので、反りが合わない天皇というか、心底信頼関係を築けない天皇との間で関白になることは、太政官にいる高級官僚と上手くやっていくという点で軋轢を生みかねないのです。

この構図は一条天皇の次の三条天皇でも続きました。(表⑨)

⑨道長は外孫である後一条天皇まで摂政・関白には就かず

5.この夜をば

そして、外孫である後一条天皇が11歳になると、道長はまた4女をこの外孫へ嫁がせます。既に先代の三条天皇には次女を嫁がせていることから、一条天皇の嫁いだ長女の彰子含め、3人の娘を3代の天皇に嫁がせたことになります。

「これは凄い!」

と叫んだのは、今の大河ドラマでロバート秋山が扮する藤原実資(さねすけ)ですが、この後、もう1度実資は宴会中の道長の歌を聞いて「これは凄い!」と言っちゃいます。(写真⑩)

⑩ロバート秋山扮する実資
出典:NHK大河ドラマ「光る君へ」

それが、かの有名な「この世をば 我が世とぞ思う望月の 虧(かけ)たることも なしと思えば」の歌です。実資が宴会中に道長が詠んだ歌を、日記に記録したことによって、後世の我々も知るところとなる名歌になった訳ですね。

◇ ◆ ◇ ◆

この名歌誕生に纏わる様々な説もあります。まずこの歌の返歌を求められた実資が、道長の声音だけで書き取った歌なので、じつは「この世をば」ではなく「この夜をば」ではないか、と言う説が出てきました。

この日は満月一歩手前で、自分の子女3人を天皇へ嫁がせることが出来た気分の良い夜に出る月は、「欠けているところは無い望月のように見える。何と気分の良い夜よ!」

と歌ったというのです。実際、今の天文学者は、この宴会のあった日の月は満月一歩手前のほんの少し欠けていた月だったと分析しています。もしかしたら、道長が謳歌した程度というのは、「この世」等と大層なものではなく、「この夜」と宴会の一夜程度を詠った可能性は高そうです。

実資は道長に批判的だったこともあり、「うわ、こいつこんなに得意になって謳歌してしまっているよ~」的に少々誇張して歌を後世に伝えたのではないかと。

また、10年前に詠んだ紫式部の歌を真似たという説もあり、その説から辿ると望月の栄華は、3人の子女たちを満月に例えたのではないかという説もあります。

6.終りに

歌は兎も角、確かに天皇家に3人もの子女を連続で嫁がせたことは、道長の出世という観点で、当時凄いことだったに違いは無いのでしょう。ただ、私にはなぜそれが偉業なのか、日本という国にとって何がプラスだったのか、いまいちピンと来ないのです。

そういう方多いのではないでしょうか?なので、逆にこの歌を歌う道長ら平安貴族の時代ってどうよ的に思ってしまったり、深い関心を持って知りたいと思わなかったりする方も多いのではないでしょうか。

ご存じのように、この時期「刀伊の入寇」という事件があります。また別に調査をしてブログで描きたいと思いますが、簡単に言うと大陸(現在のロシア領・ウラジオストックの辺り)からの対馬、博多への外敵(女真族)襲来です。(図⑪)

⑪刀伊の入寇
出典:「イラストで学ぶ楽しい日本史」

ここから約250年後に来る蒙古襲来、いわゆる元寇に比べれば、規模は小さいですが、日本が初めて外敵の襲来を受けるのは、この「刀伊の入寇」が最初なのですね。これについて以下のような事を言う人も居ます。

「ああ、元寇と刀伊の入寇の順が逆だったらどうなったろう。元寇が鎌倉時代でまだ良かった。平安時代、この自己保身中心の貴族の世に元寇が来たら、日本はひとたまりもなかったに違いない。」

確かに、今までお話したような出世等の自己保身的な貴族ばかりであれば、元寇に対処することは難しかったかもしれません。

ただ、私が期待するのは、この「刀伊の入寇」の時に大活躍するのが、先にお話をした藤原隆家なのです。出雲に左遷された後、色々な経緯があり大宰権帥(だざいのごんのそち)として大宰府に赴任していた隆家が、左遷されても腐ることなく、ちゃんと日本を護る覚悟で戦っているのです。

詳細はこれから調べますが、権力争いに汲々としているように見えるこの時代の藤原摂関政治も、もしかしたら捨てたものでは無いのかもしれない。その辺りを、これから希望を持って調査していきたいと思います。

長文・乱文にも係わらず、ご精読頂き、誠にありがとうございました。

《おわり》

【法住寺】〒605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り655