マイナー・史跡巡り: 小田原城・石垣山城 -->

土曜日

小田原城・石垣山城

桜の季節の小田原城
随分更新する期間が空いてしまいました。

今回のテーマは小田原城と石垣山城です。この史跡はマイナーではないですね。小田原の方すみません。)

桜の名所でもあるので、桜見物と合わせ、行ってきました。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.小田原城

小田原城は、15世紀中頃に大森氏によって築城されました。

皆さんも良くご存知の北条早雲は、小田原城をこの大森氏から奪います。

早雲は、隣国は静岡県の興国寺城(沼津の当り)を足掛かりとし、韮山城等、堀越公方と言われた茶々丸(鎌倉時代の北条氏の末裔)を追い込む形で、伊豆入りしてきました。

早雲は、この後の時代で流行となる下剋上の一番頭と言われます。

ただし、そのやり方は 、ばっとその所領に入り込み、ばっと次の箇所へと制圧地域を広げていく「はやきこと風の如く」タイプでは無く、じっくりその地ならしをしてから、お隣に足を延ばすというタイプです。

北条早雲
そもそもデビューが40代後半という遅咲きなのにもかかわらず、伊豆に討ち入りしたのが62歳。
そこから地固めをして、逃げた茶々丸を追っかけ、小田原城に箱根の鹿狩りの擬態を装い、大森氏に討ち入って、奪取してしまったのが65歳。

ただし本人は先の韮山城において、88歳で亡くなるまで、根城にしていたようです。

結局、興国寺城から韮山城というほんのちょこっと東に進出しただけなのです。

この時代関東は、鎌倉の二つの地名を冠した管領上杉氏が対立しておりました。

扇谷上杉と山内上杉です。

この二大勢力に、過去鎌倉時代からの有力武士団が勢力争いを繰り広げていたので、早雲が関東の真ん中へ出てくるのは難しかったのでしょう。

当時の優秀な武将として有名な太田道灌ですら、暗君扇谷上杉を下剋上する発想すら湧かず、家督争いで一生を終わらせましたからね。早雲がポッと関東の真ん中に進出等、考えようもない話だったのだと思います。
後ろの棺が立ち姿の家康の棺(久能山にて)

ちなみに、道灌と早雲は同い年のようです。

江戸城私の近所の小机城等、関東の平城は太田道灌が作ったものが多いのは、この家督争いのための抗争城だったようです。

早雲も、三浦半島に大きな勢力を持つ三浦氏を攻めるため、玉縄城等大きな城を一時的に関東の東寄りの真ん中(今の大船駅のすぐ近く)あたりに造りました。

この城はかなり本格的であったようです。というのは、幕末黒船が浦賀に来たとき、国防の観点で、廃城から300年も経っている遺構に再築城しようという計画が幕閣にあった程の規模です。

ただし、玉縄城に早雲が本拠地を移してくることはありませんでした。
小田原城総構の一部

この早雲の、「ちょっとずつ東へ」の体質は、その後の北条4代に引き継がれたようですね。

というか関東八州を取りましたが、守りとしてこの小田原を頑として動かなかった、いや動けなかったのは以下のように考えたからではないでしょうか?

 ☆関東方面は取れれば取れただけ儲けもの。
 ★むしろ西から攻められれば全てを失う可能性あり。

この考え方の中で、特に「西から攻められれば全てを失う可能性あり。」は、先は鎌倉時代の源氏、後は、徳川家康も持っていたようです。

家康は久能山に立ち姿で西に向かって葬られたのは西から幕府を倒す敵が来る事に対する幕府の示威のためでした。しかしやはり最後は薩摩・長州に攻めてこられましたから、家康の260年前の予見は、見事に予見的中ってところですね。(右上写真)

西からやってきました秀吉軍20万、上記の如く覚悟していたのか、北条もこの時、城下町を含む延長9kmに及ぶ総構で最大規模の城郭になっていたようです。右上の写真は今も残る総構の一部です。

2.石垣山城

秀吉軍は、東海道方面からは、韮山城、山中城を軽く制圧、中山道からは八王子城、鉢山城等を潰しながら、怒涛の如く北条軍を制圧し、小田原城の西北3kmのところに石垣山城を一夜にして築き、まさに「疾きこと風のごとく」の勢いで、小田原城下に迫りました。

今回、この石垣山城にも足を延ばしました。中学生の時に、近くの早川駅からミカン畑の農道を、とっとことっとこ歩いて登った30年前とは違い、かなり本丸近くまで車で上がることが出来るようになっておりました。

石垣山城と言われるだけあって、右の写真のように、石垣が沢山あり、登っていくと二の丸、本丸跡に着くのですが、最近は、左の登るのも困難な石垣積みの「井戸曲輪跡」等の発掘も進んだようです。

右下の写真では、この井戸の跡の壁面を懸命に登る我が息子が分かりますか?かなり規模が大きな井戸であることからも、秀吉が造ったこの石垣山城の規模の程が分かりますね。
 
この井戸、30年前に来たときには、発掘されていなかったと思います。
まだまだ、戦国期の史跡というのは、色々と出てくるのですね。
井戸曲輪跡を懸命に登る息子
 
築城に際して、西国から穴太(あのう)衆と呼ばれる石工集団が派遣されて高度な技術で造ったようです。
 
で、こんな大規模な城が一夜でできた訳はないのはご存じだと思います。

実際には、石垣山城の小田原方面の樹木を、一晩で伐採することにより、突然現れたような演出をしたとのことです。

左の写真は本丸から小田原城方面を映した写真ですが、今も林がじゃまをして小田原城からこの本丸は直接は見えないようになっています。

写真の石造上に何故か瓢箪があります。
 
ただ、この時代は大型の建物も少なかったでしょうし、両城の建物はかなり目立ったでしょう。

ちなみに小田原城から石垣山城方面を見ると、多少樹木で隠れていても、築城中だったことは、幾ら凡庸の北条氏でも諜報活動と合わせ、見てわかりそうなものだけどな と思いました。
小田原城は見えないが、何故か千成瓢箪
のある石造(石垣山城)
 
この石垣城による小田原包囲作戦の結果、小田原城は開城、五代続いた北条氏は滅亡。徳川家康が関東は江戸城に入り、江戸時代へと突き進みます。




【小田原城】 神奈川県小田原市城内
【石垣山城】神奈川県小田原市 早川1383-12