マイナー・史跡巡り: 家康の大樹⑧ ~三方ヶ原の戦い 後編~ -->

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家康の大樹⑧ ~三方ヶ原の戦い 後編~

前回のあらすじ

①三方ヶ原古戦場碑
※前回の武田軍、家康軍布陣の真ん中
辺りにこの石碑があります。
とてもとても勝ち目はないことは分かってはいます。しかし、ここで戦わなければ遠江は実質信玄の手中に落ちたも同然となり、家康は国を奪われるだけでなく、武将としての信用も無くなり、屍(しかばね)武将となりかねません。

決死の家康は浜松城での籠城戦に備えて準備をします。ところが、信玄はそんな家康をあざ笑うかのように、浜松城を無視して西上を続けるのです。

―おのれ、信玄。通り過ぎればワシがホッとするとでも思うたか!-

家康は冷静な判断をするのが難しくなっていました。この感情に流された判断を、信玄は待っていたのです。

祝田の隘路坂を下っている武田軍に後ろから一撃を加えようと、浜松城を打って出た家康軍を、三方ヶ原台地で待っていたのは、完璧な布陣の武田軍。家康のすべての作戦を読んだ上でその裏をかいた信玄。家康軍はぎったんぎったんに三方ヶ原合戦でやられます。(写真①)

家康は、途中危ない目に何度も遭いながらも、何とか浜松城まで逃げおおせるのです。

今回はこの続きからです。

②三方ヶ原合戦屏風図
※左上の家康に鎗を繰り出す中央の人物が山県昌景
右側に武田信玄。左下に本多平八郎が蜻蛉切(鎗)
で武田軍の武将を倒しています。

1.鎧掛松

雲立楠(前回のブログ参照)の洞に隠れ、命からがら浜松城へたどり着いた家康。何故か城内に入る前に、兜は脱がず、鎧だけ脱いで近くにあった松に掛けます。これが有名な鎧掛松です。(360°写真③)

③鎧掛松

真偽の程はともかく、家康は三方ヶ原合戦で、あまりの恐ろしさに、馬上で脱糞したという伝承は有名ですね。この鎧掛松を最初見た時、私は咄嗟に、城に戻れば当然鎧兜を侍女らに脱がされる訳ですから、色々とバレてしまうのを回避するために、この松に掛けたのでは?と妄想しました(笑)。

ところが色々と調べると、家康は浜松城へ逃げ帰ってきた時、供回りがあまりに少ないので、浜松城の留守居役たちが、「あんなに少人数が殿の訳がない」と誤認して、中々城内へ入れなかったという伝承があります。もしかすると、それで城外で家康が鎧兜を脱げば、姿・形もはっきりするし、なにより敵ではないという意思表示になりますよね。だからこの松の場所で鎧兜を脱いだのかな?と想像してしまいました。それなら神君家康公の御威光も曇らないですよね。

まあ、この松は3代目ですし、元々はもっと濠の方にあった等、どこまでが史実でどこからが伝承かについて色々と議論があるようですが。。。

さて、家康が命辛々浜松城へ逃げ伸びている頃、浜松城付近の犀ヶ崖では、またも勇猛果敢な三河武士、とりわけ本多一族による身を楯にした防衛戦が繰り広げられていたのです。

2.犀ヶ崖の攻防戦

三方ケ原で、家康軍を圧倒的な強さで蹴散らした武田軍は、敗走する家康軍を追いかけ、浜松城近くのこの犀ヶ崖まで侵攻してきました。(地形絵④)

④浜松城の北北西に位置する犀ヶ崖
は城の外濠的な役割を担っていたと
考えられます。

家康軍はこの崖に布で橋を渡したところ、武田軍の多数の武者が、橋が布であることを知らず崖下に落ちたとの伝承が残っています。この崖、現在も浜松市内の普通の街中に残っています。(360°写真⑤)

犀ヶ崖古戦場

かなり深い谷になっていますね。

⑥犀ヶ崖古戦場にある
本多忠真顕彰碑
さて、この場所で何としても武田軍の侵攻を食い止めねばと奮戦したのが、本多平八の伯父本多肥後守忠真(ただざね)です。実は平八の育ての親なのです。(平八の父親は、このシリーズの第1話でお話をした、今川家の軍師・雪斎が、家康を織田家から奪還し直した戦い(安祥合戦)で戦死しています。

忠真は、殿(しんがり)を買って出ます。この犀ヶ崖の脇に旗指物を突き刺し、

「ここからは一歩も引かぬ!」

と叫んで武田軍に刀一本で切り込み、家康を逃す時間稼ぎをし、討死を果したようです。(写真⑥)

◆ ◇ ◆ ◇

最近、大河ドラマ「どうする家康」に出てきた本多忠真(浪岡一喜氏)は、飲んだくれ武将として描かれていましたね。ただ、忠真が飲んだくれだったという文献を私は見つけることができませんでした。何を根拠に描いたのでしょうか?

何となく想像なのですが、大坂の陣で激戦区となる天王寺茶臼山近くに一心寺という大きなお寺があります。その境内に平八の息子・本多忠朝(ただとも)の立派なお墓があります。彼が飲んだくれだったことは有名で、大坂冬の陣の時に飲酒が原因で敗退する失態をやらかし、家康に叱責される始末。

⑦本多平八の息子・忠朝の墓
(天王寺の一心寺)
名誉挽回と大坂夏の陣で先鋒を務めるのですが、功を焦ったためか、戦死してしまいます。死に際に、自分の酒癖を悔い、将来酒のために身を誤る人を助けたいと言って事切れたそうです。それ以来、酒封じの神として、酒癖に苦しむ人たちが忠朝の墓に参拝するようになったのです。(写真⑦)

このお墓の廻りの壁には、沢山の杓文字(しゃもじ)が下げられております。これらはすべて酒封じ祈願が書かれた絵馬であり、懸命に忠朝に酒断ちを祈願する人が、今も後を絶ちません。(写真⑧)

多分、この忠朝との血縁関係があるので、酒癖は遺伝するともいうことから、この三方ヶ原合戦で殿(しんがり)を務めた本多忠真もその気(け)があったのでは?という仮定で作られたのかもしれませんね。

3.浜松城での空城計

浜松城へ逃げ帰った家康は、帰城後、孫子36計の1つ空城計を適用することで、浜松城に迫った武田軍を追い払います。空城計とは、諸葛孔明も用いたことのある孫子の兵法で、城を守るために用いるのではなく、攻める敵を城内に引き入れる、つまり城を「袋のネズミ」の「袋」にする。そして城に誘い込まれた敵は、伏兵やら隠れ兵やらにより、字義通り「袋叩き」にして殲滅する、というものです。

⑧酒断ちを祈願する人たちの杓文字が
忠朝の墓の廻りに沢山掛けられている

「城門という城門を開き、松明を門の外側と内側に立てよ!そして全軍、静かに物陰に隠れよ!」

と下知し、浜松城の家康軍は家康の言う通りにします。

実は、家康は空城計を真似たところで、武田軍を「袋叩き」にできるとは考えておりません。では、何故この策をとったのか?

彼は「一か八か」にかけたのです。それは、この圧倒的な「負け」の状況において、普通なら最大限ガードを固くして、城に籠ろうとするのが本能です。

ところがこの本能に反して城門を開け放ち、「さあどうぞ入ってください」とばかりのノーガード。

⑨矢吹ジョーの
両手ぶらり
思い出したことがあります。ボクシング漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈の得意技にクロスカウンターという必殺技があります。この必殺技は相手の打ち込みの勢いを利用して、自分のカウンター攻撃の破壊力を倍増させることで致命打を負わせるものです。相手の自分に対する打ち込みが強ければ強いほど、致命打にしやすいのです。なので矢吹丈は、この技を繰り出す前は、必ずと言って良いほど、ノーガードにするのです。漫画では、これを「両手ぶらり」と呼んでいました。(絵⑨)

これ結構不気味です。ノーガードで「どこからでも打って頂戴」的な雰囲気を醸し出すと、敵は「何かあるかも。不気味」と思うのでしょうね。矢吹ジョーの対戦相手も何人かはリングの中を逃げ回って恐怖に駆られ、焦って一発カウンターを打ってしまい、クロスカウンターの餌食になる なんて場面もありました。

浜松城のノーガードもこれと同じで、「何かあるに違いない」と武田方の武将たちも用心して攻めなかったのです。

ただ、信玄は当然、孫子の兵法も熟読していますので、空城計は知っていますし、これが虚勢を張った「なんちゃって空城計」であることは見抜いていたかもしれません。なので、「まあこれくらいにしておいてやろう。どうせ浜名湖西側の城という城、岡崎城までを全部落とせば浜松城は孤立する。」と読んだのでしょう。見逃したのですね。

また空城計は後世家康が神君と言われるようになる頃、後付けで作られた話という説もあります。実際には、家康が帰城してからはバタバタで、三方ヶ原合戦で落ちていた坊主首を鎗の先に刺して城内を廻り、「信玄の首を取ったから、皆安心しろ!」との虚言を用い、この喧騒を収めたという伝承もあるようです。(写真⑩)

⑩浜松城と家康公像
※空城計では手前の大手門も開け放ったのだろうか?

⑪武田軍進軍ルート(再掲)
いずれにせよ、帰城する三方ヶ原合戦のボロボロになった兵士を迎え入れるために、城門は空け放たれていたことと、たまたま武田軍の都合で浜松城に攻め寄せなかったという2つの事実から、後に「あれは、あの混戦の中でも、神君家康公が空城計を編み出したのだ」ということに整理されたのではないか、というのが私の持論です。

4.武田軍撤退

この三方ヶ原合戦で大勝利した武田軍はそれから西に移動し、野田城を攻めます。(地図⑪)

野田城自体は小さな城で、この時徳川方の守備兵数は500程度。

ここで1つ不思議なことが起きます。1572年10月に青崩峠を越えてきた武田軍は破竹の勢いで2,3日に1つの割合で城を落とし、三方ヶ原合戦に臨んだのは2か月後の12月。

ところが、その後、この野田城1つ落とすのに2か月も掛かっているのです。

勿論、野田城が小さいながらも河岸段丘上に造られた堅固な城だったので、武田軍は穴掘り部隊が井戸の水脈を切るために、延々とトンネルを掘るという気長な戦術を取ったというのもあるかもしれませんが、2万5千の武田軍は、野田城の50倍もの兵力を有しているのですし、それまでの進軍速度を考えると、2か月もかかるのはあまりに遅い侵攻です。

⑫野田城(左)から包囲軍の信玄に銃撃が
あった瞬間(映画「影武者」より)


更に不可思議なのは、1573年2月にこの城を落とした武田軍は、地図⑪のように、信州の駒場に戻ってしまうのです。

そう、信玄急死ですね。病死という説が有力のようですが、その病気にも様々な説があり、結核、胃がん、肝臓病、甲州特有の地方病等が挙げられております。

他にも信玄狙撃説。これは野田城包囲戦により、穴掘り部隊がトンネルを掘っている期間中に、夜な夜な野田城内で美しい笛の音が聞こえてくるとの噂を聞きつけた信玄が「一度その音を聞いてみたい。」と、包囲軍の中に着座位置を設け、笛の音が聞こえる夜中にそこに座った瞬間、野田城内に居た狙撃兵が信玄を撃ち重傷を負わせ、それが基で信玄が死んだという説ですね。黒澤明監督の映画「影武者」はこの説が採用されました。(写真⑫)

いずれにせよ、1573年4月12日、信州駒場の長岳寺で火葬され、荼毘に付されました。(写真⑬)

⑬長岳寺
お寺の方のご説明では、死亡診断が武田領内で
出たのがこの寺なので、信玄死亡が正式に宣言
された場所とみなされているとのことです。

◆ ◇ ◆ ◇

「大ていは 地に任せて 肌骨好し(きこつよし) 紅粉を塗らず 自ら風流」

信玄辞世の歌です。意味は以下の通りです。

世の中皆、世間に合わせ生きるのでよい。その中で上辺を飾るような生き方をするのではなく、自分の本心に素直になり、自分らしさを見つけ生きることだ。

ちょっと説教臭い辞世の歌と思われるかもしれません。急死なのであれば、もしかすると周囲の人が、チョイスした可能性もあると思いますが、やはりこの歌は信玄らしいと私は思います。

⑭信玄の最期(画:月岡芳年)
三方ヶ原合戦での圧勝、これは今までの信玄の努力のプロセスを考えると当然のことなのです。村上氏をはじめとする信濃平定の苦労、軍神・上杉謙信と川中島等でしのぎを削ってきた事など、信玄にとって、最強の騎馬軍団と武田四天王・二十四将を駆使できるこの体制を作り上げるまでには並大抵の努力では無かったでしょう。

家康もそうでしたが、それ以上に屈強な軍団の長である二十四将等の家臣から信頼を得ること、まとめ上げることの難しさ、信玄はそれを若い時から痛感していたのでしょう。時には家臣団に仕え、時には「諸葛孔明、泣いて馬謖を斬る」が如く、信頼していた家臣を斬捨てざるを得ない状況等、散々苦労した過程の中で、作り上げた経営哲学みたいなものなのが、三方ヶ原の圧倒的な勝利という形に結実していたのです。

「本心に素直になる」、これは上に立つ人にとって、簡単なようでかなり難しいことなのだと思います。結局、家康もこれが出来るようになって天下人になれたのでしょう。

そして家康は、散々痛めつけられたにも係わらず、この強敵・武田信玄を一生敬うのは、信玄の組織に対する苦労を痛いほど分かるからなのではないかと思います。

いずれにせよ、この三方ヶ原の合戦の失敗から多くのことを信玄から学んだ家康は、この後、信玄のような「野戦の名将」とまで言われるまでに成長するのです。

長文・乱文失礼しました。また、最後までご精読頂き、誠にありがとうございました。

《「家康の大樹」第1部了》

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