マイナー・史跡巡り: 6月 2015 -->

土曜日

松姫と八王子② ~松姫の八王子への逃亡~

前回「松姫と八王子① ~武田家の滅亡~」では、松姫の前半生と、武田家滅亡における勝頼一行の行動について書きました。

後半は、松姫の八王子までの逃亡ルートに関して、思うところもありますので、その説と、八王子に来てからの松姫について書きたいと思います。

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 1.松姫の迂回ルート

さて、松姫は、高遠城で盛信の4歳の娘を預かってきただけでも大変なのに、新府城を出る時に、勝頼と北条夫人の間の娘(これまた4歳)を更に引き取って、ほぼ同じルートを逃亡します。

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武田家滅亡の直前の混乱時期であることから、逃亡ルートについては諸説あるようですが、一番オーソドックスなルートについて見ていきたいと思います。(上図赤い点線のルート

まず、勝頼たちと勝沼までは同じようなルートを辿るのですが、万が一の敵への遭遇を心配して、3人の姫を持つ松姫は、勝沼から北上し、塩山の辺りで状況を見ます。

すると、小山田信茂が背いて、勝頼一行は、小山田領の一歩手前の田野でうろうろしているところを、織田軍の滝川一益軍に追いつかれることが判明しました。

そこで、急遽塩山をさらに北上し、裏街道である大菩薩峠を迂回し、多摩川の源流である丹波山を通って、八王子に落ち延びるという上図のルートを、小さな娘3人引き連れて逃げ切りました。

大菩薩峠の辺りは雪深い
途中、裏切った小山田氏の居城である岩殿山城の北側の1250mもある峠を越えます。

この峠に、現在「松姫峠」という名前が付いています。

マイナーな感のある裏街道のようなので、ちょうど松姫が八王子まで逃げたこの街道を、逃げた時期と同じ3月ごろに、車でドライブしてみました。

かなり雪深いです。

今でこそ国道411号線が走っているため、道路の自体は、積雪は深くはありませんが、それでも500年も昔であったなら、どんなにか悪路であっただろうと想像できます。

しかも、4歳の他の人の娘3人連れてですから、流石松姫さんは信玄さんの娘や!と、逃げ方まで感心してしまいます。兄の盛信も立派でしたが、妹である松姫もなかなかです。

丹波山の辺りはさらに雪深い
ただ、この逃亡ルートを走っていて、感じたことがあります。

ます第1に、こんなうら寂しい街道を、小さな娘3人を伴って、目指す八王子に行けたのでしょうか?

また、武田家の最期や、小山田信茂の裏切り等、この裏街道で知りえることができたのでしょうか?

そもそも連れている3人の娘のうちの1人は小山田信茂の娘です。(3人の娘は、盛信の娘、勝頼の娘、小山田信茂の娘)

どうして裏切った一族の娘も一緒に行動している松姫が、その裏切りを知って、岩殿山城を迂回する形で関東まで逃げることができたのでしょう?

こんな雪深い熊が出そうな土地で、情報も殆ど入らない松姫は、実際は小山田信茂の裏切りを知らなかったのではないでしょうか?

2.松姫の八王子までの逃走ルートに対する新説

さて、そんな事を考えているうちに、国道411号線を外れ、小菅村方面の県道18号線に入りました。松姫峠はもうすぐです。

松姫峠は4月まで閉鎖でした
先に挙げた色々な疑問もさることながら、更に解けない疑問がありました。

それは、この松姫峠は上の図に書かれた定番の逃走ルートからは若干南側に外れた位置にある事実です。

つまり、松姫は1度ルートを南側へ取り、また北側へ戻りながら東へ向かったということになります。

この雪の多い季節にこんな大変なルートを通るでしょうか?
しかも態々1250mもの峠を越えて・・・

なんて色々と考えて車を走らせていると、なんと長々としたトンネルに入ってしまいました。

あれ?松姫峠は?
後日松姫峠に行くことが出来ました
(しかし、松姫トンネルのお蔭で、この峠、
大月方面からは閉鎖されています。)

その長いトンネルは、3か月前に出来たばかりの「松姫トンネル」でした。トンネルを出たところの看板に目を留めると、雪解けを待つ4月まで通行止めとの事でした。

松姫が越えたという松姫峠と同様に、松姫トンネルを松姫達が潜り抜けたというのであれば、このトンネルも重宝しますが、3か月前に出来たトンネルでは感慨の一つも湧きません。洒落にもならないです。

また絶対4月以降に来よう。

と誓いつつ、また考えさせられるのは、4月まで通行止めになるくらい雪深い峠を、本当にこの時期松姫は越えたのだろうか?相当難行だったろうに。

もう夕暮れ時だったので、今回は、上の図の逃亡ルートである県道18号に戻って、上野原に抜ける道を走ることを断念し、松姫峠への道をそのまま南下して国道139号沿いに中央道の大月へ出ることにしました。

そもそも、なんで峠から戻らなければならない道を松姫は行ったのかな。しかも難行の峠を行ったり来たりするものだろうか?
岩殿山城

国道139号沿いに走ると、何故か松姫に纏わる施設、松姫鉱泉とか松姫温泉?等が沢山出てきます。

勿論、松姫峠にあやかった施設かもしれませんが、この道は松姫とは全く関係ないはずなのにどうして峠の向こう側より、こちら側に松姫の名前を冠した施設が多いのだろうか?

まさか松姫一行がこの道横の鉱泉か温泉に入ったのではないだろうなあと気色の良い想像をしながら、走ること30分、目の前に見覚えのある奇岩の山のシルエットが、ヌーと現れました。小山田信茂の岩殿山城(右写真)です。

この瞬間、ハッと思いついたことがあります。

そうだ!松姫たちが逃亡したルートは、この道だったのかもしれない。

もしかしたら、松姫は、3人の娘を連れて、塩山を経由し、大菩薩峠を迂回するルートで、織田軍が武田の残党を追いかけている甲州街道を避けて八王子に入ったと言う説は違ったのかもしれません。

私が思うのは、松姫が勝頼らと別れたのは、塩山ではなく、もっとその手前の山梨あたりで、織田軍が勝頼らの一行に肉迫しているのを察知して、勝頼の娘だけを預かり、元々一緒だった盛信の娘と一緒に、勝頼たちとは別行動に出たのではと想像します。

通説では小山田信茂の娘も預かったとのことですが、私の想像では、この時小山田信茂の娘は岩殿山城に居るのです。

もしかしたら、松姫のオリジナルの発想ではなく、勝頼らとも示し合せた上での策だったのかもしれれない。

勝頼や北条夫人も、身内の中で少しでも逃れられる者は逃したいと思うでしょう。勿論信勝も逃したいでしょうが、世子だけに無理です。ですが、娘なら敵の織田軍も見逃してくれるかもしれません。

そこで、勝頼一行も、松姫一行も別々のルートで、避難先である小山田氏の岩殿山城を目指すことにしたのではないでしょうか?
松姫逃走ルートに対する独自説(図中茶色の線です。クリックすると拡大します。)

勝頼らと別れた松姫は、まだ小山田信茂の裏切りを知らなったのです。

1説には、当の小山田信茂すら、勝頼を裏切るつもりは無く、勝頼1行を迎え入れる準備のために、先に岩殿山城に入った信茂を拘束して、城代家老が裏切りを図ったとの話がある位ですから。

そして、塩山から大菩薩峠、丹波山、松姫峠を越える1行の中に、小山田信茂の娘はおらず、信盛の娘と勝頼の娘の2人を連れて、信茂の岩殿城に、勝頼1行と落ち合うつもりで、松姫はやってきました。

ここで、勝頼らが田野の地で自害し果てたことを知ると同時に、裏切りの角で、信長に処罰される小山田信茂の哀れも知ることになります。

そして、岩殿山城に居たのでは、織田軍に捕まってしまう、もっと東へ逃げなければ!と城を脱出しようとするところで、また小山田の親戚筋から、信茂の娘だけでも連れて逃げてくれるよう頼まれるのです。

小山田信茂は、先のブログで北条氏の滝山城攻撃で、鮮やかに小仏峠を越えて、北条領に侵入した経緯があります。

なので、小山田一族は、領土を接する北条氏照とは、敵同士でありながらも、誼を通じていたような形跡があり、氏照に連絡を取りつつ、和田峠等の間道の道案内を付けて、松姫一行を領内から脱出させたのではないのでしょうか。

これは、北条氏照が八王子は恩方に辿り着いた松姫らを庇護したとの話もあり、この辺りも私の説の補強になるのではないかと思います。

さて、ここまでの私の説を纏めると、上図の茶色の点線のようになります。

かなり、ルートは違いますが、これでやっと松姫峠を松姫らが通った理由や、それこそ岩殿山城に行く途中で、鉱泉にも入ったかもしれませんね。

この説、実はもっと色々と想定した根拠はあるのですが、あまり書きすぎると混乱しますので、この辺りにしておきます。

3.八王子到着後の松姫

長くなってきましたので、少々、その後の松姫については短めに書きます。

八王子で北条氏照の庇護の基、恩方の庵で3人の娘を育てながら、生活していた松姫に転機が訪れます。
信松院

武田家滅亡の直後に、松姫が八王子に逃げ延びたという話を聞いた織田信忠は、使者を送り、織田家・武田家の敵味方の関係が解消したことから、松姫との婚約破棄を解消したいと申し出ます。

まだ21歳の松姫は、かつて慕った信忠のこの申し出を受け入れるべく、安土目指して八王子から信忠の居る旅立つのですが、途中、6月2日に本能寺の変で、当時二条城に居た信忠も自害したことを知り、泣く泣く八王子に戻ってきます。

1つ前のブログで書きました映画「清州会議」で出てくる剛力彩芽扮する松姫は、信忠の息子、三法師を産んでいる設定になっていますが、実際には逢ってもいないのです。

ただ、武田攻めの総大将であった信忠が、逃亡中の松姫と一夜限りの逢瀬の後に出来た子が三法師だという大胆な仮説を取った場合には成り立つ考え方なのかも知れません。

八王子に戻った松姫は、武田家と織田家の悲運に何かを感じたのでしょうね。若干22歳で尼になります。
信松院にある松姫像
逃亡中の姿?

そして、草庵を恩方から、現在の信松院のある場所に移し、寺子屋を開き近所の子供を教育し、蚕を育て、織物を織り、その収入で3人の姫を育て上げたと言われます。

ある意味、現代でも居そうな(流石に蚕と機織りはしないか?)感心な女性かなと思いきや、江戸幕府の礎を築いたキーパーソンの1人、初代会津藩主 保科正之の養育や、武田家から流れてきた武士団である八王子千人同心の心の支え、更には武田家系である大久保長安との交流が厚かったことまで、滅びた後の武田家系の中心的支柱として、皆から慕われたスーパー女性だったようです。

また言ってしまうフレーズですが、流石は武田信玄の娘ですね。若いやんごとなき姫なのに、大きな勇気と行動力をもった女性であることや、若くして出家した後も、武田家遺臣の心のよりどころになった等、その自律性に感動する若い女性が多いのも頷けます。

冒頭の八王子市のゆるキャラも、実はそういう女性の自立性の象徴としてもキャラクター化する意義があると感じたようですよ。

八王子市もなかなか目の付け所が違います。流石です。

そして、先に述べた武田家の遺臣である千人同心らに見守られ、56歳の波乱万丈な生涯を閉じました。

今も信松院にある松姫のお墓は、多くの参詣者を集めます。

松姫のお墓は、松姫の名前にちなんだ大きな松の木の下にあります。

ご存じの方多いと思いますが、武田信玄は戦に出ると直ぐに良い松の木を見つけ、「旗立の松」として、その松の基に、孫子の旗「風林火山」を建てました。

前回のブログでも書きましたが、松姫が生まれた時も、川中島の合戦中で、本陣の松の木の基で出産の報告を聞いたので、松姫と命名したのだそうです。
松姫のお墓

松は強く、目立ち、陣の中心にはもってこいの木だ!

信玄公がそう言ったかどうかは分かりませんが、そんな松の木への想いを松姫も小さい頃から聞かされたのでしょう。

松の木に対する想いは松姫も強いようで、信松院の大きな松も松姫が自ら植えたのだそうです。その直ぐ横に松姫のお墓は建っています。

知る人ぞ知る松姫ですが、八王子のこのお寺、是非訪ねて、大きな松の木の下のお墓に参詣してみてください。

では、今回はこれにて失礼します。

【信松院】八王子市台町3-18-28
【松姫峠】国道139号線沿い山梨県北都留郡小菅村と大月市の間にある峠

松姫と八王子① ~武田家の滅亡~

前回、北条氏の滅びの象徴として、八王子城を取り上げました。実は八王子は北条氏が滅びることに関係が深いだけでなく、武田家の滅亡ともゆかりの深い土地なのです。

滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~

まっぴ~
今回、武田家の滅亡を松姫にスポットを当てて書いてみたいと思います。

この方、普通のお姫様とは違います。滅亡の中でこそ、燦然と光を放つ活躍をしたこのちょっと変わったお姫様について調べてみました。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.松姫

はい、松姫。右の写真です。

「ふざけるな!」と怒られそうです。どう見ても着物ではなくて、ドレスですよね?第一、頭についているのもティアラでは?日本のお姫様というより、西洋の女性?とにかく、滅亡とか悲劇の匂いは全く感じられません。

このゆるキャラ、「まっぴ~」こと松姫です。八王子市のゆるキャラの一人です。

松姫をゆるキャラにと発想された八王子市職員の方は、歴史通と思いましたが、そういえば、最近三谷幸喜監督の映画「清州会議」では剛力彩芽が、この松姫を演じて、かなり微妙な雰囲気が有名になりましたね。

剛力彩芽が演じる松姫(映画「清州会議」)
それから、昔(昭和61年頃?)TVドラマ「おんな風林火山」で岡田奈々や鈴木保奈美が演じていました!

そう考えると松姫自身は、全然マイナーではないです。

と思いましたが、この姫は調べれば調べる程、興味の湧くキャラクターで、また感動的な人物である割には、やはり世間からの注目度は少々低いように見えたので、続きを是非書きたいと思います。笑

少し長くなるので2つにブログを分けて話を書きます。

前半は、武田家の滅亡とその中の松姫、後半は滅亡直後の松姫の八王子へ至る脱出ルートについて書きたいと思います。

2.武田氏の滅亡

さて、1575年 長篠の戦で、当時最強軍団であった武田の騎馬隊を、柵の後ろの三列からなる鉄砲隊が、交代交代で鉄砲をつるべ打ちに打って、大勝利を収めた信長の話はあまりに有名です。
 
武田二十四将
確かにこれが武田家の滅亡に繋がって行ったのは間違いないでしょう。

武田信玄を支えた二十四将のうち、重鎮の家臣たちは殆どが玉砕。勝頼の側近との対立でそのようになったとの説が有力です。

長篠の戦いの後、織田信長は「武田家は放っておいても内部から崩れ去る」と言い放ったようですが、まさに重鎮の消滅した武田家という大木は、中からどんどん腐り、残った武将は猜疑心と不忠の塊状態になっていたのです。

長篠の戦から7年後の1582年、信長が、武田勝頼を滅ぼすために木曽路から伊那を経て、甲州街道沿いに甲斐に攻め入った時には、それこそ、朽木を倒すが如くでした。

次々に、かつての勇猛果敢だった家臣たちが武田家を寝返り、寝返れば許されるかというと、片っ端から信長に断首されたという崩壊の中で、武田家は田野の天目山で滅びるのです。

そんな情けない最期の家臣団の中にも、一人寝返ることなく、城を枕に玉砕した稀有な武将が居ました。

3.高遠城からの脱出

その武将の名前は仁科五郎盛信です。

盛信は母方は違えど、信玄の子なので、武田勝頼とは腹違いの兄弟です。

松姫とは母方も同じ兄弟です。

織田軍の甲州征伐が開始された頃、松姫はこの頼りになる兄の高遠城に身を寄せていました。

ここまでの松姫のトピックを簡単に書くと、1561年に誕生。この時信玄は川中島の戦いで上杉謙信と交戦中であり、誕生の報告を大きな松の木の前で聞くと、「よし!この戦、大勝間違いなし、子にはこの松にあやかり松と付けよ」と言ったとか。

それで松姫となりました。

信玄は松の木が好きですね。多くの戦場に「旗立ての松」という松の木があります。
あの有名な孫子の旗「風林火山」がそこに建てられたのです。
仁科五郎盛信(松姫の兄)

1568年 織田信長は一番恐れる信玄の懐柔作戦に出、信長の長男信忠と信玄六女の松姫との政略結婚を図ります。

松姫7歳、信忠11歳で婚約の儀を結びます。

当時信玄の古府中(甲府駅の北、武田神社のあたり)近くの屋敷に居住することとなった松姫は、逢わずとも婚約者である信忠に淡い憧憬を抱いていたようです。

ところが、この直後、信長のロボットとなって面白くない傀儡将軍の足利義昭が信長追討令を信玄を含め、あちらこちらに出します。

信玄は勿論上洛の欲があったのですが、松姫の件もあり、義昭の追討令が出ても直ぐに信長と敵対することとは躊躇しておりました。

このように信長に抑えられていた信玄は、やはり少々上洛のための更なる口実が欲しったのではないでしょうか?

更なる口実、ありました。比叡山焼討です。やはり信玄坊主と言われただけのことはあります。

流石に日本国の仏法に逆らう信長を生かしておくわけにはいかん!

と信玄が言ったかどうかは別として、この翌年の1572年、上洛を開始しております。

遠州 三方が原で織田・徳川連合を破った信玄は、松姫と信忠の婚約も破ったことになります。

松姫11歳、信忠15歳、思春期に入り始めた頃ですね。多感な松姫は以下のように、まるで未亡人のような落ち込みようだったと古文書の記録にあります。

 「生レテ容色志操アリ、、略、、居止言行孤孀ノ者ノ如シ」(信松院由緒記)

この状況の中、心の支えとなってくれていた、父信玄も上洛途中の野田城攻め後に病気で亡くなります。
織田軍甲州征伐経路

更に落ち込んだ松姫を、やさしい兄の盛信は、自分のところに保護します。まだ15歳の兄ですよ。しっかりしてます!

さて、この兄盛信はそれから7年後、22歳で高遠城主になります。

3つ年下の松姫も美人の名高く、城下でも噂されたそうです。ある意味松姫にとっては幸せな日々だったのかもしれません。

しかし、そうは長くこれらの日々は続かないのですね。長篠の戦い後7年、盛信が高遠城主になって2年後、織田軍が甲州征伐を始めます。

甲州征伐は、今の中央高速自動車道路沿いに行われるとお考えください。(右上図)

木曽義昌の織田方への寝返りで開始された甲斐征伐、木曽から諏訪湖方面へ駆け抜ける織田軍に、武田支配下だった豪族は次々と投降していきます。信玄公の頃の結束は全くありません。武田二十四将は崩壊していたのです

そんな中、唯一圧倒的な信長軍に対して、厳然と抵抗した唯一の武将がこの若き盛信です。穴山梅雪等、古老の武田家血縁筋が平然と裏切る中、若いのに大したものです。流石松姫の兄です!

盛信は、わずか3千の手兵を持って敢然と織田軍3万の大軍を迎え撃ちました。しかし、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3月18日に高遠城の城頭の花と散り果てます。

高遠血染め桜(と太鼓櫓)
ただ、松姫をこの1か月前の2月の頭には、逃がしているのです。この時盛信の4歳になる督姫も連れての高遠城脱出となりました。

このタイミングの良さ。もう少し遅ければ、女性と、幼い姫を連れて逃げるのは、幾ら高遠城が玉砕する程の抵抗を見せても、3万の軍に押し切られ、その後に追いつかれてしまうリスクを考えてのタイミング調整だと考えられます。

流石、信玄公の血筋、盛信ですね。

さて、城頭の花と散った彼らの血を吸った高遠城は、その後、植えた桜がその血を吸ったせいか、赤めの桜が咲くということで、「高遠血染め桜」という名桜が出来ました。それは本当に「タカトオコヒガンザクラ」という小ぶりながら赤みが強い桜の品種を作ってしまった程の凄惨を極めた凄い戦いとなったようです。

実際高遠城の血染め桜を見てきましたが、確かに少々赤みがありますね。
ただ、正直「血染め桜」というくらいだから、桃の花位赤いかなと想像していました。

お花見で楽しく盛り上がっている本丸の、その桜の横の小さな看板に、「盛信は最期に、腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てた」と記載がありました。凄まじい死に方です。

4.その後の松姫の逃亡と武田家の滅亡

さて、下の図は、高遠城を松姫が出発してから、八王子にまで逃げるルートを示した図です。
 


高遠城から盛信の四歳の娘を連れて、脱出した松姫は、杖突峠(右下写真)を経て、勝頼が造った新府城に到着します。

杖突峠から新府城方面を臨む
脱線しますが、武田信玄は、「人は石垣、人は城」とか申して、領内である甲斐の国には城を造らなかったと言われています。

「攻撃こそ最大の防御」ということで、他国を攻めることこそ、自国を守る上策という訳です。

ただ、こんなカッコいいことを言えるのも、武田家臣団の強固な結束があったことの現れです。

長篠の戦いで敗れた武田勝頼は、その後どんどん家臣団との結束は崩れ、その象徴が新府城です。城を造らなければならない程、弱体化していました。

北条の小田原城は、北条氏の強みのシンボルでしたが、新府城は武田勝頼の弱みのシンボルですね。

新府城本丸
高遠城が落ちたと聞くと、武田勝頼は、もとより新府城に籠城し、織田軍と戦う気力もありません。

上杉景勝に援軍をお願いしていたのですから、しっかりとした信頼関係が築けていれば、新府城に籠城し、上杉軍が駆けつけてくれるのをじっと待つ という手もあったのでしょうが、彼はやはり父親とは違い、家臣団はもとより、人との信頼関係を築くのが下手だったのでしょう。

これは滅びる人物には必須の人格的要素であり、私はそういう人が実は好きですけど。

多分、高遠城を落とした織田軍が標高1247mの杖突峠から、松明の列を成して、甲府盆地に降りてくる遠望を、勝頼は新府城の窓から見て、伝統ある武田家の滅亡の危機をひしひしと感じたのでしょう。そして、自らまだ完成していない新府城に火を掛けます。

この時、勝頼の落ち延びる先として、名乗りを上げた武将が2人居ます。1人は真田昌幸、もう1人は小山田信茂です。真田昌幸は上州岩櫃城へ、小山田信茂は、大月市の岩殿山城へ落ち延びるよう勧めます。

最後の最後まで人を見る目が無かったのか、武田家の因に負けたのか、勝頼は小山田氏の方を選びます。小山田氏は、武田家とは古くから隣国同士で姻戚関係も深いのに対して、真田氏は、武田家にとって外様であり、信玄の頃にようやく家臣となったことから、やはり血筋で行ったのかも知れません。

返す返すも残念なのは、この時、あの徳川秀忠率いる4万の軍を2千の兵で長期間足止めした真田昌幸について行っていたら、また大きく歴史は変わったかもしれないですね!
昇仙峡

さて、岩殿山城目指して、落ち延びる勝頼一行は、上記地図の黄色いルートで織田軍から逃げようとするのですが、一時は昇仙峡の辺りに隠遁していたようです。あの風向明媚な昇仙峡でも、勝頼一行にとっては決して心安らぐ場所では無かったでしょう。

そして甲府盆地に戻り、石和を通り、勝沼を経て、これから小山田氏の領内に入ろうとした時に、小山田信茂の裏切りに合います。

もはやこれまでと、勝頼一行は、天目山にある栖雲寺を目指します。この寺は歴代の武田家の墓もあり、武田家の最期の地としてふさわしいこと、山奥なので、少人数でも敵と戦い易いことから選定されたと思われます。

ところが、今の笹子トンネルの辺り、笹子峠の麓の田野まで来ると、織田方の滝川一益の別働隊が待ち伏せておりました。この時勝頼一行はたったの43人。
千人切りの渓流

御旗(右)・楯無(左レプリカ)
(雲峰寺)
この時、土屋昌恒という家臣が渓流の断崖絶壁の場所で、一益の別働隊に対し千人切りという決死の働きをしたことで、時間稼ぎをしてくれました。

この時間稼ぎ中に、勝頼は何をしたかと言うと、右下の写真にある松の木に武田家代々に伝わる「御旗」を立て、「楯無」鎧を16歳の世子信勝に着せて、「環甲の礼」(甲州を治める権利を継承する)をにわかに行ったと伝えられています。

自分の代で武田家が滅びるのを見るに忍びないとの意識からでしょうか?

信勝もこの後直ぐに、滝川一益の軍と戦い、一番槍を先頭の敵兵に喰らわせると、勝頼が「あっぱれ、信勝!一番槍!」と言われたのが嬉しくて、笑顔を見せながら自害したとあります。
環甲の礼を信勝にした松

信勝の死が、武田家の実質的な滅亡です。

また、当時まだ19歳であった北条氏から勝頼のところに嫁いで来た北条夫人は、自害に当たり、以下の辞世の歌を残しています。

「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」

「黒髪の乱れたる」の辺りに、最期に臨んでも、若い女性としての自覚が自然に出ているところが意地らしく感じられます。ですが、まさに戦国時代という乱世を生き、そしてこの場所で散っていくことを潔く受け入れた、その立派さに心打たれます。

勝頼&北条夫人自害松(田野)
私の右の松が勝頼公自害石
左が北条夫人
この「環甲の礼」や辞世の歌は、今目の前で起きたばかりの事のように感じられ、誰も居ない寂しい田野の土地に、大きな喧噪がまだ残っているようにも感じられます。鎌倉時代から続く甲斐の名家が、何故か最大の勢力に拡張してから、1転して1代で滅びるとは、勝頼でなくても無念だったと、この場所で痛切に感じました。

このようにして、武田家は滅びるのですが、この時松姫はどうしていたのでしょうか。冒頭申し上げたように、八王子に逃げ切った松姫については、次回詳細を述べたいと思います。

【高遠城】長野県伊那市高遠町西高遠1806
【新府城】山梨県韮崎市中田町中條
【景徳院(田野)】山梨県甲州市大和町田野389