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木曜日

家康の大樹⑦ ~三方ヶ原の戦い 中編~

前回のあらすじ

①本多平八の鎧
1572年10月、武田信玄は西上作戦を開始します。この作戦で最初に攻略すべき武将は隣国、遠江・三河の徳川家康。龍虎相まみえる形で軍神と言われた上杉謙信と川中島合戦で凌ぎを削った武田信玄にとって、正直、この時31歳の家康は「ひよっ子」のように見えたのではないでしょうか。

国境である青崩峠を越えて2万5千の軍勢で遠江へ侵攻した武田軍。犬居城を通り浜松城の北北東の位置の二俣城の攻撃を開始。家康は、偵察のために浜松城を出馬しますが、大将が出馬する偵察という中途半端な目的意識で部隊を編成したため、直ぐに武田の先発隊にバレてしまいます。慌てて退却を開始する家康。追撃するのは、武田四天王の1人・馬場信房(のぶふさ)の最強部隊です。撤退しながら苦しい交戦をしていると、天竜川方面に、やはり疾風の如く先回りをしようとする信玄の近習の軍。挟撃される全滅の危機を家康が感じた時

「殿、ここはお任せ頂き、逃げきってください。」

と申し出たのは、本多平八郎忠勝(以後、本多平八)。(写真①)

カッコいいですね。今日はこの本多平八の一言坂での戦いぶりから始めます。

1.一言坂の戦い(後編)

 殿(しんがり)を請け負った本多平八は、まず野原に火を掛け、馬場信房軍を攪乱します。そして攻撃の手が緩んだその間に、一言坂の坂下という不利な位置で置盾を3段に組み、馬場隊の攻撃を防ごうとします。(図②参照)

②「一言坂の戦い」を一言で描くと・・・

ところが、流石は馬場隊、この置盾組を2段まで撃破します。

あわや3段目も撃破、本多平八も「これまでか!」と坂下への退却を開始しようとすると、なんと坂下には信玄の近習・小杉左近の鉄砲隊が一斉射撃を開始し、本多隊の退路を断つのです。元々、殿(しんがり)部隊というのは、かなりのダメージを受けることは覚悟の上で、全滅することも珍しくありません。

なので、本多平八もある意味、全滅も覚悟の上で殿を請け負っているのです。

「挟撃だ!全軍死んだと思え!」

「殿、なんということを言うのですか。将たるものが諦めれば、士気は上がりませぬぞ。」

「いや、このままでは全員討死しかない。俺が全員の命を貰った。これから我々は『大滝流れの陣』で『死兵』となって、小杉の鉄砲隊へ突撃!」

③現在の一言坂
と、言うや否や、「蜻蛉切」という6m余りもある天下の名鎗を馬上で軽々と操って、小杉の鉄砲隊へ蜻蛉切を繰り出します。『大滝流れの陣』と聞いた兵士たちは、皆顔面蒼白、皆死を覚悟して鉄砲隊へ五月雨に突入していきます。

この『大滝流れの陣』、関ヶ原の戦いで島津義弘らが見せた『捨て奸(すてがまり)』と似ています。両方とも捨て身の玉砕戦法なのです。最初から『死ぬ気』で止まっている兵に突進していくのが『大滝流れの陣』。その気迫等に気圧されて、突撃された敵は怯みます。つまり『死中活あり!』の気魄の戦い方なのです。

実際、「蜻蛉切」を構えた本多平八の勢いに飲まれた小杉左近。怯んだかどうかは定かではないですが、死兵としての気迫に道を空けてしまいます。

結果、本多平八隊も大した損害も無く、無事家康の殿(しんがり)を完遂するのです。

◆ ◇ ◆ ◇

後日、小杉左近は以下の歌を詠みます。(詠んだのは左近ではないとの説もあります。)

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」

唐の頭(とうのかしら)とは中国大陸から輸入したヤクの毛を使った兜です。(絵④)

④徳川家康 唐の頭
唐からの輸入品なのでかなり高級なのですが、信玄より数段落ちる武将だった当時の家康には身分不相応なものだとの揶揄ですが、もう一つ身分不相応に持っているのが本多平八。

武田信玄には勇猛な武将が多々居ましたが、家康なぞ・・・という意識もあったのでしょう。それほど本多平八は、家康家臣の中でも傑出した勇猛果敢な武将だったのでしょうね。

この「過ぎたるものが二つあり。」のフレーズは、後に以下の有名な狂歌にも使われます。

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」

2.信玄、家康を無視する

この後、信玄は大井川を北上して二俣城方面へ向かいます。そして二俣城がこの後12月19日に落ちるのですが、この間、家康は何ら有効な手が打てません。

これは、遠江一円には、まだ支配力が浅い家康としては負の影響力大です。天野氏等、既に遠江の北の豪族らは家康を離反しています。

このように家康領内である遠江で獅子の如く暴れまわる武田騎馬軍団。

勿論、家康も指を咥えてみているだけで全く行動しなかったわけではありません。

信長への援軍要請は幾度も行っています。ところが信長もこの当時、将軍・足利義昭との対立がはっきりしてきており、浅井・朝倉連合や石山本願寺との対立、いわゆる「信長包囲網」という苦境に立たされていました。また織田信長は、以前から武田信玄とも同盟を結んでおり、この包囲網のタイミングで信玄とも表立って事を構えたくはなかったものと思われます。なので佐久間信盛を始め、平手 汎秀(ひろひで)、林秀貞、水野信元等、織田家中の名だたる武将の軍勢を西三河から岡崎城までの、浜松城より西側に密かに配備。直接浜松城へ出向いた兵力は3,000程度で展開したのです。

たった3,000ではありますが、信長との連合体も整った家康。武田軍が浜松城へ寄せて来ると予測し、籠城戦に備えます。

家康の予想通り、二俣城方面から、遠江を南下し、家康の本拠・浜松城へ迫る武田軍。ところが、急に西に転進し、浜松城の北を、家康らを無視する形で三河方面へ軍を進めるのです。(地図⑤)

⑤三方ヶ原合戦前の武田軍の動き

「馬鹿にするな!」

と家康は憤慨します。
もし、このまま浜松城に貝のように籠っていて、去り行く信玄の尻を眺めているだけの家康となれば、北遠江の離反だけでなく、遠江全体へ家康のガバナンス能力のなさを披露し、遠江の豪族は誰もついてこなくなります。

「浜松城に向かってきた信玄が、直前で転進”と聞いた時の家康のホッとした顔!」

と皆に笑われ、以後は離反者の増加、信玄からも舐められ、屈辱のうちに家康は、信長の小さな一家臣に留まることになりかねないのです。

家康の兵、8,000と信長からの援軍3,000の併せて11,000は、なんとしても信玄と戦わねばなりません。

3.祝田の坂

⑥祝田の坂(旧坂)
二俣城で山県昌景(まさかげ、やはり武田四天王の一人)隊等とも合流し、27,000となった武田軍の不可思議な浜松城放置プレイ。

「家康、叩く価値無し!」

と信玄が思ったからでしょうか。家康はそう思われた!と剥きになりますが、実は信玄は、この頃喀血の頻度がかなり高くなってきたのです。

「京の瀬田にこの風林火山の馬印を立てねばならぬ!急がねば!」

と、焦った信玄にとって、家康の浜松城なぞは
「捨ておけ!どうせ奴らから、挨拶しに来るだろう!取り囲むのは時間の無駄じゃ!」

と読んでいたに違いありません。そして転進後、しばらくするとムカデ衆(探索及び伝令部隊)から、「家康ら11,000浜松城を出て、我々を追撃する気配を見せております。」と伝えられると、
信玄はニヤリとします。「やはりな。」

◆ ◇ ◆ ◇

一方、家康側は、転進した武田軍が三方ヶ原台地の北端、祝田(ほうだ)の坂を降りて浜名湖方面へ向かおうとする動きを察知。
この時、家康は咄嗟に考えました。

「信玄め!三方ヶ原台地の北端の祝田の坂を下る気だな。あそこはかなりの隘路になっているはずじゃ(写真⑥)。
浜松城を今から出陣して武田軍の背後から襲い掛かれば、敵は反転しても、あの坂では少人数ずつしか繰り出せないはずじゃから、片っ端からのしてやれ!浜松の地の利はワシの方が信玄よりよーく分かっているのじゃ!」

と、浜松城を打って出ます。

「信玄が祝田の坂を下りきる前に、後ろから斬りつけるのじゃ!全軍急げ!!」

4.三方ヶ原合戦
⑦武田信玄が反転して家康を
待ち構えた「根洗の松」

ところが、信玄は家康より1枚上手です。この家康の動きを想定していたのです。
家康が浜松城を打って出たとムカデ衆(伝令部隊)は信玄に上申します。

「やはり来たか。予想通りだ。よし、急ぎ引き返せ!」

と全軍に指示します。

祝田の坂を降りている最中の武田軍は、進軍をストップすると廻れ右をして、また三方ヶ原台地へ登り返します。

そして約7丁(800m)程、来た道を戻ると、三方ヶ原の根洗の松のあたりに本陣を敷設。27,000の軍勢を魚鱗の陣で配置し、余裕で家康軍の到来を待ち構えます。(地図⑧)

さて、一方、祝田の坂まで一気に走り、追撃戦に入ろうとした家康軍。

ところが、祝田の坂のかなり手間で、武田軍がしっかりと布陣しているのを見つけ、狼狽えます。

「祝田の坂を下っているのではないのか?」

夕刻せまる三方ヶ原台地に、武田軍は西日に照らされた赤い甲冑を更に緋色に染めながら、見事な隊列を組んで待ち構えているのです。騎馬隊の馬のいななきも制御され、統率の取れた魚鱗の陣構え。

美しい!流石は武田の最強軍団だ!

と敵ながら家康軍の誰もが感心してしまった次の瞬間、最前列の小山田隊辺りから、次々に顔面大の石が飛んできました。

い、痛い!

ガキの喧嘩じゃあるまいし。と思いつつも、当たるとかなりの打撃です。
ところが、家康軍11,000は街道を、後から後から押し出してくるので、軍の先頭はこの投石の餌食です。家康軍の先頭集団は「押すな!押すな!」状態。

自然と隊列は投石に当たらぬよう横に横に広がり始めます。(地図⑧)
⑧三方ヶ原合戦布陣図(Google Map利用)

これが後世に、「なぜ家康は、迎撃する敵よりも兵の数が多くなくてはならない『鶴翼の陣』を三方ヶ原合戦で敷いたのか?」と議論百出する陣形になった所以ではないでしょうか?

一説には、「家康も信玄が自分たちの倍以上の兵を用いているのが分かっていたので、一度鶴翼の陣にすれば、信玄はもっと大きな鶴翼の陣を敷くだろうから、信玄の本陣が手薄になった瞬間に乾坤一擲の一撃を加えるつもりであった。」等の説もありますが、「押出かつ急ブレーキによる横展開」が本音ではないかと筆者は現場に行って思いました。
⑨鶴翼の陣と魚鱗の陣

しかも、兵数が多いにも係わらず信玄は敵に切り込みやすい「魚鱗の陣」です。(図⑨)
更に機動力抜群な騎馬隊を持っています。

兵数で言うとアベコベの陣形です。本来数の多い信玄側が鶴翼の陣、数の少ない家康が魚鱗の陣が正統な形です。

実は、信玄は過去にこのアベコベ陣形を余儀なくされ、ピンチになった経験があるのです。

◆ ◇ ◆ ◇

ご存じ、川中島の戦い(第4次合戦)において信玄は、「啄木鳥(きつつき)戦法」で妻女山の上杉謙信(当時は上杉政虎)の陣へコッソリと、12,000の兵を送り、謙信らに急襲をするという計画を立てます。啄木鳥が木を激しく嘴で叩くと、木の中の虫が飛び出してくるのと同様に、慌てふためいた上杉軍13,000は妻女山を飛び出すとの想定です。勿論、その場でかなりの上杉軍は討ち取る計画。しかし、川中島方面に逃走していく上杉軍もいるので、川中島には、信玄本隊8,000が、鶴翼の陣で待ち構え、逃走上杉軍を包囲・殲滅するという作戦でした。
ところが、上杉謙信はこの信玄の作戦の裏をかき、上杉軍13,000を、12,000の武田啄木鳥隊が到着する直前の夜中に妻女山からコッソリ川中島へ移動させ、翌朝霧が晴れると、8,000の信玄本隊の目の前に、13,000の無傷の上杉軍が構えているのです。
兵数が少ない不利な鶴翼の陣の信玄に対して、謙信は兵数が多い上に「車懸り」という魚鱗の陣の変形のような密集陣形で突進、猛攻してくるため、もう少しで信玄本隊は総崩れになるところだったのです。そうなる直前に12,000の妻女山へ送った啄木鳥隊が、謙信の裏かき作戦に気付き、川中島へ戻ったので、上杉軍は撤退。撤退間際に、かの有名な写真⑩の謙信と信玄の一騎打ちとなった次第です。

⑩ご存じ川中島合戦における
信玄と謙信の一騎打ち
三方ヶ原古戦場に立った時、筆者はそれを思い出しました。だからこそ、ワザと信玄は家康が鶴翼の陣を敷くように投石等で工夫したのではないかと思ったのです。戦の経験豊富な信玄なら、ひよっ子の家康に兵数が少なくても鶴翼の陣を敷かせること自体、朝飯前なのかもしれません。

◇ ◆ ◇ ◆

話を戻します。

この武田軍の投石により火蓋が切られた三方ヶ原合戦。だ良く状況が呑み込めていない家康の各隊ですが、武田の前線軍と交戦を余儀なくされます。
その最中、武田軍の後方に構える真田昌幸、武田勝頼、馬場信房らの騎馬隊が、三方ヶ原台地の平らな土地に、縦横無尽に馬を走らせ、家康軍の横脇から突撃してきます。

あっという間に家康軍は総崩れ。戦闘開始から2時間も経たない日没の夜陰に紛れ、浜松城方面へ散り散りとなって大敗走をするのです。

5.家康敗走にまつわる伝承

家康もこの戦の敗走で、馬上で脱糞する程の恐怖に駆られて、浜松城に逃げ込んだという伝承は有名ですが、浜松城にまで逃げ切る間の伝承を2つ程、ご紹介させてください。

1つ目は浜松八幡宮にある雲立楠です。(写真⑪)
⑪雲立楠

ここは、敗走した家康が敵の目を逃れるため、この大楠の洞に身を隠したとの伝承があります。浜松八幡宮の神木であるこの大楠は、源義家が勧請したと言い伝えられていました。家康は駿府で修業している10代前半の頃には「吾妻鏡」を諳んじられる程の源頼朝好きだったとのことですから、当然源家の元祖・義家には高い関心を持っていたはずです。浜松城近くのこの神木も、義家勧請であると知っていたに違いありません。

「戦の神様・八幡太郎殿(義家のこと)、どうか我が身をお守りください!」

⑫浜松八幡宮
武田の追手が大楠周辺にも到着し、八幡宮社内に逃げていた家康軍の雑兵を捕え、殺害します。家康も「もう見つかる!そら見つかる!」と夜陰の中、楠の洞に身を捻じ込んで震えていました。しばらくすると武田の追手も場所を移動し、境内に人の気配は消えました。

「ふうっ!」

なんとか難を逃れた家康は、夜の星の綺麗な空を見上げ、義家の加護に感謝を捧げます。するとその時、この楠から瑞雲(吉兆をしめす雲)が立ちのぼったのです。

「おおっ!遠江は信玄の手に落ちたかと思うたが、大丈夫じゃと八幡太郎殿がワシに言うておる!」

これが「雲立楠」と呼ばれている所以です。

この不思議な出来事の後、家康はこの八幡宮を徳川家の祈願所としてますます崇敬し、浜松八幡宮は徳川家を守護するお社になったということです。(写真⑫)

6.小豆餅神社

もう1つの伝承は、ちょっとあり得ないと思われる話です。
逃走中にお腹が空いてたまらない家康は、武田軍に追われながらも、近くの茶屋に飛び込み、

「おい、婆さん、何か食べ物はないか!」
「はいはい、美味しい、この辺りの名物・小豆餅ならありますよ。」
「それで良い!早く出してくれ!」

いつ追手に追いつかれるか分からない家康は気が気ではありません。茶屋の婆さんが出してきた小豆餅をほおばると、ヒラリとまた馬上の人となり、馬の尻に鞭を当てると、浜松城へと急ぎ疾走します。

ところが、この茶屋の婆さん、なんと疾走する馬より速く走り、半里(2km)近く走って家康に追いつくと

「小豆餅の代金をまだ頂いておりませんが。」
「・・・あ、こめん。忘れておった。」
⑬小豆餅神社

と老婆へ小豆餅代を支払う家康。
なんともまあ、間が抜けた神君家康公ですな(冗談)。

大体、幾ら腹が空いたとしても、三方ヶ原の戦場近くで茶屋に飛び込み注文しますか?老婆は馬より速く、しかも殿様追いかけてまで代金取立てって・・・ありえない要素満載ですね(笑)。

ただ、写真⑬のように小豆餅神社は直ぐ近くにあります。
小豆餅自体の起源がこの辺りにあるのも事実のようですので、三方ヶ原に小豆餅を扱う茶屋があってもそんなに不自然ではありません。
調べると、流石に合戦中の上記伝承は後世の創作だろうと言われています。逆にこのあたりの風土記には以下の伝承がありました。

もう少し後の慶長年間(西暦1600年前後)の浜松城主の弟・高階晴久という武人が、三方ヶ原の茶屋に立ち寄り、土地の名産・小豆餅を食べていると、奇怪な現象が次々と起きるので慌てて浜松城下まで逃げて来ました。翌日大勢の供と一緒に、この場所に来てみると茶屋は無く、うら寂しい荒地に白骨が累々と広がっています。そう、これらの骨は三方ヶ原合戦の戦死者たちのものだったのです。
そこで、高階晴久はこれらの骨を集め、小豆餅を供えて供養したとのこと。爾来、三方ヶ原合戦の死者を弔うため、小豆餅を供える習慣が続いたこの土地を小豆餅と呼ぶのだそうです。こちらは信憑性が高そうですね。白骨はほぼ家康軍のものでしょう。

7.浜松城へ戻ってくることができた家康の後の話は・・・

この小豆餅でお腹を下してしまったのでしょうか?それとも先にお話した雲立楠の洞の中でお腹を冷やしたからでしょうか。いずれにせよ、家康は浜松城まで我慢できずに、馬上脱糞との伝承は有名ですね。

浜松城に逃げ帰った家康。武田軍は追ってきます。信玄の、浜松城から家康を引っ張り出し野戦で手痛い打撃を与える作戦は、大成功なわけですが、果たして家康はこの窮状から脱出できるのでしょうか。

長くなりましたので、三方ヶ原合戦の終結並びにその後の信玄については次回描きたいと思います。長文・乱文にも係わらず、今回もお付き合いいただきましたこと、誠にありがとうございました。