マイナー・史跡巡り: #家康
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マイナー・史跡巡り
訪問した史跡を繋いでいくと物語になります。
点・点とある史跡が、このBlogにより結ばれ、史跡巡りが楽しくなって頂ければ幸いです。
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木曜日
秀吉の天下統一➂ ~宇都宮仕置~
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前回は小田原城の総構えを囲む、秀吉軍20万の包囲網が完成、大規模な石垣山城を付城とし、開城を促したところまで述べた。 今回は、その続きを解説する。 1.石垣山城でのエピソード2つ 小田原城を見下ろす位置に石垣山城を築いた秀吉。ここで有名なエピソード2つを改めてご紹介する。 《家康...
月曜日
家康の大樹⑧ ~三方ヶ原の戦い 後編~
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前回のあらすじ ①三方ヶ原古戦場碑 ※前回の武田軍、家康軍布陣の真ん中 辺りにこの石碑があります。 とてもとても勝ち目はないことは分かってはいます。しかし、ここで戦わなければ遠江は実質信玄の手中に落ちたも同然となり、家康は国を奪われるだけでなく、武将としての信用も無くなり、屍(し...
木曜日
家康の大樹⑦ ~三方ヶ原の戦い 中編~
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前回のあらすじ ①本多平八の鎧 1572年10月、武田信玄は西上作戦を開始します。この作戦で最初に攻略すべき武将は隣国、遠江・三河の徳川家康。龍虎相まみえる形で軍神と言われた上杉謙信と川中島合戦で凌ぎを削った武田信玄にとって、正直、この時31歳の家康は「ひよっ子」のように見えたの...
家康の大樹⑥ ~三方ヶ原の戦い 前編~
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前回までのあらすじ 桶狭間合戦で、今川義元の先鋒として活躍していた元康(後の家康)は、義元討死の報をもって三河の岡崎へ帰ります。義元の後継者である氏真は、求心力を失い、離反者が増える一方であるがため、元康は今川を離れ、日の出の勢いの隣国・織田信長と同盟を組みたいと考えます。と...
土曜日
家康の大樹⑤ ~清州同盟へ~
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上洛に伴う今川義元(よしもと)の尾張(おわり)侵攻戦略の中、松平元康(もとやす、後の徳川家康)は、今川軍本隊に先行して大高城への兵糧搬入と、信長軍側が大高城へ付けた鷲津・丸根の両砦への攻撃、そして陥落と沢山の戦果を挙げました。その直後 「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」 の...
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