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北斗七星を追え! ~光秀と天海①~

①日光東照宮陽明門と北極星

元和2年(1616年)4月17日。戦国の乱世に終止符を打ち、泰平の礎を築いた徳川家康が、駿府城にてその激動の生涯を静かに閉じた。

だが、その死は決して物語の終焉ではなかった。家康の死と同時に、徳川の治世を数百年先まで持続させるための巧妙な「大きな仕掛け」が発動したのである。当時の人々は、その後に長く続く平穏が、いかなる意志によって設計されたのかを知る由もなかった。

江戸時代は約260年もの長きにわたった。これは鎌倉時代の1.8倍、室町時代の1.2倍に相当する。特筆すべきは、その大半が戦のない「泰平の世」であった点だろう。鎌倉時代は元寇などの国難に見舞われ、室町時代も後半の約半分は絶え間ない戦火の中にあった。これらと比較すれば、江戸時代の平和な期間が、いかに異例であったかが分かる。

さて、今回はこの「大きな仕掛け」について調査した。

先に結論めいたことを描くが、以下3つの図、これらについて順に解説する形で、この仕掛けについてお話したい。(図②、③、④)

これらの「大きな仕掛け」を考案したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)である。

②久能山、富士山、日光のレイライン 他

③江戸城の裏鬼門

④将門の北辰伝承による北斗七星

1.家康の遺言

では、図②から順に見ていきたい。

徳川家康が死の間際に遺した有名な遺言がある。 

「遺体は久能山(くのうざん)に納め、一周忌を過ぎたのちに日光へ勧請(かんじょう)せよ」

この言葉が発せられた瞬間、天海の頭脳の中で「仕掛け」が完成した。家康の切なる願いと、坂東の地に千年以上も深く根付いていた「北斗信仰」を融合させるという、構想である。

もちろん、当時の人々の多くは、家康が駿府(静岡市)を見下ろす標高213メートルの久能山に葬られることを、自然なことと受け止めたに違いない。亡き主君がその高地から、かつての領国を見守り続ける――。そんな光景を、人々は穏やかな気持ちで思い描いたはずだ(360°写真⑤)

⑤久能山からの眺め

有名な伝承として、江戸幕府を脅かす勢力は必ず西から来ると予見していた家康の次の遺言がある。

「我が亡骸は西国に向かい、立ち姿で久能山へ納めよ。死してなお立ち姿を崩さず、天下の安寧を乱す者を睥睨(へいげい)す」

事実、久能山東照宮に安置された家康の棺(ひつぎ)は、その主がいまも毅然と立ち、鋭い眼光を放っているのではないかと思わせるような、独特の佇まいを見せている。(写真⑥)

⑥久能山東照宮の家康の棺
※しっかり西を向いて建っている

⑦天海僧正
(川越歴史博物館蔵)
実際に、家康の死から約260年もの間、西からの大きな脅威が幕府を揺るがすことは、ついぞなかったのである。

2.天海大僧正は明智光秀か

ではなぜ、一度葬った遺体を移動させる必要があったのか?なぜ、日本一の霊峰・富士山を跨ぐようにして「久能山」と「日光」は配置されたのか?

そこには、家康の側近であり「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)が描いた「風水都市・江戸」の設計図が隠されていたと言われる。(写真⑦)

天海は謎多き人物である。数ある伝承の中でも特に有名なのが、「天海の正体は、山崎の戦いで生き延びた明智光秀である」という説だ。

光秀が羽柴秀吉に敗れ、歴史の表舞台から消えたのは天正10年(1582年)。それから6年後の天正16年(1588年)、入れ替わるように歴史に足跡を刻み始めたのが天海であった。彼は無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市・喜多院、川越大師。360°写真⑧)の住持として、初めてその名を名乗っている。

両者の生誕時期には諸説あるが、年齢的にも光秀と天海はほぼ重なる。光秀が高齢の武将として亡くなった(55歳)とされるが、もし彼が天海として再生したのだとしたら、その後の天海の活躍はまさに驚異的な「遅咲き」と言えるだろう。

 ⑧喜多院(川越市)         

更に脱線して申し訳ないが、もう少し「天海が光秀だった伝承」について述べたい。この伝承の主な根拠として、以下4項が挙げられる。

  • 比叡山の修築:織田信長によって焼き討ちされた比叡山。ドラマでもよく見るように光秀はこの焼き討ちに不満を持っており、焼き討ち後は復興を願っていた。焼き討ち当時比叡山に居たとされる天海がその再興に尽力したことは、光秀の悲願を継いだようにも見える。
  • 恵林寺・快川紹喜(かいせん じょうき)との交流の共通性:比叡山焼き討ちで居場所を失った天海は、この焼き討ちに同情的であり、信長と敵対する武田信玄に招聘されて甲斐国に移住。そして天海は武田家が滅ぼされる時「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」との名言で有名な快川紹喜とも親交があり、恵林寺山門での焼死については、かなり心を痛めたという。心を痛めたというのは光秀もほぼ同じ話がある。
  • 「明智平(あけちだいら)」という地名: 日光にある絶景ポイント「明智平」の名は、天海が「明智の名を後世に残すために命名した」という伝承が残っている。
  • 家光の乳母・春日局(かずがのつぼね)との密談: 斎藤利三(としみつ、光秀の重臣)の娘である春日局が、天海と対面した際に「お久しぶりです」と挨拶したという逸話も、二人の密接な関係を予感させる。

⑨日光東照宮にある桔梗紋?
かつては、日光東照宮に光秀の家紋である「水色桔梗」に似た紋が彫られていたという話も伝承化していたが、これは多くの研究家が桔梗に似た他の文様であると検証している。また天海が1643年に亡くなっており、光秀は1528年生まれなので、115歳という高齢が「尋常でない」ということで「天海≠光秀」説を唱える人は多い。(写真⑨)

ただ、天海自身108歳という高齢で亡くなったというのは有力説であり、その差は7年である。この時代「115歳がありえない」というのであれば108歳はいけるのだろうか?

3.本当の「光秀⇒天海」説

史実は、十中八九「天海≠光秀」なのだろう。ただ、身勝手な妄想ではあるが、以下のような仮説はいかがであろうか。

有名な比叡山焼き討ちの時、若き天海(当時は随風と名乗っていた)は比叡山に居た。

比叡山は光秀の所領である坂本と深い関係にある。比叡山焼き討ちが行われる元亀2年(1571年)、比叡山側も、当時朝倉・浅井軍の叡山結託に手を焼いている信長が本気で山を焼こうとしていることは察知していた。実際「信長公記」にはこの比叡山焼き討ち前の信長からの「最後通牒」について記述している。

  1. 信長側に味方せよ。 そうすれば、以前没収した寺領をすべて返還する。

  2. せめて中立を守れ。 朝倉・浅井の軍勢を山から追い出せ。

  3. どちらも拒むなら、焼き払う。 根本中堂をはじめとする全ての伽藍を灰にする。

この交渉窓口に、当時比叡山の麓にある坂本で近江の政務を担当していた明智光秀が関わっていた可能性は極めて高い。

⑩比叡山の天海住坊跡
(光秀の居・坂本にある)
そして元亀2年(1571年)9月12日の焼き討ち決行の直前、追い詰められた比叡山側は、信長に対して黄金300枚を贈り、土壇場での攻撃回避を試みたという記録が残っている。

『信長公記』などの史料によれば、信長はこの露骨な買収工作を「汚らわしい」と一蹴。懐柔を撥ねつけ、翌朝の総攻撃を命じた。歴史の転換点となったこの交渉の場で、山側の使者として黄金を携えていたのは一体誰だったのか。その正体については詳らかではないが、そこに智謀に長けた若き日の天海(随風)がいたと考えるのは、決して不自然な空想ではないだろう。(写真⑩)

一方、織田側の実務を担っていたのは坂本を預かる光秀である。利害を異にする二人が、炎に包まれる直前の比叡山で言葉を交わし、互いの才を認め合った――。この未曾有の危機の最中にこそ、光秀と天海(随風)の密かな親交が始まったのではないだろうか。

4.甲斐国への亡命支援

たとえ先述の黄金交渉に直接関わっていなかったとしても、比叡山焼き討ちの際、光秀と天海(随風)が接触した可能性は他にも残されている。その鍵を握るのが、当時の天台座主(てんだいざす:天台宗の最高責任者)・覚恕(かくじょ)の動静だ。(写真⑪)

当時の座主・覚恕法親王は、時の正親町(おおぎまち)天皇の弟にあたる人物であった。皇族に対し並々ならぬ敬意を抱いていた光秀が、戦火に包まれる比叡山から覚恕を救い出し、武田信玄を頼って甲斐国(山梨県)へと亡命させたという説がある。

注目すべきは、天海(随風)もまた、この時期に同じく甲斐へと逃れている点だ。

ここから一つの仮説が浮かび上がる。光秀は「尊い座主の身を守る」という極秘任務を遂行するため、最も信頼できる実務者として随風を選んだのではないか。若くして智略に長け、南都(奈良)や東国の情勢にも精通していた随風は、亡命ルートを確保するための特使として、これ以上ない適任者だったはずだ。

光秀が道を切り拓き、天海(随風)が座主を導く。この亡命劇こそが、二人の絆を決定的なものにした「真の接点」だったのかもしれない。

⑪信玄のもとに逃げ込んだ覚恕(春風亭小朝)
大河ドラマ『麒麟がくる』
第34回(11月29日放送)より

比叡山延暦寺の焼き討ちという未曾有の惨劇に、天海(随風)がどう関わったのか――。その事実を裏付ける直接的な文献は、いまだ見つかっていない。しかし、天海(随風)、光秀、そして覚恕。この三者の運命が、これほど巨大な歴史の転換点において一度も交錯しなかったと断じるほうが、むしろ不自然ではないだろうか。

激動する情勢の中で、皇族を守ろうとする光秀の「矜持」と、知略を尽くして山を救おうとする天海(随風)の「志」が共鳴したといえる。

5.快川紹喜との交流

一説によれば、武田信玄は比叡山延暦寺を甲斐の身延山へ移転させる壮大な計画を抱いていたという。覚恕は亡命からわずか2年で京へ戻るが、天海(随風)は信玄の参謀として、そのまま甲斐国に留まったとされている。

この甲斐滞在期において、随風は武田家の菩提寺である恵林寺(えりんじ)の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)と深い交流を持った。恵林寺の寺伝や一部の史料には、彼が快川から禅の教えを受け、深い感銘を受けたという伝承が残されている。

一方、見逃せないのが明智光秀との関係である。快川紹喜と光秀は、ともに美濃国(岐阜県)の名族・土岐氏の血を引く者同士であり、旧知の仲であったとされる。

天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻により、武田家は滅亡の運命を辿る。一門および家臣団が総崩れとなる中、快川紹喜は恵林寺の山門に追いやられ、生きたまま火を放たれて壮絶な最期を遂げた。「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉を残したあの事件である。

この惨劇に対し、光秀は激しく心を痛め、深く嘆き悲しんだと伝えられている。そこには、単なる知己の死への哀悼を超えた、同じ土岐氏の血を引く者としての強い連帯感があったのだろう。(写真⑫)

⑫恵林寺山門
※左の柱に「心頭を滅却すれば火も
自ずから涼し」が書かれている

この時、信長に同伴して甲斐攻めに来ていた光秀が、快川紹喜の悲報と同時に、天海(随風)についても「死亡」との報を得たとしたらどうだろうか。

快川紹喜や天海(随風)といった至高の教養人と通じ、彼らを文化の守り手として敬重していた光秀にとって、信長の所業は耐え難いものであった。比叡山を焼き、恵林寺を焼き払い、文化の源泉を次々と灰にする信長の破壊衝動。そこに追い打ちをかけるように、あの有名な「打擲(だちょう)」の事件が起きる。

「うぬは甲斐攻めで何を苦労したというのか!」

諏訪の地で放たれた信長の激昂。信長は光秀の言葉を遮り、額から血が流れるまで扇子で打ち続けた。この理不尽な暴力は、光秀の自尊心を完膚なきまでに叩き潰した。文化を愛する教養人としての矜持も、主君への忠誠心も、この瞬間に限界を超えたのである。

密かに謀反の決意を固め始めた光秀の脳裏には、ある「壮大な構想」がおぼろげながら浮かんでいたはずだ。それは、もし万が一、謀反の果てに自らが歴史の表舞台から消えることになった際の、現代で言うところの「BCP(事業継続計画)」であった。

「いざとなれば、天海(随風)殿の名を借りよう――」

死んだとされる随風になり代わり、僧侶として生き永らえ、影からこの国を導く。のちに「天海」として家康を支えることになる驚天動地の計画が、屈辱にまみれた諏訪の夜に産声を上げたのかもしれない。

6.天海への転身と周到なる計画

「打擲(だちょう)」の屈辱からわずか3か月後。天正10年(1582年)6月2日、歴史を塗り替える「本能寺の変」が勃発した。

変の動機については、怨恨説や四国政策をめぐる対立説など、500年以上にわたって議論が絶えない。ここではその詳細には立ち入らないが、光秀が「思いつき」ではなく「周到な計画」のもとに動いた、という説を前提に話を進めたい。

当時の光秀は、近江(滋賀県)の要衝・坂本に加え、平定したばかりの丹波(京都府・兵庫県)も領有していた。まさに京の都を東西から挟み撃ちにする絶好の配置である。さらに彼は、他方面の有力武将たちがそれぞれ敵対勢力と交戦中で、すぐには動けない状況にあることも完全に把握していた。

⑬明智藪
※山崎の戦いに敗れた光秀が
藪から槍で脇腹を刺された
信長は、わずかな手勢とともに本能寺に宿泊している――。光秀はこの「千載一遇の好機」を見誤ることなく、冷静かつ計画的に活用した。これほど緻密な計算ができる男なら、万が一失敗した際の「コンティンジェンシープラン(緊急時対応計画)」、すなわち「プランB」を練っていたと考えるのが自然だろう。

そして、そのプランBこそが「天海(随風)へのなりすまし」であった。

運命の「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れた光秀。本拠地・坂本へ退却する途上、山科(京都市)の小栗栖(おぐるす)にて農民に襲われ落命したとされるが、その最期には不自然な点が多い。(写真⑬)

伝承によれば、竹藪から突き出された農民の槍に脇腹を深く刺され、自刃を覚悟した光秀は、側近に「自分の首を秀吉軍に渡さぬよう、地中深く埋めよ」と命じたという。

ところが、その後の経緯は謎に包まれている。命じられた側近もその場で自害したため、首の埋め場所は永遠の闇に葬られたという説。あるいは、農民たちが一部始終を見ており、首を掘り返して織田信孝や秀吉に届けたという説。まさに諸説紛々であり、光秀の死を確定させる決定的な証拠は、今なお存在しないのである。(写真⑭)

7.プランBの発動――天海(随風)として北へ

⑭山科にある
光秀胴塚
私が想定する光秀の「プランB」は、実に大胆かつ緻密なものである。

「山科では、別の者の首を身代わりに埋めることで光秀は死んだものと見せかけ、自身は密かに北上して近畿圏を脱出する。そして、当面は地方で『天海(随風)』になりすます」というものだ。

武田家が滅び、随風が快川紹喜らと共に消息を絶ってから、わずか3か月。光秀ほどの教養人が突如として僧侶に転身すれば、本来なら周囲の疑念を招くだろう。しかし、武田の食客であった「随風」という名の下であれば、主家滅亡によって流浪の身となった高僧として、諸国の人々に無理なく受け入れられたはずだ。

光秀がまず身を寄せたのは、当時、蘆名(あしな)氏が統治していた会津であった。

蘆名氏は会津に金山を保有し、その豊富な資金力を背景に足利義昭へ頻繁に貢物を送り、官位を求めていたことで知られる。かつて、その仲介役を担っていたのが光秀であった。つまり、蘆名氏と光秀の間には以前から深い信頼関係があったのだ。

さらに、天海(随風)自身の出自が蘆名氏の一族であるという説を、光秀は事前に掴んでいたのかもしれない。偽装工作を完璧なものにするためには、その名に縁の深い場所へ身を隠すのが最も賢明な判断である。こうして光秀は、かつての知己を頼り、北の地で「天海(随風)」としての静かな再スタートを切ったのではないか。

長くなったので、この後の天海=光秀説、更には天海の「大きな仕掛け」について引き続き描いていきたい。

ご精読に感謝。

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