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日曜日

北条氏康の初陣② ~勝坂~

①小沢原の戦い概要地図
前回、北条3代目の名将・北条氏康の初陣を書き始めました。

この戦の6年前に、上杉朝興(ともおき)の江戸城を、北条氏綱(うじつな:氏康の父)軍に奪われました。

悔しい朝興。リベンジ戦を仕掛けます。彼の軍は多摩川を渡河し、河原で待ち構える当時まだ16才の北条氏康が指揮する軍勢と戦うのです。

これを「小沢原の戦い」と言いますが、前回はこの第1回戦を描写しました。(図①)

第1回戦は上杉朝興軍の勝利です。北条軍は一旦小沢城へと撤退します。

今回はこの後半戦を描きたいと思います。


 1.第2回 小沢原の戦い

敗色強い北条軍です。甲羅にこもるような「亀さん型」である氏康得意の籠城戦も残念ながら、朝興の断固たる意志があれば、甲羅ごと潰されるように、小沢城ごと潰されるのは確実です。小沢城は、やはり少々古いのです。なので、前回述べた通り、縄張り図を見た氏康は「打ってでるしかないか」と言ったのです。

ところが氏康、実はこの撤退は彼の想定内なのです。

出陣前に、氏綱からこの戦を任されてから、彼は夜を徹して作戦を考えました。そして夜中だからこそ思いついたのが「夜襲」です。

寡兵で勝利するには山岳戦のように森や岩等の隠れ場所を上手く使う、夜襲のように夜陰を使う、の2つしかありません。この場合は、巧妙に夜襲を行うことが、数の多い上杉軍に起死回生の一撃を加えられると踏んだのです。

この戦が始まる前に氏康は、後に「隠れ谷」と呼ばれる谷に、小田原から引き連れて来た1千の兵を隠しておいたことを覚えていらっしゃいますか。(写真②)

②現在は「上麻生隠れ谷公園」となっている

そう、彼はこの兵を最初から、この「夜襲作戦」用に待機させていたのです。

撤退することで、上杉軍に驕りが生じます。単に夜襲をするより、この驕りと、日中の戦で疲れ果てている上杉軍は夜は厭戦気分になっていると考えた氏康。撤退することで、この夜襲の効果が倍増すると考え抜いていたのです。

③小沢原の戦い概要マップ

④上杉軍が夜営した金程(※今は住宅街です)
日中の戦の勝利で気を良くした上杉勢、小沢城に立て籠もる北条軍を意識し、地図③のとおり、小沢城の南西3キロメートル先、現在の新百合ヶ丘駅の少し北側にある金程(かなほど)という場所に陣を張り、夜営に入ります。(写真④)

実は、古い川崎の地図を見ると、この金程の陣を敷いた辺りにある「万福寺さとやま公園」内に「小沢原」という地名があります。どうやら「小沢原」とは、先の第1回合戦の場所・矢野口辺りだけではなくて、この陣を張った辺りも指す可能性があります。(写真⑤)

⑤「小沢原」の地名となる場所

ここで2人の土地の豪族が活躍します。乳母子志水小太郎(めのとごのしみずこたろう)と中島隼人佐(なかじまはやとのすけ)です。

2人とも土地勘があるので、夜間でも松明も点けず、暗い山道を走り回ることが出来ます。

氏康は、まず中島隼人佐に命じます。彼は隠した兵1千が滞在する「隠れ谷」付近の住人であるため、小沢城からは目を閉じていても「隠れ谷」に到着することができます。「隠れ谷」の滞在部隊に、本日子の刻(夜中の12時頃)に金程の上杉軍本陣を、裏から攻撃を仕掛けるようにと、隼人佐に伝令を持って走らせます。

そして、小沢城の篝火を盛んにし、堅く城を守って、ひきこもっている北条軍を演出します。上杉軍は3キロ離れていると言っても、小沢城の動静は常に監視し、動きがあれば、即本陣に伝えられる仕組みを持っているでしょうから。

隼人佐は、勿論松明も点けずに、暗く暑い山道を、現在のよみうりランドがある丘を越え、新百合ヶ丘駅近辺「隠れ谷」に静かに控えている部隊に向います。途中、上杉勢の歩哨を確認しましたが、幼い頃から走り回っているこの多摩川丘陵地帯は幾らでも、迂回できる山道を知っているのです。

彼が「隠れ谷」の北条軍に接触したのは亥の刻(夜中の10時頃)です。隼人佐の伝令内容を聞くと、直ぐに「隠れ谷」部隊は夜襲の準備をします。隼人佐は先程、薄暗い夕刻の中、小太郎と一緒に金程にある上杉軍本陣の位置を確認しています。

上杉軍本陣は小沢城へ向けられ設営されていますので、「隠れ谷」から、粛々と静かに金程に到着することができれば背後から急襲することが出来ます。

そして予定の子の刻の少し前、静かに麻生川(この戦直後からこの川は陣川と呼ばれた。隠れ谷部隊が陣を整えたからとの伝承)沿いに部隊は移動します。川音で、移動時の多少の音はかき消され、上杉軍は脅威が迫っていることに気が付きません。

そして一気呵成に、本陣背後から攻めかかります。

前回書いた「小田原北条記」の記述の通り、日中ヘビーに戦い、疲労困憊の上杉軍、勝っているという驕りもあり、ぐっすり寝込んでいる兵士も少なくありません。そこに日中の第1回合戦に参加していないピンピンした北条軍が背後から現れたのですから吃驚仰天。

「物見は何をしていたのだ!」

「小沢城からの動きはありません!」

「ではどこから来たのか!奴等は!」

と上杉の本陣は大混乱です。

南側からの北条軍に圧され、徐々に北へと後退していく上杉勢。現在はよみうりゴルフ倶楽部のゴルフ場となっているところに「将切」という場所があります。(地図③、写真⑥)

⑥将切

ここは、この合戦の際に上杉軍の将が切られたとの伝承がある場所なのです。

小沢城の北条軍も氏康以下、日中の疲れを知らない精鋭部隊数百が、地元の乳母子志水小太郎の誘導の元、夜陰に紛れ、隠れ谷の別働隊の動きに合わせるように、こっそりとこの将切に出て来ます。

そして、金程から後退してくる上杉軍に一撃を加えるのです。それこそ、氏康ら小沢城精鋭部隊が、ここで上杉軍の将を切ったことから付いた地名なのかもしれません。

兎に角、この隠しておいた北条軍並びに氏康ら小沢城精鋭による挟撃夜襲により、上杉軍は、総崩れとなりました。

上杉朝興も枕を持ったままかどうかは分かりませんが、未明には、上杉勢は全軍慌てて河越城方面に撤退したのです。


2.勝坂

そして払暁には、若干16才で、ベテラン上杉朝興を撃退した北条氏康は、やはり初陣を勝利で飾れたのが嬉しかったため、

「勝った!勝った!」

と喜びの声を発して、ある坂を駆け上がりました。後に「勝坂」と呼ばれる伝承地です。(写真⑦)

⑦勝坂

最近撤去されてしまったのですが、6年前に1度、ブログでこの勝坂を取り上げた時には、写真⑦の右手の窪地に勝坂の大きな史跡説明看板がありました。(写真⑧)

⑧かつてあった勝坂の看板

見晴らしが良い場所であるだけに、台風等により吹き飛ばされる可能性があるからでしょうか?しっかりした良い看板ですし、それが無いと単なる坂にしか見えないので、撤去せず立てて置いて欲しかったです。折角ですから、ここにかつての看板に記載されていた内容を転記します。 

◆ ◇ ◆ ◇                                   

~  史跡  勝坂(かちざか)

享禄3年(1530年)6月、草もそよがぬ炎天下に、小沢原(金程1丁目あたり)に対陣するのは、川越城を出発し、府中から多摩川を渡り、先ごろ北条氏に江戸城をとられた恥をそそごうとする、上杉朝興の軍勢、これに対し、北条早雲の孫の新九郎氏康、そのとき、いまだ16才であったが大将として上杉勢なにほどのことがあろうかと初陣の名乗りをあげた。

同年6月12日、氏康は、乳母子志水小太郎をはじめ、中島隼人佐(麻生区万福寺)をひきつれ、上杉の陣を強襲した。草木も燃ゆる暑さの中、敵味方、追いつ追われつの戦いが続けられたが、夜に入り北条勢は一きょに上杉勢にせめ入った。上杉勢は大軍であったが、この勢いにかなわず川越に退いた。弱冠16才の氏康は、勝った勝ったと喜びの声を発して、金程から細山に通じる坂をかけ上がった。

それから、この坂を、勝坂と呼ぶようになったという。

勝坂は、ここの斜面にあり、今ははっきりしないが、坂が急なため、丸太で階段をつくり細山分教場への通学路でもあった。

日本民族学の父、柳田国男先生は、かつてこの地の眺めにふれられ、江の島が見えるといわれた。ここからは、南天のカノーブス(南極老人星)も見ることができ、眺めはすばらしいが、今は見わたす限りの家群が並び、つわものどもの夢の跡をしのぶことはできない。

                        昭和63年3月

                        細山郷土資料館   ~

◇ ◆ ◇ ◆

素晴らしい看板だと思いませんか。マイナー史跡巡りを生業としている私としては、普段なら何気に見逃してしまいそうな場所が、北条5代の中でも1番と言っても過言ではない名将・北条氏康デビュー戦のクライマックスの場所であったということを示しているこの看板は宝です。撤去は残念でなりません。再建を願うばかりです。

一方、「小田原北条記」には、この辺りはどのように書かれているのでしょうか。

~戦いが夜にずれ込んだので、上杉の軍勢は「かなわない」と思ったのだろうか、川越城へ退却してゆく。氏康は初陣で敵を追い落とし、「さい先が良い」と喜んで、
勝どきをあげて陣中へ戻った。それから負傷者を助け、落ち着きを払って兵糧を食べ、小田原にがい旋した。~

さらりと書いてあり、勝坂等の地名こそ出て来ませんが、「勝どきをあげて陣中へ戻った」の表現の辺り、どこで勝どきをあげたのだろう?という場所が、ここ勝坂であることをうかがわせます。


3.勝坂の軍略的意義

ところが、この勝坂を上り、見まわしてみて1つ分かったことがあります。(写真⑨)

⑨勝坂から戦場方面を眺望
それは、この坂の上からは、敵本陣があった金程や隠れ谷を含む、小沢原の戦場が一望できるのです。

看板にもありましたように、現在は家群が立ち並ぶ景観が広がっていますが、地形の起伏等地勢というのは多少の変化はあれ、そうは変わらないでしょう。

この辺りの多摩丘陵は地形が入り組んでいて、広範囲に渡る戦場全体を俯瞰するのは難しいです。

ことに夜襲となれば、局地的には勝利しても、どこかに敵の残存兵力が残っているかもしれないのです。

つまり、氏康は単なる勝利の喜びで衝動的に駆け上ったということではなく、払暁ですから、夜襲後の戦況をこの坂に登ることにより、きちんと確認をした上で、この場所で勝利宣言をしたのだと思います。

16才にしては出来過ぎかもしれません。しかしあらかじめ隠れ谷に兵を隠しておいて夜襲する等の深慮を見ると、やはり氏康はそれ程の人物であったのだろうと、考えながら、草木も燃ゆる8月の暑さの夕刻、私はこの坂の調査を終え、1里離れた自宅へと帰っていくのでした。

3.おわりに

このように初陣を勝利で華々しく飾った氏康ですが、驚くべきことに、日本三大夜戦と言われる「河越城夜戦」という偉業を成し遂げました。この戦は北条氏の関東支配を決定的にしたという重要度だけに留まらず、旧日本陸軍によってもかなり研究され、太平洋戦争では、日本のお家芸とまで言われた夜襲の手本にも影響を与えたものなのです。

この戦の背景や経緯等は、またかなり複雑で、別途機会があれば詳細を描きたいと思いますが、簡単に言うと、上杉・足利等関東中の反北条軍団8万を、氏康の軍勢8千でもって夜襲により完璧に打ち負かすという偉業です。


この戦の仕方は、源流を遡ると、この小沢原の戦いにあると私は思います。合戦を2回に分け、初戦で負けたように見せかけ、驕りが出た隙を夜襲、しかも疲労していない隠し部隊を投入してという作戦は、16才の初陣とは思えない鮮やかさです。

氏康は、「亀さん型」で臆病などと前回の冒頭おふざけのように書きましたが、往々にして臆病な人物は熟慮・深慮に長けた人が多いです。臆病は蛮勇よりは余程役に立つのです。1歩下がって、情報を徹底的に収集する。そしてそれらの情報から計算し尽した行動計画を立てる。さらに状況に応じ、臨機応変に計画を変更する。基本的なことですが、これが非凡の域に達していた氏康は、周囲から臆病な亀のように見えていたのかもしれませんね。ただ、父・氏綱はちゃんと氏康の資質を見抜いていたのでしょう。

氏康は、この後、関東から上杉氏を追い払い、武田・今川家と甲相駿三国同盟を結んで関東を支配します。更に上杉謙信や武田信玄も退ける等、北条5代の中で1番輝かしい北条の関東支配の時期を築いた人物となるのです。

 始めよければ終わりよし

氏康にとって、この諺通りの人生だったとすれば、やはり「始め」であるこの小沢原の戦いは、決して歴史的には小さなものではなかったのだろうと、この勝坂からの景観を愛してやまない友人の写真を見ながら思いました。(写真⑩)

⑩勝坂から富士山・丹沢山系を臨む(撮影:市嶋氏)

ご精読ありがとうございました。

土曜日

北条氏康の初陣① ~小沢原の戦い~

 『関東八州の制覇』という坂の上の雲を目指して、駆け上っていく北条氏、立ちはだかる最大の障壁は上杉氏です。歴史を振り返れば、北条五代にとって1番の成功体験となる戦は、この上杉氏を相模・武蔵の2国への影響力を無くすことに成功した「河越夜戦」ではないでしょうか。

これを達成したのは3代目の北条氏康なのですが、この方の活躍ぶりは、他の勇猛果敢な武将とはちょっと違っているのです。今回は、その辺りを含めて、この氏康のデビュー戦である小沢原の戦いに焦点を当ててレポートしてみたいと思います。

1.北条氏康について

北条氏康は、甲斐・信濃(山梨・長野)の武田家、駿河(静岡)の今川家との三国同盟を結び、民政向上、北条家組織内も、公平な発言・民主化を実現と、品行方正・立派な君主としての評価は高いです。(絵①)

①北条氏康

一方、小田原北条記等では、「生涯36回の戦いに無敗で、1度も敵に背を向けた事はなく、傷は向う傷ばかりである。」というかなり勇猛な一面も書いています。

ところが、実はかなり偏っていたのです。そこは戦国時代に良くある話ですが・・・。

この時代偏っていた人程、戦国武将として成功した場合、後の江戸時代で矯正され、儒学的に立派な、つまり品行方正な人物像となってしまうのです。

では氏康の特徴は?というと「亀さん型」。まるで亀さんのように、いつも周囲の状況にビクビクしながら、何かあると直ぐに部屋や城等、彼の甲羅の中に引きこもるのです。

幼少の頃は、雷が鳴るだけで、部屋の隅で震えているような子であったようで、家臣の中にはその資質を危ぶみ、北条綱成という今川家からの養子に家督を譲るべきではとの声もあったといいます。

この辺り、エリート戦国武将の多くが持っているエピソードですね。例えば、信長もご存じのように「尾張の大うつけ」と馬鹿にされ、弟の信行の方が優秀だと家臣の中で噂されていたとか、武田信玄も非力な男で、これまた弟の典厩信繁の方が優秀と言われていたというようなパターンです。

なので、こういうエピソードが出ている戦国大名は「あれは韜晦(とうかい:そういうフリをして、自分の能力を隠すこと)だったのだ」と思わせる場面が必ずあります。氏康の場合、彼のデビュー戦である「小沢原の戦い」がそれです。

ただ、氏康の場合には、この小沢原の戦いは兎も角、その後はやはり小田原城という甲羅に籠る体質は脈々と続いていて、上杉謙信に攻められても、武田信玄に攻められても、小田原城にこもって出てこないで、敵が去るのを待ち続けました。

本質的にはやはり「亀さん型」「こもりがち」だったのではと思います。亀さんのように、いつまで経っても小田原城という甲羅から出てこない氏康に対して、しびれを切らして帰って行った謙信、信玄です。これが悪いことに、両日本国最強軍団を撤退せしめた小田原城という過信が、北条軍に出来てしまいました。そしてその過信が豊臣軍20万に対しても、籠城という「甲羅にこもり作戦」で行こうということになったのです。つまり北条氏滅亡のDNAは、既に氏康の頃に造られてしまったのではないでしょうか。

そんな「こもりがち」な戦い方を得意とする氏康ですが、デビュー戦から「こもりがち」だったのでしょうか?早速、お話していきたいと思います。

2.上杉軍のリベンジ

江戸城を二代目・北条氏綱に奪われ、河越城に撤退を余儀なくされた上杉朝興(ともおき)。深大寺城を江戸城奪還の前進基地として改修し、反撃の機会をうかがいます。

一方、北条軍も、上杉軍から武蔵野国の版図をなんとかむしり取り、河越城まで撤退させることに成功したのですから、江戸城を再奪還され、また勢力を盛り返されてはたまりません。

そこで現在の京王電鉄井の頭線・三鷹台駅付近の牟礼に付城を築き、深大寺城の上杉軍の動静を見張ります。(地図②)

②(後)北条氏 vs 上杉氏

深大寺城から、多摩川の方向に向かい、多摩川の稲田堤を超えて、よみうりランドの丘陵を上る道路は、私も良く利用するのですが、この丘陵から現在の新百合ヶ丘駅あたりにかけて、北条氏康の初陣戦となる小沢原の戦いがありました。  

1530年のことです。

流石に氏康も初陣から、城に籠って戦ったのではありません。

しかし、この初陣からして、少数の兵力で大軍相手に勝つという奇抜な戦略は、後に有名となる河越夜戦と同じような感じです。

では小沢原の戦いの背景からお話しします。

3.「立河原の戦い」のトラウマ

北条氏綱によって、江戸城から河越城へと敗退させられた上杉朝興。彼は悔しくて仕方ありません。(この辺りは拙著ブログ「北条五代記① ~高縄原の戦い~」をご笑覧ください。)

本来、伊勢氏の末裔のくせに、鎌倉幕府の名家・北条姓を名乗る怪しい輩・氏綱ごときに相模国はおろか、武蔵国まで取られそうな今、正真正銘の名家である上杉家の面目は地に堕ちたと感じたのでしょう。

「小田原の氏綱を征伐して、先年の恥をすすごう」

と小田原北条記にはありますが、まだこの頃の朝興は氏綱征伐に気力があります。

後、鬼籍に入る直前に、自分は氏綱に14回挑んだが1度も勝てなかった。未来永劫の恥辱であり、自分が死んでも法要や供養よりも、氏綱を征伐してくれと息子に遺言するくらいの禍根になってしまったようです。

また、この時、甲斐の武田信虎(信玄の父親)が郡内(ぐんない、現在の大月市)の国境周辺に侵出してきており、北条の兵力を分散させるために、協働して出陣してほしいと、朝興にも依頼していたのです。

丁度良いということで、朝興は河越城から深大寺城へ兵5000を引き連れ、相模へ進攻を開始します。そして最初に攻撃の的となるのは、多摩川を挟んだ北条軍の小沢城です。(写真③)

③小沢城址

小沢城は歴史が古く、平安時代末期に、鎌倉の有力御家人となる稲毛三郎重成(しげなり)が、多摩川より北側、奥州藤原氏や佐竹氏等からの進攻に備えて、築いた城なのです。

当時、鎌倉の第一防衛線は多摩川でした。稲毛氏は、河岸段丘にこの小沢城や枡形城(現・生田緑地)等を築いていたのです。

時代は変わり、戦国時代以降、これらの城は鎌倉の防衛線では無くなったものの、やはり、まだ北からの小田原侵攻の脅威を、多摩川とその河岸段丘いう天然の防御を用いて、防衛線を張っていた訳です。340年経っても戦闘への地理の活用方法にあまり進歩が無いようです。

余談ですが、この小沢城と枡形城、なんと太平洋戦争でも使われました。と言っても、当然、多摩川の北側から来る敵からの防衛ではなく、サイパン島や硫黄島から飛来するB―29の空襲から東京を守るためでした。小沢城址に探照灯を置き、夜間飛来するB―29を照らし、枡形城に設置した高射砲で撃ったのです。

◆ ◇ ◆ ◇

話を戻します。北条氏綱は、深大寺城への付城の一つ、牟礼砦から、深大寺城に上杉朝興が駆けつけたらしいとの報告を受けます。(写真④)

④牟礼砦

この時、氏綱が思い出したのは、26年前の「立河原の戦い」です。それこそ、当時は本家である山内上杉家に対し、分家である扇ガ谷上杉家が武蔵国、相模国で争っていました。(ちなみに山内とか扇ガ谷というのは鎌倉の地名です。そこに屋敷があった上杉本家と分家の分け名なのです。)

この時、劣勢に立っていたのは扇ガ谷上杉家。

◇ ◆ ◇ ◆

また脱線しますが、実は小田原城も、この頃劣勢であった扇ガ谷上杉家から山内上杉家が奪ったのですが、それを伊勢宗端こと北条早雲が奪い返し、扇ガ谷上杉家にこの城の管理を任されていたということが最近の研究で分かってきました。箱根山から牛の角に松明をつけて大森氏の守る小田原城を攻め落とすというのは後世の創作らしいのです。(牛の角に松明という戦法は、木曽義仲が平家を倶利伽羅峠で破った戦法でも有名ですが、その戦も含め中国の「火牛の計」の故事にちなんだ伝説ではないか、とも言われています。さらに言うなら、この戦法を牛ではなくて象に応用し、シャム(当時のタイ)で大勝利を収めた山田長政伝説もあります。)

◇ ◆ ◇ ◆

そんな劣勢扇ガ谷上杉家は、小田原城を早雲に譲り、関東侵出を許した代わりに、北条家とその背後の今川家の2大勢力を味方に付けることに成功するのです。

その扇ガ谷上杉家が、この2大勢力の力を借りて、山内上杉家に逆転勝利するのが、「立河原の戦い」です。

戦いの経緯詳細は省略しますが、扇ガ谷上杉家が守る河越城を攻めていた山内上杉家。河越城支援のために、軍を率いて枡形城に入った早雲と今川氏親が、扇ガ谷上杉軍と合流し、山内上杉軍と激突するのが、多摩川を渡った先、現在の立川付近の原なのです。

この時、多摩川の渡河が出来るかどうかが勝敗を喫すると早雲は考えていました。つまり多摩川を渡河できなければ北条・今川・扇ガ谷上杉連合軍は山内上杉軍に勝てず、逆に渡河できれば大勝利間違いなしと。

そして結果は渡河できた北条・今川・扇ガ谷上杉連合軍の大勝利だったのです。

当時、17才だった氏綱は、この戦が初陣であり、その経緯を父・早雲と一緒に見て来たのです。と同時に、今回攻めて来る上杉朝興もこの時16才であり、養父・上杉朝良と共に、早雲・氏綱とも一緒に戦った仲であることから、この時の戦の記憶が氏綱と同様にあるはずです。

―この戦は、かなり難しい。上杉朝興は絶対、先に多摩川を渡河するつもりだ。今から小田原から軍を出していたのでは、朝興らが多摩川を渡河してしまうことを阻止できない。さて、どうするか?渡河した軍は強い。立河原の戦いも、かつて新田義貞の分倍河原の戦いでも多摩川を渡河した軍は、初戦は必ず勝っている。しかし、実はそのような思い込みに囚われているだけではないか。そうだ、この思い込みを持たない若者を今回の戦に充てよう。ちょうど俺も朝興も初陣だった年齢である氏康に行かせよう!奴ならこの難題を解決できるであろう。―

4.氏康の初陣

普通初陣というのは、戦の右も左も分からない初体験の若輩ものが出るのですから、もう少し周りの大人がお膳立てしてあげるのが普通でしょう。

しかし、そこは真の帝王学を北条三代目・氏康に教え込もうという二代目・氏綱。武田信虎対策に北条軍のメインの兵力は割いてしまっています。獅子は我が子を千尋の谷に落とすが如く、16才の氏康に、百戦錬磨の上杉朝興の迎撃を指示するのです。しかも2000の兵しか与えることができません。

「ええっ!私が大将ですか?しかも敵の半分も無い兵力で?実戦を知らぬ私が勝てるとお思いですか?」

「ごちゃごちゃぬかす時間があるなら、勝つための準備をせい!氏康。」

と氏綱に一喝される氏康。

まだ16才の北条氏康は、引っ込み思案だの亀だのと噂されていただけに、家臣たちは、―氏康殿は、きっとお部屋で怖くて震えて、泣いているに違いない。―

と想像していました。

ところが、部屋に戻った氏康。

「地図を持て!」

と直ぐに家臣に命じ、持って来た深大寺城から小沢城に掛けての地図をじっと見入ります。(地図⑤)

⑤小沢原の戦い状況図

そして、多摩川南岸にある多摩丘陵を利用した小沢城を確認すると、

「小沢城の縄張りを持て!」

さすが氏康、亀と言われるだけのことはあります。甲羅である城については縄張り図を見るだけで、その城の強み、弱み、兵の最適な配置等が全て手に取るように分かるのです。

「やはり打ってでるしかないか。」

小沢城の縄張りを見て氏康は唸ります。若干16才でありながら、城郭の構造を見れば、付近の地勢の想像がつき、それらを活用した戦い方のシミュレーションが出来てしまうのです。この辺りの才能も、父・氏綱は分かっていたのではないでしょうか。

5.第一回 小沢原の戦い

さて、小田原城を出発した氏康の手勢はわずか2000程。小沢城までは15里(60km)弱であり、2日の距離です。

南側から小沢城に入る約一里手前に、「隠れ谷」という場所があります。(写真⑥)。

⑥隠れ谷公園

現在は公園になっていますが、ここに氏康は、兵1000を残し、

「おぬしら、ここで待機せよ。充分に英気を養っておけ!」と言い置き、残り1000を引き連れて、更に北上したところにある小沢城に入ります。

一方、北条氏康の小田原出陣を聞いた上杉朝興は、その寡兵ぶりを聞くと、

「流石に初陣で戦馴れしていない氏康だ。そんな寡兵で勝てる訳がないだろう。小田原から空元気で出て来たのは褒めてやるが、不名誉な初陣にしてやろうぞ。」

と、時は1530年6月の草もそよがぬ炎天下に、予定通り、小沢城から軍を進め、多摩川を余裕で渡河し、小沢城の麓の多摩川の南側の河原に5000の軍を展開するのです。

―立河原の戦いの時と反対の状況だ。敵が渡河してしまっている。しかも兵数は多い。我らの負けは間違いない。―

小沢城にいる古参の将兵は思います。

しかし、意外と落ち着いている氏康。城の櫓から北側を遠望すると、多摩川を背水の陣に上杉軍が陣形を整えているのが見えます(写真⑦)

⑦小沢城から多摩川方面を見る
奥(写真上)に多摩川が見える
※ちょうど京王線が走っている辺りに
上杉朝興が陣形を整えていたと想定

それを見た氏康。

「上杉勢、なにほどのことがあろうか!」

とのたまい、立ち上がると、

「打って出る!」

と言うや否や愛馬に跨り、鞭を入れ、城外に飛び出します。

小沢城を出て、今の矢野口辺り(写真⑦の辺り)の上杉軍を迎撃する氏康、この意外な行動から、「やはり、氏康の臆病ぶりは韜晦だったのか!」と頼もしく感じた北条軍。

この時の戦いぶりを、小田原北条記に従って読み解きます。(地図⑧参照)

◆ ◇ ◆ ◇

小沢城から出て来た北条軍。先に河原で陣を構える上杉軍に仕掛ける定石は「矢戦(やいくさ)」です。これにより、接近戦になる前に、なるべく敵陣を乱すのです。当然上杉軍も矢戦に備えていたのですが、なんと、北条軍は、矢も番えず、いきなり全軍抜刀するやいなや、上杉軍に切り込んでいきます。

~矢戦をすると思いきやいっせいに抜刀して切込み、十文字に割って通り、巴の字に追い回し、東西に駆け巡って敵を打ち破り、南北に馬ですれ違った。~「小田原北条記」より

これは、一見単なる常識破りの戦い方のように見えますが、実は矢戦をすると、どちらが優勢かは兵数で決まり、寡兵の北条軍には不利な状況が続くだけです。氏康は、そのような不利な状況が続く戦をして、戦意を挫き、消耗するよりは、切込んで短期決戦の方が良いと判断したのでしょう。

~草もそよとせぬ炎天下に、敵味方の軍卒たちは、追いつ追われつ喚声をあげて攻撃し、まったく息をつく間もない。じっさい地軸もくだけて沈むかと思われた。~「小田原北条記」より

しかし、流石、戦の経験値では上杉朝興の方がベテラン、江戸城奪取の雪辱をここで濯ぐのだと言わんがばかりの勢いです。

蛮勇奮って出てきたように見せかけた氏康も、この合戦では、とりあえず小沢城に撤退します。

上杉朝興は、「普段籠っている奴は、猪突猛進・イノシシ武者になりやすい。まだまだ若いの。」と言ったでしょうか。

⑧小沢原の戦い概要マップ

上杉軍は、戦場から南西に駒を進め、小沢城からよみうりランドの多摩丘陵を一つ隔てた金程という土地にて、小沢城に対する陣を敷き直します。

さて、この後が、北条氏康の練りに練った戦略が花開くのですが、長くなりましたので続きは次回とさせてください。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【河越城址】〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目27
【深大寺城址】〒182-0017 東京都調布市深大寺元町2丁目14−4
【牟礼砦跡】〒181-0002 東京都三鷹市牟礼2丁目6−12
【小澤城址】〒214-0006 神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目4
【枡形城址】〒214-0032 神奈川県川崎市多摩区枡形6丁目26−1
【隠れ谷(公園)】〒215-0021 神奈川県川崎市麻生区上麻生3丁目15−1
【金程】〒215-0006 神奈川県川崎市麻生区