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北斗七星を追え!⑦ 〜天海の江戸設計〜

前回、天海について有名な伝承、明智光秀の代わりが天海ではないかについて論考してみた。

今回は、光秀と入れ替わったかどうかは別としても、この後、天海(当時は随風)は会津の蘆名氏を頼り、北上してからの経緯を簡単にまとめ、また彼の設計した「江戸を守る東照大権現」計画についても、他の計画の対比も含めて描いていきたいと思う。

1.喜多院で「天海」と名乗るまで

武田家が滅亡したように、蘆名(あしな)氏も天正17年(1589年)の「摺上原(すりあげはら)の戦い」で伊達政宗と激突し、大敗を喫した。

①天海の兜「麒麟前立付兜」

この戦いの際、驚くべきことに天海(当時は随風)は甲冑姿で出陣

したと伝えられている。

彼が蘆名家の出身であるという説は有力だ。自身の出身家の一大事とあれば、僧籍にありながら戦場へ赴いたという動機にも納得がいく。

しかし天海は、後に家康の顧問となってからも、関ヶ原の戦いにおいて鎧兜を着用して参戦したという記録が残る。

この戦を好むかのような振る舞いは、明智光秀が亡くなった後の時代であることも手伝い、「やはり天海は元武将の明智光秀ではないか」という伝承の根拠として語られがちだ。

それを象徴するのが、天海の遺品である「麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)」だ。大河ドラマ『麒麟がくる』が記憶に新しいが、光秀が追い求めた「麒麟」を彷彿とさせる前立てが、この兜には据えられている。

また、巨大な半月状の指物(さしもの)も見る者を圧倒する。これは北斗信仰や天体による風水を自在に操った天海ならではの、独特な風格を強調しているのだろう。(写真①)

2.家康の風水顧問

蘆名家が滅亡すると、天海は武蔵国(むさしのくに)の無量寿寺(むりょうじゅじ)北院(のちの喜多院)へと移った。ここで豪海(ごうかい)僧正に師事し、その名から「海」の字を譲り受け、これまでの「随風」を改めて「天海」と名乗るようになった。(写真②)

②天海像(日光東照宮)
ちょうどその頃(天正18年、1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めが始まり、戦後に徳川家康は関東への移封(国替え)を命じられる。秀吉から、大坂と立地が似ている江戸の地を勧められた家康は、さっそく土地開発に着手した。しかし、この未開の地を拠点とするにあたり、単なる軍事的な防衛だけでなく、地相や方角の観点から「都市の永続性」を担保できる知恵者を必要としていた。

天海は天台宗の奥義のみならず、陰陽道や風水、さらには都市計画にまで通じた知識人であった。その博識ぶりに家康が深く帰依(きえ)したことが、二人の緊密な協力関係の始まりとされる。

それにしても、天台宗の本山である京から遠く離れた関東において、なぜ天海に白羽の矢が立ったのだろうか。家康の周囲から「武蔵国の北院に、光秀に面影の似た高僧がいる」という噂が耳に入り、興味を持った可能性は否定できない。

家康にとって、光秀はかつて織田信長暗殺という大事件を起こし、自らの運命をも激変させた男だ。もしその光秀が生きており、僧として隠棲しているとしたら、その優れた知略を徳川の天下取りに利用したいと考えたとしても不思議ではない。

事実、家康は天海と初めて対面した際、周囲を遠ざけて二人きりで数時間にわたり密談したと伝えられている。歴史の表舞台から消えたはずの光秀と、突如として家康の懐刀となった天海。この二人が同一人物であるという噂が家康を動かす動機になったのだとすれば、その後の江戸開府に向けた異例の抜擢も筋が通る。

この密談を経て、家康と天海の間には強い信頼関係が生まれた。かつて比叡山の麓である坂本の地で、京を霊的に守護する風水の理を学んでいた天海は、その知見を惜しみなく提供した。今度は家康が造り上げる「江戸」という「東の京」の守護を万全にし、荒野を平和の礎へと造り変える。この天海のビジョンは、平和な世を求めていた家康の要望と完全に一致した。

江戸という土地が持つ力を最大限に引き出し、徳川の治世を永続させる。これこそが、二人の邂逅(かいこう)が生んだ歴史的なプロジェクトの始まりであった。

③上野公園(旧寛永寺境内)にある天海僧正毛髪塔

光秀としての過去を背負い、兜に頂いた「麒麟」、つまり戦のない世を願ったのであれば、天海が江戸の町造りに「霊的な守護」を組み込んだ理由も合点が行く。では、彼らはどのようにして、江戸を強固な防衛都市へと変貌させたのだろうか。

3.霊的防衛都市の設計

天海が家康に提示したのは、江戸城を霊的中核(センター)とした防衛都市構想であった。その根幹は、大きく次の3点に集約される。

  1. ④江戸城を中核とした
    天海の霊的防御構想
    江戸城を中心に据える:京の御所が当時の首都の中心であったように、江戸の設計も御所と同じ霊的な位置づけで行う。
  2. 鬼門と裏鬼門の封印:上記の設計思想に基づき、北東(鬼門)の守りとして、京の比叡山に匹敵する大寺院を置く。また、南西(裏鬼門)については、点ではなく面的な守りによって災厄の侵入を防ぐ。
  3. 北斗信仰の活用:古来、関東では平将門の時代から、不動の北極星や北斗七星を崇める信仰が盛んであった。武士の拠り所であるこの信仰を活用し、武士の連携強化と強い幕府の完成を目指す。

天海が実際に施した具体的な霊的防御の配置を見てみよう。
  • 鬼門(北東)の守り:東叡山寛永寺(上野寛永寺:写真③)

  • 裏鬼門(南西)の守り:日枝神社、増上寺、山内満願寺、富士山、久能山東照宮

  • 北斗信仰(真北)の守り:江戸城の真北に位置する日光に東照宮を造営し、徳川家康を神(東照大権現)として鎮座させる

この具体案がこのシリーズの冒頭に表示した図④(再掲)となる。

この3つの要素のうち、鬼門・裏鬼門の封印は、京の御所の設計思想を色濃く反映している。

《京都御所の鬼門と裏鬼門》
  •  鬼門 :比叡山
  • 裏鬼門 :壬生寺(みぶでら)、石清水八幡宮
⑤江戸城の北にある北斗信仰拠点
しかし、3つ目の「北斗信仰による日光東照宮」という発想には、江戸ならではの明確な意図が隠されている。これには、かつて同じ関東に幕府を開いた鎌倉幕府の反省があったと考えられる。

鎌倉幕府の創設者・源頼朝は、家康のように神格化されなかった。勿論、頼朝の時代は神格化と言ってもせいぜい「八幡大菩薩」の化身として扱われる程度であったこともある。
その結果、頼朝に始まった源氏将軍はわずか3代で途絶え、以降は平家の末裔である北条氏が執権として実権を握ることになる。北条一族にとって、頼朝を絶対的な神君として据え置くことは、自らの権力を維持する上で都合が悪かったのだろう。

これを徹底的に分析し、逆手に取った霊的防衛を図ったのが天海の東照大権現構想である。まり、家康自身を絶対的な「神」として祀り上げることに成功すれば、その子孫が代々将軍職を継承することの正当性を、誰にも文句のつけられない形で合理化できる。
⑥加藤清正が揮毫したと
伝わる「豊國大明神

将門塚が江戸城の鬼門にあり、また前回も掲載した図⑤(再掲)に見られるように、北斗信仰の強い土地柄であることも活用すれば、自ずと江戸城の真北・日光に家康の霊的な根拠地を作ることが大事であることは明白である。

この霊的な結界の完成にこだわったのが、2代将軍・秀忠と3代将軍・家光だ。家康自身は長年、豊臣秀吉をはじめとする大坂以西の大名に悩まされてきたため、将来の脅威は西国大名であるという、現実的な軍事リスクを想定していた。戦国時代を生き抜いた武将らしい、極めて現実的な視点だ。

これに対して、より形而上(スピリチュアル)な観点から幕府の永続を考えたのが天海であり、その結果、家康の霊柩(れいきゅう)は久能山から日光へと改葬されることになった。こうして結界図④の形が完成したのである。

ちなみに、家康を神格化するにあたっては「大明神」か「大権現」かで激しい論争があった。しかし、豊臣秀吉が「豊国大明神」という神号を授かりながらも豊臣家が滅亡してしまったため、その前例を嫌って「大権現」に決定したという経緯がある。(写真⑥)

4.鉄壁の霊的防御

「江戸を守る東照大権現」という観点から見ると、天海が設計した風水都市・江戸の機能は、後世において遺憾なく発揮された。

⑦西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑(静岡市内)
先述した「駿府の久能山から西国を睨みつける家康の視線」という防衛効果も、260年の時を経てついに破られる日がやってくる。しかし、その家康の睨みを浴びながら進軍してきた西郷隆盛率いる新政府軍(官軍)は、幕府側の勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟という「幕末の三舟」の尽力により、江戸城無血開城に漕ぎ着けた。これにより、江戸は壊滅的な戦火を免れることになる。

江戸城無血開城といえば、三田の薩摩藩邸における勝海舟と西郷隆盛の会談が有名だが、実は明け渡しの根本的な約定は、久能山のふもとである駿府(静岡市)において、山岡鉄舟が西郷隆盛と直談判したことで成立していた(写真⑦)。

ここで、無血開城に至る主な経緯を整理しておこう。

  1. 徳川慶喜の恭順と謹慎:最後の将軍・徳川慶喜は朝廷に対して恭順の意を示し、天海が江戸城の鬼門守護として建造した上野寛永寺に籠もって謹慎した。

  2. 高橋泥舟の推薦:慶喜からの信頼が篤い幕臣・高橋泥舟は、義弟である山岡鉄舟を新政府軍への交渉役として勝海舟に推挙した。

  3. 駿府での直談判:山岡鉄舟は東進する官軍の陣が置かれた駿府へ赴き、実務トップである大総督府参謀・西郷隆盛と交渉。「江戸城明け渡し」に関する5か条を提示させた。

  4. 最終合意:三田の薩摩藩邸にて、西郷隆盛と幕府の陸軍総裁・勝海舟が細部を詰め、3月15日に予定されていた江戸総攻撃を中止させる最終合意に達した(写真⑧)。

⑧三田にある江戸開城の石碑
この歴史の歩みは、まるで天海が260年前に施した風水都市の設計図通りに動いているかのように見え、実に興味深い。

まず、慶喜が謹慎先に選んだ上野寛永寺だ。ここは天海が京の比叡山を模して造営した鬼門守護の要である。山号の「東叡山」は「東の比叡山」を意味し、比叡山延暦寺が「延暦」という元号に由来するのと同様に、寛永年間に造営されたことから「寛永寺」と名付けられた。

かつて京の比叡山は、後白河天皇や後醍醐天皇など、動乱の際に多くの天皇が避難所とした歴史を持つ。

徳川慶喜が東の比叡山である寛永寺に身を置いたのは、こうした皇室の故事に倣(なら)った側面もあったのだろう。(もちろん、寛永寺の住職である天台座主は皇室から迎えられていたため、官軍としても皇族が門主を務める寺院には容易に攻撃を仕掛けられない、という現実的な政治計算もあった)。

結果として、鬼門の寺で恭順を示した慶喜は、助命されて水戸での謹慎となり、江戸の町は無血開城によって守られた。

天海が仕掛けた「江戸を守る東照大権現」の防衛システムは、260年の歳月を経てもなお、形を変えて生きていたと言えるのではないだろうか。

⑨江戸城搦手にある半蔵門
5.幕府BCP計画(服部半蔵 vs 天海上人)

ここまでは天海による霊的なアプローチを見てきたが、少し視点を変えて、現実的な軍事防衛の話をしてみたい。実は江戸幕府の黎明期、天海とはまったく異なるアプローチで「幕府BCP(事業継続計画)」を策定していた人物がいた。

服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさしげ)である。

半蔵は家康率いる伊賀忍者部隊の筆頭として知られているが、本能寺の変の際、家康の命がけの「伊賀越え」を成功させた実績など、有事における実務能力を幕府から高く評価されていた。

彼は単に主君の危機を救うだけでなく、将来の江戸幕府全体が危機に瀕した際のBCP計画を冷徹に練り上げていた。

天海が「江戸城」という場所に焦点を当て、風水による霊的守護を張り巡らせたのに対し、半蔵の計画は極めて実質的で、現代の私たちにも理解しやすい。

半蔵の計画はこうだ。

彼の名が冠された江戸城の「半蔵門」(写真⑨)

こここそが彼の立案した江戸幕府BCP計画の第1ゲートである。

この半蔵門は、甲州街道(現在の国道20号)と直結している。この街道を西へ向かって約100キロメートル以上突き進むと、ひとつの堅固な目的地に突き当たる。

甲府城である。(写真⑩)

⑩甲府城
かつて甲斐国(山梨県)を治めた武田信玄は、「人は石垣、人は城」と謳い、本拠地に大規模な城郭を築かなかった。

自国を出て敵地で戦うことを旨とし、「攻撃こそ最大の防御」という戦略を貫いていたためだ。

後に武田勝頼が新府城(現・韮崎市)を築いたが、従来の中心地からは離れた長野県境に近い場所であった。

つまり、現在残る甲府城は、武田家が滅亡して徳川の支配地となってから、新しく築城されたものだ。

実は、この甲府城の建設こそ、半蔵が隠したBCP計画の終着点であった。そしてこの半蔵の防衛ラインを、260年後の幕末に鮮やかに活用したのが、ほかならぬ勝海舟である。

長くなったため、勝海舟が半蔵の隠した計画を利用する話については、次回に譲ることとする。ご精読に感謝。

 《つづく》

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📍 喜多院:埼玉県川越市小仙波町1丁目20-1(Googleマップで開く

📍 天海僧正毛髪塔(上野公園内):

東京都台東区上野公園1 清水観音堂裏(Googleマップで開く

📍 豊國神社:

京都府京都市東山区大和大路通正面茶屋町530(Googleマップで開く

📍 西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑:

静岡県静岡市葵区御幸町3-21地先(Googleマップで開く

📍 江戸開城の石碑:

東京都港区芝5丁目33-8 第一田町ビル敷地内(Googleマップで開く

📍 半蔵門(江戸城跡)

:東京都千代田区麹町1丁目1(Googleマップで開く

📍 甲府城(舞鶴城公園)

:山梨県甲府市丸の内1丁目5-4(Googleマップで開く