『関東八州の制覇』という坂の上の雲を目指して、駆け上っていく北条氏、立ちはだかる最大の障壁は上杉氏です。歴史を振り返れば、北条五代にとって1番の成功体験となる戦は、この上杉氏を相模・武蔵の2国への影響力を無くすことに成功した「河越夜戦」ではないでしょうか。
これを達成したのは3代目の北条氏康なのですが、この方の活躍ぶりは、他の勇猛果敢な武将とはちょっと違っているのです。今回は、その辺りを含めて、この氏康のデビュー戦である小沢原の戦いに焦点を当ててレポートしてみたいと思います。
1.北条氏康について
北条氏康は、甲斐・信濃(山梨・長野)の武田家、駿河(静岡)の今川家との三国同盟を結び、民政向上、北条家組織内も、公平な発言・民主化を実現と、品行方正・立派な君主としての評価は高いです。(絵①)
①北条氏康 |
一方、小田原北条記等では、「生涯36回の戦いに無敗で、1度も敵に背を向けた事はなく、傷は向う傷ばかりである。」というかなり勇猛な一面も書いています。
ところが、実はかなり偏っていたのです。そこは戦国時代に良くある話ですが・・・。
この時代偏っていた人程、戦国武将として成功した場合、後の江戸時代で矯正され、儒学的に立派な、つまり品行方正な人物像となってしまうのです。
では氏康の特徴は?というと「亀さん型」。まるで亀さんのように、いつも周囲の状況にビクビクしながら、何かあると直ぐに部屋や城等、彼の甲羅の中に引きこもるのです。
幼少の頃は、雷が鳴るだけで、部屋の隅で震えているような子であったようで、家臣の中にはその資質を危ぶみ、北条綱成という今川家からの養子に家督を譲るべきではとの声もあったといいます。
この辺り、エリート戦国武将の多くが持っているエピソードですね。例えば、信長もご存じのように「尾張の大うつけ」と馬鹿にされ、弟の信行の方が優秀だと家臣の中で噂されていたとか、武田信玄も非力な男で、これまた弟の典厩信繁の方が優秀と言われていたというようなパターンです。
なので、こういうエピソードが出ている戦国大名は「あれは韜晦(とうかい:そういうフリをして、自分の能力を隠すこと)だったのだ」と思わせる場面が必ずあります。氏康の場合、彼のデビュー戦である「小沢原の戦い」がそれです。
ただ、氏康の場合には、この小沢原の戦いは兎も角、その後はやはり小田原城という甲羅に籠る体質は脈々と続いていて、上杉謙信に攻められても、武田信玄に攻められても、小田原城にこもって出てこないで、敵が去るのを待ち続けました。
本質的にはやはり「亀さん型」「こもりがち」だったのではと思います。亀さんのように、いつまで経っても小田原城という甲羅から出てこない氏康に対して、しびれを切らして帰って行った謙信、信玄です。これが悪いことに、両日本国最強軍団を撤退せしめた小田原城という過信が、北条軍に出来てしまいました。そしてその過信が豊臣軍20万に対しても、籠城という「甲羅にこもり作戦」で行こうということになったのです。つまり北条氏滅亡のDNAは、既に氏康の頃に造られてしまったのではないでしょうか。
そんな「こもりがち」な戦い方を得意とする氏康ですが、デビュー戦から「こもりがち」だったのでしょうか?早速、お話していきたいと思います。
2.上杉軍のリベンジ
江戸城を二代目・北条氏綱に奪われ、河越城に撤退を余儀なくされた上杉朝興(ともおき)。深大寺城を江戸城奪還の前進基地として改修し、反撃の機会をうかがいます。
一方、北条軍も、上杉軍から武蔵野国の版図をなんとかむしり取り、河越城まで撤退させることに成功したのですから、江戸城を再奪還され、また勢力を盛り返されてはたまりません。
そこで現在の京王電鉄井の頭線・三鷹台駅付近の牟礼に付城を築き、深大寺城の上杉軍の動静を見張ります。(地図②)
②(後)北条氏 vs 上杉氏 |
深大寺城から、多摩川の方向に向かい、多摩川の稲田堤を超えて、よみうりランドの丘陵を上る道路は、私も良く利用するのですが、この丘陵から現在の新百合ヶ丘駅あたりにかけて、北条氏康の初陣戦となる小沢原の戦いがありました。
1530年のことです。
流石に氏康も初陣から、城に籠って戦ったのではありません。
しかし、この初陣からして、少数の兵力で大軍相手に勝つという奇抜な戦略は、後に有名となる河越夜戦と同じような感じです。
では小沢原の戦いの背景からお話しします。
3.「立河原の戦い」のトラウマ
北条氏綱によって、江戸城から河越城へと敗退させられた上杉朝興。彼は悔しくて仕方ありません。(この辺りは拙著ブログ「北条五代記① ~高縄原の戦い~」をご笑覧ください。)
本来、伊勢氏の末裔のくせに、鎌倉幕府の名家・北条姓を名乗る怪しい輩・氏綱ごときに相模国はおろか、武蔵国まで取られそうな今、正真正銘の名家である上杉家の面目は地に堕ちたと感じたのでしょう。
「小田原の氏綱を征伐して、先年の恥をすすごう」
と小田原北条記にはありますが、まだこの頃の朝興は氏綱征伐に気力があります。
後、鬼籍に入る直前に、自分は氏綱に14回挑んだが1度も勝てなかった。未来永劫の恥辱であり、自分が死んでも法要や供養よりも、氏綱を征伐してくれと息子に遺言するくらいの禍根になってしまったようです。
また、この時、甲斐の武田信虎(信玄の父親)が郡内(ぐんない、現在の大月市)の国境周辺に侵出してきており、北条の兵力を分散させるために、協働して出陣してほしいと、朝興にも依頼していたのです。
丁度良いということで、朝興は河越城から深大寺城へ兵5000を引き連れ、相模へ進攻を開始します。そして最初に攻撃の的となるのは、多摩川を挟んだ北条軍の小沢城です。(写真③)
③小沢城址 |
小沢城は歴史が古く、平安時代末期に、鎌倉の有力御家人となる稲毛三郎重成(しげなり)が、多摩川より北側、奥州藤原氏や佐竹氏等からの進攻に備えて、築いた城なのです。
当時、鎌倉の第一防衛線は多摩川でした。稲毛氏は、河岸段丘にこの小沢城や枡形城(現・生田緑地)等を築いていたのです。
時代は変わり、戦国時代以降、これらの城は鎌倉の防衛線では無くなったものの、やはり、まだ北からの小田原侵攻の脅威を、多摩川とその河岸段丘いう天然の防御を用いて、防衛線を張っていた訳です。340年経っても戦闘への地理の活用方法にあまり進歩が無いようです。
余談ですが、この小沢城と枡形城、なんと太平洋戦争でも使われました。と言っても、当然、多摩川の北側から来る敵からの防衛ではなく、サイパン島や硫黄島から飛来するB―29の空襲から東京を守るためでした。小沢城址に探照灯を置き、夜間飛来するB―29を照らし、枡形城に設置した高射砲で撃ったのです。
◆ ◇ ◆ ◇
話を戻します。北条氏綱は、深大寺城への付城の一つ、牟礼砦から、深大寺城に上杉朝興が駆けつけたらしいとの報告を受けます。(写真④)
④牟礼砦 |
この時、氏綱が思い出したのは、26年前の「立河原の戦い」です。それこそ、当時は本家である山内上杉家に対し、分家である扇ガ谷上杉家が武蔵国、相模国で争っていました。(ちなみに山内とか扇ガ谷というのは鎌倉の地名です。そこに屋敷があった上杉本家と分家の分け名なのです。)
この時、劣勢に立っていたのは扇ガ谷上杉家。
◇ ◆ ◇ ◆
また脱線しますが、実は小田原城も、この頃劣勢であった扇ガ谷上杉家から山内上杉家が奪ったのですが、それを伊勢宗端こと北条早雲が奪い返し、扇ガ谷上杉家にこの城の管理を任されていたということが最近の研究で分かってきました。箱根山から牛の角に松明をつけて大森氏の守る小田原城を攻め落とすというのは後世の創作らしいのです。(牛の角に松明という戦法は、木曽義仲が平家を倶利伽羅峠で破った戦法でも有名ですが、その戦も含め中国の「火牛の計」の故事にちなんだ伝説ではないか、とも言われています。さらに言うなら、この戦法を牛ではなくて象に応用し、シャム(当時のタイ)で大勝利を収めた山田長政伝説もあります。)
◇ ◆ ◇ ◆
そんな劣勢扇ガ谷上杉家は、小田原城を早雲に譲り、関東侵出を許した代わりに、北条家とその背後の今川家の2大勢力を味方に付けることに成功するのです。
その扇ガ谷上杉家が、この2大勢力の力を借りて、山内上杉家に逆転勝利するのが、「立河原の戦い」です。
戦いの経緯詳細は省略しますが、扇ガ谷上杉家が守る河越城を攻めていた山内上杉家。河越城支援のために、軍を率いて枡形城に入った早雲と今川氏親が、扇ガ谷上杉軍と合流し、山内上杉軍と激突するのが、多摩川を渡った先、現在の立川付近の原なのです。
この時、多摩川の渡河が出来るかどうかが勝敗を喫すると早雲は考えていました。つまり多摩川を渡河できなければ北条・今川・扇ガ谷上杉連合軍は山内上杉軍に勝てず、逆に渡河できれば大勝利間違いなしと。
そして結果は渡河できた北条・今川・扇ガ谷上杉連合軍の大勝利だったのです。
当時、17才だった氏綱は、この戦が初陣であり、その経緯を父・早雲と一緒に見て来たのです。と同時に、今回攻めて来る上杉朝興もこの時16才であり、養父・上杉朝良と共に、早雲・氏綱とも一緒に戦った仲であることから、この時の戦の記憶が氏綱と同様にあるはずです。
―この戦は、かなり難しい。上杉朝興は絶対、先に多摩川を渡河するつもりだ。今から小田原から軍を出していたのでは、朝興らが多摩川を渡河してしまうことを阻止できない。さて、どうするか?渡河した軍は強い。立河原の戦いも、かつて新田義貞の分倍河原の戦いでも多摩川を渡河した軍は、初戦は必ず勝っている。しかし、実はそのような思い込みに囚われているだけではないか。そうだ、この思い込みを持たない若者を今回の戦に充てよう。ちょうど俺も朝興も初陣だった年齢である氏康に行かせよう!奴ならこの難題を解決できるであろう。―
4.氏康の初陣
普通初陣というのは、戦の右も左も分からない初体験の若輩ものが出るのですから、もう少し周りの大人がお膳立てしてあげるのが普通でしょう。
しかし、そこは真の帝王学を北条三代目・氏康に教え込もうという二代目・氏綱。武田信虎対策に北条軍のメインの兵力は割いてしまっています。獅子は我が子を千尋の谷に落とすが如く、16才の氏康に、百戦錬磨の上杉朝興の迎撃を指示するのです。しかも2000の兵しか与えることができません。
「ええっ!私が大将ですか?しかも敵の半分も無い兵力で?実戦を知らぬ私が勝てるとお思いですか?」
「ごちゃごちゃぬかす時間があるなら、勝つための準備をせい!氏康。」
と氏綱に一喝される氏康。
まだ16才の北条氏康は、引っ込み思案だの亀だのと噂されていただけに、家臣たちは、―氏康殿は、きっとお部屋で怖くて震えて、泣いているに違いない。―
と想像していました。
ところが、部屋に戻った氏康。
「地図を持て!」
と直ぐに家臣に命じ、持って来た深大寺城から小沢城に掛けての地図をじっと見入ります。(地図⑤)
⑤小沢原の戦い状況図 |
そして、多摩川南岸にある多摩丘陵を利用した小沢城を確認すると、
「小沢城の縄張りを持て!」
さすが氏康、亀と言われるだけのことはあります。甲羅である城については縄張り図を見るだけで、その城の強み、弱み、兵の最適な配置等が全て手に取るように分かるのです。
「やはり打ってでるしかないか。」
小沢城の縄張りを見て氏康は唸ります。若干16才でありながら、城郭の構造を見れば、付近の地勢の想像がつき、それらを活用した戦い方のシミュレーションが出来てしまうのです。この辺りの才能も、父・氏綱は分かっていたのではないでしょうか。
5.第一回 小沢原の戦い
さて、小田原城を出発した氏康の手勢はわずか2000程。小沢城までは15里(60km)弱であり、2日の距離です。
南側から小沢城に入る約一里手前に、「隠れ谷」という場所があります。(写真⑥)。
⑥隠れ谷公園 |
現在は公園になっていますが、ここに氏康は、兵1000を残し、
「おぬしら、ここで待機せよ。充分に英気を養っておけ!」と言い置き、残り1000を引き連れて、更に北上したところにある小沢城に入ります。
一方、北条氏康の小田原出陣を聞いた上杉朝興は、その寡兵ぶりを聞くと、
「流石に初陣で戦馴れしていない氏康だ。そんな寡兵で勝てる訳がないだろう。小田原から空元気で出て来たのは褒めてやるが、不名誉な初陣にしてやろうぞ。」
と、時は1530年6月の草もそよがぬ炎天下に、予定通り、小沢城から軍を進め、多摩川を余裕で渡河し、小沢城の麓の多摩川の南側の河原に5000の軍を展開するのです。
―立河原の戦いの時と反対の状況だ。敵が渡河してしまっている。しかも兵数は多い。我らの負けは間違いない。―
小沢城にいる古参の将兵は思います。
しかし、意外と落ち着いている氏康。城の櫓から北側を遠望すると、多摩川を背水の陣に上杉軍が陣形を整えているのが見えます(写真⑦)
⑦小沢城から多摩川方面を見る 奥(写真上)に多摩川が見える ※ちょうど京王線が走っている辺りに 上杉朝興が陣形を整えていたと想定 |
それを見た氏康。
「上杉勢、なにほどのことがあろうか!」
とのたまい、立ち上がると、
「打って出る!」
と言うや否や愛馬に跨り、鞭を入れ、城外に飛び出します。
小沢城を出て、今の矢野口辺り(写真⑦の辺り)の上杉軍を迎撃する氏康、この意外な行動から、「やはり、氏康の臆病ぶりは韜晦だったのか!」と頼もしく感じた北条軍。
この時の戦いぶりを、小田原北条記に従って読み解きます。(地図⑧参照)
◆ ◇ ◆ ◇
小沢城から出て来た北条軍。先に河原で陣を構える上杉軍に仕掛ける定石は「矢戦(やいくさ)」です。これにより、接近戦になる前に、なるべく敵陣を乱すのです。当然上杉軍も矢戦に備えていたのですが、なんと、北条軍は、矢も番えず、いきなり全軍抜刀するやいなや、上杉軍に切り込んでいきます。
~矢戦をすると思いきやいっせいに抜刀して切込み、十文字に割って通り、巴の字に追い回し、東西に駆け巡って敵を打ち破り、南北に馬ですれ違った。~「小田原北条記」より
これは、一見単なる常識破りの戦い方のように見えますが、実は矢戦をすると、どちらが優勢かは兵数で決まり、寡兵の北条軍には不利な状況が続くだけです。氏康は、そのような不利な状況が続く戦をして、戦意を挫き、消耗するよりは、切込んで短期決戦の方が良いと判断したのでしょう。
~草もそよとせぬ炎天下に、敵味方の軍卒たちは、追いつ追われつ喚声をあげて攻撃し、まったく息をつく間もない。じっさい地軸もくだけて沈むかと思われた。~「小田原北条記」より
しかし、流石、戦の経験値では上杉朝興の方がベテラン、江戸城奪取の雪辱をここで濯ぐのだと言わんがばかりの勢いです。
蛮勇奮って出てきたように見せかけた氏康も、この合戦では、とりあえず小沢城に撤退します。
上杉朝興は、「普段籠っている奴は、猪突猛進・イノシシ武者になりやすい。まだまだ若いの。」と言ったでしょうか。
⑧小沢原の戦い概要マップ |
上杉軍は、戦場から南西に駒を進め、小沢城からよみうりランドの多摩丘陵を一つ隔てた金程という土地にて、小沢城に対する陣を敷き直します。
さて、この後が、北条氏康の練りに練った戦略が花開くのですが、長くなりましたので続きは次回とさせてください。
ご精読ありがとうございました。
《つづく》
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