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月曜日

荒木村重① ~有岡城~

今回から少し戦国ものを描いてみます。

関東に住んでいる私は、今まで戦国ものというと関東の雄・小田原後北条氏や、甲斐・信濃の武田氏等がメインでした。

この関東の武将たちに比べると、関西方面は、織田信長や豊臣秀吉等の有名すぎる武将の基本は分かりますが、その取巻き、三好長慶(みよしながよし)、三好三人衆、松永久秀、荒木村重(あらきむらしげ)、高山右近(たかやまうこん)等の動きが、いまいち頭の中で有機的に繋がってこないのです。

そこで今回、荒木村重を皮切りに、信長や秀吉を取り巻く関西方面の戦国時代を調査していきたいと思います。

お付き合い頂ければ幸いです。

①荒木村重のご先祖は藤原秀郷
この絵は近江の大百足(ムカデ)退治伝説を描いたもの
彼は平将門を追討したことでも有名

1.摂津の国

今回の主人公、荒木村重についてです。

彼の織田信長に仕えてからの話を中心に描きたいのですが、そもそも荒木家って?どうして摂津(兵庫県辺り)の国と関係があるの?というルーツは調べた方が良さそうです。

荒木村重のご先祖は、あの平将門を平貞盛(清盛の6代前のご先祖)と一緒に征伐した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。(絵①


大百足(ムカデ)退治でも有名な秀郷は、後に奥州藤原氏や相模国の波多野氏に別れました。今、東名高速道路の渋滞の名所で聞く秦野中井ICの秦野は、この波多野氏のメッカです。

波多野氏は、相模波多野氏と丹波波多野氏に分かれます。

②池田城
先に述べましたように、相模の秦野辺りを領有する波多野氏が起源なのでしょうが、平安時代末期に源義朝らと行動を伴にする波多野氏の一派が、京都の警護等に当たり、そのまま丹波に所領を貰い、相模波多野氏とは袖別れしたようです。
そしてその流れの中で、戦国期まで幾つかの家に分かれた波多野氏の一族が荒木家です。

戦国のこの頃、荒木家の当主・村重は、摂津池田城に起居する池田氏の一家臣として仕えていました。(写真②

その後、村重は当時茨木に勢力を持つ中川清秀らと手を結び、現在の茨木川のほとりで摂津国の既存勢力と戦い、これらに勝利することで下剋上を達成。村重は池田城城主に、中川清秀は茨木城城主になっていきます。

これら摂津の国が混乱期にある中、荒木村重らは織田信長に急接近するのです。

2.村重の饅頭食べ

織田信長と荒木村重が急接近する有名な逸話を、かつて私の他のブログ(Tsure-Tsure「尼崎城」)で書きました。1571年頃の話です。

◆ ◇ ◆ ◇

拝謁した信長の前で「摂津国13郡は、私めに切り取りをお許しいただければ存分に切り取ってみせまする!」と粋がって見せる荒木村重。

黙って聞いていた信長は不満顔。村重の顔など見ていません。見ているのは何故か目の前の高坏にある饅頭。

信長は粋がる奴が嫌いなことを知っている家臣たちは不安な表情で、信長の次のアクションを見守ります。

すると信長、小姓に向かい「刀を持て!」

え!ヤバい!と青ざめる家臣団。「まさか御手討ち・・・」
スラっと刀を抜き放つ信長。村重目掛けて思いっきり突きを入れた・・・と思いきや、高坏の大きな饅頭を刃先で突いていました。

ほっとする家臣団。しかし次の瞬間、またもや家臣団は青ざめます。
③信長の刀の先の大饅頭をほおばる荒木村重

「食え!」

信長は刀の先に刺した大きな饅頭を村重の眼前に差し出し、このまま喰らいつけという態度。村重が喰らいついたら饅頭ごとそのまま刀を村重の喉に突き入れるかもしれません。信長を知る家臣たちは「やりかねない!」と青ざめるのです。

ところが荒木村重は平然と「頂きます」とばかりに、この大饅頭に喰らいつき、あまりの大きさに口に入りきらないせいか、困った顔をしています。(絵③

その滑稽かつ愛嬌のある姿を見て、信長は大笑いします。

そして、村重に「摂津はそちに任せる!」と言い放つと、村重は「フガフガ(ありがたきしあわせ)」と言います(笑)。

家臣たちと違い信長の振舞いを少しも疑わない村重の胆力に、信長は感心したのだろうという、この逸話は有名です。

信長にとって、摂津国はお隣の巨大敵対勢力である毛利氏へのインターフェース部分にあたるため、ここが自分の思い通りになる、いわば「使える奴」に牛耳らせることができるかどうかが極めて重要なのです。

なので、旧勢力を下剋上でのし上がる荒木村重のような、ある意味「生意気な」奴が、饅頭をユーモラスな恰好で食べさせるちょっと屈辱的なことも悠然とやってのける胆力が必要と思ったのかもしれません。

3.有岡城

荒木村重は信長の支援もあり、古くからの摂津の国人・伊丹氏を滅ぼします。(1574年)
④有岡城跡
そして、伊丹氏の居城・伊丹城を大幅に改修し、総構えの立派な城郭を構築。
城の名前も改名します。

有岡城(写真④

そして、あと2つ城を瀬戸内海沿いに築きます。

尼崎城(大物城とも言います:写真⑤)と花隈(はなくま)城(写真⑥)です。

有岡城を旗城とする3城を持ってして、お隣の毛利を牽制する体制を敷くのです。勿論これには信長の意向がかなり入り込んでいます。

これでお隣・毛利氏への対抗措置は万全とばかりに勢いづく荒木村重。

当然、毛利氏攻めの信長軍の総大将は荒木摂津守村重や!と思っている訳です。

ところが、信長が毛利攻めの総大将に任命したのは羽柴秀吉。

つまらん!

と、荒木村重が言ったかどうかは分かりませんが、1578年7月、荒木村重は信長に謀反を起します。

山城国(京都府南側)、摂津国(兵庫県東側)、播磨国(兵庫県西側)の一部・姫路あたりまでは、まだまだ政情不安が続く土地柄で、下剋上が収まらない気運だったことも理由の1つにあるようです。一説には摂津国の国人たちが信長のやり方に反発し、村重に対する突上げが厳しく、村重がこれら国人たちにやられる前に信長に謀反する道を選んだという話しもあるくらいです。

まあ、摂津の国人や村重が納得いかない矛盾が、この頃の信長には多かったのでしょう。

村重と同時に茨木の中川清秀、高槻の高山右近も信長への謀反の狼煙を上げることからもこのことは証明されていると感じます。

⑤尼崎城(これは江戸時代のものの再建です)
流石の信長も「これはまずい!」と思ったのでしょう。彼らが毛利方についてしまえば、折角、頑強な抵抗勢力である石山本願寺と毛利水軍の連携を分断し、それぞれ個別撃破する方向で苦労してきたことが水の泡になってしまいます。

ですので、信長は自分の怒りの感情はまず脇に置き、とにかく、彼らをなだめに入ります。

高山右近は、ご存知のように熱心なクリスチャンですので、彼の神父であるオルガンチーノを使い、他のクリスチャンを迫害する・しないの巧妙な駆け引きで、高槻城を開城させます。

また中川清秀は、この頃の荒木村重をライバル視しているというのか、心底同調していなかったので、信長が怒りを抑えながら、「今、投降すれば茨木の所領を安堵し、織田の臣下として引き続き重用する」と中川清秀に寛大な処置を通知すると、節操無く直ぐに降参するのです。

ここで「節操無く」を書いたのは、理由があります。

⑥花隈城(神戸元町の中心街近くにあります)
実は謀反を起こした荒木村重も、明智光秀や、その他、武将をはじめ様々な人物から謀反の翻意を促されます。すると村重、ほどなく信長に恭順の意を表そうと翻意し、有岡城から安土城へ向かったのです。

これを途中茨木の自城にて引き留めたのが翻意前の中川清秀です。

中川清秀は荒木村重に言います。

「信長は一度裏切ったものを赦さぬ性質(たち)だぞ!安土城に行けば殺される。止めておけ。こうなれば徹底的に毛利を当てにするしかない。」

こう言って、荒木村重を元の有岡城へ戻しておいてですよ、中川清秀は信長に降参するのですから(笑)。(絵⑦

さて、徹底抗戦の覚悟を決め、有岡城へ戻った荒木村重。攻め寄せるであろう信長軍に対抗すべく、対毛利氏用に築城した尼崎城・花隈城との3つの城の連携を密にするよう配備を怠りなく見直し、さらに有岡城下には総構えの構築も万全にします。
⑦中川清秀

また中国の毛利氏に使者を遣わし、信長への謀反・毛利氏への恭順を伝えます。

同時に、この3つの城に荒木軍は立てこもるので、至急援軍を西宮の辺りから上陸させ、武庫川沿いに有岡城包囲の信長軍の後ろをついてほしいと要請します。

4.黒田官兵衛

このように対・信長に備え、慌ただしく有岡城・尼崎城・花隈城の軍備を整えている最中に、姫路城近くの一豪族・小寺政職(まさもと)の家老である黒田官兵衛が荒木村重を訪ねてきます。

1578年の10月、ちょうど兵糧を各城へ収容し、長期戦にも耐えられるよう有岡城から檄を飛ばしている村重のところにです。

黒田官兵衛は信長陣営です。謀反を起こした荒木村重に翻意を促そうとして来城したのですが、逆に村重に土牢に放り込まれてしまいます。

◆ ◇ ◆ ◇

黒田官兵衛は、この荒木村重の謀反のちょっと前まで、舌先三寸で、自分の主君・小寺政職(まさもと)はもとより、摂津国の中程にある三木城の別所長治をはじめ、数々の毛利派であった武将たちを信長陣営に寝返らせた人物です。

ただ、やはり舌先三寸というのは絆として弱いのでしょう。荒木村重の謀反と同時に、摂津・播磨の武将たちは、反・信長、毛利派への回帰と、まるでオセロが次々とひっくり返されるかの如く、信長を背き始めます。

この時、羽柴秀吉の元で毛利氏攻めの策を練っていた黒田官兵衛は焦ります。これらの武将は自分が信長へ味方するよう口説いて落したと思っていただけに、この信長離反の責の大部分は自分にあると感じるのです。
⑧黒田官兵衛

まず、姫路の自分の主君・小寺政職(まさもと)の元に、黒田官兵衛は走ります。

この主君は喰えない男で、優秀な家老である黒田官兵衛と議論では勝てないと分かっていたため、一計を案じるのです。

小寺政職は、黒田官兵衛に言います。

「ワシは荒木村重の誘いで信長に反旗を翻したのであって、村重さえ信長に恭順の意を表してくれれば、自分も唯々諾々と村重にしたがう。
ついては、官兵衛、そちの得意の雄弁で村重に翻意を促してくれ。村重宛の手紙もワシは書いた。これをもって至急有岡城へ飛んでくれ。」

素直にこれに従い、荒木村重の謀反を止めさせようと有岡城へやって来た黒田官兵衛。まず村重に謁見すると、早速、主人・小寺政職から村重に宛てた手紙を差し出します。

「私が何故、荒木殿のところへ参ったかの用向きは、この手紙に書かれています。」

と言って村重へ手紙を差し出したのです。どうせ官兵衛が主君を説得し、村重にも信長への謀反の翻意を促す手紙だろうと思い、うんざり顔で手紙を受け取る村重。
しかし、手紙を読み進めるに従い、村重の顔色が段々変わっていきます。

そして「黒田官兵衛、良くこの城へ参った。ちょっと家臣とも相談する時間をくれないか。」と言い置き、中座して他に行ってしまいます。

まだ説得を開始してもいないのに手紙だけ読んで相談に行くとは主君・小寺政職の手紙が素晴らしいのか、村重があまり謀反に拘りがないのか・・・。

などと官兵衛が考えていると、屈強な武士たちが5人も官兵衛の前に現れ、荒々しく官兵衛を取り押さえると、両手を捕縛し土牢へ連行して行ったのです。

手紙には、当然書いてあると荒木村重も黒田官兵衛も思い込んでいた、信長への謀反の翻意を促す記載は、全く書かれていなかったのです。

書いてあったのは、

ー黒田官兵衛は、主君たる小寺政職に、荒木村重殿へ従って信長へ謀反を起してはならぬとうるさくてしょうがない。小寺家と荒木家の結束のためにも、官兵衛は抹殺する方が良いが、小寺家内でそれをすると流石に家老である官兵衛を家中のものが殺したと家中がガタガタになる。
ついては、荒木村重殿に、官兵衛を有岡城内に幽閉し、対外的には官兵衛が荒木村重方に味方したと喧伝して頂ければ、信長方の戦意を大きく挫くだけでなく、反・信長方もあの官兵衛が荒木村重・毛利派についたということで大いに士気が上がるー

という主旨だったのです。

◆ ◇ ◆ ◇

黒田官兵衛が有岡城の土牢に幽閉されていたのは、この有岡城が落ちるまでの約1年間もの長きに渡るものでした。(360°写真⑨)


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 ⑨有岡城本丸跡
この何処かに黒田官兵衛の土牢があった?

その間、やはり小寺政職らの企図の通りとなりました。有岡城に入城後、行方の分からなくなった黒田官兵衛。信長は官兵衛の造反を疑います。

「荒木村重に取り込まれたな。黒田官兵衛も、はやワシを裏切ったか!」

そして小寺家の人質として安土城に来させていた黒田官兵衛の嫡子を裏切りの見せしめとして殺すよう、その預け先である羽柴秀吉の部下・竹中半兵衛に命じるのです。

黒田官兵衛の嫡男の運命や如何に。続きは次回にします。

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【池田城】〒563-0052 大阪府池田市城山町3−19
【有岡城】〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
【大物城跡(尼崎城)】〒660-0823 兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6
【花隈城跡】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4