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木曜日

家康の大樹⑥ ~三方ヶ原の戦い 前編~

 前回までのあらすじ

桶狭間合戦で、今川義元の先鋒として活躍していた元康(後の家康)は、義元討死の報をもって三河の岡崎へ帰ります。義元の後継者である氏真は、求心力を失い、離反者が増える一方であるがため、元康は今川を離れ、日の出の勢いの隣国・織田信長と同盟を組みたいと考えます。ところが、元康の正妻・瀬名姫、竹千代、亀姫の家族は駿府の氏真の元に人質としているため、思い切った行動がとれません。

そこで一計を立てた家臣の服部半蔵正成、西三河の鵜殿長照の居城・上ノ郷城を火計を持って調略し、氏真の血縁の深い鵜殿長照の奥方、長男、次男と、瀬名姫、竹千代、亀姫との人質交換が行われるのです。

これで家康の家族が人質となっていた事態は解消し、家の大切さを痛感した元康は、名前を「家康」と改名します。これは、今川義元から貰った「元」の諱を手放す、つまり今川家との決別も表しているのです。そして、晴れて織田信長と同盟を結びます。

これが、この後、信長が本能寺の変で横死するまで、どんなに家康が信長に虐められても、続いていく清洲同盟です。

今回は、この清州同盟下において、家康が怪物・武田信玄からの猛攻に耐え抜き、信長・家康連合の防波堤となったのかについて書いていきたいと思います。

1.武田信玄との約定

清州同盟が結ばれると、西側に対する脅威は殆ど無くなった家康。敵対姿勢を鮮明にした今川氏真と、どう対峙するのかが問題となります。

そこで、手を結んだのが、なんと甲斐の武田信玄。

そもそも甲相駿の三国同盟は、今川義元が桶狭間合戦で横死すると、ほぼ機能停止に陥ります。

そして当主となった今川氏真の器量を高く評価しない信玄は、3国の力関係は崩れたと見做し、駿河侵攻の野望を遂げようとするのです。

そのために、猛反対する武田信玄の長男・義信を東光寺に押し込め、自害までさせることで武田家内の駿河侵攻の意思統一を果し、侵攻を開始します。(写真①)

①武田義信が幽閉された東光寺

この時、信玄は甲相駿三国同盟破棄を他の二国に表明したわけではありません。相模の北条氏康には「北の上杉謙信と、南の今川氏真が共謀して、我が武田領へ攻め込もうとしている」と挟撃される被害者だと主張します。(地図②)

②桶狭間合戦後の戦国大名群雄割拠

どうやら、駿河侵攻前に今川氏真が、上杉謙信(当時は上杉輝虎)と手を組んで、侵攻されないように努力していたようです。

結局、上杉謙信に相手にされない今川氏真。この辺り、やはり見られていますね。今川家の求心力低下はどの武将から見ても明らかだったのでしょう。

信玄も今川領に攻め入れば、北条氏康は「三国同盟破り!」の信玄、約定を守らぬ信用できない信玄として、小田原から駿河に今川氏真救援のために進出してくることは分かっています。なので、信玄からすればなるべく短期で今川氏真を追い落とし、駿府をかっさらわなければなりません。

そこで、家康と手を結ぶのです。地図②の通り、今川家の遠江と国を接する三河の家康は、敵地・遠江は欲しいはず、であれば

「遠江は家康殿にあげよう。駿府(駿河)はワシが取る。」

という約定を信玄は家康と結びます。それこそ、家康と信玄で今川氏真を挟撃するのです。(但し、最近の研究で信玄は、家康を織田信長の臣下と見ていたとのことから、正式には信長に色々と申し入れをし、信長から家康にそれらを伝えていたとのことです。)

2.今川家滅亡

武田軍は富士川を南下し、駿河湾沿いを今川氏の本拠・駿府(静岡市)へ進軍しようとします。今川氏真は、これを薩埵(さった)峠で迎撃しようとします。ところが数多くの今川方の武将が離反し、戦闘体制を維持できなくなったため、氏真らは駿府へ戦わずして早々に撤退します。(写真③)

③薩埵峠から駿河湾・富士山を臨む
※この方向から武田軍は侵攻してきたのでしょう

これは、信玄が侵攻前に、今川家の家臣団へ内々に裏切るように手を廻していたのです。

この家臣団の崩壊は駿府に戻ってからも続き、耐えきれなくなった氏真は、駿府を抜け出し、遠江の掛川城へ逃げ込みます。

遠江は、信玄と家康の約定通り、家康側の侵攻対象国です。ですので、家康は、この城を囲み、戦すること数か月。

④今川家を滅ぼした後の
武田家と徳川家の所領
今川氏真は、ついに開城し、自分たちは奥方(早川殿)の父である北条氏康を頼って相模国へ落ちて行きます。ここに戦国大名である今川家は滅び去るのです。

3.武田信玄との対立

今川家が滅びた後の武田家と徳川家の所領は地図④のようになります。

武田信玄が駿河に侵攻したかった理由を

「海のある国が欲しかった」

の一言で表現されることが多々あります。

確かに、交易・海運による富の醸成、軍船等による西上作戦の補給支援、海上戦闘能力確保(写真⑤)。さらには、塩の安定供給等、海が無い甲斐、信濃を治めていた武田家にとって海のある駿河はあこがれだったと思います。

これは筆者の想像ですが、やはり駿府は、今川家という高家(将軍家に繋がる格式の高い家)が開いた都市だけあって、古府中(武田信玄の館があった甲斐の中心地)より、文化的にも、商業的にも華やかな中核都市であり、ここを欲しい!と思うのは家康や信玄も同じように考えていたのかもしれません。

⑤武田軍船
(八王子市の松姫の建てた信松院蔵)
家康は晩年、駿府に住んでいますからね(笑)。やはり、住み心地が良かったのでしょう。(写真⑥)

ただ、まだ当時の家康は、信玄とは相当な差があります。遠江と駿河で分捕り国分けさせて貰えただけでも、家康は格として信玄と同じレベル、大出世と見做しても良いと思われます。

ところが、幾らこの約定があっても、地図④のように隣り合う信玄と家康、国境での局所戦が絶えません。

信玄としては、家康へ与えた遠江はおろか、三河すら取ってしまいたいという強い欲はあったように思われます。

背後の上杉謙信、北条氏康ら、駿河を取った信玄は、大いなる敵対関係を抱えています。ですので、そこに加えて織田信長や家康までも敵として戦うことになるのは流石の武田軍としても避けなければなりません。

信玄もしばらくは外交努力をし、家康だけでなく、信長も併せて撃破し、京へ西上しようという壮大な計画の準備をするのです。

そしてこの頃、家康も、本拠を三河の岡崎城から浜松の曳馬城(現・浜松城)へ移しています。対・武田信玄を意識しての拠点変更だったのでしょう。

⑥駿府城本丸に建つ晩年の家康像

余談ですが、曳馬城という城の名前は、「馬を曳く(引く)」=「撤退」のニュアンスを彷彿させ、縁起が悪いということで、この辺りの荘園名から浜松城と改名したという話があります。(写真⑦)
⑦浜松城(曳馬城から改名)

4.信玄西上

さて、元亀2年(1571年)北条氏康が死去し、氏政の代になると、信玄は北条氏と再び手を結びます。また、信玄は坊主仲間(?)の本願寺顕如に依頼して、加賀一向一揆を起こさせ、上杉謙信が、この領国内の一揆鎮圧に専念せざるを得ない状況を作り上げます。

これら北や東の脅威を取り除くと、武田信玄は、元亀3年(1572年)10月、待望の西上作戦を開始するのです。

信州の南、青崩峠を越えて、遠江へ攻め入る2万5千の武田軍。私もこの峠に上ってみました。(360度写真⑧)

⑧武田軍2万5千が国境を越えた青崩峠

よくもまあ、こんな狭くて急こう配な峠を、武田騎馬隊を含めた2万5千もの大軍が通過することができたものだと、その機動力に感心しました。

浜松城への最短位置に近い国境である峠(青崩峠・兵越峠)を越えた2.5万の武田軍は、かねてより調略した犬居城の天野氏(家康方だった)が先導し、浜松城の北北東、5里(約20km)の位置の二俣城を攻撃します。(地図⑨)

⑨武田軍の西上ルート(遠江侵攻)

この時の二俣城攻撃の主力は武田勝頼。勝頼は力攻めに二俣城を落とそうとしますが、なかなか落ちません。(写真⑩)

⑩二俣城跡
※雲の見える本丸裏が天竜川

「勝頼、お前は戦い方が直線的すぎるぞ。良く城を観察しろ。天竜川を背にしたこの城は井戸を掘らず、天竜川から水を汲みあげておるのが分からんのか。水をくみ上げる井戸櫓を壊せば簡単に城は落ちるぞ!」(写真⑪)

⑪二俣城井戸櫓
※清瀧寺にて再現
と信玄は勝頼に言います。

「それは分かっており、あの井戸櫓を壊そうと何度か舟に兵を載せて出すのですが、城や構造物から鉄砲、矢で散々に浴びせかけられ、近づくこともできません。」

と言い訳する勝頼。

「では上流から筏や丸太を大量に流せばよかろう。それを井戸櫓にぶつけて壊してしまえば良いのじゃ。」

果たして信玄の言うとおり、雨が降って水嵩が増した時に筏や丸太を天竜川に流すと、井戸櫓の柱はへし折られ、水汲み場はいとも簡単に崩壊しました。

この直後、二俣城は落ちます。

余談ですが、この二俣城で7年後、家康の嫡男の信康が自刃することになるのです。

5.一言坂の戦い(前編)

この二俣城を勝頼が攻めている間、信玄は、二俣城、浜松城、掛川城、高天神城等、遠江の有力な城が連絡を遮断する位置、天竜川の下流方面に陣を敷きます。

この時、家康は大きなミスを犯します。西上する武田軍本隊をこの目で見ようと、偵察のつもりで浜松城を家康自身が出馬するのです。偵察と言っても、国主自らが出馬するとなれば、当然それなりの規模の戦団になります。ある程度の戦闘があった場合でも国主を守れる規模の兵が出る訳です。この時、家康の全軍は8000なのですが3000もの部隊で偵察に出たようです。

非常に中途半端な軍事行動となるのです。案の定、兵数は目立つので、武田の智将たちにバレます。

⑫馬場美濃守信房
「物見のつもりか。それとも3000も率いて信玄本隊と戦うつもりか。いい加減な。そういう生半可な行動が命取りになるということを家康に教えてやれ。」

ということで、武田軍は用意周到に作戦を練りました。

まず家康らが、西から天竜川を渡り切るまで、武田軍は素知らぬ顔。家康も偵察で出てきているので、武田方には気づかれていないだろうという甘い見通しで、天竜川を渡り、天竜川の東側に陣を張る武田軍に近づきます。

渡り切って、武田軍に近寄ってきた家康偵察隊。武田軍の先発隊と遭遇します。

「しまった!引けーっ!」

と、慌てて退却を開始する家康。

ところが、流石武田軍風林火山」の馬印の「」、

 疾 如 風(疾き事 風の如く)

のように、動きます。武田四天王の1人・馬場信房(のぶふさ)が、速攻で家康軍に突撃を開始。(絵⑫)

撤退しながら苦しい交戦をしていると、天竜川方面に、やはり疾風の如く先回りをしようとする信玄の近習の軍が見えます。

ー挟撃される!ー

と家康が全滅の危機を感じた時

「殿、ここはお任せ頂き、武田軍より速く駆けて、天竜川より西側へ逃げきってください。」

と申し出たのは、本多平八忠勝。(絵⑬)

⑬一言坂での本多平八奮戦

「平八、宜しく頼む!」

と言い置いた家康は、脱兎の如く、天竜川に向かって走ります。

残された本多平八郎、ここから彼の「一言坂の戦い」が始まります。(写真⑭)

⑭一言坂の戦い跡

長くなりましたので、続きは次回とさせてください。

ご精読ありがとうございました。

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《つづく》



土曜日

家康の大樹⑤ ~清州同盟へ~

上洛に伴う今川義元(よしもと)の尾張(おわり)侵攻戦略の中、松平元康(もとやす、後の徳川家康)は、今川軍本隊に先行して大高城への兵糧搬入と、信長軍側が大高城へ付けた鷲津・丸根の両砦への攻撃、そして陥落と沢山の戦果を挙げました。その直後

「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」

の報が入りました。

唖然とする元康。しかし、周囲の家臣団(三河衆)の一人が

「殿!岡崎へ帰る絶好の機会ですぞ!」

と叫ぶと

「あっ!」

と元康は我に返りました。そうです。幼少の人質時代から今日まで、元康は岡崎へ帰るためだけに頑張ってきたと言っても過言ではありません。この大高城の最前線で戦っているのも、義元の信頼を勝ち取り、早く一人前の将として、三河・岡崎へ戻してもらいたいと思うからこそなのです。

それが義元公亡き今、直ぐ手の届く現実となっているのです。岡崎城は現在、僅かな今川軍が駐留しているのみです。元康の軍1千があれば、今川家は、今はアナーキーな状況、取り戻すのは難しくありません。

元康は、しばらく考えます。そして

「全軍、岡崎へ向かう!」
「おお!」(家臣団)
「但し、岡崎城ではなく、大樹寺に入る!」
「ええっ?」(家臣団)

というのが前回までのお話でした。(リンクはこちらから

1.大樹寺に入る元康

①大樹寺

訝(いぶか)る三河衆を無理に従え、その日の夜に大高城を脱出し、翌朝方には大樹寺に入ります。(写真①)

岡崎城には、数は多くはありませんが、今川軍が居ます。桶狭間合戦で勢いに乗った信長軍が、三河へ攻め入ってきた場合、元康は岡崎城の今川軍と協働し、岡崎城にて立て籠もった方が安全であるにも係わらず、大樹寺に入るのは不思議です。(写真②)
②岡崎城

前回述べたように、大樹寺は松平氏先祖8代の墓があり、その前で元康は切腹するつもりだったから?

であればわざわざ家臣団を連れて岡崎まで来ませんよね?元康だけでいいじゃないですか?

元康が切腹してしまったら、家臣団は散り散りになってしまい、直後に信長軍追撃があったなら、更に危険にさらされる訳ですから、この理由は通らないような気がします。

ここでちょっと元康の立場になって考えてみましょう。

2.元康は今川大企業の中間管理職

桶狭間合戦で、自分のボスを失ったとは言え、直ぐに自分の思い通りに動いて良いかというと、今川家という組織に帰属している限り、そうもいかないのはお分かり頂けると思います。

ただし、元康の直属上司はやはり今川義元公。首を取られたとあっては、組織の他の長の業務命令が無くても、非常事態であるが故に、織田軍側の領地にある大高城の地を撤退し、今川領である三河へ戻るのは当然といえば、当然ですし、独断で判断しても、後々今川家側でも問題にはならないはず。

ここまでの元康の読みは良く分かります。

ではなぜ、直ぐに岡崎城に入らず、3km手前の大樹寺に入ったのか。

ここに、元康の思慮の深さを垣間見ることが出来ます。

③桶狭間合戦公園に建つ
今川義元像と織田信長像
彼は信長を意識していたのです。

敵としての信長ではなく、将来の味方としての信長です。

義元が予期せぬ形で討死した直後、元康は元康なりに、義元の跡を継ぐ氏真(うじざね)と信長の器量を天秤に計っていたのでしょう。そして氏真より、自分たちの未来は信長にあるのではないかと予感していたのだと思います。(写真③)

ですので、幾ら自分の故郷、土地である岡崎だからと言って、不用意に岡崎城に入ってしまえば、岡崎城には今川軍も居る訳ですから、元康は信長に抵抗する勢力であると信長からみなされます。

ならば、岡崎城の今川軍を追っ払って入城し、早々に信長と手を結べばいいやん!
と思われる方もいらっしゃると思いますが、そこは、皆さん、今川家という、今で言う大企業、御曹司が多少甘くても、大企業は強い!立て直す人材が出るかもしれません(笑)。

となると、直ぐにライバル会社である信長ベンチャー企業に移籍というのは軽薄であり、ここはじっくりと今川大企業と信長ベンチャー企業の行末を見極めたいところ。

いずれにせよ、今の元康は今川大企業の中間管理職。この企業に居場所を残しつつ、将来移籍するかもしれない信長ベンチャー企業にも悪い顔はしたくない。

勿論、今、手薄の岡崎城を攻め、元康ら三河衆のものとすることもできる絶好の機会なのですが、それをやってしまっては、今後、今川大企業を敵に廻します。まだ信長ベンチャー企業とも提携もしていないのに。

なので、岡崎城には入らず、大樹寺に入ったのです。

ちょっと企業風に書きましたが、切実なところは、正妻の瀬名(せな)姫(築山御前)、竹千代、亀姫という元康の家族が人質同様に駿府に住んでいるこの時点で、今川家に楯突く事など想像できない元康です。ただ、今川家を継承している氏真と、元康が幼少の頃より知っている信長、この二人を天秤にかけるとどうしても信長に分があると思う元康の葛藤が、この大樹寺入りに現れていると思います。

3.わざと態度を明確にしない元康

④清州城に居た信長は怖い(笑)
岡崎城の今川軍は、いつ信長軍が攻めてくるかも分からず、寡兵であることから、何度も大樹寺に留まる元康軍の入城及び信長軍への共闘を求めます。

ところが、元康は頑として大樹寺を動きません。

そのうち、岡崎城の今川軍は、信長の三河侵攻を恐れ、城の守備を放り出し、駿府へ逃亡してしまいました。

元康は、これを待っていました。

つまり、岡崎城の今川軍が遁走してしまったので

「(今川の城である)岡崎城を守るべく、しかたなく」元康らが大樹寺から岡崎城へ入城したと。

これなら、後で今川家から文句の言われようもありません。

また、後に信長から「あの時岡崎城に入って今川軍として守ろうとしたのだろう?」と詰問された場合でも

「いえいえ、滅相もございません。岡崎城は松平家代々の城。大樹寺で時機を見て今川軍を追っ払おうと思っていた次第です。」

と、元康らは、今川軍としてではなく、あくまで独立した三河衆としての行動だったと言い訳できる訳です。

つまり、このタイミングでは、元康は今川家側の人間なのか、信長側なのかが不明な状況を作り出すことに成功したのです。

4.鵜殿長照(うどのながてる)

⑤忍者ハットリくん
(名は服部貫蔵)
この微妙な態度で臨んだ元康ですが、時間が経つにつれ、気持ちはどんどん信長に傾いていきます。

というのは、氏真の今川領内でのガバナンスはやはり上手く行かず、離反する豪族らの人質を次々と殺し、それがまた今川家からの離反を生むという負のスパイラルが廻り始めたからです。

松平家もその選に漏れることなく、東三河の松平家の十数人の人質が、吉田城付近で陰惨にも串刺しで処刑されるという伝承が残っています。この後に出てくる松平清善(きよよし)も人質だった娘を処刑されています。

氏真の統率力の欠如だけでなく、このような破滅型のガバナンスに嫌気が差した元康は、今川家を見限ります。それは勿論、駿府に残している自分の家族・瀬名姫(築山御前、以後大河ドラマに合わせ「瀬名姫」と記述します)、竹千代(後の信康)、亀姫の命を諦めるということを意味します。

ところが、ここで、一計を立てたのが服部半蔵正成(しげなり)、忍者ハットリくんのモデルです(イラスト⑤)。

◆ ◇ ◆ ◇

鵜殿長照(うどのながてる)という武将をご存じでしょうか?(写真⑥)

⑥「どうする家康」の鵜殿長照
(野間口徹氏)

元康が大高城に、丸山砦の信長軍の追撃を振り切って、兵糧を入れた話を覚えていますか?(忘れた方は是非こちら「3.元康、大高城へ兵糧搬入作戦成功!」をご笑覧ください。

元康が大高城へ兵糧を持って飛び込む時まで、大高城で孤高の将として鷲津砦や丸根砦の信長軍の付城と、草の根を嚙みながら戦っていた漢(おとこ)、それが鵜殿長照です。

かなり気骨のある漢でしたが、今川義元が桶狭間で討ち取られると、元康よりも早く三河の本領に帰って、今川方の武将として上ノ郷城で西三河を信長の魔の手から守ろうとします。(写真⑦)

というのは、長照自身、義元の甥にあたると同時に、奥方は、今川家当主である氏真の叔母にあたるのです。これだけ今川家との血脈が濃ければ、無条件に今川方で信長憎しであることは明白ですね。
⑦上ノ郷城跡

ここで今川家の味方なのか、織田信長に汲みするのかを判然としないようにした元康の立ち位置を目いっぱい使った一芝居を服部半蔵正成は打ちます。

ある夜も更けた頃、彼は、鵜殿長照の上ノ郷城に負傷した姿で飛び込みます。

「御注進!隣国・松平清善殿(絵⑧)が、吉田城外にて娘を今川一族に殺された恨みで、この上ノ郷城へ兵を進めております。我が主・元康は同じ松平家として清善を思いとどまらせようと、竹谷の清善を尋ね岡崎から出てきたところ、清善殿は軍を固め、無勢の我が軍に襲い掛かってきた次第。

半蔵正成は話ながら、肩に刺さった矢を抜いて見せます。肩から少し血が吹き出します。鵜殿長照は、その生々しい戦の傷を見つめ、ゴクリと唾を飲み込むのです。(これは血袋を使った半蔵正成の演出です。)

「そもそも松平家同士の話し合いにより、この西三河での混乱を避けようと少人数で来た我が主・元康軍は現在、大苦戦でござる。」

⑧松平清善

「鵜殿長照殿!是非援軍を!我が主・元康は、上ノ郷城の西側・竹谷の地にて交戦中でござる。元はと言えば鵜殿長照殿を庇っての今回の出陣。どうかご出馬を!」

と、今にも戦での消耗で倒れそうな苦しい息の中での半蔵正成の言。

「むむむ・・松平家は結束が固いと聞くが・・」

と半信半疑、直ぐには応じられない長照。そこに留目を刺すかのような半蔵正成の言が続きます。

「織田信長が来ますぞ。同じ三河の松平家の内紛。信長が逃すはずはありませぬ。我が主・元康が清善殿のところに来たのも、実は清善殿が信長殿との密通の気配があり、このままでは長照殿も松平家も西三河が信長殿に切り取られてしまうと危惧されてのことなのです。ここで元康を見殺しにすれば、信長・清善連合軍と長照殿は対峙することになりますぞ。駿府の氏真殿の支援は望めない現状で!」

「よし分かった!元康殿を助けようぞ。」

とやっと応じる長照。早速、城の守備を長子に任せると、数百の騎馬を従えて、西の竹谷に向けて城門を打って出ます。

5.服部半蔵正成の火計

長照を説得した半蔵正成は、城内で手当てを受けることとなり、城に残された女性たちに、別室に案内されます。

「厠(かわや)はどちらか?」

と聞き、案内されると、厠から庭越しに外に出て、黒装束に着替え、するすると城屋敷の天井裏に潜みます。

◇ ◆ ◇ ◆

鵜殿長照らが、上之郷城から西の竹谷方面へ出撃したことを、城の東にある丘の上から見ていた武将がいます。

松平元康です。

半蔵正成が鵜殿へ、「西の竹谷で交戦中」と伝えた元康は、東の丘に引き連れた松平連合軍(松平清善の軍と連合)と共にいるのです。

竹谷の松平清善の屋敷には篝火を延々と焚いて、それなりに軍勢がいるようにみせかけはしているのですが、殆どもぬけの殻です。勿論、この屋敷は鵜殿軍に打ち壊されることは覚悟の上です。そんなことよりも、松平清善は、桶狭間合戦後、鵜殿長照の今川氏真への讒言により、人質である娘を殺された恨みで、上之郷城をなんとしても抜きたい(落城させたい)と思っていたところでした。

そこに、松平元康の家臣・服部半蔵正成から、上ノ郷城を抜くことに、元康が協力するとのオファを受けたのですから、屋敷の1つや2つ、大した話ではありません。元康軍が連合する上に、服部半蔵正成が率いる甲賀部隊(忍者部隊)が策略を持って上之郷城を抜くと言うのですから、こんなに心強いことはありません。

元康は、鵜殿軍が上ノ郷城を出払ったとみるや、全軍に指揮をします。

⑨本丸炎上イメージ
「かかれ!鵜殿長照は半刻(約1時間)もすれば、騙されたと気づき、城に取って返すぞ!半刻で上ノ郷城を抜くのじゃ!」

城を守るのは鵜殿長照の長男、次男が中心となりますが、長照率いる主力は西の竹谷へ出撃しておりますので、東門を突き破って城に乱入するのに松平連合軍は苦労しません。

と同時に、上之郷城の本丸から火の手が上がります。城屋敷の天井裏に忍んだ半蔵正成が火を掛けたのです。

「頼むぞ!半蔵!」

と元康は祈る気持ちで、その火の手を見つめました。半蔵正成のこの火の手を合図に城外から甲賀部隊も乱入し、鵜殿長照の奥方、息子たちを生捕りにする手筈なのです。

城・本丸屋敷から上がる火の手はみるみる広がり、城内は大混乱。(イメージ⑨)

特に松平清善の兵は、城に火の回る中、娘を殺された恨みで鵜殿守備隊の虐殺を進めます。城内は大混乱となりましたが、どさくさに紛れながらも、甲賀部隊は、長照の奥方や息子たちの身の確保に成功しました。

6.鵜殿坂

出撃した鵜殿長照らが、竹谷の囮の陣を見つけ、

「服部半蔵正成に謀られた!」

と慌てて上之郷城へ取って返したのは、元康の予想通り、城を出撃してからほぼ半刻後。既に上ノ郷城は、火の海と化していました。

鵜殿軍は茫然として、上ノ郷城の落城を見ているしか無い状況です。

しかも、攻め手は、いつも相まみえる隣国の松平清善らの軍のようですが、奴らが引き上げる方向、城の東の丘には

「厭離穢土 欣求浄土」の元康の馬印が立っているではありませんか。

「おのれ!卑怯だぞ!騙したな、元康っっっ!」

と、鵜殿長照は、強烈な怒声を発しつつ、率いる軍と一緒に元康が陣に迫ろうとします。その怒声を聞いた松平清善、攻城戦が終り、元康が陣へ取って返す途中だったのですが、

「長照!観念!!」

と、長照の後を追いかけます。元康の陣がある丘の頂上にあと少しのところで、長照は木の根に馬の足が取られ落馬。そこに追いついた清善。長照が起き上がったところを、一刀に切り伏せます。悔しさで目を引ん剝く長照の首、これを掴んで持ち上げた清善、

「宿敵・鵜殿長照の首取ったり!」

と叫びます。

現在、この丘へ登る坂は「鵜殿坂」という地名で残っています。(写真⑩)

⑩鵜殿坂

また、この坂でころぶと怪我をすると伝えられており、鵜殿の怨念だとの伝承も残っているようです。

服部半蔵正成の火計は成功しました。生捕りにした鵜殿長照の奥方、その息子らと駿府にいる元康の家族との人質交換に今川氏真は応じるのです。

7.清州同盟

元康は、直ぐに無念顔の長照の首を検分します。

ー長照殿、さぞかしワシを卑怯ものと思われるであろう。しかし、ワシも領民のくらしを含む松平家という家を守り続けなければならず、その結果が得られるのであれば、幾らでも卑怯のそしりを受けもうそうー

元康の頬に一筋の涙が流れます。そして決意します。

ー今日を持って、今川家とは決別し、頂いた義元公の「元」の諱(いみな)はお返しし、ワシが卑怯と言われようと守っていく「家」を頂いた名としよう。つまり、「元康」改め「家康」じゃ。ー

⑪鵜殿長照のお墓

駿府に人質となっていた瀬名姫、竹千代、亀姫を取り戻した元康、改め家康は、桶狭間合戦の2年後の永禄5年(1562年)、清州城にて信長と同盟を結びます。(360度写真⑫)

⑫清州城

これが「本能寺の変」までどんなに家康が不利・ピンチになっても続く清州同盟の始まりなのです。

長文・乱文失礼しました。ご精読ありがとうございます。

《つづく》