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日曜日

北斗七星を追え! ~光秀と天海①~

①日光東照宮陽明門と北極星

元和2年(1616年)4月17日。戦国の乱世に終止符を打ち、泰平の礎を築いた徳川家康が、駿府城にてその激動の生涯を静かに閉じた。

だが、その死は決して物語の終焉ではなかった。家康の死と同時に、徳川の治世を数百年先まで持続させるための巧妙な「大きな仕掛け」が発動したのである。当時の人々は、その後に長く続く平穏が、いかなる意志によって設計されたのかを知る由もなかった。

江戸時代は約260年もの長きにわたった。これは鎌倉時代の1.8倍、室町時代の1.2倍に相当する。特筆すべきは、その大半が戦のない「泰平の世」であった点だろう。鎌倉時代は元寇などの国難に見舞われ、室町時代も後半の約半分は絶え間ない戦火の中にあった。これらと比較すれば、江戸時代の平和な期間が、いかに異例であったかが分かる。

さて、今回はこの「大きな仕掛け」について調査した。

先に結論めいたことを描くが、以下3つの図、これらについて順に解説する形で、この仕掛けについてお話したい。(図②、③、④)

これらの「大きな仕掛け」を考案したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)である。

②久能山、富士山、日光のレイライン 他

③江戸城の裏鬼門

④将門の北辰伝承による北斗七星

1.家康の遺言

では、図②から順に見ていきたい。

徳川家康が死の間際に遺した有名な遺言がある。 

「遺体は久能山(くのうざん)に納め、一周忌を過ぎたのちに日光へ勧請(かんじょう)せよ」

この言葉が発せられた瞬間、天海の頭脳の中で「仕掛け」が完成した。家康の切なる願いと、坂東の地に千年以上も深く根付いていた「北斗信仰」を融合させるという、構想である。

もちろん、当時の人々の多くは、家康が駿府(静岡市)を見下ろす標高213メートルの久能山に葬られることを、自然なことと受け止めたに違いない。亡き主君がその高地から、かつての領国を見守り続ける――。そんな光景を、人々は穏やかな気持ちで思い描いたはずだ(360°写真⑤)

⑤久能山からの眺め

有名な伝承として、江戸幕府を脅かす勢力は必ず西から来ると予見していた家康の次の遺言がある。

「我が亡骸は西国に向かい、立ち姿で久能山へ納めよ。死してなお立ち姿を崩さず、天下の安寧を乱す者を睥睨(へいげい)す」

事実、久能山東照宮に安置された家康の棺(ひつぎ)は、その主がいまも毅然と立ち、鋭い眼光を放っているのではないかと思わせるような、独特の佇まいを見せている。(写真⑥)

⑥久能山東照宮の家康の棺
※しっかり西を向いて建っている

⑦天海僧正
(川越歴史博物館蔵)
実際に、家康の死から約260年もの間、西からの大きな脅威が幕府を揺るがすことは、ついぞなかったのである。

2.天海大僧正は明智光秀か

ではなぜ、一度葬った遺体を移動させる必要があったのか?なぜ、日本一の霊峰・富士山を跨ぐようにして「久能山」と「日光」は配置されたのか?

そこには、家康の側近であり「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)が描いた「風水都市・江戸」の設計図が隠されていたと言われる。(写真⑦)

天海は謎多き人物である。数ある伝承の中でも特に有名なのが、「天海の正体は、山崎の戦いで生き延びた明智光秀である」という説だ。

光秀が羽柴秀吉に敗れ、歴史の表舞台から消えたのは天正10年(1582年)。それから6年後の天正16年(1588年)、入れ替わるように歴史に足跡を刻み始めたのが天海であった。彼は無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市・喜多院、川越大師。360°写真⑧)の住持として、初めてその名を名乗っている。

両者の生誕時期には諸説あるが、年齢的にも光秀と天海はほぼ重なる。光秀が高齢の武将として亡くなった(55歳)とされるが、もし彼が天海として再生したのだとしたら、その後の天海の活躍はまさに驚異的な「遅咲き」と言えるだろう。

 ⑧喜多院(川越市)         

更に脱線して申し訳ないが、もう少し「天海が光秀だった伝承」について述べたい。この伝承の主な根拠として、以下4項が挙げられる。

  • 比叡山の修築:織田信長によって焼き討ちされた比叡山。ドラマでもよく見るように光秀はこの焼き討ちに不満を持っており、焼き討ち後は復興を願っていた。焼き討ち当時比叡山に居たとされる天海がその再興に尽力したことは、光秀の悲願を継いだようにも見える。
  • 恵林寺・快川紹喜(かいせん じょうき)との交流の共通性:比叡山焼き討ちで居場所を失った天海は、この焼き討ちに同情的であり、信長と敵対する武田信玄に招聘されて甲斐国に移住。そして天海は武田家が滅ぼされる時「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」との名言で有名な快川紹喜とも親交があり、恵林寺山門での焼死については、かなり心を痛めたという。心を痛めたというのは光秀もほぼ同じ話がある。
  • 「明智平(あけちだいら)」という地名: 日光にある絶景ポイント「明智平」の名は、天海が「明智の名を後世に残すために命名した」という伝承が残っている。
  • 家光の乳母・春日局(かずがのつぼね)との密談: 斎藤利三(としみつ、光秀の重臣)の娘である春日局が、天海と対面した際に「お久しぶりです」と挨拶したという逸話も、二人の密接な関係を予感させる。

⑨日光東照宮にある桔梗紋?
かつては、日光東照宮に光秀の家紋である「水色桔梗」に似た紋が彫られていたという話も伝承化していたが、これは多くの研究家が桔梗に似た他の文様であると検証している。また天海が1643年に亡くなっており、光秀は1528年生まれなので、115歳という高齢が「尋常でない」ということで「天海≠光秀」説を唱える人は多い。(写真⑨)

ただ、天海自身108歳という高齢で亡くなったというのは有力説であり、その差は7年である。この時代「115歳がありえない」というのであれば108歳はいけるのだろうか?

3.本当の「光秀⇒天海」説

史実は、十中八九「天海≠光秀」なのだろう。ただ、身勝手な妄想ではあるが、以下のような仮説はいかがであろうか。

有名な比叡山焼き討ちの時、若き天海(当時は随風と名乗っていた)は比叡山に居た。

比叡山焼き討ちが行われる元亀2年(1571年)、比叡山側も、当時朝倉・浅井軍の叡山結託に手を焼いている信長が本気で山を焼こうとしていることは察知していた。実際「信長公記」にはこの比叡山焼き討ち前の信長からの「最後通牒」について記述している。

  1. 信長側に味方せよ。 そうすれば、以前没収した寺領をすべて返還する。

  2. せめて中立を守れ。 朝倉・浅井の軍勢を山から追い出せ。

  3. どちらも拒むなら、焼き払う。 根本中堂をはじめとする全ての伽藍を灰にする。

この交渉窓口に、明智光秀が関わっていた可能性は極めて高い。

⑩比叡山の天海住坊跡
そして元亀2年(1571年)9月12日の焼き討ち決行の直前、追い詰められた比叡山側は、信長に対して黄金300枚を贈り、土壇場での攻撃回避を試みたという記録が残っている。

『信長公記』などの史料によれば、信長はこの露骨な買収工作を「汚らわしい」と一蹴。懐柔を撥ねつけ、翌朝の総攻撃を命じた。歴史の転換点となったこの交渉の場で、山側の使者として黄金を携えていたのは一体誰だったのか。その正体については詳らかではないが、そこに智謀に長けた若き日の天海(随風)がいたと考えるのは、決して不自然な空想ではないだろう。(写真⑩)

一方、織田側の実務を担っていたのは光秀である。利害を異にする二人が、炎に包まれる直前の比叡山で言葉を交わし、互いの才を認め合った――。この未曾有の危機の最中にこそ、光秀と天海(随風)の密かな親交が始まったのではないだろうか。

4.甲斐国への亡命支援

たとえ先述の黄金交渉に直接関わっていなかったとしても、比叡山焼き討ちの際、光秀と天海(随風)が接触した可能性は他にも残されている。その鍵を握るのが、当時の天台座主(てんだいざす:天台宗の最高責任者)・覚恕(かくじょ)の動静だ。(写真⑪)

当時の座主・覚恕法親王は、時の正親町(おおぎまち)天皇の弟にあたる人物であった。皇族に対し並々ならぬ敬意を抱いていた光秀が、戦火に包まれる比叡山から覚恕を救い出し、武田信玄を頼って甲斐国(山梨県)へと亡命させたという説がある。

注目すべきは、天海(随風)もまた、この時期に同じく甲斐へと逃れている点だ。

ここから一つの仮説が浮かび上がる。光秀は「尊い座主の身を守る」という極秘任務を遂行するため、最も信頼できる実務者として随風を選んだのではないか。若くして智略に長け、南都(奈良)や東国の情勢にも精通していた随風は、亡命ルートを確保するための特使として、これ以上ない適任者だったはずだ。

光秀が道を切り拓き、天海(随風)が座主を導く。この亡命劇こそが、二人の絆を決定的なものにした「真の接点」だったのかもしれない。

⑪信玄のもとに逃げ込んだ覚恕(春風亭小朝)
大河ドラマ『麒麟がくる』
第34回(11月29日放送)より

比叡山延暦寺の焼き討ちという未曾有の惨劇に、天海(随風)がどう関わったのか――。その事実を裏付ける直接的な文献は、いまだ見つかっていない。しかし、天海(随風)、光秀、そして覚恕。この三者の運命が、これほど巨大な歴史の転換点において一度も交錯しなかったと断じるほうが、むしろ不自然ではないだろうか。

激動する情勢の中で、皇族を守ろうとする光秀の「矜持」と、知略を尽くして山を救おうとする天海(随風)の「志」が共鳴したといえる。

5.快川紹喜との交流

一説によれば、武田信玄は比叡山延暦寺を甲斐の身延山へ移転させる壮大な計画を抱いていたという。覚恕は亡命からわずか2年で京へ戻るが、天海(随風)は信玄の参謀として、そのまま甲斐国に留まったとされている。

この甲斐滞在期において、随風は武田家の菩提寺である恵林寺(えりんじ)の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)と深い交流を持った。恵林寺の寺伝や一部の史料には、彼が快川から禅の教えを受け、深い感銘を受けたという伝承が残されている。

一方、見逃せないのが明智光秀との関係である。快川紹喜と光秀は、ともに美濃国(岐阜県)の名族・土岐氏の血を引く者同士であり、旧知の仲であったとされる。

天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻により、武田家は滅亡の運命を辿る。一門および家臣団が総崩れとなる中、快川紹喜は恵林寺の山門に追いやられ、生きたまま火を放たれて壮絶な最期を遂げた。「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉を残したあの事件である。

この惨劇に対し、光秀は激しく心を痛め、深く嘆き悲しんだと伝えられている。そこには、単なる知己の死への哀悼を超えた、同じ土岐氏の血を引く者としての強い連帯感があったのだろう。(写真⑫)

⑫恵林寺山門
※左の柱に「心頭を滅却すれば火も
自ずから涼し」が書かれている

この時、信長に同伴して甲斐攻めに来ていた光秀が、快川紹喜の悲報と同時に、天海(随風)についても「死亡」との報を得たとしたらどうだろうか。

快川紹喜や天海(随風)といった至高の教養人と通じ、彼らを文化の守り手として敬重していた光秀にとって、信長の所業は耐え難いものであった。比叡山を焼き、恵林寺を焼き払い、文化の源泉を次々と灰にする信長の破壊衝動。そこに追い打ちをかけるように、あの有名な「打擲(だちょう)」の事件が起きる。

「うぬは甲斐攻めで何を苦労したというのか!」

諏訪の地で放たれた信長の激昂。信長は光秀の言葉を遮り、額から血が流れるまで扇子で打ち続けた。この理不尽な暴力は、光秀の自尊心を完膚なきまでに叩き潰した。文化を愛する教養人としての矜持も、主君への忠誠心も、この瞬間に限界を超えたのである。

密かに謀反の決意を固め始めた光秀の脳裏には、ある「壮大な構想」がおぼろげながら浮かんでいたはずだ。それは、もし万が一、謀反の果てに自らが歴史の表舞台から消えることになった際の、現代で言うところの「BCP(事業継続計画)」であった。

「いざとなれば、天海(随風)殿の名を借りよう――」

死んだとされる随風になり代わり、僧侶として生き永らえ、影からこの国を導く。のちに「天海」として家康を支えることになる驚天動地の計画が、屈辱にまみれた諏訪の夜に産声を上げたのかもしれない。

6.天海への転身と周到なる計画

「打擲(だちょう)」の屈辱からわずか3か月後。天正10年(1582年)6月2日、歴史を塗り替える「本能寺の変」が勃発した。

変の動機については、怨恨説や四国政策をめぐる対立説など、500年以上にわたって議論が絶えない。ここではその詳細には立ち入らないが、光秀が「思いつき」ではなく「周到な計画」のもとに動いた、という説を前提に話を進めたい。

当時の光秀は、近江(滋賀県)の要衝・坂本に加え、平定したばかりの丹波(京都府・兵庫県)も領有していた。まさに京の都を東西から挟み撃ちにする絶好の配置である。さらに彼は、他方面の有力武将たちがそれぞれ敵対勢力と交戦中で、すぐには動けない状況にあることも完全に把握していた。

⑬明智藪
※山崎の戦いに敗れた光秀が
藪から槍で脇腹を刺された
信長は、わずかな手勢とともに本能寺に宿泊している――。光秀はこの「千載一遇の好機」を見誤ることなく、冷静かつ計画的に活用した。これほど緻密な計算ができる男なら、万が一失敗した際の「コンティンジェンシープラン(緊急時対応計画)」、すなわち「プランB」を練っていたと考えるのが自然だろう。

そして、そのプランBこそが「天海(随風)へのなりすまし」であった。

運命の「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れた光秀。本拠地・坂本へ退却する途上、山科(京都市)の小栗栖(おぐるす)にて農民に襲われ落命したとされるが、その最期には不自然な点が多い。(写真⑬)

伝承によれば、竹藪から突き出された農民の槍に脇腹を深く刺され、自刃を覚悟した光秀は、側近に「自分の首を秀吉軍に渡さぬよう、地中深く埋めよ」と命じたという。

ところが、その後の経緯は謎に包まれている。命じられた側近もその場で自害したため、首の埋め場所は永遠の闇に葬られたという説。あるいは、農民たちが一部始終を見ており、首を掘り返して織田信孝や秀吉に届けたという説。まさに諸説紛々であり、光秀の死を確定させる決定的な証拠は、今なお存在しないのである。(写真⑭)

7.プランBの発動――天海(随風)として北へ

⑭山科にある
光秀胴塚
私が想定する光秀の「プランB」は、実に大胆かつ緻密なものである。

「山科では、別の者の首を身代わりに埋めることで光秀は死んだものと見せかけ、自身は密かに北上して近畿圏を脱出する。そして、当面は地方で『天海(随風)』になりすます」というものだ。

武田家が滅び、随風が快川紹喜らと共に消息を絶ってから、わずか3か月。光秀ほどの教養人が突如として僧侶に転身すれば、本来なら周囲の疑念を招くだろう。しかし、武田の食客であった「随風」という名の下であれば、主家滅亡によって流浪の身となった高僧として、諸国の人々に無理なく受け入れられたはずだ。

光秀がまず身を寄せたのは、当時、蘆名(あしな)氏が統治していた会津であった。

蘆名氏は会津に金山を保有し、その豊富な資金力を背景に足利義昭へ頻繁に貢物を送り、官位を求めていたことで知られる。かつて、その仲介役を担っていたのが光秀であった。つまり、蘆名氏と光秀の間には以前から深い信頼関係があったのだ。

さらに、天海(随風)自身の出自が蘆名氏の一族であるという説を、光秀は事前に掴んでいたのかもしれない。偽装工作を完璧なものにするためには、その名に縁の深い場所へ身を隠すのが最も賢明な判断である。こうして光秀は、かつての知己を頼り、北の地で「天海(随風)」としての静かな再スタートを切ったのではないか。

長くなったので、この後の天海=光秀説、更には天海の「大きな仕掛け」について引き続き描いていきたい。

ご精読に感謝。

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【久能山東照宮】〒422-8011 静岡県静岡市駿河区根古屋390
【喜多院(無量寿寺北院)】〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1
【日光東照宮】〒321-1431 栃木県日光市山内2301
【明智平展望台】〒321-1445 栃木県日光市細尾町
【天海大僧正住坊趾(南光坊)】〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220
【恵林寺】〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
【明智藪(小栗栖)】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町


月曜日

家康の大樹⑧ ~三方ヶ原の戦い 後編~

前回のあらすじ

①三方ヶ原古戦場碑
※前回の武田軍、家康軍布陣の真ん中
辺りにこの石碑があります。
とてもとても勝ち目はないことは分かってはいます。しかし、ここで戦わなければ遠江は実質信玄の手中に落ちたも同然となり、家康は国を奪われるだけでなく、武将としての信用も無くなり、屍(しかばね)武将となりかねません。

決死の家康は浜松城での籠城戦に備えて準備をします。ところが、信玄はそんな家康をあざ笑うかのように、浜松城を無視して西上を続けるのです。

―おのれ、信玄。通り過ぎればワシがホッとするとでも思うたか!-

家康は冷静な判断をするのが難しくなっていました。この感情に流された判断を、信玄は待っていたのです。

祝田の隘路坂を下っている武田軍に後ろから一撃を加えようと、浜松城を打って出た家康軍を、三方ヶ原台地で待っていたのは、完璧な布陣の武田軍。家康のすべての作戦を読んだ上でその裏をかいた信玄。家康軍はぎったんぎったんに三方ヶ原合戦でやられます。(写真①)

家康は、途中危ない目に何度も遭いながらも、何とか浜松城まで逃げおおせるのです。

今回はこの続きからです。

②三方ヶ原合戦屏風図
※左上の家康に鎗を繰り出す中央の人物が山県昌景
右側に武田信玄。左下に本多平八郎が蜻蛉切(鎗)
で武田軍の武将を倒しています。

1.鎧掛松

雲立楠(前回のブログ参照)の洞に隠れ、命からがら浜松城へたどり着いた家康。何故か城内に入る前に、兜は脱がず、鎧だけ脱いで近くにあった松に掛けます。これが有名な鎧掛松です。(写真③)

③鎧掛松

真偽の程はともかく、家康は三方ヶ原合戦で、あまりの恐ろしさに、馬上で脱糞したという伝承は有名ですね。この鎧掛松を最初見た時、私は咄嗟に、城に戻れば当然鎧兜を侍女らに脱がされる訳ですから、色々とバレてしまうのを回避するために、この松に掛けたのでは?と妄想しました(笑)。

ところが色々と調べると、家康は浜松城へ逃げ帰ってきた時、供回りがあまりに少ないので、浜松城の留守居役たちが、「あんなに少人数が殿の訳がない」と誤認して、中々城内へ入れなかったという伝承があります。もしかすると、それで城外で家康が鎧兜を脱げば、姿・形もはっきりするし、なにより敵ではないという意思表示になりますよね。だからこの松の場所で鎧兜を脱いだのかな?と想像してしまいました。それなら神君家康公の御威光も曇らないですよね。

まあ、この松は3代目ですし、元々はもっと濠の方にあった等、どこまでが史実でどこからが伝承かについて色々と議論があるようですが。。。

さて、家康が命辛々浜松城へ逃げ伸びている頃、浜松城付近の犀ヶ崖では、またも勇猛果敢な三河武士、とりわけ本多一族による身を楯にした防衛戦が繰り広げられていたのです。

2.犀ヶ崖の攻防戦

三方ケ原で、家康軍を圧倒的な強さで蹴散らした武田軍は、敗走する家康軍を追いかけ、浜松城近くのこの犀ヶ崖まで侵攻してきました。(地形絵④)

④浜松城の北北西に位置する犀ヶ崖
は城の外濠的な役割を担っていたと
考えられます。

家康軍はこの崖に布で橋を渡したところ、武田軍の多数の武者が、橋が布であることを知らず崖下に落ちたとの伝承が残っています。この崖、現在も浜松市内の普通の街中に残っています。(360°写真⑤)

⑤犀ヶ崖古戦場

かなり深い谷になっていますね。

⑥犀ヶ崖古戦場にある
本多忠真顕彰碑
さて、この場所で何としても武田軍の侵攻を食い止めねばと奮戦したのが、本多平八の伯父本多肥後守忠真(ただざね)です。実は平八の育ての親なのです。(平八の父親は、このシリーズの第1話でお話をした、今川家の軍師・雪斎が、家康を織田家から奪還し直した戦い(安祥合戦)で戦死しています。

忠真は、殿(しんがり)を買って出ます。この犀ヶ崖の脇に旗指物を突き刺し、

「ここからは一歩も引かぬ!」

と叫んで武田軍に刀一本で切り込み、家康を逃す時間稼ぎをし、討死を果したようです。(写真⑥)

◆ ◇ ◆ ◇

最近、大河ドラマ「どうする家康」に出てきた本多忠真(浪岡一喜氏)は、飲んだくれ武将として描かれていましたね。ただ、忠真が飲んだくれだったという文献を私は見つけることができませんでした。何を根拠に描いたのでしょうか?

何となく想像なのですが、大坂の陣で激戦区となる天王寺茶臼山近くに一心寺という大きなお寺があります。その境内に平八の息子・本多忠朝(ただとも)の立派なお墓があります。彼が飲んだくれだったことは有名で、大坂冬の陣の時に飲酒が原因で敗退する失態をやらかし、家康に叱責される始末。

⑦本多平八の息子・忠朝の墓
(天王寺の一心寺)
名誉挽回と大坂夏の陣で先鋒を務めるのですが、功を焦ったためか、戦死してしまいます。死に際に、自分の酒癖を悔い、将来酒のために身を誤る人を助けたいと言って事切れたそうです。それ以来、酒封じの神として、酒癖に苦しむ人たちが忠朝の墓に参拝するようになったのです。(写真⑦)

このお墓の廻りの壁には、沢山の杓文字(しゃもじ)が下げられております。これらはすべて酒封じ祈願が書かれた絵馬であり、懸命に忠朝に酒断ちを祈願する人が、今も後を絶ちません。(写真⑧)

多分、この忠朝との血縁関係があるので、酒癖は遺伝するともいうことから、この三方ヶ原合戦で殿(しんがり)を務めた本多忠真もその気(け)があったのでは?という仮定で作られたのかもしれませんね。

3.浜松城での空城計

浜松城へ逃げ帰った家康は、帰城後、孫子36計の1つ空城計を適用することで、浜松城に迫った武田軍を追い払います。空城計とは、諸葛孔明も用いたことのある孫子の兵法で、城を守るために用いるのではなく、攻める敵を城内に引き入れる、つまり城を「袋のネズミ」の「袋」にする。そして城に誘い込まれた敵は、伏兵やら隠れ兵やらにより、字義通り「袋叩き」にして殲滅する、というものです。

⑧酒断ちを祈願する人たちの杓文字が
忠朝の墓の廻りに沢山掛けられている

「城門という城門を開き、松明を門の外側と内側に立てよ!そして全軍、静かに物陰に隠れよ!」

と下知し、浜松城の家康軍は家康の言う通りにします。

実は、家康は空城計を真似たところで、武田軍を「袋叩き」にできるとは考えておりません。では、何故この策をとったのか?

彼は「一か八か」にかけたのです。それは、この圧倒的な「負け」の状況において、普通なら最大限ガードを固くして、城に籠ろうとするのが本能です。

ところがこの本能に反して城門を開け放ち、「さあどうぞ入ってください」とばかりのノーガード。

⑨矢吹ジョーの
両手ぶらり
思い出したことがあります。ボクシング漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈の得意技にクロスカウンターという必殺技があります。この必殺技は相手の打ち込みの勢いを利用して、自分のカウンター攻撃の破壊力を倍増させることで致命打を負わせるものです。相手の自分に対する打ち込みが強ければ強いほど、致命打にしやすいのです。なので矢吹丈は、この技を繰り出す前は、必ずと言って良いほど、ノーガードにするのです。漫画では、これを「両手ぶらり」と呼んでいました。(絵⑨)

これ結構不気味です。ノーガードで「どこからでも打って頂戴」的な雰囲気を醸し出すと、敵は「何かあるかも。不気味」と思うのでしょうね。矢吹ジョーの対戦相手も何人かはリングの中を逃げ回って恐怖に駆られ、焦って一発カウンターを打ってしまい、クロスカウンターの餌食になる なんて場面もありました。

浜松城のノーガードもこれと同じで、「何かあるに違いない」と武田方の武将たちも用心して攻めなかったのです。

ただ、信玄は当然、孫子の兵法も熟読していますので、空城計は知っていますし、これが虚勢を張った「なんちゃって空城計」であることは見抜いていたかもしれません。なので、「まあこれくらいにしておいてやろう。どうせ浜名湖西側の城という城、岡崎城までを全部落とせば浜松城は孤立する。」と読んだのでしょう。見逃したのですね。

また空城計は後世家康が神君と言われるようになる頃、後付けで作られた話という説もあります。実際には、家康が帰城してからはバタバタで、三方ヶ原合戦で落ちていた坊主首を鎗の先に刺して城内を廻り、「信玄の首を取ったから、皆安心しろ!」との虚言を用い、この喧騒を収めたという伝承もあるようです。(写真⑩)

⑩浜松城と家康公像
※空城計では手前の大手門も開け放ったのだろうか?

⑪武田軍進軍ルート(再掲)
いずれにせよ、帰城する三方ヶ原合戦のボロボロになった兵士を迎え入れるために、城門は空け放たれていたことと、たまたま武田軍の都合で浜松城に攻め寄せなかったという2つの事実から、後に「あれは、あの混戦の中でも、神君家康公が空城計を編み出したのだ」ということに整理されたのではないか、というのが私の持論です。

4.武田軍撤退

この三方ヶ原合戦で大勝利した武田軍はそれから西に移動し、野田城を攻めます。(地図⑪)

野田城自体は小さな城で、この時徳川方の守備兵数は500程度。

ここで1つ不思議なことが起きます。1572年10月に青崩峠を越えてきた武田軍は破竹の勢いで2,3日に1つの割合で城を落とし、三方ヶ原合戦に臨んだのは2か月後の12月。

ところが、その後、この野田城1つ落とすのに2か月も掛かっているのです。

勿論、野田城が小さいながらも河岸段丘上に造られた堅固な城だったので、武田軍は穴掘り部隊が井戸の水脈を切るために、延々とトンネルを掘るという気長な戦術を取ったというのもあるかもしれませんが、2万5千の武田軍は、野田城の50倍もの兵力を有しているのですし、それまでの進軍速度を考えると、2か月もかかるのはあまりに遅い侵攻です。

⑫野田城(左)から包囲軍の信玄に銃撃が
あった瞬間(映画「影武者」より)


更に不可思議なのは、1573年2月にこの城を落とした武田軍は、地図⑪のように、信州の駒場に戻ってしまうのです。

そう、信玄急死ですね。病死という説が有力のようですが、その病気にも様々な説があり、結核、胃がん、肝臓病、甲州特有の地方病等が挙げられております。

他にも信玄狙撃説。これは野田城包囲戦により、穴掘り部隊がトンネルを掘っている期間中に、夜な夜な野田城内で美しい笛の音が聞こえてくるとの噂を聞きつけた信玄が「一度その音を聞いてみたい。」と、包囲軍の中に着座位置を設け、笛の音が聞こえる夜中にそこに座った瞬間、野田城内に居た狙撃兵が信玄を撃ち重傷を負わせ、それが基で信玄が死んだという説ですね。黒澤明監督の映画「影武者」はこの説が採用されました。(写真⑫)

いずれにせよ、1573年4月12日、信州駒場の長岳寺で火葬され、荼毘に付されました。(写真⑬)

⑬長岳寺
お寺の方のご説明では、死亡診断が武田領内で
出たのがこの寺なので、信玄死亡が正式に宣言
された場所とみなされているとのことです。

◆ ◇ ◆ ◇

「大ていは 地に任せて 肌骨好し(きこつよし) 紅粉を塗らず 自ら風流」

信玄辞世の歌です。意味は以下の通りです。

世の中皆、世間に合わせ生きるのでよい。その中で上辺を飾るような生き方をするのではなく、自分の本心に素直になり、自分らしさを見つけ生きることだ。

ちょっと説教臭い辞世の歌と思われるかもしれません。急死なのであれば、もしかすると周囲の人が、チョイスした可能性もあると思いますが、やはりこの歌は信玄らしいと私は思います。

⑭信玄の最期(画:月岡芳年)
三方ヶ原合戦での圧勝、これは今までの信玄の努力のプロセスを考えると当然のことなのです。村上氏をはじめとする信濃平定の苦労、軍神・上杉謙信と川中島等でしのぎを削ってきた事など、信玄にとって、最強の騎馬軍団と武田四天王・二十四将を駆使できるこの体制を作り上げるまでには並大抵の努力では無かったでしょう。

家康もそうでしたが、それ以上に屈強な軍団の長である二十四将等の家臣から信頼を得ること、まとめ上げることの難しさ、信玄はそれを若い時から痛感していたのでしょう。時には家臣団に仕え、時には「諸葛孔明、泣いて馬謖を斬る」が如く、信頼していた家臣を斬捨てざるを得ない状況等、散々苦労した過程の中で、作り上げた経営哲学みたいなものなのが、三方ヶ原の圧倒的な勝利という形に結実していたのです。

「本心に素直になる」、これは上に立つ人にとって、簡単なようでかなり難しいことなのだと思います。結局、家康もこれが出来るようになって天下人になれたのでしょう。

そして家康は、散々痛めつけられたにも係わらず、この強敵・武田信玄を一生敬うのは、信玄の組織に対する苦労を痛いほど分かるからなのではないかと思います。

いずれにせよ、この三方ヶ原の合戦の失敗から多くのことを信玄から学んだ家康は、この後、信玄のような「野戦の名将」とまで言われるまでに成長するのです。

長文・乱文失礼しました。また、最後までご精読頂き、誠にありがとうございました。

《「家康の大樹」第1部了》

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木曜日

家康の大樹⑦ ~三方ヶ原の戦い 中編~

前回のあらすじ

①本多平八の鎧
1572年10月、武田信玄は西上作戦を開始します。この作戦で最初に攻略すべき武将は隣国、遠江・三河の徳川家康。龍虎相まみえる形で軍神と言われた上杉謙信と川中島合戦で凌ぎを削った武田信玄にとって、正直、この時31歳の家康は「ひよっ子」のように見えたのではないでしょうか。

国境である青崩峠を越えて2万5千の軍勢で遠江へ侵攻した武田軍。犬居城を通り浜松城の北北東の位置の二俣城の攻撃を開始。家康は、偵察のために浜松城を出馬しますが、大将が出馬する偵察という中途半端な目的意識で部隊を編成したため、直ぐに武田の先発隊にバレてしまいます。慌てて退却を開始する家康。追撃するのは、武田四天王の1人・馬場信房(のぶふさ)の最強部隊です。撤退しながら苦しい交戦をしていると、天竜川方面に、やはり疾風の如く先回りをしようとする信玄の近習の軍。挟撃される全滅の危機を家康が感じた時

「殿、ここはお任せ頂き、逃げきってください。」

と申し出たのは、本多平八郎忠勝(以後、本多平八)。(写真①)

カッコいいですね。今日はこの本多平八の一言坂での戦いぶりから始めます。

1.一言坂の戦い(後編)

 殿(しんがり)を請け負った本多平八は、まず野原に火を掛け、馬場信房軍を攪乱します。そして攻撃の手が緩んだその間に、一言坂の坂下という不利な位置で置盾を3段に組み、馬場隊の攻撃を防ごうとします。(図②参照)

②「一言坂の戦い」を一言で描くと・・・

ところが、流石は馬場隊、この置盾組を2段まで撃破します。

あわや3段目も撃破、本多平八も「これまでか!」と坂下への退却を開始しようとすると、なんと坂下には信玄の近習・小杉左近の鉄砲隊が一斉射撃を開始し、本多隊の退路を断つのです。元々、殿(しんがり)部隊というのは、かなりのダメージを受けることは覚悟の上で、全滅することも珍しくありません。

なので、本多平八もある意味、全滅も覚悟の上で殿を請け負っているのです。

「挟撃だ!全軍死んだと思え!」

「殿、なんということを言うのですか。将たるものが諦めれば、士気は上がりませぬぞ。」

「いや、このままでは全員討死しかない。俺が全員の命を貰った。これから我々は『大滝流れの陣』で『死兵』となって、小杉の鉄砲隊へ突撃!」

③現在の一言坂
と、言うや否や、「蜻蛉切」という6m余りもある天下の名鎗を馬上で軽々と操って、小杉の鉄砲隊へ蜻蛉切を繰り出します。『大滝流れの陣』と聞いた兵士たちは、皆顔面蒼白、皆死を覚悟して鉄砲隊へ五月雨に突入していきます。

この『大滝流れの陣』、関ヶ原の戦いで島津義弘らが見せた『捨て奸(すてがまり)』と似ています。両方とも捨て身の玉砕戦法なのです。最初から『死ぬ気』で止まっている兵に突進していくのが『大滝流れの陣』。その気迫等に気圧されて、突撃された敵は怯みます。つまり『死中活あり!』の気魄の戦い方なのです。

実際、「蜻蛉切」を構えた本多平八の勢いに飲まれた小杉左近。怯んだかどうかは定かではないですが、死兵としての気迫に道を空けてしまいます。

結果、本多平八隊も大した損害も無く、無事家康の殿(しんがり)を完遂するのです。

◆ ◇ ◆ ◇

後日、小杉左近は以下の歌を詠みます。(詠んだのは左近ではないとの説もあります。)

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」

唐の頭(とうのかしら)とは中国大陸から輸入したヤクの毛を使った兜です。(絵④)

④徳川家康 唐の頭
唐からの輸入品なのでかなり高級なのですが、信玄より数段落ちる武将だった当時の家康には身分不相応なものだとの揶揄ですが、もう一つ身分不相応に持っているのが本多平八。

武田信玄には勇猛な武将が多々居ましたが、家康なぞ・・・という意識もあったのでしょう。それほど本多平八は、家康家臣の中でも傑出した勇猛果敢な武将だったのでしょうね。

この「過ぎたるものが二つあり。」のフレーズは、後に以下の有名な狂歌にも使われます。

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」

2.信玄、家康を無視する

この後、信玄は大井川を北上して二俣城方面へ向かいます。そして二俣城がこの後12月19日に落ちるのですが、この間、家康は何ら有効な手が打てません。

これは、遠江一円には、まだ支配力が浅い家康としては負の影響力大です。天野氏等、既に遠江の北の豪族らは家康を離反しています。

このように家康領内である遠江で獅子の如く暴れまわる武田騎馬軍団。

勿論、家康も指を咥えてみているだけで全く行動しなかったわけではありません。

信長への援軍要請は幾度も行っています。ところが信長もこの当時、将軍・足利義昭との対立がはっきりしてきており、浅井・朝倉連合や石山本願寺との対立、いわゆる「信長包囲網」という苦境に立たされていました。また織田信長は、以前から武田信玄とも同盟を結んでおり、この包囲網のタイミングで信玄とも表立って事を構えたくはなかったものと思われます。なので佐久間信盛を始め、平手 汎秀(ひろひで)、林秀貞、水野信元等、織田家中の名だたる武将の軍勢を西三河から岡崎城までの、浜松城より西側に密かに配備。直接浜松城へ出向いた兵力は3,000程度で展開したのです。

たった3,000ではありますが、信長との連合体も整った家康。武田軍が浜松城へ寄せて来ると予測し、籠城戦に備えます。

家康の予想通り、二俣城方面から、遠江を南下し、家康の本拠・浜松城へ迫る武田軍。ところが、急に西に転進し、浜松城の北を、家康らを無視する形で三河方面へ軍を進めるのです。(地図⑤)

⑤三方ヶ原合戦前の武田軍の動き

「馬鹿にするな!」

と家康は憤慨します。
もし、このまま浜松城に貝のように籠っていて、去り行く信玄の尻を眺めているだけの家康となれば、北遠江の離反だけでなく、遠江全体へ家康のガバナンス能力のなさを披露し、遠江の豪族は誰もついてこなくなります。

「浜松城に向かってきた信玄が、直前で転進”と聞いた時の家康のホッとした顔!」

と皆に笑われ、以後は離反者の増加、信玄からも舐められ、屈辱のうちに家康は、信長の小さな一家臣に留まることになりかねないのです。

家康の兵、8,000と信長からの援軍3,000の併せて11,000は、なんとしても信玄と戦わねばなりません。

3.祝田の坂

⑥祝田の坂(旧坂)
二俣城で山県昌景(まさかげ、やはり武田四天王の一人)隊等とも合流し、27,000となった武田軍の不可思議な浜松城放置プレイ。

「家康、叩く価値無し!」

と信玄が思ったからでしょうか。家康はそう思われた!と剥きになりますが、実は信玄は、この頃喀血の頻度がかなり高くなってきたのです。

「京の瀬田にこの風林火山の馬印を立てねばならぬ!急がねば!」

と、焦った信玄にとって、家康の浜松城なぞは
「捨ておけ!どうせ奴らから、挨拶しに来るだろう!取り囲むのは時間の無駄じゃ!」

と読んでいたに違いありません。そして転進後、しばらくするとムカデ衆(探索及び伝令部隊)から、「家康ら11,000浜松城を出て、我々を追撃する気配を見せております。」と伝えられると、
信玄はニヤリとします。「やはりな。」

◆ ◇ ◆ ◇

一方、家康側は、転進した武田軍が三方ヶ原台地の北端、祝田(ほうだ)の坂を降りて浜名湖方面へ向かおうとする動きを察知。
この時、家康は咄嗟に考えました。

「信玄め!三方ヶ原台地の北端の祝田の坂を下る気だな。あそこはかなりの隘路になっているはずじゃ(写真⑥)。
浜松城を今から出陣して武田軍の背後から襲い掛かれば、敵は反転しても、あの坂では少人数ずつしか繰り出せないはずじゃから、片っ端からのしてやれ!浜松の地の利はワシの方が信玄よりよーく分かっているのじゃ!」

と、浜松城を打って出ます。

「信玄が祝田の坂を下りきる前に、後ろから斬りつけるのじゃ!全軍急げ!!」

4.三方ヶ原合戦
⑦武田信玄が反転して家康を
待ち構えた「根洗の松」

ところが、信玄は家康より1枚上手です。この家康の動きを想定していたのです。
家康が浜松城を打って出たとムカデ衆(伝令部隊)は信玄に上申します。

「やはり来たか。予想通りだ。よし、急ぎ引き返せ!」

と全軍に指示します。

祝田の坂を降りている最中の武田軍は、進軍をストップすると廻れ右をして、また三方ヶ原台地へ登り返します。

そして約7丁(800m)程、来た道を戻ると、三方ヶ原の根洗の松のあたりに本陣を敷設。27,000の軍勢を魚鱗の陣で配置し、余裕で家康軍の到来を待ち構えます。(地図⑧)

さて、一方、祝田の坂まで一気に走り、追撃戦に入ろうとした家康軍。

ところが、祝田の坂のかなり手間で、武田軍がしっかりと布陣しているのを見つけ、狼狽えます。

「祝田の坂を下っているのではないのか?」

夕刻せまる三方ヶ原台地に、武田軍は西日に照らされた赤い甲冑を更に緋色に染めながら、見事な隊列を組んで待ち構えているのです。騎馬隊の馬のいななきも制御され、統率の取れた魚鱗の陣構え。

美しい!流石は武田の最強軍団だ!

と敵ながら家康軍の誰もが感心してしまった次の瞬間、最前列の小山田隊辺りから、次々に顔面大の石が飛んできました。

い、痛い!

ガキの喧嘩じゃあるまいし。と思いつつも、当たるとかなりの打撃です。
ところが、家康軍11,000は街道を、後から後から押し出してくるので、軍の先頭はこの投石の餌食です。家康軍の先頭集団は「押すな!押すな!」状態。

自然と隊列は投石に当たらぬよう横に横に広がり始めます。(地図⑧)
⑧三方ヶ原合戦布陣図(Google Map利用)

これが後世に、「なぜ家康は、迎撃する敵よりも兵の数が多くなくてはならない『鶴翼の陣』を三方ヶ原合戦で敷いたのか?」と議論百出する陣形になった所以ではないでしょうか?

一説には、「家康も信玄が自分たちの倍以上の兵を用いているのが分かっていたので、一度鶴翼の陣にすれば、信玄はもっと大きな鶴翼の陣を敷くだろうから、信玄の本陣が手薄になった瞬間に乾坤一擲の一撃を加えるつもりであった。」等の説もありますが、「押出かつ急ブレーキによる横展開」が本音ではないかと筆者は現場に行って思いました。
⑨鶴翼の陣と魚鱗の陣

しかも、兵数が多いにも係わらず信玄は敵に切り込みやすい「魚鱗の陣」です。(図⑨)
更に機動力抜群な騎馬隊を持っています。

兵数で言うとアベコベの陣形です。本来数の多い信玄側が鶴翼の陣、数の少ない家康が魚鱗の陣が正統な形です。

実は、信玄は過去にこのアベコベ陣形を余儀なくされ、ピンチになった経験があるのです。

◆ ◇ ◆ ◇

ご存じ、川中島の戦い(第4次合戦)において信玄は、「啄木鳥(きつつき)戦法」で妻女山の上杉謙信(当時は上杉政虎)の陣へコッソリと、12,000の兵を送り、謙信らに急襲をするという計画を立てます。啄木鳥が木を激しく嘴で叩くと、木の中の虫が飛び出してくるのと同様に、慌てふためいた上杉軍13,000は妻女山を飛び出すとの想定です。勿論、その場でかなりの上杉軍は討ち取る計画。しかし、川中島方面に逃走していく上杉軍もいるので、川中島には、信玄本隊8,000が、鶴翼の陣で待ち構え、逃走上杉軍を包囲・殲滅するという作戦でした。
ところが、上杉謙信はこの信玄の作戦の裏をかき、上杉軍13,000を、12,000の武田啄木鳥隊が到着する直前の夜中に妻女山からコッソリ川中島へ移動させ、翌朝霧が晴れると、8,000の信玄本隊の目の前に、13,000の無傷の上杉軍が構えているのです。
兵数が少ない不利な鶴翼の陣の信玄に対して、謙信は兵数が多い上に「車懸り」という魚鱗の陣の変形のような密集陣形で突進、猛攻してくるため、もう少しで信玄本隊は総崩れになるところだったのです。そうなる直前に12,000の妻女山へ送った啄木鳥隊が、謙信の裏かき作戦に気付き、川中島へ戻ったので、上杉軍は撤退。撤退間際に、かの有名な写真⑩の謙信と信玄の一騎打ちとなった次第です。

⑩ご存じ川中島合戦における
信玄と謙信の一騎打ち
三方ヶ原古戦場に立った時、筆者はそれを思い出しました。だからこそ、ワザと信玄は家康が鶴翼の陣を敷くように投石等で工夫したのではないかと思ったのです。戦の経験豊富な信玄なら、ひよっ子の家康に兵数が少なくても鶴翼の陣を敷かせること自体、朝飯前なのかもしれません。

◇ ◆ ◇ ◆

話を戻します。

この武田軍の投石により火蓋が切られた三方ヶ原合戦。だ良く状況が呑み込めていない家康の各隊ですが、武田の前線軍と交戦を余儀なくされます。
その最中、武田軍の後方に構える真田昌幸、武田勝頼、馬場信房らの騎馬隊が、三方ヶ原台地の平らな土地に、縦横無尽に馬を走らせ、家康軍の横脇から突撃してきます。

あっという間に家康軍は総崩れ。戦闘開始から2時間も経たない日没の夜陰に紛れ、浜松城方面へ散り散りとなって大敗走をするのです。

5.家康敗走にまつわる伝承

家康もこの戦の敗走で、馬上で脱糞する程の恐怖に駆られて、浜松城に逃げ込んだという伝承は有名ですが、浜松城にまで逃げ切る間の伝承を2つ程、ご紹介させてください。

1つ目は浜松八幡宮にある雲立楠です。(写真⑪)
⑪雲立楠

ここは、敗走した家康が敵の目を逃れるため、この大楠の洞に身を隠したとの伝承があります。浜松八幡宮の神木であるこの大楠は、源義家が勧請したと言い伝えられていました。家康は駿府で修業している10代前半の頃には「吾妻鏡」を諳んじられる程の源頼朝好きだったとのことですから、当然源家の元祖・義家には高い関心を持っていたはずです。浜松城近くのこの神木も、義家勧請であると知っていたに違いありません。

「戦の神様・八幡太郎殿(義家のこと)、どうか我が身をお守りください!」

⑫浜松八幡宮
武田の追手が大楠周辺にも到着し、八幡宮社内に逃げていた家康軍の雑兵を捕え、殺害します。家康も「もう見つかる!そら見つかる!」と夜陰の中、楠の洞に身を捻じ込んで震えていました。しばらくすると武田の追手も場所を移動し、境内に人の気配は消えました。

「ふうっ!」

なんとか難を逃れた家康は、夜の星の綺麗な空を見上げ、義家の加護に感謝を捧げます。するとその時、この楠から瑞雲(吉兆をしめす雲)が立ちのぼったのです。

「おおっ!遠江は信玄の手に落ちたかと思うたが、大丈夫じゃと八幡太郎殿がワシに言うておる!」

これが「雲立楠」と呼ばれている所以です。

この不思議な出来事の後、家康はこの八幡宮を徳川家の祈願所としてますます崇敬し、浜松八幡宮は徳川家を守護するお社になったということです。(写真⑫)

6.小豆餅神社

もう1つの伝承は、ちょっとあり得ないと思われる話です。
逃走中にお腹が空いてたまらない家康は、武田軍に追われながらも、近くの茶屋に飛び込み、

「おい、婆さん、何か食べ物はないか!」
「はいはい、美味しい、この辺りの名物・小豆餅ならありますよ。」
「それで良い!早く出してくれ!」

いつ追手に追いつかれるか分からない家康は気が気ではありません。茶屋の婆さんが出してきた小豆餅をほおばると、ヒラリとまた馬上の人となり、馬の尻に鞭を当てると、浜松城へと急ぎ疾走します。

ところが、この茶屋の婆さん、なんと疾走する馬より速く走り、半里(2km)近く走って家康に追いつくと

「小豆餅の代金をまだ頂いておりませんが。」
「・・・あ、こめん。忘れておった。」
⑬小豆餅神社

と老婆へ小豆餅代を支払う家康。
なんともまあ、間が抜けた神君家康公ですな(冗談)。

大体、幾ら腹が空いたとしても、三方ヶ原の戦場近くで茶屋に飛び込み注文しますか?老婆は馬より速く、しかも殿様追いかけてまで代金取立てって・・・ありえない要素満載ですね(笑)。

ただ、写真⑬のように小豆餅神社は直ぐ近くにあります。
小豆餅自体の起源がこの辺りにあるのも事実のようですので、三方ヶ原に小豆餅を扱う茶屋があってもそんなに不自然ではありません。
調べると、流石に合戦中の上記伝承は後世の創作だろうと言われています。逆にこのあたりの風土記には以下の伝承がありました。

もう少し後の慶長年間(西暦1600年前後)の浜松城主の弟・高階晴久という武人が、三方ヶ原の茶屋に立ち寄り、土地の名産・小豆餅を食べていると、奇怪な現象が次々と起きるので慌てて浜松城下まで逃げて来ました。翌日大勢の供と一緒に、この場所に来てみると茶屋は無く、うら寂しい荒地に白骨が累々と広がっています。そう、これらの骨は三方ヶ原合戦の戦死者たちのものだったのです。
そこで、高階晴久はこれらの骨を集め、小豆餅を供えて供養したとのこと。爾来、三方ヶ原合戦の死者を弔うため、小豆餅を供える習慣が続いたこの土地を小豆餅と呼ぶのだそうです。こちらは信憑性が高そうですね。白骨はほぼ家康軍のものでしょう。

7.浜松城へ戻ってくることができた家康の後の話は・・・

この小豆餅でお腹を下してしまったのでしょうか?それとも先にお話した雲立楠の洞の中でお腹を冷やしたからでしょうか。いずれにせよ、家康は浜松城まで我慢できずに、馬上脱糞との伝承は有名ですね。

浜松城に逃げ帰った家康。武田軍は追ってきます。信玄の、浜松城から家康を引っ張り出し野戦で手痛い打撃を与える作戦は、大成功なわけですが、果たして家康はこの窮状から脱出できるのでしょうか。

長くなりましたので、三方ヶ原合戦の終結並びにその後の信玄については次回描きたいと思います。長文・乱文にも係わらず、今回もお付き合いいただきましたこと、誠にありがとうございました。


火曜日

滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~

今回は北条氏のお城2つを紹介します。滝山城と八王子城です。

今回の調査でも感じたのですが、北条氏はやはり良い意味でも悪い意味でも「カメ」だと思います。

八王子城 御主殿の石垣
北条軍は武田信玄や上杉謙信の軍に比べると弱いと思います。この2強と国を接していてながらも、よくこの関東平野という広大な土地を支配できていたものだと感心します。

以前、このブログでも「北条氏康は、カメだ!」と書きました(拙著ブログ「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」参照)が、多分、北条氏がこの生存には厳しい環境でも生き抜けた最大の戦法が「籠城」というカメが甲羅に入るがごとくの戦法だったのでしょう。

またもう一つの処世術は、「外交」だったのでしょう。この2つが出来れば、大体の困難は回避できます。

但し、北条氏はこの「外交」を最後の豊臣氏に対しては踏み間違えたため、幾らもう一つの得意技カメ戦法で「籠城」しても滅びるしかなかったのではないかと思います。

と前置きが長くなりましたが、そのカメである北条氏は、立派な甲羅である城を造る技術にも長けていました。今回は、その中でも名城と名高い「滝山城」と、小田原城に次ぐ2番目の規模を持つ「八王子城」に行ってきましたのでレポートします。

【※画像や絵を別ウィンドウで表示したい場合は画像本体ではなく、下の文字部分をクリックしてください】

1.北条氏照

八王子城の城主は、北条氏照です。

氏照は、北条3代目の名将、北条氏康の三男です。(氏康については、マイナー・史跡巡りの「北条五代記③」を参考にして頂ければ幸いです。)

うじてるくん
八王子市の
マスコットキャラ
北条家の中では、非常に評価の高い父氏康にひけを取らない有能な武将だったようで、隣接する武田家や、豪族の大石氏、梁田(やなだ)氏等、武蔵野の北西側の守りに腐心した他、伊達政宗や上杉等の外交等にも手腕を発揮しました。

また、武田信玄には手痛い敗北を喫しているにも係らず、その娘である松姫が、武田家が滅びる際に八王子に逃げてきた時も、手厚く庇護している等、人情に厚い人柄でした。

3代目氏康の継承者は4代目氏政ですが、北条氏の中にあって、対外的な渉外のメイン担当はこの氏照だったのです。

4代目の頃になると、西は武田と徳川、北は上杉と伊達等の超大物の戦国武将以外にも関東は武蔵野以北の豪族等とも複雑に絡み合い、ある意味一番支配拡大に腐心したのは、氏政よりも氏照ではなかったかと思われます。

氏照も、地元の豪族大石氏の懐柔や、武田信玄や上杉謙信の侵略・牽制、果ては豊臣軍による小田原征伐等、対外政策の絶え間ない渦の中で、自分の美学を通しながらも、滅んでいった、いわば滅びの美学を作り上げた名将の一人なのでしょう。

滝山城城郭
2.滝山城

さて、八王子城は、豊臣軍が小田原征伐で攻めてきて、落城する時まで未完成の城でした。

小田原城の次に大規模な城なので、築城にかなり腐心したのは分かりますが、それでも氏照程の人物が、20万もの兵力で来る小田原攻めの前に、自分の城が完成していないなんて、何とも間の抜けた感は否めません。

そこで、調べると、八王子城築城の前に、氏照は同じ八王子市内に滝山城という城を持っていました。(右図)

この城は、北条氏の数ある城の中でも名城とされ、堅固ながらもコンパクトで良く纏まった城でした。

ところが、この城跡に行ってみて、強く感じたのですが、城全体が多摩川方面の北側からの敵来襲に備えた造りになっていました。

滝山城から多摩川方面
(北側)の景観
私たちは、右上図の南側、三の丸方面から、この城を上ったのですが、最初は、「平城だな。あまり標高もないし。」と思いながらも、本丸方面へ深く入っていくと、中の丸あたりで急に視界が開け、右下の写真のように、多摩川方面に対しては、かなり標高を持つ山城のような景観に行き当たりました。

早速文献を漁って調べると、最近、新しい説として、この城は、北方の上杉謙信に備えて築城されたのではないかというものがありました。

また、一番有力な説は、この土地の大石氏が築城したというものです。

その当時は関東管領の上杉氏や、足利公方等、関東覇権争いをしており、これらの敵は当時ここから北側に位置していたので、大軍を連れてくる多摩川方面に対し(北側)、堅固な造りにするのは当然だったのでしょう。
 
ですので、滝山城の作りは、本丸から眼下に広がる多摩川方面からの敵に対し、堅固に作られており、隣国甲斐から甲州街道沿いに攻めてくる敵には若干弱い造りになっているように思われました。

割堀から本丸と中の丸に
掛かる橋を見る
実は、これが証明された戦いがありました。


3.廿里(とどり)の戦い

1569年、武田信玄が攻めてきたのです。

しかも、上記上杉謙信と同じく碓氷峠から北関東を通って、多摩川を挟んで、滝山城に立て籠もる北条氏照ら2千と対陣しました。武田信玄その兵力2万。(下図参照)

滝山城は、名城ですから、北側からの攻撃は10倍の兵力であっても容易に落ちる城ではありませんでした。

ところが、これが信玄得意の陽動作戦で、戦上手な信玄はそんな滝山城の作りを良く知っていたのでしょう。

実は、武田の本領甲斐国(山梨県)は岩殿城(現在の大月市)を出発した武田家譜代の家臣 小山田信茂の1隊1千の兵が、甲州街道沿いに、甲斐国と武蔵野国の国境である小仏峠を超えて、滝山城の南から迫ってきておりました。

廿里の戦い配置図
氏照はこの動きも察知して、守備兵の一部を割いて、小山田隊の迎撃に向かわせましたが、流石は武田24将の重鎮である小山田氏、今の高尾駅前あたりの廿里(とどり)で上手く待ち伏せしており、北条軍は大敗、滝山城に撤退します。

勢いに乗った小山田隊1千は、滝山城を南側から攻めます。そして、三の丸まで攻め落とされて、あわや落城寸前まで行きました。

ここで、武田本隊の2万が攻めてきたら氏照も終わりだったかもしれません。

ただ、この時の信玄はさっさと小田原城へと兵を進めます。この一連の戦いを廿里(とどり)の戦いと云います。
廿里古戦場跡(360°写真)

命拾いをした氏照は、滝山城の南側からの防御能力の低さに唖然とします。

というよりはむしろ、この当時小仏峠を一軍が超えてくるということを想像し辛いほど、小仏峠は街道の難所だったようです。それなので、滝山城も甲州街道側から進行してくる敵軍を想定していなかったのです。

そして、小仏峠を越えて来る敵に対しての防衛拠点として、八王子城は築城されたのです。

小仏峠を越えて進軍してくる敵という想定は、小田原征伐における豊臣軍が全くその通りでしたので、読みは正しかったですね。ただ、これほど多勢が押し寄せるとは想像できなかったのでしょうが・・・

4.小田原征伐における八王子城

八王子城城郭図
※平時は、右下側にある御主殿や
 根小屋地区で生活戦時は山上
 郭に立て籠もるように設計され
いる
その八王子城ですが、滝山城が160m程度の標高に対し、右図にありますように、本丸の標高は445mと、かなり高い山城です。

ただ、この城の中核は、御主殿という麓の辺りになり、冒頭の写真のように立派な石垣で出来ています。

北条氏の中で、本格的な石垣を使った城としては、はじめてだったようで、小田原城でさえ、当時はこれほど立派な石垣は持っていないのです。

ところが、この城の面白いところは、先進的な石垣を持つ割には、すでに古くなりつつある山城タイプの城を、城の事を知り尽くした北条氏が造ったことです。

八王子城は築城思想の過渡期に造られた城なのです。

滝山城のような平山城では、全方位に対し守りを固めなければならない程の兵力が必要になるのに対して、八王子城のように山岳地形を利用すれば、寡兵にて一方向だけ固めれば守ることが出来ます。

その一方で、築城技術は進み、御主殿などの構造物は、石垣という土台の上にしっかり造った訳です。まるで固い甲羅で覆われたカメのように。

城山川に掛かる橋(復元)
※前の写真のように滝山城
にも同じような機構が
あるが、八王子城の方が
規模ははるかに大きい。
下を流れる城山川を堀に
しようと考えたのか?
この後に出来る平城とは違い、限りなく堅固を追求したという城の守りという観点では、亀の甲羅で関東支配を貫き通した北条氏らしい城の中の城という感じがしませんか?

そして、この戦国武将の中でも城作り随一の北条氏が手塩に掛けて築城した城が落ちたということ自体が、甲羅を割られた亀の如く、北条氏が滅びるしかないと覚悟した時ではないかと思います。
事実、小田原城は、この八王子城落城の知らせを聞いて、開城に踏み切ったと伝えられています。

という割には、八王子城は、豊臣軍が攻めてきて落城した当時も、まだまだ完成には至っていなかった程、壮大な構想でつくられていました。

最後の北条氏の築城技術の全てを投入しようとしたのでしょうか。もしかしたら、城山川を堰き止めて、水堀等の構築も想定したのかもしれませんね。

5.落城悲話

さて、八王子城の落城についてお話します。

豊臣軍20万による小田原征伐は、最後の戦国大名間の戦いとは言え、圧倒的多数の豊臣軍に対する北条軍は、完璧なる外交の失敗としか言いようがなく、悲惨そのものでした。

八王子城攻略概要
本来、豊臣秀吉は信長のような無慈悲な殺戮は好まず、懐柔を得意とした人物でしたが、今回の八王子城に対する対処は、ここの城主氏照が今回の豊臣氏への対戦派の首謀格とみなしているため、「時には皆殺しも必要」との一言が、落城に際し、かなり悲劇的な結末を迎えざるを得ない結果をもたらしました。

当主氏照は、この時小田原城にて籠城のため、八王子城にはおりませんでした。

八王子城を守る守備兵は500人、近くの農民等も籠城に参加させ、3,000人程度。

これに対して、甲州街道を西から攻め上ってきた豊臣軍は、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら15,000人、多勢に無勢です。

しかも、攻める豊臣軍も、後の前田100万石と言われる前田家は、「華の慶次」こと前田慶次や、上杉軍には、ちょっと前に大河ドラマで大人気の直江兼次、真田軍は、真田昌幸の次男、真田十勇士で有名な真田幸村が初陣という華々しい顔ぶれです。(右図は少年ジャンプに掲載されていた「華の慶次」のキャラクター、ほとんどこの城攻めの役者ですね!)

真ん中右が前田慶次、左が直江兼次
右端は前田利家?左端は上杉景勝?
真田昌幸・幸村親子は、このブログでも取り上げていますが、関ヶ原の戦いで江戸から中山道伝いに徳川秀忠(のちの2代将軍)の約4万もの軍が、真田の信州上田を通過しようとするのを、わずか2千の兵を使ってゲリラ戦で足止めを食らわせ、ついには関ヶ原の戦いに、この大量兵力が参戦できないというシチューエーションを作り出すほどの山岳戦上手な武将です。

また、豊臣軍の北条征伐の口実を与えたのも、真田昌幸の城を北条が奪取したことにより、当時豊臣秀吉が全国の大名に出していた「惣無事令」に違反したことによるものなのですが、これももしかしたら、昌幸はかなりの策士ですから、わざと北条氏に攻め取らせたのかもしれないと勘繰りたくなるほどの余裕の戦上手です。

ただ、寡兵と云っても八王子城は築城上手な北条氏の2番目の城です。そうはやすやすと落ちないはずです。

それが落ちた最大の原因は、戦国の世の習い、大道寺氏とか平井氏等、それまで北条氏方であった豪族の離反により、かなり城郭の情報が豊臣軍側に流出したことに拠ります。(ただ、大道寺氏は裏切っても結局秀吉に許されず切腹させられています。)

豊臣軍は情報を基に、軍を二手に分けます。

445mの標高にある八王子城本丸跡
甲州街道を八王子方面に抜けて、城の東側(八王子市横川の辺り)に陣を敷く前田軍、甲州街道より北側の陣馬街道を東進し、和田峠から城の北西から攻める上杉・真田軍、挟み撃ち体制です。

また八王子城は、445mもある高尾山並の頂きにある本丸を中心とする立て籠もり地域と、居住地域が分かれていて、戦闘当時は女子供や近隣の農民等も城内に入れているため、居住地域にも非戦闘員を中心に沢山入れていたようです。

いざ敵が攻めてきたら、非戦闘員も、居住地域から立て籠もり地域へ逃げ込むことを想定していたのでしょう。

皆殺しを企図した前田軍はこの地域の分断し、立て籠もり地域へ逃げ込みづらいよう、戦闘開始は、深夜の1時から2時に開始されました。夜襲ですね。

八王子城側はこの夜襲に翻弄され、居住地域はあっけなく陥落。氏照の妻をはじめとする、御主殿の女・子供は、城山川にある御主殿の滝(右下写真)で、自刀し、この滝壺の水が3日3晩血に染まり続けたとの言い伝えがあります。

御主殿の滝
また、立て籠もり地域の戦闘も、金子丸砦、高丸砦とじりじりと後退を続ける北条軍に対し、背面から上杉・真田軍が攻撃し、本丸も焼け落ち、落城となります。

城兵等1000人程度が打ち取られ、また拿捕された女子供等は、この後、相模川で輸送され、小田原城下で打ち取られた首共々晒されたと伝えられます。

氏照はこれを見て、小田原城内にて床を叩いて悔し泣きに泣いたと言われています。

氏照は、小田原城開城後に主戦派として秀吉から切腹を申し付けられて、自害します。

小田原攻めの中で一番凄惨を極めた八王子城攻めですが、後に江戸幕府は祟りを恐れて、この土地を入禁制地の天領として幕末まで管理しました。

6.心霊スポット

このような土地であったため、江戸時代の頃から、この八王子城一体は「何か出る」という言い伝えが、北条軍記等の文献に残っているようです。

私も33年前の中学生の時に、はじめてクラブ部員数人と、この城の本丸を訪ね、本丸跡にある社の前で三脚を立てて記念撮影をした後、写真を現像すると、部員の一人が「玉木さん、これ心霊写真ですかね?」と笑って云うのです。

見てみると、皆の「手」の間に紛れるような形で、誰の手なのかよく分からない「手」が1つ多いというのを、その時見たのを覚えています。

ただ、この時は八王子城がそういう場所だとは知らなかったし、私が部長をしていた「旅と歴史研究クラブ」の部員は、大部分が物見遊山でふざけてばかり居る中坊だったので、「どうせまた誰かのいたずらだろう。」位に思っていました。

しかし、今回も御主殿周辺を見て回った時、やはり何か四囲からネガティブな雰囲気が伝わって来たのは確かです。

今回の訪問時も、ここが心霊スポットとして有名だとは知らずにいました。

帰ってきてFacebookにいつものようにプレ予告で八王子城の話題を出したところ、東京在住の友人から、「有名な心霊スポットですね!」との指摘があったので、調べますと、話題てんこ盛りです。

私が問題と感じた2つの写真を掲載します。ただ、これが心霊写真だなんて軽々しく云うつもりはありません。

ご判断は見られた方にお任せしますが、これらを掲載しようと私が思ったのは、単に興味本位または人の気を引こうと考えたからではなく、何かこの場所には、うら寂しい、暗い雰囲気を感じたからです。

あと、気分を害される方がいらっしゃるといけないので、写真での掲載は控えましたが、この日何故か御主殿へ向かう道端に、センチュウのような虫が大量に絡み合って生息しており、棒で刺すと、ウジャウジャ動きます。

こんなのも初めて見ましたが、何か奇異でいい感じはしませんでしたね。

「そんな馬鹿な!」と思われる方は、是非一度、この「御主殿の滝」辺りにお越し頂き、どう感じられるか実際に体験されることをお勧めします。

御主殿の滝で

太鼓曲輪あたりで

 いかがでしょうか?

八王子城には、こうした悲しい歴史や不思議な伝承が数多く残っています。

実は私が管理人を務めるFacebookグループ『旅と歴史・伝承倶楽部』でも、こうした古戦場のミステリーや現地でしか分からない空気を、3000人以上の歴史好き仲間と語り合っています。もっとディープな話を知りたい方は、ぜひ覗いてみてください

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長文、最後までお読みいただき、ありがとうございました。