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木曜日

秀吉の天下統一➂ ~宇都宮仕置~

前回は小田原城の総構えを囲む、秀吉軍20万の包囲網が完成、大規模な石垣山城を付城とし、開城を促したところまで述べた。

今回は、その続きを解説する。

1.石垣山城でのエピソード2つ

小田原城を見下ろす位置に石垣山城を築いた秀吉。ここで有名なエピソード2つを改めてご紹介する。

《家康とのつれしょんべん》

①日本の首都となる東京は
この連れしょんで決定?

さてある日、秀吉は家康の手をとり、石垣山に登る。眼下に広がるは難攻不落の小田原城。

「御覧あれ、徳川殿。あの城の命運ももはや風前の灯。北条が滅びた暁には、この関八州、そっくりそのまま御辺に進ぜようぞ!」と秀吉。

さても豪快なるは、その次の一言。「ささ、共に小便を仕ろうではないか!」と言うなり、小田原城に向かって威勢よく放尿。

これこそが後世に伝わる「関東の連れ小便」の吉兆伝承である。関八州古戦録に記録されたものだが、後世の創作であろうという説が有力である。

《伊達政宗との謁見》

東国に覇を唱える北条氏を討つべく、秀吉は全国の大名に小田原への参陣を厳命。これに遅れればお家取り潰しは必定!

奥州の独眼竜こと伊達政宗は若干23歳。会津の蘆名氏を滅ぼし、奥州の覇者となったところで、「蘆名氏との戦は惣無事令違反」とされ、上洛して釈明せいとの秀吉の要請も無視していた状態。そこに最後通牒のように降ってきた小田原参陣要請。無視して秀吉と一戦交えるか、参陣して臣従するか。。。悩んでいるうちに時は経ち、小田原征伐は開始されていた。

「今更参陣しても遅い。いちかばちか秀吉と一戦交え、天下をとるか、伊達家が滅亡するか

しかし、北条方の城が次々と落ち、本拠・小田原城も落城寸前との報に、さすがの政宗も自らの甘さを悟る。もはや万事休すかと思われたその時、独眼竜はただでは死なぬと一計を案じる。

死装束である白の麻衣をその身にまとい、石垣山城へと遅参してきた伊達政宗。(絵②)

②白装束で弁明する政宗
「遅参の罪は、この首一つにてご勘弁願いたい!」

この常軌を逸した度胸と芝居がかった振る舞いは、怒れる天下人・秀吉の度肝を抜き、その興味を引くことに成功。

結果、斬首は免れたものの、苦労して蘆名氏より手に入れた会津の地は召し上げられることに。政宗は、この石垣山城での謁見において、天下の広さと秀吉という男の巨大さを、骨の髄まで思い知らされたのだった。1か月後、小田原城は降参、開城する。まさにギリギリでヒヤヒヤモノの政宗であった。

その後、政宗は改めて後述する宇都宮城にて秀吉に引見。領地の決定を受けることとなる。

2.小田原城開城までの経緯

小田原城は、支城がことごとく陥落し、外部からの援軍の望みも絶たれた。

城内では、徹底抗戦か降伏かを巡って議論が紛糾した(後に小田原評定と呼ばれる)。

最終的に、約3ヶ月の籠城の末、当主の北条氏直は降伏を決断し、天正18年(1590年)7月5日に小田原城は開城した。

この結果、

  • 当主の氏直は、妻が徳川家康の娘であったこともあり、助命されたが、高野山へ追放された。
  • 主戦派であった父の氏政と叔父の氏照は切腹を命じられ、戦国大名としての北条氏は滅亡した。

この小田原征伐の完了をもって、豊臣秀吉による天下統一は成し遂げられたとされる。

3.その後の北条氏

氏直は、家康らがとりなしに入ったこともあり、翌年の天正19年(1591年)2月には赦免された。

なんと、同年8月には大名への返り咲きまで果たした。しかし、その直後の11月に疱瘡(ほうそう)で亡くなるという、あまりにも残念な結末を迎える。せっかく北条家復活の光が見えてきた矢先の病死であった。

ここで北条家も終焉かと思いきや、あの籠城戦で粘りに粘った韮山城主である北条氏規(うじのり)が、これまた徳川家康の取り成しもあって河内(現在の大阪府)に所領を与えられた。氏規は氏直の叔父にあたる人物である。

そして、その氏規の息子である氏盛(うじもり)が1万1千石に加増され、大名入りを果たしたのだ。この家系は狭山藩として、幕末まで続くことになるのである。(写真③)

③日比谷公園はかつて北条氏・狭山藩上屋敷があった場所

4.鎌倉での秀吉

20万という大軍をもって小田原城を攻め落とした秀吉。

天下統一を果たし、大坂へ引き上げたいところであったが、元来、日本の西地域で活躍していた秀吉である。関東まで来たのだからと考えたのかどうかは別として、彼はさらに東下を続けた。

天正18年(1590年)7月17日、秀吉は鎌倉へ入った。

彼はまず鶴岡八幡宮に参詣し、源頼朝の像と対面を果たしたのである。(写真④)

④当時鶴岡八幡宮内白旗神社にあった頼朝座像
(東京国立博物館蔵)

このとき、秀吉は頼朝像の肩を叩きながら、次のように話しかけたとの伝承がある。

「自分は農民の出から、お前さんは罪人の身から天下を取った。徒手空拳から天下を取ったのは、俺とお前さんくらいしかいないだろう。」

そして、さらに続けた。

「しかし、お前さんのご先祖は関東で権威があった。だから、血統の良いお前さんが挙兵すれば、多くの武士が従ったはずだ。それに比べて、自分は名もない卑しい身分から天下を取ったのだから、自分の方がお前さんより偉い。」

どこまで史実かは分からないが、その理屈は理に適った話である。いずれにせよ、小田原征伐が成就し、天下統一を果たした秀吉ならではの感慨だったのかもしれない。

5.江戸の見分

頼朝が奥州征伐(奥州藤原氏を征伐)のために鎌倉を出発したのが7月19日だったことに因み、秀吉も同じ7月19日に鎌倉を出立する。秀吉の場合、先に述べたように奥州の覇者であった伊達政宗を石垣山城にて臣従させていたため、奥州征伐は必要なかった。しかし、仕置(領有等に対する支配体制の確定)は必要不可欠であった

⑤宇都宮仕置に向かう途中
江戸を検分する秀吉
鎌倉を出発して秀吉がまず立ち寄ったのは江戸である。(絵⑤)

関東一円を収めるにあたり、江戸を拠点とすべきと家康に言ったのは、実は秀吉のようだ。

幾つかの観点で秀吉が江戸をすすめた説があるが、大きく2つの説を取り上げる。

(1)江戸の潜在能力を見抜いた説

一つ目は、当時の江戸が主要な街道が通り、江戸湾の海上交通や河川交通の便が良い場所であったことだ。

秀吉は、江戸が将来的に関東支配の中心地として、大きな発展の可能性を秘めていることを見抜いていたという説である。個人的には、これを発案したのは家康かと思いきや、秀吉だったとは意外である。もちろん、家康もこの考えに同調できたからこそ、江戸を選択したのだろう。

(2)家康の脅威を排除する説

もう一つは、今回、家康が130万石から関東240万石への大幅な加増を受けたことによる脅威の排除である。

秀吉は家康を、関東・東北の諸大名への押さえとして期待する一方で、その実力を恐れていた。

小田原城は、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた難攻不落の城であり、巨大な総構が築かれていたことは前述の通りである。このような強力な要塞をそのまま家康に与えることは、将来的な脅威になりかねないと、秀吉は判断した可能性がある。

これに対し、当時の江戸はまだ発展途上であり、家康に一から拠点を築かせることで、その力をある程度コントロールしようとしたというのだ。

秀吉は、常に相手のことを考える誠実さの裏で、しっかりと保身策も裏で練っている。これこそが天下人としての器なのであろう。

6.結城城への立ち寄り

さて、話を戻そう。

江戸を出た秀吉は、その後、常陸の結城城に7月25日に到着した。ここでも秀吉は徳川家康への配慮を示している。

家康の次男である秀康は、すでに秀吉の養子となっていた。この秀康を、名家である結城氏の養嗣子(家督相続をする養子)にすることが、この結城城にて決定されたのである。

ここに、結城秀康が誕生した。

このとき、結城氏には、周辺地域で北条側であった豪族の土地が分け与えられている。

⑥下野国にある結城城跡

7.宇都宮仕置

秀吉は結城城を出立し、翌日の7月26日には宇都宮城へ到着した。

秀吉の到着前から、宇都宮城には常陸国の佐竹義宣や陸奥国の南部信直といった東北・関東の大名が出頭していたのだ。

秀吉は、この城で約10日間にわたり、仕置(戦後の領土確定や人事などの支配体制の確定)を断行したのである。(写真⑦)

⑦宇都宮仕置が行われた宇都宮城

最近の研究で分かってきたことなのだが、関東や東北の雄たちは、小田原へ参陣したかどうかが宇都宮仕置における重要な処分の分かれ道だったと思われていた。

しかし、この宇都宮仕置中に宇都宮城へ出頭するかどうかも、重要な判断基準であったようだ。

例えば、下野国の那須資晴は、宇都宮までわずか一日の距離にいながら、病気を理由に出頭しなかった。このため、秀吉は領地没収に踏み切ったのだ。

また、徳川家康は、すでに小田原で関東地方への移封を内示されていたが、7月29日に宇都宮城であらためて秀吉に会い、公式な通達を受けた。

途中江戸を見てきた秀吉は、家康に対し、

「権大納言殿、やはり江戸は広大な関東の拠点として申し分ない。大坂城と似ている。江戸城を改築なされい。」

のようなことを言ったであろう。

この宇都宮仕置の通達を受けて、家康が公式に江戸に入ったのは、この後の8月1日とされている。(江戸入府)

8.奥州仕置

宇都宮城への参集でも、またしても伊達政宗は石垣山城の時と同じく遅参を犯しているのだ。

宇都宮仕置から奥州仕置、そしてその後の問題に至るまで、天下統一の完成には伊達政宗の動向が大きく影響している。

次のシリーズでは、この伊達政宗を中心に、その辺りを詳しく書いていきたいと思う。

ご精読に感謝する。

【小田原城本丸跡(北条氏時代)】〒250-0045 神奈川県小田原市城山3丁目14

【石垣山城跡(一夜城)】〒250-0021 神奈川県小田原市早川1383−12

【鶴岡八幡宮 白旗神社】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1

【結城城跡】〒307-0001 茨城県結城市結城2486−1
【宇都宮城跡】〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町1−15

月曜日

家康の大樹⑧ ~三方ヶ原の戦い 後編~

前回のあらすじ

①三方ヶ原古戦場碑
※前回の武田軍、家康軍布陣の真ん中
辺りにこの石碑があります。
とてもとても勝ち目はないことは分かってはいます。しかし、ここで戦わなければ遠江は実質信玄の手中に落ちたも同然となり、家康は国を奪われるだけでなく、武将としての信用も無くなり、屍(しかばね)武将となりかねません。

決死の家康は浜松城での籠城戦に備えて準備をします。ところが、信玄はそんな家康をあざ笑うかのように、浜松城を無視して西上を続けるのです。

―おのれ、信玄。通り過ぎればワシがホッとするとでも思うたか!-

家康は冷静な判断をするのが難しくなっていました。この感情に流された判断を、信玄は待っていたのです。

祝田の隘路坂を下っている武田軍に後ろから一撃を加えようと、浜松城を打って出た家康軍を、三方ヶ原台地で待っていたのは、完璧な布陣の武田軍。家康のすべての作戦を読んだ上でその裏をかいた信玄。家康軍はぎったんぎったんに三方ヶ原合戦でやられます。(写真①)

家康は、途中危ない目に何度も遭いながらも、何とか浜松城まで逃げおおせるのです。

今回はこの続きからです。

②三方ヶ原合戦屏風図
※左上の家康に鎗を繰り出す中央の人物が山県昌景
右側に武田信玄。左下に本多平八郎が蜻蛉切(鎗)
で武田軍の武将を倒しています。

1.鎧掛松

雲立楠(前回のブログ参照)の洞に隠れ、命からがら浜松城へたどり着いた家康。何故か城内に入る前に、兜は脱がず、鎧だけ脱いで近くにあった松に掛けます。これが有名な鎧掛松です。(360°写真③)

③鎧掛松

真偽の程はともかく、家康は三方ヶ原合戦で、あまりの恐ろしさに、馬上で脱糞したという伝承は有名ですね。この鎧掛松を最初見た時、私は咄嗟に、城に戻れば当然鎧兜を侍女らに脱がされる訳ですから、色々とバレてしまうのを回避するために、この松に掛けたのでは?と妄想しました(笑)。

ところが色々と調べると、家康は浜松城へ逃げ帰ってきた時、供回りがあまりに少ないので、浜松城の留守居役たちが、「あんなに少人数が殿の訳がない」と誤認して、中々城内へ入れなかったという伝承があります。もしかすると、それで城外で家康が鎧兜を脱げば、姿・形もはっきりするし、なにより敵ではないという意思表示になりますよね。だからこの松の場所で鎧兜を脱いだのかな?と想像してしまいました。それなら神君家康公の御威光も曇らないですよね。

まあ、この松は3代目ですし、元々はもっと濠の方にあった等、どこまでが史実でどこからが伝承かについて色々と議論があるようですが。。。

さて、家康が命辛々浜松城へ逃げ伸びている頃、浜松城付近の犀ヶ崖では、またも勇猛果敢な三河武士、とりわけ本多一族による身を楯にした防衛戦が繰り広げられていたのです。

2.犀ヶ崖の攻防戦

三方ケ原で、家康軍を圧倒的な強さで蹴散らした武田軍は、敗走する家康軍を追いかけ、浜松城近くのこの犀ヶ崖まで侵攻してきました。(地形絵④)

④浜松城の北北西に位置する犀ヶ崖
は城の外濠的な役割を担っていたと
考えられます。

家康軍はこの崖に布で橋を渡したところ、武田軍の多数の武者が、橋が布であることを知らず崖下に落ちたとの伝承が残っています。この崖、現在も浜松市内の普通の街中に残っています。(360°写真⑤)

犀ヶ崖古戦場

かなり深い谷になっていますね。

⑥犀ヶ崖古戦場にある
本多忠真顕彰碑
さて、この場所で何としても武田軍の侵攻を食い止めねばと奮戦したのが、本多平八の伯父本多肥後守忠真(ただざね)です。実は平八の育ての親なのです。(平八の父親は、このシリーズの第1話でお話をした、今川家の軍師・雪斎が、家康を織田家から奪還し直した戦い(安祥合戦)で戦死しています。

忠真は、殿(しんがり)を買って出ます。この犀ヶ崖の脇に旗指物を突き刺し、

「ここからは一歩も引かぬ!」

と叫んで武田軍に刀一本で切り込み、家康を逃す時間稼ぎをし、討死を果したようです。(写真⑥)

◆ ◇ ◆ ◇

最近、大河ドラマ「どうする家康」に出てきた本多忠真(浪岡一喜氏)は、飲んだくれ武将として描かれていましたね。ただ、忠真が飲んだくれだったという文献を私は見つけることができませんでした。何を根拠に描いたのでしょうか?

何となく想像なのですが、大坂の陣で激戦区となる天王寺茶臼山近くに一心寺という大きなお寺があります。その境内に平八の息子・本多忠朝(ただとも)の立派なお墓があります。彼が飲んだくれだったことは有名で、大坂冬の陣の時に飲酒が原因で敗退する失態をやらかし、家康に叱責される始末。

⑦本多平八の息子・忠朝の墓
(天王寺の一心寺)
名誉挽回と大坂夏の陣で先鋒を務めるのですが、功を焦ったためか、戦死してしまいます。死に際に、自分の酒癖を悔い、将来酒のために身を誤る人を助けたいと言って事切れたそうです。それ以来、酒封じの神として、酒癖に苦しむ人たちが忠朝の墓に参拝するようになったのです。(写真⑦)

このお墓の廻りの壁には、沢山の杓文字(しゃもじ)が下げられております。これらはすべて酒封じ祈願が書かれた絵馬であり、懸命に忠朝に酒断ちを祈願する人が、今も後を絶ちません。(写真⑧)

多分、この忠朝との血縁関係があるので、酒癖は遺伝するともいうことから、この三方ヶ原合戦で殿(しんがり)を務めた本多忠真もその気(け)があったのでは?という仮定で作られたのかもしれませんね。

3.浜松城での空城計

浜松城へ逃げ帰った家康は、帰城後、孫子36計の1つ空城計を適用することで、浜松城に迫った武田軍を追い払います。空城計とは、諸葛孔明も用いたことのある孫子の兵法で、城を守るために用いるのではなく、攻める敵を城内に引き入れる、つまり城を「袋のネズミ」の「袋」にする。そして城に誘い込まれた敵は、伏兵やら隠れ兵やらにより、字義通り「袋叩き」にして殲滅する、というものです。

⑧酒断ちを祈願する人たちの杓文字が
忠朝の墓の廻りに沢山掛けられている

「城門という城門を開き、松明を門の外側と内側に立てよ!そして全軍、静かに物陰に隠れよ!」

と下知し、浜松城の家康軍は家康の言う通りにします。

実は、家康は空城計を真似たところで、武田軍を「袋叩き」にできるとは考えておりません。では、何故この策をとったのか?

彼は「一か八か」にかけたのです。それは、この圧倒的な「負け」の状況において、普通なら最大限ガードを固くして、城に籠ろうとするのが本能です。

ところがこの本能に反して城門を開け放ち、「さあどうぞ入ってください」とばかりのノーガード。

⑨矢吹ジョーの
両手ぶらり
思い出したことがあります。ボクシング漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈の得意技にクロスカウンターという必殺技があります。この必殺技は相手の打ち込みの勢いを利用して、自分のカウンター攻撃の破壊力を倍増させることで致命打を負わせるものです。相手の自分に対する打ち込みが強ければ強いほど、致命打にしやすいのです。なので矢吹丈は、この技を繰り出す前は、必ずと言って良いほど、ノーガードにするのです。漫画では、これを「両手ぶらり」と呼んでいました。(絵⑨)

これ結構不気味です。ノーガードで「どこからでも打って頂戴」的な雰囲気を醸し出すと、敵は「何かあるかも。不気味」と思うのでしょうね。矢吹ジョーの対戦相手も何人かはリングの中を逃げ回って恐怖に駆られ、焦って一発カウンターを打ってしまい、クロスカウンターの餌食になる なんて場面もありました。

浜松城のノーガードもこれと同じで、「何かあるに違いない」と武田方の武将たちも用心して攻めなかったのです。

ただ、信玄は当然、孫子の兵法も熟読していますので、空城計は知っていますし、これが虚勢を張った「なんちゃって空城計」であることは見抜いていたかもしれません。なので、「まあこれくらいにしておいてやろう。どうせ浜名湖西側の城という城、岡崎城までを全部落とせば浜松城は孤立する。」と読んだのでしょう。見逃したのですね。

また空城計は後世家康が神君と言われるようになる頃、後付けで作られた話という説もあります。実際には、家康が帰城してからはバタバタで、三方ヶ原合戦で落ちていた坊主首を鎗の先に刺して城内を廻り、「信玄の首を取ったから、皆安心しろ!」との虚言を用い、この喧騒を収めたという伝承もあるようです。(写真⑩)

⑩浜松城と家康公像
※空城計では手前の大手門も開け放ったのだろうか?

⑪武田軍進軍ルート(再掲)
いずれにせよ、帰城する三方ヶ原合戦のボロボロになった兵士を迎え入れるために、城門は空け放たれていたことと、たまたま武田軍の都合で浜松城に攻め寄せなかったという2つの事実から、後に「あれは、あの混戦の中でも、神君家康公が空城計を編み出したのだ」ということに整理されたのではないか、というのが私の持論です。

4.武田軍撤退

この三方ヶ原合戦で大勝利した武田軍はそれから西に移動し、野田城を攻めます。(地図⑪)

野田城自体は小さな城で、この時徳川方の守備兵数は500程度。

ここで1つ不思議なことが起きます。1572年10月に青崩峠を越えてきた武田軍は破竹の勢いで2,3日に1つの割合で城を落とし、三方ヶ原合戦に臨んだのは2か月後の12月。

ところが、その後、この野田城1つ落とすのに2か月も掛かっているのです。

勿論、野田城が小さいながらも河岸段丘上に造られた堅固な城だったので、武田軍は穴掘り部隊が井戸の水脈を切るために、延々とトンネルを掘るという気長な戦術を取ったというのもあるかもしれませんが、2万5千の武田軍は、野田城の50倍もの兵力を有しているのですし、それまでの進軍速度を考えると、2か月もかかるのはあまりに遅い侵攻です。

⑫野田城(左)から包囲軍の信玄に銃撃が
あった瞬間(映画「影武者」より)


更に不可思議なのは、1573年2月にこの城を落とした武田軍は、地図⑪のように、信州の駒場に戻ってしまうのです。

そう、信玄急死ですね。病死という説が有力のようですが、その病気にも様々な説があり、結核、胃がん、肝臓病、甲州特有の地方病等が挙げられております。

他にも信玄狙撃説。これは野田城包囲戦により、穴掘り部隊がトンネルを掘っている期間中に、夜な夜な野田城内で美しい笛の音が聞こえてくるとの噂を聞きつけた信玄が「一度その音を聞いてみたい。」と、包囲軍の中に着座位置を設け、笛の音が聞こえる夜中にそこに座った瞬間、野田城内に居た狙撃兵が信玄を撃ち重傷を負わせ、それが基で信玄が死んだという説ですね。黒澤明監督の映画「影武者」はこの説が採用されました。(写真⑫)

いずれにせよ、1573年4月12日、信州駒場の長岳寺で火葬され、荼毘に付されました。(写真⑬)

⑬長岳寺
お寺の方のご説明では、死亡診断が武田領内で
出たのがこの寺なので、信玄死亡が正式に宣言
された場所とみなされているとのことです。

◆ ◇ ◆ ◇

「大ていは 地に任せて 肌骨好し(きこつよし) 紅粉を塗らず 自ら風流」

信玄辞世の歌です。意味は以下の通りです。

世の中皆、世間に合わせ生きるのでよい。その中で上辺を飾るような生き方をするのではなく、自分の本心に素直になり、自分らしさを見つけ生きることだ。

ちょっと説教臭い辞世の歌と思われるかもしれません。急死なのであれば、もしかすると周囲の人が、チョイスした可能性もあると思いますが、やはりこの歌は信玄らしいと私は思います。

⑭信玄の最期(画:月岡芳年)
三方ヶ原合戦での圧勝、これは今までの信玄の努力のプロセスを考えると当然のことなのです。村上氏をはじめとする信濃平定の苦労、軍神・上杉謙信と川中島等でしのぎを削ってきた事など、信玄にとって、最強の騎馬軍団と武田四天王・二十四将を駆使できるこの体制を作り上げるまでには並大抵の努力では無かったでしょう。

家康もそうでしたが、それ以上に屈強な軍団の長である二十四将等の家臣から信頼を得ること、まとめ上げることの難しさ、信玄はそれを若い時から痛感していたのでしょう。時には家臣団に仕え、時には「諸葛孔明、泣いて馬謖を斬る」が如く、信頼していた家臣を斬捨てざるを得ない状況等、散々苦労した過程の中で、作り上げた経営哲学みたいなものなのが、三方ヶ原の圧倒的な勝利という形に結実していたのです。

「本心に素直になる」、これは上に立つ人にとって、簡単なようでかなり難しいことなのだと思います。結局、家康もこれが出来るようになって天下人になれたのでしょう。

そして家康は、散々痛めつけられたにも係わらず、この強敵・武田信玄を一生敬うのは、信玄の組織に対する苦労を痛いほど分かるからなのではないかと思います。

いずれにせよ、この三方ヶ原の合戦の失敗から多くのことを信玄から学んだ家康は、この後、信玄のような「野戦の名将」とまで言われるまでに成長するのです。

長文・乱文失礼しました。また、最後までご精読頂き、誠にありがとうございました。

《「家康の大樹」第1部了》

《執筆ブログ一覧はこちら》

【鎧掛松】〒430-0946 静岡県浜松市中区元城町103−2
【犀ヶ崖古戦場】〒432-8014 静岡県浜松市中区鹿谷町25
【一心寺・本多忠朝の墓】〒543-0062 大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目8−69 一心寺境内
【浜松城】〒430-0946 静岡県浜松市中区元城町100−2
【野田城】〒441-1345 愛知県新城市豊島本城
【長岳寺】〒395-0303 長野県下伊那郡阿智村駒場569


木曜日

家康の大樹⑦ ~三方ヶ原の戦い 中編~

前回のあらすじ

①本多平八の鎧
1572年10月、武田信玄は西上作戦を開始します。この作戦で最初に攻略すべき武将は隣国、遠江・三河の徳川家康。龍虎相まみえる形で軍神と言われた上杉謙信と川中島合戦で凌ぎを削った武田信玄にとって、正直、この時31歳の家康は「ひよっ子」のように見えたのではないでしょうか。

国境である青崩峠を越えて2万5千の軍勢で遠江へ侵攻した武田軍。犬居城を通り浜松城の北北東の位置の二俣城の攻撃を開始。家康は、偵察のために浜松城を出馬しますが、大将が出馬する偵察という中途半端な目的意識で部隊を編成したため、直ぐに武田の先発隊にバレてしまいます。慌てて退却を開始する家康。追撃するのは、武田四天王の1人・馬場信房(のぶふさ)の最強部隊です。撤退しながら苦しい交戦をしていると、天竜川方面に、やはり疾風の如く先回りをしようとする信玄の近習の軍。挟撃される全滅の危機を家康が感じた時

「殿、ここはお任せ頂き、逃げきってください。」

と申し出たのは、本多平八郎忠勝(以後、本多平八)。(写真①)

カッコいいですね。今日はこの本多平八の一言坂での戦いぶりから始めます。

1.一言坂の戦い(後編)

 殿(しんがり)を請け負った本多平八は、まず野原に火を掛け、馬場信房軍を攪乱します。そして攻撃の手が緩んだその間に、一言坂の坂下という不利な位置で置盾を3段に組み、馬場隊の攻撃を防ごうとします。(図②参照)

②「一言坂の戦い」を一言で描くと・・・

ところが、流石は馬場隊、この置盾組を2段まで撃破します。

あわや3段目も撃破、本多平八も「これまでか!」と坂下への退却を開始しようとすると、なんと坂下には信玄の近習・小杉左近の鉄砲隊が一斉射撃を開始し、本多隊の退路を断つのです。元々、殿(しんがり)部隊というのは、かなりのダメージを受けることは覚悟の上で、全滅することも珍しくありません。

なので、本多平八もある意味、全滅も覚悟の上で殿を請け負っているのです。

「挟撃だ!全軍死んだと思え!」

「殿、なんということを言うのですか。将たるものが諦めれば、士気は上がりませぬぞ。」

「いや、このままでは全員討死しかない。俺が全員の命を貰った。これから我々は『大滝流れの陣』で『死兵』となって、小杉の鉄砲隊へ突撃!」

③現在の一言坂
と、言うや否や、「蜻蛉切」という6m余りもある天下の名鎗を馬上で軽々と操って、小杉の鉄砲隊へ蜻蛉切を繰り出します。『大滝流れの陣』と聞いた兵士たちは、皆顔面蒼白、皆死を覚悟して鉄砲隊へ五月雨に突入していきます。

この『大滝流れの陣』、関ヶ原の戦いで島津義弘らが見せた『捨て奸(すてがまり)』と似ています。両方とも捨て身の玉砕戦法なのです。最初から『死ぬ気』で止まっている兵に突進していくのが『大滝流れの陣』。その気迫等に気圧されて、突撃された敵は怯みます。つまり『死中活あり!』の気魄の戦い方なのです。

実際、「蜻蛉切」を構えた本多平八の勢いに飲まれた小杉左近。怯んだかどうかは定かではないですが、死兵としての気迫に道を空けてしまいます。

結果、本多平八隊も大した損害も無く、無事家康の殿(しんがり)を完遂するのです。

◆ ◇ ◆ ◇

後日、小杉左近は以下の歌を詠みます。(詠んだのは左近ではないとの説もあります。)

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」

唐の頭(とうのかしら)とは中国大陸から輸入したヤクの毛を使った兜です。(絵④)

④徳川家康 唐の頭
唐からの輸入品なのでかなり高級なのですが、信玄より数段落ちる武将だった当時の家康には身分不相応なものだとの揶揄ですが、もう一つ身分不相応に持っているのが本多平八。

武田信玄には勇猛な武将が多々居ましたが、家康なぞ・・・という意識もあったのでしょう。それほど本多平八は、家康家臣の中でも傑出した勇猛果敢な武将だったのでしょうね。

この「過ぎたるものが二つあり。」のフレーズは、後に以下の有名な狂歌にも使われます。

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」

2.信玄、家康を無視する

この後、信玄は大井川を北上して二俣城方面へ向かいます。そして二俣城がこの後12月19日に落ちるのですが、この間、家康は何ら有効な手が打てません。

これは、遠江一円には、まだ支配力が浅い家康としては負の影響力大です。天野氏等、既に遠江の北の豪族らは家康を離反しています。

このように家康領内である遠江で獅子の如く暴れまわる武田騎馬軍団。

勿論、家康も指を咥えてみているだけで全く行動しなかったわけではありません。

信長への援軍要請は幾度も行っています。ところが信長もこの当時、将軍・足利義昭との対立がはっきりしてきており、浅井・朝倉連合や石山本願寺との対立、いわゆる「信長包囲網」という苦境に立たされていました。また織田信長は、以前から武田信玄とも同盟を結んでおり、この包囲網のタイミングで信玄とも表立って事を構えたくはなかったものと思われます。なので佐久間信盛を始め、平手 汎秀(ひろひで)、林秀貞、水野信元等、織田家中の名だたる武将の軍勢を西三河から岡崎城までの、浜松城より西側に密かに配備。直接浜松城へ出向いた兵力は3,000程度で展開したのです。

たった3,000ではありますが、信長との連合体も整った家康。武田軍が浜松城へ寄せて来ると予測し、籠城戦に備えます。

家康の予想通り、二俣城方面から、遠江を南下し、家康の本拠・浜松城へ迫る武田軍。ところが、急に西に転進し、浜松城の北を、家康らを無視する形で三河方面へ軍を進めるのです。(地図⑤)

⑤三方ヶ原合戦前の武田軍の動き

「馬鹿にするな!」

と家康は憤慨します。
もし、このまま浜松城に貝のように籠っていて、去り行く信玄の尻を眺めているだけの家康となれば、北遠江の離反だけでなく、遠江全体へ家康のガバナンス能力のなさを披露し、遠江の豪族は誰もついてこなくなります。

「浜松城に向かってきた信玄が、直前で転進”と聞いた時の家康のホッとした顔!」

と皆に笑われ、以後は離反者の増加、信玄からも舐められ、屈辱のうちに家康は、信長の小さな一家臣に留まることになりかねないのです。

家康の兵、8,000と信長からの援軍3,000の併せて11,000は、なんとしても信玄と戦わねばなりません。

3.祝田の坂

⑥祝田の坂(旧坂)
二俣城で山県昌景(まさかげ、やはり武田四天王の一人)隊等とも合流し、27,000となった武田軍の不可思議な浜松城放置プレイ。

「家康、叩く価値無し!」

と信玄が思ったからでしょうか。家康はそう思われた!と剥きになりますが、実は信玄は、この頃喀血の頻度がかなり高くなってきたのです。

「京の瀬田にこの風林火山の馬印を立てねばならぬ!急がねば!」

と、焦った信玄にとって、家康の浜松城なぞは
「捨ておけ!どうせ奴らから、挨拶しに来るだろう!取り囲むのは時間の無駄じゃ!」

と読んでいたに違いありません。そして転進後、しばらくするとムカデ衆(探索及び伝令部隊)から、「家康ら11,000浜松城を出て、我々を追撃する気配を見せております。」と伝えられると、
信玄はニヤリとします。「やはりな。」

◆ ◇ ◆ ◇

一方、家康側は、転進した武田軍が三方ヶ原台地の北端、祝田(ほうだ)の坂を降りて浜名湖方面へ向かおうとする動きを察知。
この時、家康は咄嗟に考えました。

「信玄め!三方ヶ原台地の北端の祝田の坂を下る気だな。あそこはかなりの隘路になっているはずじゃ(写真⑥)。
浜松城を今から出陣して武田軍の背後から襲い掛かれば、敵は反転しても、あの坂では少人数ずつしか繰り出せないはずじゃから、片っ端からのしてやれ!浜松の地の利はワシの方が信玄よりよーく分かっているのじゃ!」

と、浜松城を打って出ます。

「信玄が祝田の坂を下りきる前に、後ろから斬りつけるのじゃ!全軍急げ!!」

4.三方ヶ原合戦
⑦武田信玄が反転して家康を
待ち構えた「根洗の松」

ところが、信玄は家康より1枚上手です。この家康の動きを想定していたのです。
家康が浜松城を打って出たとムカデ衆(伝令部隊)は信玄に上申します。

「やはり来たか。予想通りだ。よし、急ぎ引き返せ!」

と全軍に指示します。

祝田の坂を降りている最中の武田軍は、進軍をストップすると廻れ右をして、また三方ヶ原台地へ登り返します。

そして約7丁(800m)程、来た道を戻ると、三方ヶ原の根洗の松のあたりに本陣を敷設。27,000の軍勢を魚鱗の陣で配置し、余裕で家康軍の到来を待ち構えます。(地図⑧)

さて、一方、祝田の坂まで一気に走り、追撃戦に入ろうとした家康軍。

ところが、祝田の坂のかなり手間で、武田軍がしっかりと布陣しているのを見つけ、狼狽えます。

「祝田の坂を下っているのではないのか?」

夕刻せまる三方ヶ原台地に、武田軍は西日に照らされた赤い甲冑を更に緋色に染めながら、見事な隊列を組んで待ち構えているのです。騎馬隊の馬のいななきも制御され、統率の取れた魚鱗の陣構え。

美しい!流石は武田の最強軍団だ!

と敵ながら家康軍の誰もが感心してしまった次の瞬間、最前列の小山田隊辺りから、次々に顔面大の石が飛んできました。

い、痛い!

ガキの喧嘩じゃあるまいし。と思いつつも、当たるとかなりの打撃です。
ところが、家康軍11,000は街道を、後から後から押し出してくるので、軍の先頭はこの投石の餌食です。家康軍の先頭集団は「押すな!押すな!」状態。

自然と隊列は投石に当たらぬよう横に横に広がり始めます。(地図⑧)
⑧三方ヶ原合戦布陣図(Google Map利用)

これが後世に、「なぜ家康は、迎撃する敵よりも兵の数が多くなくてはならない『鶴翼の陣』を三方ヶ原合戦で敷いたのか?」と議論百出する陣形になった所以ではないでしょうか?

一説には、「家康も信玄が自分たちの倍以上の兵を用いているのが分かっていたので、一度鶴翼の陣にすれば、信玄はもっと大きな鶴翼の陣を敷くだろうから、信玄の本陣が手薄になった瞬間に乾坤一擲の一撃を加えるつもりであった。」等の説もありますが、「押出かつ急ブレーキによる横展開」が本音ではないかと筆者は現場に行って思いました。
⑨鶴翼の陣と魚鱗の陣

しかも、兵数が多いにも係わらず信玄は敵に切り込みやすい「魚鱗の陣」です。(図⑨)
更に機動力抜群な騎馬隊を持っています。

兵数で言うとアベコベの陣形です。本来数の多い信玄側が鶴翼の陣、数の少ない家康が魚鱗の陣が正統な形です。

実は、信玄は過去にこのアベコベ陣形を余儀なくされ、ピンチになった経験があるのです。

◆ ◇ ◆ ◇

ご存じ、川中島の戦い(第4次合戦)において信玄は、「啄木鳥(きつつき)戦法」で妻女山の上杉謙信(当時は上杉政虎)の陣へコッソリと、12,000の兵を送り、謙信らに急襲をするという計画を立てます。啄木鳥が木を激しく嘴で叩くと、木の中の虫が飛び出してくるのと同様に、慌てふためいた上杉軍13,000は妻女山を飛び出すとの想定です。勿論、その場でかなりの上杉軍は討ち取る計画。しかし、川中島方面に逃走していく上杉軍もいるので、川中島には、信玄本隊8,000が、鶴翼の陣で待ち構え、逃走上杉軍を包囲・殲滅するという作戦でした。
ところが、上杉謙信はこの信玄の作戦の裏をかき、上杉軍13,000を、12,000の武田啄木鳥隊が到着する直前の夜中に妻女山からコッソリ川中島へ移動させ、翌朝霧が晴れると、8,000の信玄本隊の目の前に、13,000の無傷の上杉軍が構えているのです。
兵数が少ない不利な鶴翼の陣の信玄に対して、謙信は兵数が多い上に「車懸り」という魚鱗の陣の変形のような密集陣形で突進、猛攻してくるため、もう少しで信玄本隊は総崩れになるところだったのです。そうなる直前に12,000の妻女山へ送った啄木鳥隊が、謙信の裏かき作戦に気付き、川中島へ戻ったので、上杉軍は撤退。撤退間際に、かの有名な写真⑩の謙信と信玄の一騎打ちとなった次第です。

⑩ご存じ川中島合戦における
信玄と謙信の一騎打ち
三方ヶ原古戦場に立った時、筆者はそれを思い出しました。だからこそ、ワザと信玄は家康が鶴翼の陣を敷くように投石等で工夫したのではないかと思ったのです。戦の経験豊富な信玄なら、ひよっ子の家康に兵数が少なくても鶴翼の陣を敷かせること自体、朝飯前なのかもしれません。

◇ ◆ ◇ ◆

話を戻します。

この武田軍の投石により火蓋が切られた三方ヶ原合戦。だ良く状況が呑み込めていない家康の各隊ですが、武田の前線軍と交戦を余儀なくされます。
その最中、武田軍の後方に構える真田昌幸、武田勝頼、馬場信房らの騎馬隊が、三方ヶ原台地の平らな土地に、縦横無尽に馬を走らせ、家康軍の横脇から突撃してきます。

あっという間に家康軍は総崩れ。戦闘開始から2時間も経たない日没の夜陰に紛れ、浜松城方面へ散り散りとなって大敗走をするのです。

5.家康敗走にまつわる伝承

家康もこの戦の敗走で、馬上で脱糞する程の恐怖に駆られて、浜松城に逃げ込んだという伝承は有名ですが、浜松城にまで逃げ切る間の伝承を2つ程、ご紹介させてください。

1つ目は浜松八幡宮にある雲立楠です。(写真⑪)
⑪雲立楠

ここは、敗走した家康が敵の目を逃れるため、この大楠の洞に身を隠したとの伝承があります。浜松八幡宮の神木であるこの大楠は、源義家が勧請したと言い伝えられていました。家康は駿府で修業している10代前半の頃には「吾妻鏡」を諳んじられる程の源頼朝好きだったとのことですから、当然源家の元祖・義家には高い関心を持っていたはずです。浜松城近くのこの神木も、義家勧請であると知っていたに違いありません。

「戦の神様・八幡太郎殿(義家のこと)、どうか我が身をお守りください!」

⑫浜松八幡宮
武田の追手が大楠周辺にも到着し、八幡宮社内に逃げていた家康軍の雑兵を捕え、殺害します。家康も「もう見つかる!そら見つかる!」と夜陰の中、楠の洞に身を捻じ込んで震えていました。しばらくすると武田の追手も場所を移動し、境内に人の気配は消えました。

「ふうっ!」

なんとか難を逃れた家康は、夜の星の綺麗な空を見上げ、義家の加護に感謝を捧げます。するとその時、この楠から瑞雲(吉兆をしめす雲)が立ちのぼったのです。

「おおっ!遠江は信玄の手に落ちたかと思うたが、大丈夫じゃと八幡太郎殿がワシに言うておる!」

これが「雲立楠」と呼ばれている所以です。

この不思議な出来事の後、家康はこの八幡宮を徳川家の祈願所としてますます崇敬し、浜松八幡宮は徳川家を守護するお社になったということです。(写真⑫)

6.小豆餅神社

もう1つの伝承は、ちょっとあり得ないと思われる話です。
逃走中にお腹が空いてたまらない家康は、武田軍に追われながらも、近くの茶屋に飛び込み、

「おい、婆さん、何か食べ物はないか!」
「はいはい、美味しい、この辺りの名物・小豆餅ならありますよ。」
「それで良い!早く出してくれ!」

いつ追手に追いつかれるか分からない家康は気が気ではありません。茶屋の婆さんが出してきた小豆餅をほおばると、ヒラリとまた馬上の人となり、馬の尻に鞭を当てると、浜松城へと急ぎ疾走します。

ところが、この茶屋の婆さん、なんと疾走する馬より速く走り、半里(2km)近く走って家康に追いつくと

「小豆餅の代金をまだ頂いておりませんが。」
「・・・あ、こめん。忘れておった。」
⑬小豆餅神社

と老婆へ小豆餅代を支払う家康。
なんともまあ、間が抜けた神君家康公ですな(冗談)。

大体、幾ら腹が空いたとしても、三方ヶ原の戦場近くで茶屋に飛び込み注文しますか?老婆は馬より速く、しかも殿様追いかけてまで代金取立てって・・・ありえない要素満載ですね(笑)。

ただ、写真⑬のように小豆餅神社は直ぐ近くにあります。
小豆餅自体の起源がこの辺りにあるのも事実のようですので、三方ヶ原に小豆餅を扱う茶屋があってもそんなに不自然ではありません。
調べると、流石に合戦中の上記伝承は後世の創作だろうと言われています。逆にこのあたりの風土記には以下の伝承がありました。

もう少し後の慶長年間(西暦1600年前後)の浜松城主の弟・高階晴久という武人が、三方ヶ原の茶屋に立ち寄り、土地の名産・小豆餅を食べていると、奇怪な現象が次々と起きるので慌てて浜松城下まで逃げて来ました。翌日大勢の供と一緒に、この場所に来てみると茶屋は無く、うら寂しい荒地に白骨が累々と広がっています。そう、これらの骨は三方ヶ原合戦の戦死者たちのものだったのです。
そこで、高階晴久はこれらの骨を集め、小豆餅を供えて供養したとのこと。爾来、三方ヶ原合戦の死者を弔うため、小豆餅を供える習慣が続いたこの土地を小豆餅と呼ぶのだそうです。こちらは信憑性が高そうですね。白骨はほぼ家康軍のものでしょう。

7.浜松城へ戻ってくることができた家康の後の話は・・・

この小豆餅でお腹を下してしまったのでしょうか?それとも先にお話した雲立楠の洞の中でお腹を冷やしたからでしょうか。いずれにせよ、家康は浜松城まで我慢できずに、馬上脱糞との伝承は有名ですね。

浜松城に逃げ帰った家康。武田軍は追ってきます。信玄の、浜松城から家康を引っ張り出し野戦で手痛い打撃を与える作戦は、大成功なわけですが、果たして家康はこの窮状から脱出できるのでしょうか。

長くなりましたので、三方ヶ原合戦の終結並びにその後の信玄については次回描きたいと思います。長文・乱文にも係わらず、今回もお付き合いいただきましたこと、誠にありがとうございました。


家康の大樹⑥ ~三方ヶ原の戦い 前編~

 前回までのあらすじ

桶狭間合戦で、今川義元の先鋒として活躍していた元康(後の家康)は、義元討死の報をもって三河の岡崎へ帰ります。義元の後継者である氏真は、求心力を失い、離反者が増える一方であるがため、元康は今川を離れ、日の出の勢いの隣国・織田信長と同盟を組みたいと考えます。ところが、元康の正妻・瀬名姫、竹千代、亀姫の家族は駿府の氏真の元に人質としているため、思い切った行動がとれません。

そこで一計を立てた家臣の服部半蔵正成、西三河の鵜殿長照の居城・上ノ郷城を火計を持って調略し、氏真の血縁の深い鵜殿長照の奥方、長男、次男と、瀬名姫、竹千代、亀姫との人質交換が行われるのです。

これで家康の家族が人質となっていた事態は解消し、家の大切さを痛感した元康は、名前を「家康」と改名します。これは、今川義元から貰った「元」の諱を手放す、つまり今川家との決別も表しているのです。そして、晴れて織田信長と同盟を結びます。

これが、この後、信長が本能寺の変で横死するまで、どんなに家康が信長に虐められても、続いていく清洲同盟です。

今回は、この清州同盟下において、家康が怪物・武田信玄からの猛攻に耐え抜き、信長・家康連合の防波堤となったのかについて書いていきたいと思います。

1.武田信玄との約定

清州同盟が結ばれると、西側に対する脅威は殆ど無くなった家康。敵対姿勢を鮮明にした今川氏真と、どう対峙するのかが問題となります。

そこで、手を結んだのが、なんと甲斐の武田信玄。

そもそも甲相駿の三国同盟は、今川義元が桶狭間合戦で横死すると、ほぼ機能停止に陥ります。

そして当主となった今川氏真の器量を高く評価しない信玄は、3国の力関係は崩れたと見做し、駿河侵攻の野望を遂げようとするのです。

そのために、猛反対する武田信玄の長男・義信を東光寺に押し込め、自害までさせることで武田家内の駿河侵攻の意思統一を果し、侵攻を開始します。(写真①)

①武田義信が幽閉された東光寺

この時、信玄は甲相駿三国同盟破棄を他の二国に表明したわけではありません。相模の北条氏康には「北の上杉謙信と、南の今川氏真が共謀して、我が武田領へ攻め込もうとしている」と挟撃される被害者だと主張します。(地図②)

②桶狭間合戦後の戦国大名群雄割拠

どうやら、駿河侵攻前に今川氏真が、上杉謙信(当時は上杉輝虎)と手を組んで、侵攻されないように努力していたようです。

結局、上杉謙信に相手にされない今川氏真。この辺り、やはり見られていますね。今川家の求心力低下はどの武将から見ても明らかだったのでしょう。

信玄も今川領に攻め入れば、北条氏康は「三国同盟破り!」の信玄、約定を守らぬ信用できない信玄として、小田原から駿河に今川氏真救援のために進出してくることは分かっています。なので、信玄からすればなるべく短期で今川氏真を追い落とし、駿府をかっさらわなければなりません。

そこで、家康と手を結ぶのです。地図②の通り、今川家の遠江と国を接する三河の家康は、敵地・遠江は欲しいはず、であれば

「遠江は家康殿にあげよう。駿府(駿河)はワシが取る。」

という約定を信玄は家康と結びます。それこそ、家康と信玄で今川氏真を挟撃するのです。(但し、最近の研究で信玄は、家康を織田信長の臣下と見ていたとのことから、正式には信長に色々と申し入れをし、信長から家康にそれらを伝えていたとのことです。)

2.今川家滅亡

武田軍は富士川を南下し、駿河湾沿いを今川氏の本拠・駿府(静岡市)へ進軍しようとします。今川氏真は、これを薩埵(さった)峠で迎撃しようとします。ところが数多くの今川方の武将が離反し、戦闘体制を維持できなくなったため、氏真らは駿府へ戦わずして早々に撤退します。(写真③)

③薩埵峠から駿河湾・富士山を臨む
※この方向から武田軍は侵攻してきたのでしょう

これは、信玄が侵攻前に、今川家の家臣団へ内々に裏切るように手を廻していたのです。

この家臣団の崩壊は駿府に戻ってからも続き、耐えきれなくなった氏真は、駿府を抜け出し、遠江の掛川城へ逃げ込みます。

遠江は、信玄と家康の約定通り、家康側の侵攻対象国です。ですので、家康は、この城を囲み、戦すること数か月。

④今川家を滅ぼした後の
武田家と徳川家の所領
今川氏真は、ついに開城し、自分たちは奥方(早川殿)の父である北条氏康を頼って相模国へ落ちて行きます。ここに戦国大名である今川家は滅び去るのです。

3.武田信玄との対立

今川家が滅びた後の武田家と徳川家の所領は地図④のようになります。

武田信玄が駿河に侵攻したかった理由を

「海のある国が欲しかった」

の一言で表現されることが多々あります。

確かに、交易・海運による富の醸成、軍船等による西上作戦の補給支援、海上戦闘能力確保(写真⑤)。さらには、塩の安定供給等、海が無い甲斐、信濃を治めていた武田家にとって海のある駿河はあこがれだったと思います。

これは筆者の想像ですが、やはり駿府は、今川家という高家(将軍家に繋がる格式の高い家)が開いた都市だけあって、古府中(武田信玄の館があった甲斐の中心地)より、文化的にも、商業的にも華やかな中核都市であり、ここを欲しい!と思うのは家康や信玄も同じように考えていたのかもしれません。

⑤武田軍船
(八王子市の松姫の建てた信松院蔵)
家康は晩年、駿府に住んでいますからね(笑)。やはり、住み心地が良かったのでしょう。(写真⑥)

ただ、まだ当時の家康は、信玄とは相当な差があります。遠江と駿河で分捕り国分けさせて貰えただけでも、家康は格として信玄と同じレベル、大出世と見做しても良いと思われます。

ところが、幾らこの約定があっても、地図④のように隣り合う信玄と家康、国境での局所戦が絶えません。

信玄としては、家康へ与えた遠江はおろか、三河すら取ってしまいたいという強い欲はあったように思われます。

背後の上杉謙信、北条氏康ら、駿河を取った信玄は、大いなる敵対関係を抱えています。ですので、そこに加えて織田信長や家康までも敵として戦うことになるのは流石の武田軍としても避けなければなりません。

信玄もしばらくは外交努力をし、家康だけでなく、信長も併せて撃破し、京へ西上しようという壮大な計画の準備をするのです。

そしてこの頃、家康も、本拠を三河の岡崎城から浜松の曳馬城(現・浜松城)へ移しています。対・武田信玄を意識しての拠点変更だったのでしょう。

⑥駿府城本丸に建つ晩年の家康像

余談ですが、曳馬城という城の名前は、「馬を曳く(引く)」=「撤退」のニュアンスを彷彿させ、縁起が悪いということで、この辺りの荘園名から浜松城と改名したという話があります。(写真⑦)
⑦浜松城(曳馬城から改名)

4.信玄西上

さて、元亀2年(1571年)北条氏康が死去し、氏政の代になると、信玄は北条氏と再び手を結びます。また、信玄は坊主仲間(?)の本願寺顕如に依頼して、加賀一向一揆を起こさせ、上杉謙信が、この領国内の一揆鎮圧に専念せざるを得ない状況を作り上げます。

これら北や東の脅威を取り除くと、武田信玄は、元亀3年(1572年)10月、待望の西上作戦を開始するのです。

信州の南、青崩峠を越えて、遠江へ攻め入る2万5千の武田軍。私もこの峠に上ってみました。(360度写真⑧)

⑧武田軍2万5千が国境を越えた青崩峠

よくもまあ、こんな狭くて急こう配な峠を、武田騎馬隊を含めた2万5千もの大軍が通過することができたものだと、その機動力に感心しました。

浜松城への最短位置に近い国境である峠(青崩峠・兵越峠)を越えた2.5万の武田軍は、かねてより調略した犬居城の天野氏(家康方だった)が先導し、浜松城の北北東、5里(約20km)の位置の二俣城を攻撃します。(地図⑨)

⑨武田軍の西上ルート(遠江侵攻)

この時の二俣城攻撃の主力は武田勝頼。勝頼は力攻めに二俣城を落とそうとしますが、なかなか落ちません。(写真⑩)

⑩二俣城跡
※雲の見える本丸裏が天竜川

「勝頼、お前は戦い方が直線的すぎるぞ。良く城を観察しろ。天竜川を背にしたこの城は井戸を掘らず、天竜川から水を汲みあげておるのが分からんのか。水をくみ上げる井戸櫓を壊せば簡単に城は落ちるぞ!」(写真⑪)

⑪二俣城井戸櫓
※清瀧寺にて再現
と信玄は勝頼に言います。

「それは分かっており、あの井戸櫓を壊そうと何度か舟に兵を載せて出すのですが、城や構造物から鉄砲、矢で散々に浴びせかけられ、近づくこともできません。」

と言い訳する勝頼。

「では上流から筏や丸太を大量に流せばよかろう。それを井戸櫓にぶつけて壊してしまえば良いのじゃ。」

果たして信玄の言うとおり、雨が降って水嵩が増した時に筏や丸太を天竜川に流すと、井戸櫓の柱はへし折られ、水汲み場はいとも簡単に崩壊しました。

この直後、二俣城は落ちます。

余談ですが、この二俣城で7年後、家康の嫡男の信康が自刃することになるのです。

5.一言坂の戦い(前編)

この二俣城を勝頼が攻めている間、信玄は、二俣城、浜松城、掛川城、高天神城等、遠江の有力な城が連絡を遮断する位置、天竜川の下流方面に陣を敷きます。

この時、家康は大きなミスを犯します。西上する武田軍本隊をこの目で見ようと、偵察のつもりで浜松城を家康自身が出馬するのです。偵察と言っても、国主自らが出馬するとなれば、当然それなりの規模の戦団になります。ある程度の戦闘があった場合でも国主を守れる規模の兵が出る訳です。この時、家康の全軍は8000なのですが3000もの部隊で偵察に出たようです。

非常に中途半端な軍事行動となるのです。案の定、兵数は目立つので、武田の智将たちにバレます。

⑫馬場美濃守信房
「物見のつもりか。それとも3000も率いて信玄本隊と戦うつもりか。いい加減な。そういう生半可な行動が命取りになるということを家康に教えてやれ。」

ということで、武田軍は用意周到に作戦を練りました。

まず家康らが、西から天竜川を渡り切るまで、武田軍は素知らぬ顔。家康も偵察で出てきているので、武田方には気づかれていないだろうという甘い見通しで、天竜川を渡り、天竜川の東側に陣を張る武田軍に近づきます。

渡り切って、武田軍に近寄ってきた家康偵察隊。武田軍の先発隊と遭遇します。

「しまった!引けーっ!」

と、慌てて退却を開始する家康。

ところが、流石武田軍風林火山」の馬印の「」、

 疾 如 風(疾き事 風の如く)

のように、動きます。武田四天王の1人・馬場信房(のぶふさ)が、速攻で家康軍に突撃を開始。(絵⑫)

撤退しながら苦しい交戦をしていると、天竜川方面に、やはり疾風の如く先回りをしようとする信玄の近習の軍が見えます。

ー挟撃される!ー

と家康が全滅の危機を感じた時

「殿、ここはお任せ頂き、武田軍より速く駆けて、天竜川より西側へ逃げきってください。」

と申し出たのは、本多平八忠勝。(絵⑬)

⑬一言坂での本多平八奮戦

「平八、宜しく頼む!」

と言い置いた家康は、脱兎の如く、天竜川に向かって走ります。

残された本多平八郎、ここから彼の「一言坂の戦い」が始まります。(写真⑭)

⑭一言坂の戦い跡

長くなりましたので、続きは次回とさせてください。

ご精読ありがとうございました。

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《つづく》



土曜日

家康の大樹⑤ ~清州同盟へ~

上洛に伴う今川義元(よしもと)の尾張(おわり)侵攻戦略の中、松平元康(もとやす、後の徳川家康)は、今川軍本隊に先行して大高城への兵糧搬入と、信長軍側が大高城へ付けた鷲津・丸根の両砦への攻撃、そして陥落と沢山の戦果を挙げました。その直後

「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」

の報が入りました。

唖然とする元康。しかし、周囲の家臣団(三河衆)の一人が

「殿!岡崎へ帰る絶好の機会ですぞ!」

と叫ぶと

「あっ!」

と元康は我に返りました。そうです。幼少の人質時代から今日まで、元康は岡崎へ帰るためだけに頑張ってきたと言っても過言ではありません。この大高城の最前線で戦っているのも、義元の信頼を勝ち取り、早く一人前の将として、三河・岡崎へ戻してもらいたいと思うからこそなのです。

それが義元公亡き今、直ぐ手の届く現実となっているのです。岡崎城は現在、僅かな今川軍が駐留しているのみです。元康の軍1千があれば、今川家は、今はアナーキーな状況、取り戻すのは難しくありません。

元康は、しばらく考えます。そして

「全軍、岡崎へ向かう!」
「おお!」(家臣団)
「但し、岡崎城ではなく、大樹寺に入る!」
「ええっ?」(家臣団)

というのが前回までのお話でした。(リンクはこちらから

1.大樹寺に入る元康

①大樹寺

訝(いぶか)る三河衆を無理に従え、その日の夜に大高城を脱出し、翌朝方には大樹寺に入ります。(写真①)

岡崎城には、数は多くはありませんが、今川軍が居ます。桶狭間合戦で勢いに乗った信長軍が、三河へ攻め入ってきた場合、元康は岡崎城の今川軍と協働し、岡崎城にて立て籠もった方が安全であるにも係わらず、大樹寺に入るのは不思議です。(写真②)
②岡崎城

前回述べたように、大樹寺は松平氏先祖8代の墓があり、その前で元康は切腹するつもりだったから?

であればわざわざ家臣団を連れて岡崎まで来ませんよね?元康だけでいいじゃないですか?

元康が切腹してしまったら、家臣団は散り散りになってしまい、直後に信長軍追撃があったなら、更に危険にさらされる訳ですから、この理由は通らないような気がします。

ここでちょっと元康の立場になって考えてみましょう。

2.元康は今川大企業の中間管理職

桶狭間合戦で、自分のボスを失ったとは言え、直ぐに自分の思い通りに動いて良いかというと、今川家という組織に帰属している限り、そうもいかないのはお分かり頂けると思います。

ただし、元康の直属上司はやはり今川義元公。首を取られたとあっては、組織の他の長の業務命令が無くても、非常事態であるが故に、織田軍側の領地にある大高城の地を撤退し、今川領である三河へ戻るのは当然といえば、当然ですし、独断で判断しても、後々今川家側でも問題にはならないはず。

ここまでの元康の読みは良く分かります。

ではなぜ、直ぐに岡崎城に入らず、3km手前の大樹寺に入ったのか。

ここに、元康の思慮の深さを垣間見ることが出来ます。

③桶狭間合戦公園に建つ
今川義元像と織田信長像
彼は信長を意識していたのです。

敵としての信長ではなく、将来の味方としての信長です。

義元が予期せぬ形で討死した直後、元康は元康なりに、義元の跡を継ぐ氏真(うじざね)と信長の器量を天秤に計っていたのでしょう。そして氏真より、自分たちの未来は信長にあるのではないかと予感していたのだと思います。(写真③)

ですので、幾ら自分の故郷、土地である岡崎だからと言って、不用意に岡崎城に入ってしまえば、岡崎城には今川軍も居る訳ですから、元康は信長に抵抗する勢力であると信長からみなされます。

ならば、岡崎城の今川軍を追っ払って入城し、早々に信長と手を結べばいいやん!
と思われる方もいらっしゃると思いますが、そこは、皆さん、今川家という、今で言う大企業、御曹司が多少甘くても、大企業は強い!立て直す人材が出るかもしれません(笑)。

となると、直ぐにライバル会社である信長ベンチャー企業に移籍というのは軽薄であり、ここはじっくりと今川大企業と信長ベンチャー企業の行末を見極めたいところ。

いずれにせよ、今の元康は今川大企業の中間管理職。この企業に居場所を残しつつ、将来移籍するかもしれない信長ベンチャー企業にも悪い顔はしたくない。

勿論、今、手薄の岡崎城を攻め、元康ら三河衆のものとすることもできる絶好の機会なのですが、それをやってしまっては、今後、今川大企業を敵に廻します。まだ信長ベンチャー企業とも提携もしていないのに。

なので、岡崎城には入らず、大樹寺に入ったのです。

ちょっと企業風に書きましたが、切実なところは、正妻の瀬名(せな)姫(築山御前)、竹千代、亀姫という元康の家族が人質同様に駿府に住んでいるこの時点で、今川家に楯突く事など想像できない元康です。ただ、今川家を継承している氏真と、元康が幼少の頃より知っている信長、この二人を天秤にかけるとどうしても信長に分があると思う元康の葛藤が、この大樹寺入りに現れていると思います。

3.わざと態度を明確にしない元康

④清州城に居た信長は怖い(笑)
岡崎城の今川軍は、いつ信長軍が攻めてくるかも分からず、寡兵であることから、何度も大樹寺に留まる元康軍の入城及び信長軍への共闘を求めます。

ところが、元康は頑として大樹寺を動きません。

そのうち、岡崎城の今川軍は、信長の三河侵攻を恐れ、城の守備を放り出し、駿府へ逃亡してしまいました。

元康は、これを待っていました。

つまり、岡崎城の今川軍が遁走してしまったので

「(今川の城である)岡崎城を守るべく、しかたなく」元康らが大樹寺から岡崎城へ入城したと。

これなら、後で今川家から文句の言われようもありません。

また、後に信長から「あの時岡崎城に入って今川軍として守ろうとしたのだろう?」と詰問された場合でも

「いえいえ、滅相もございません。岡崎城は松平家代々の城。大樹寺で時機を見て今川軍を追っ払おうと思っていた次第です。」

と、元康らは、今川軍としてではなく、あくまで独立した三河衆としての行動だったと言い訳できる訳です。

つまり、このタイミングでは、元康は今川家側の人間なのか、信長側なのかが不明な状況を作り出すことに成功したのです。

4.鵜殿長照(うどのながてる)

⑤忍者ハットリくん
(名は服部貫蔵)
この微妙な態度で臨んだ元康ですが、時間が経つにつれ、気持ちはどんどん信長に傾いていきます。

というのは、氏真の今川領内でのガバナンスはやはり上手く行かず、離反する豪族らの人質を次々と殺し、それがまた今川家からの離反を生むという負のスパイラルが廻り始めたからです。

松平家もその選に漏れることなく、東三河の松平家の十数人の人質が、吉田城付近で陰惨にも串刺しで処刑されるという伝承が残っています。この後に出てくる松平清善(きよよし)も人質だった娘を処刑されています。

氏真の統率力の欠如だけでなく、このような破滅型のガバナンスに嫌気が差した元康は、今川家を見限ります。それは勿論、駿府に残している自分の家族・瀬名姫(築山御前、以後大河ドラマに合わせ「瀬名姫」と記述します)、竹千代(後の信康)、亀姫の命を諦めるということを意味します。

ところが、ここで、一計を立てたのが服部半蔵正成(しげなり)、忍者ハットリくんのモデルです(イラスト⑤)。

◆ ◇ ◆ ◇

鵜殿長照(うどのながてる)という武将をご存じでしょうか?(写真⑥)

⑥「どうする家康」の鵜殿長照
(野間口徹氏)

元康が大高城に、丸山砦の信長軍の追撃を振り切って、兵糧を入れた話を覚えていますか?(忘れた方は是非こちら「3.元康、大高城へ兵糧搬入作戦成功!」をご笑覧ください。

元康が大高城へ兵糧を持って飛び込む時まで、大高城で孤高の将として鷲津砦や丸根砦の信長軍の付城と、草の根を嚙みながら戦っていた漢(おとこ)、それが鵜殿長照です。

かなり気骨のある漢でしたが、今川義元が桶狭間で討ち取られると、元康よりも早く三河の本領に帰って、今川方の武将として上ノ郷城で西三河を信長の魔の手から守ろうとします。(写真⑦)

というのは、長照自身、義元の甥にあたると同時に、奥方は、今川家当主である氏真の叔母にあたるのです。これだけ今川家との血脈が濃ければ、無条件に今川方で信長憎しであることは明白ですね。
⑦上ノ郷城跡

ここで今川家の味方なのか、織田信長に汲みするのかを判然としないようにした元康の立ち位置を目いっぱい使った一芝居を服部半蔵正成は打ちます。

ある夜も更けた頃、彼は、鵜殿長照の上ノ郷城に負傷した姿で飛び込みます。

「御注進!隣国・松平清善殿(絵⑧)が、吉田城外にて娘を今川一族に殺された恨みで、この上ノ郷城へ兵を進めております。我が主・元康は同じ松平家として清善を思いとどまらせようと、竹谷の清善を尋ね岡崎から出てきたところ、清善殿は軍を固め、無勢の我が軍に襲い掛かってきた次第。

半蔵正成は話ながら、肩に刺さった矢を抜いて見せます。肩から少し血が吹き出します。鵜殿長照は、その生々しい戦の傷を見つめ、ゴクリと唾を飲み込むのです。(これは血袋を使った半蔵正成の演出です。)

「そもそも松平家同士の話し合いにより、この西三河での混乱を避けようと少人数で来た我が主・元康軍は現在、大苦戦でござる。」

⑧松平清善

「鵜殿長照殿!是非援軍を!我が主・元康は、上ノ郷城の西側・竹谷の地にて交戦中でござる。元はと言えば鵜殿長照殿を庇っての今回の出陣。どうかご出馬を!」

と、今にも戦での消耗で倒れそうな苦しい息の中での半蔵正成の言。

「むむむ・・松平家は結束が固いと聞くが・・」

と半信半疑、直ぐには応じられない長照。そこに留目を刺すかのような半蔵正成の言が続きます。

「織田信長が来ますぞ。同じ三河の松平家の内紛。信長が逃すはずはありませぬ。我が主・元康が清善殿のところに来たのも、実は清善殿が信長殿との密通の気配があり、このままでは長照殿も松平家も西三河が信長殿に切り取られてしまうと危惧されてのことなのです。ここで元康を見殺しにすれば、信長・清善連合軍と長照殿は対峙することになりますぞ。駿府の氏真殿の支援は望めない現状で!」

「よし分かった!元康殿を助けようぞ。」

とやっと応じる長照。早速、城の守備を長子に任せると、数百の騎馬を従えて、西の竹谷に向けて城門を打って出ます。

5.服部半蔵正成の火計

長照を説得した半蔵正成は、城内で手当てを受けることとなり、城に残された女性たちに、別室に案内されます。

「厠(かわや)はどちらか?」

と聞き、案内されると、厠から庭越しに外に出て、黒装束に着替え、するすると城屋敷の天井裏に潜みます。

◇ ◆ ◇ ◆

鵜殿長照らが、上之郷城から西の竹谷方面へ出撃したことを、城の東にある丘の上から見ていた武将がいます。

松平元康です。

半蔵正成が鵜殿へ、「西の竹谷で交戦中」と伝えた元康は、東の丘に引き連れた松平連合軍(松平清善の軍と連合)と共にいるのです。

竹谷の松平清善の屋敷には篝火を延々と焚いて、それなりに軍勢がいるようにみせかけはしているのですが、殆どもぬけの殻です。勿論、この屋敷は鵜殿軍に打ち壊されることは覚悟の上です。そんなことよりも、松平清善は、桶狭間合戦後、鵜殿長照の今川氏真への讒言により、人質である娘を殺された恨みで、上之郷城をなんとしても抜きたい(落城させたい)と思っていたところでした。

そこに、松平元康の家臣・服部半蔵正成から、上ノ郷城を抜くことに、元康が協力するとのオファを受けたのですから、屋敷の1つや2つ、大した話ではありません。元康軍が連合する上に、服部半蔵正成が率いる甲賀部隊(忍者部隊)が策略を持って上之郷城を抜くと言うのですから、こんなに心強いことはありません。

元康は、鵜殿軍が上ノ郷城を出払ったとみるや、全軍に指揮をします。

⑨本丸炎上イメージ
「かかれ!鵜殿長照は半刻(約1時間)もすれば、騙されたと気づき、城に取って返すぞ!半刻で上ノ郷城を抜くのじゃ!」

城を守るのは鵜殿長照の長男、次男が中心となりますが、長照率いる主力は西の竹谷へ出撃しておりますので、東門を突き破って城に乱入するのに松平連合軍は苦労しません。

と同時に、上之郷城の本丸から火の手が上がります。城屋敷の天井裏に忍んだ半蔵正成が火を掛けたのです。

「頼むぞ!半蔵!」

と元康は祈る気持ちで、その火の手を見つめました。半蔵正成のこの火の手を合図に城外から甲賀部隊も乱入し、鵜殿長照の奥方、息子たちを生捕りにする手筈なのです。

城・本丸屋敷から上がる火の手はみるみる広がり、城内は大混乱。(イメージ⑨)

特に松平清善の兵は、城に火の回る中、娘を殺された恨みで鵜殿守備隊の虐殺を進めます。城内は大混乱となりましたが、どさくさに紛れながらも、甲賀部隊は、長照の奥方や息子たちの身の確保に成功しました。

6.鵜殿坂

出撃した鵜殿長照らが、竹谷の囮の陣を見つけ、

「服部半蔵正成に謀られた!」

と慌てて上之郷城へ取って返したのは、元康の予想通り、城を出撃してからほぼ半刻後。既に上ノ郷城は、火の海と化していました。

鵜殿軍は茫然として、上ノ郷城の落城を見ているしか無い状況です。

しかも、攻め手は、いつも相まみえる隣国の松平清善らの軍のようですが、奴らが引き上げる方向、城の東の丘には

「厭離穢土 欣求浄土」の元康の馬印が立っているではありませんか。

「おのれ!卑怯だぞ!騙したな、元康っっっ!」

と、鵜殿長照は、強烈な怒声を発しつつ、率いる軍と一緒に元康が陣に迫ろうとします。その怒声を聞いた松平清善、攻城戦が終り、元康が陣へ取って返す途中だったのですが、

「長照!観念!!」

と、長照の後を追いかけます。元康の陣がある丘の頂上にあと少しのところで、長照は木の根に馬の足が取られ落馬。そこに追いついた清善。長照が起き上がったところを、一刀に切り伏せます。悔しさで目を引ん剝く長照の首、これを掴んで持ち上げた清善、

「宿敵・鵜殿長照の首取ったり!」

と叫びます。

現在、この丘へ登る坂は「鵜殿坂」という地名で残っています。(写真⑩)

⑩鵜殿坂

また、この坂でころぶと怪我をすると伝えられており、鵜殿の怨念だとの伝承も残っているようです。

服部半蔵正成の火計は成功しました。生捕りにした鵜殿長照の奥方、その息子らと駿府にいる元康の家族との人質交換に今川氏真は応じるのです。

7.清州同盟

元康は、直ぐに無念顔の長照の首を検分します。

ー長照殿、さぞかしワシを卑怯ものと思われるであろう。しかし、ワシも領民のくらしを含む松平家という家を守り続けなければならず、その結果が得られるのであれば、幾らでも卑怯のそしりを受けもうそうー

元康の頬に一筋の涙が流れます。そして決意します。

ー今日を持って、今川家とは決別し、頂いた義元公の「元」の諱(いみな)はお返しし、ワシが卑怯と言われようと守っていく「家」を頂いた名としよう。つまり、「元康」改め「家康」じゃ。ー

⑪鵜殿長照のお墓

駿府に人質となっていた瀬名姫、竹千代、亀姫を取り戻した元康、改め家康は、桶狭間合戦の2年後の永禄5年(1562年)、清州城にて信長と同盟を結びます。(360度写真⑫)

⑫清州城

これが「本能寺の変」までどんなに家康が不利・ピンチになっても続く清州同盟の始まりなのです。

長文・乱文失礼しました。ご精読ありがとうございます。

《つづく》