マイナー・史跡巡り: 6月 2016 -->

日曜日

首洗井戸② ~土牢~

前回、首洗い井戸で洗われた首の主である護良親王の、建武の新政における具体的なアクション等を書きました。(前回を読まれる方はここをクリック

今回は、首洗い井戸までの経緯を書きたいと思います。

1.親王の失敗

建武の新政で、八面六臂の働きをした護良親王も、腹に一物あるような足利高氏は嫌いだったようです。

大体、寝返った幕府の時の執権北条高時から一字貰い、高氏と名乗ったくせに、後醍醐天皇側に寝返ると、今度は、後醍醐天皇のいみ名である「尊治(たかはる)」から一字貰い、尊氏に改名しているのだから節操が無いです。
護良親王
※護良親王①に掲載した漫画の
美男とは違い、天上眉ですね

最後は、後醍醐天皇までも裏切り、後の室町時代を創るわけですから。

という訳で親王は、倒幕後も上洛せずに、奈良の信貴山を拠点に、尊氏をけん制していたようです。

そして護良親王が、征夷大将軍に任ぜられます。

これは尊氏が一番欲しい官職。代々武家の棟梁である源氏が継いできたのですから。

完璧に敵対します。

これが尊氏とだけの敵対であれば、まだ良いのですが、武家を武家で滅ぼした後醍醐天皇には、この征夷大将軍が武家の最高の地位であり、これを朝廷が望んではいけないということが良く分かっていました。なので、後醍醐天皇は、護良親王にはこの官職は与えたくなかったようです。

また、護良親王は、令旨を頻発したので、後醍醐天皇が纏めようとした朝権が乱れる訳です。

これって、鎌倉幕府を作った時の頼朝と義経の関係に似ていませんか?

この似たシチュエーション時、護良親王も義経も同じ20代後半です。年齢は関係ないかもしれませんが、両者とも社会全体を冷静に俯瞰するには歳若かったかもしれません。

2.幽閉

護良親王が幽閉されていた土牢
後醍醐天皇と足利尊氏で、護良親王を亡き者にしようと画策し、親王が王位簒奪を計ったとの罪で征夷大将軍の職を解き、足利氏預けにします。

尊氏は、当時鎌倉を任せている弟、直義に、護良親王を預けました。

直義は、親王を鎌倉は東光寺の土牢に幽閉します。

3.中先代の乱

さて、幽閉されてから9か月後、倒幕された北条高時の息子時行が逆襲を起こします。

この乱、日本史の中では、非常に大きなターニングポイントとなるメジャーイベントです。

足利尊氏、新田義貞等の武家が北条の鎌倉幕府を滅ぼした、つまり武家が武家を滅ぼすことにより、武家から公家中心の世の中に戻そうとした後醍醐天皇。

井手の沢古戦場
そりゃ、無理がありますということが証明されたイベントとなった訳です。

この乱、意外と上手く行きます。

諏訪湖の諏訪氏から始まった逆襲劇は、鎌倉奪還を目標に快進撃を続け、北条時行は、鎌倉を統括する足利直義を井手の沢(東京都町田市)で破ります。

そして足利軍最後の守りである鶴見の戦い(横浜市鶴見区)に勝ち、時行の逆襲軍は今の東海道を南下して鎌倉奪還を果たすのです。

ただ、北条軍に足りないものが一つあります。

それは奉りあげる皇族です。これが無いと、後醍醐天皇を後ろ盾に持つ足利軍は官軍、自分達は賊軍となってしまいます。

そこで、この乱を起こす時から計画されていたのが、鎌倉に幽閉されている護良親王を皇族として自軍に導き入れ令旨を得て足利氏を撃つという作戦です。
護良親王の首が投げ入れられた林
※後日綺麗に石を置いたのだろう

ただ、こんな計画は当時の常識の範疇ですから、当然足利氏も手は打ちます。

井手の沢の戦いで敗れた足利直義は、逃走する前に、家臣の淵辺義博に、土牢の護良親王を斬首するよう命令します。

9か月間も土牢で足腰立たなくなった護良親王は、それでも余程口惜しかったのでしょう。
切られた首は淵辺義博の袖に喰い付いたまま離さず、その形相は恐ろしいものだったとのことです。

気持ち悪くなった淵辺は、親王の首を土牢脇の林を投げ捨てます。護良親王28歳の若さでした。

この乱は、北条時行が鎌倉を占拠することたった20日間で、征夷大将軍に任命された足利尊氏に鎮圧されました。

足利尊氏は、征夷大将軍の官職を得たことで、室町幕府を開く正当な理由が出来た訳です。

また、鎌倉に入った足利尊氏は、論功恩賞を勝手に行い、朝廷の権威失墜を印象付け、建武の新政は、この乱によって失敗に終わったと言えるでしょう。

5.雛鶴姫

さて、林に投げ捨てられた哀れな護良親王の首はどうなったのでしょうか?

ここで、雛鶴姫という姫が登場します。護良親王の側室です。

彼女が、林に捨てられた親王の首を拾い、鎌倉を脱出するのです。

この姫は逆襲軍である北条時行らと、着かず離れず共に行動します。既に護良親王脱出計画を、彼女は知っていて、行動していたのです。

右のマップを見てください。井手の沢の戦い、鶴見の戦いに勝利した北条軍は、今の東海道に当たる街道を使い鎌倉へ向かって南下します。黒い矢印のルートです。

井手の沢の戦いの翌日、護良親王は斬首されていますので、鶴見の戦いの頃には、その噂が北条軍の近くに居る雛鶴姫の耳にも届きます。

彼女は組織された北条の救援隊と離れても、急ぎ、鎌倉入りを果たします。

右図の青い矢印です。多分1日遅れ位で鎌倉の林に捨ててある親王の首を発見したのでしょう。

もしかしたら噂だけで生きているかも知れないという一縷の望みは、血だらけの首を抱いた瞬間、脆くも崩れ去ったのです。

無我夢中で、首を抱き、足利兵が残る鎌倉を脱出し、北条軍と一緒に南下している親王救援隊と落ち合うことに全力を掛けました。

落ち合えたのが、ちょうど、鎌倉街道と東海道(現国道1号線)がクロスする位置だったのです。そこに首洗い井戸はあります。辻褄が合います。
首洗い井戸周辺に残る
旧鎌倉道

鎌倉から約10kmの位置にあるこの場所で、やっと姫は親王の首を洗うことができたのでした。

この距離を無我夢中で鎌倉から逃げてきたのでしょう。大変だったと思います。

首洗い井戸の周辺には、旧鎌倉街道の名残が右の写真のように残っています。

6.その後

マイナーな首洗い井戸までの、歴史的経緯を書いていても、こんなにメジャーな歴史の数々が出てくるのですから不思議です。まるで首洗い井戸が語れと言っているような気がします。

さて、この首洗い井戸の場所で、従者と落ち合い、親王の首を洗った雛鶴姫が次にどういう行動に出たか。諸説ありますが、一番有力とされているのが、京都(または雛鶴姫出身の奈良の十津川)へ、親王の首と一緒に帰ろうとしたというものです。

彼女は、護良親王の子供を孕んでいたのです。

親王の首の変遷については、シリーズ3作目に話を譲りますが、この首洗い井戸の近くに「王子神社」という護良親王を祀った神社があります。(右写真)

一説には、井戸で洗った親王の首を、この場所に埋め、神社を作ったというものです。

まあ、普通に考えれば、生首持って歩くのは嫌ですから、この神社に埋まっているとも考えられます。

ただ、ブログの1作目に出てきた復元した親王の首や、雛鶴姫伝説が山梨県の石船神社あたりにあることから、やはり、そちらに持って行ったのではないかと考え、調査します。

現地調査を踏まえ、レポートしたいと思います。
王子神社にて

【護良親王土牢】鎌倉市二階堂154 鎌倉宮内

土曜日

首洗井戸① ~護良親王の逃亡劇~

彼是40年以上昔のことになりますが、当時私は入学したばかりの小学校に2~3km歩いて通っていました。

その途中に、鬱蒼とした森の脇を小川が流れている場所がありました。日中もジメジメとした暗い場所に石碑と井形に石が組まれた枯れ井戸があり、石碑には「首洗井戸」と書いてありました。

①首洗い井戸石碑
学校の行き帰り、皆で「あそこで昔、武士の切った首が血で汚れているから洗ったんだって。怖いね。」と話をしながら、通学したのを覚えております。

同時に、当時会社員だった親父が、帰宅すると「もう首を切られる!」と(冗談で)言うので、昔も今も大人は間違いを犯すと首を切られるのだ、自分は大人でなくて良かった。間違いなら毎日沢山犯すから。とも思ったものです。
それから40年後の自分の方が毎日犯す間違いの量は多いのではないかと...^_^;

さて、閑話休題。

今回、その首洗い井戸に行ってみましたので、報告します。(写真①

1.首洗井戸

この井戸は護良親王の首を洗ったと言い伝えられる井戸です。流石に通学していた小学校1,2年生の頃は、名前までは知りませんでしたが。

護良親王は、建武の新政で活躍した皇子です。
建武の新政と言えば、後醍醐天皇ですが、護良親王はその皇子に当ります。

楠正成や足利尊氏、新田義貞らと、当時の鎌倉幕府を倒した功労者の一人です。これから、このシリーズで少しづつ、この皇子についてお話していきたいと思います。
この井戸の周囲の環境は40年前と劇的に変わってしまいました。冒頭書いた鬱蒼とした森は全て開拓され、新しく綺麗な住宅街に変わっていました。
②首洗い井戸本体

山を切り崩したのでしょうか。横を流れていた小川も消失して、明るい住宅街の三叉路にある石碑のようになっていました。(写真①参照

ただ、石碑は裏に廻ってみると昭和45年建立とあるので、私が通学していた頃に目にしていた石碑はこれなのでしょう。また確かに井戸もこのようなものだったと記憶しております。(写真②

周囲には大変綺麗なバラを沢山庭に咲かせているお宅もあり、私が小学生の頃の原風景は、この場所にはありませんでした。

2.護良親王の首

高々、40年程度前の環境の違いで驚いている私ですが、ここで首を洗ったのは700年前です。ところが、なんとその時洗った首があるのです。

③洗った首
右の写真です。(写真③
700年前とは思えない生々しさですね。

小学生の頃、この写真を見ていたら、怖くて首洗井戸の脇を通っての通学なんて出来ませんでしたよ。

では、どうしてこの親王の首は、ここで洗われたのか、またどうしてそんな形となって現存するのか、その辺りを想像も交えながら、調査を進めました。

3.護良親王とは

先程も申し上げたように、護良親王は、建武の新政で、大活躍した皇子です。

日本の有史以来の皇室で、これほどアクティブに時の権力に挑んで行った皇子も珍しいです。

日本の皇室は、西洋の王様が軍を引き連れて勇猛に戦うのに比べると、どちらかというと御簾の奥から顔も出さずに、裏から人事を動かし、政権維持をするというイメージが強いと思います。

ただ、この護良親王は、西洋の王子、スターウォーズで言えば、ルークスカイウォーカー的なキャラクターでした。

彼としては、武士の世の中ということで、権威失墜した皇室を復興するという歴史的な偉業を、自分達皇族が引っ張っていくという意識が強かったのでしょう。
④護良親王と雛鶴姫

兎に角、八面六臂の活躍で、鎌倉幕府を倒し、天皇主権の理想を一時的ではありますが、打ち建てたヒーローなのです。(絵④

そんなヒーローが、何故マイナーな、横浜市戸塚区の首洗井戸と関係したのでしょうか。

4.護良親王の活躍

さて、鎌倉幕府を倒して武士の世を終わらせ、平安時代のような天皇家に主権を奪回しようとする建武の新政の立役者、後醍醐天皇も、当初の倒幕計画は順風満帆どころか、失敗の連続でした。

京都の笠置山で挙兵するも、あっという間に落城、同時に天皇の支援要請で、挙兵していた楠正成も、大阪の千早城が落城して行方不明と、反乱軍は鎮圧の一途を辿っていました。

護良親王は、当時20代前半で比叡山の天台座主、今で言うと一流企業経営者というようなポジションでした。マーク・ザッカーバーグも顔負けな若手です。

ところが経文を勉強するよりは、比叡山にて武芸を磨いていたというのだから、相当の変わり者と周囲は見ていたでしょう。

というかそういう我儘が許されたのも、落ちぶれていたとは言え、流石は天皇家という感じがします。

⑤後醍醐天皇
彼は、父、後醍醐天皇が捉えられたと知り、一計を持って救出作戦を展開します。

後醍醐天皇の寵臣を、影武者として、移動可能な御簾の中に入れ、「ほれ、天皇健在!討幕軍は決起せよ!」とばかりに旗揚げしますと、また反幕府軍が集結してきます。このドサクサに紛れて、後醍醐天皇は京都を脱出する計画です。(絵⑤

6千にまで増えたこの反乱軍、一時は幕府軍を撃退しました。流石親王!

ところが大失態を犯しました。移動式御簾が風に煽られ、御簾の中の人物が後醍醐天皇ではないことがバレてしまいました。

「ウソつき!」と罵倒されたかどうかは分かりませんが、反乱軍は大混乱、幕府軍も再起して、あっという間に護良親王は幕府軍に追われる運命になりました。

5.般若寺での逃避行

さて、護良親王は、奈良のコスモスで有名な般若寺という場所まで逃げて来ました。(写真⑥

幕府軍も、今回の首謀者であり、かつ今後の倒幕の主力となるであろう、護良親王を捕まえようと懸命に追いかけて来ます。
⑥般若寺

ここで護良親王は、巧みな心理作戦で、ピンチを切り抜ける有名な話がありますので、ご存じの方多いでしょうが、改めてご紹介します。戦前の尋常小学校の教科書に載っていた話です。私も小3で読みました。

寺に逃げ込んて、辺りを見回した護良親王は、隠れるものがあまり無い伽藍等にがっかりします。

「これまでか!」と言ったかどうかは定かではありませんが、その時、伽藍の隅っこにある3つの経櫃が目に入りました。(写真⑦

2つの経櫃は、しっかりと蓋がしてありましたが、1つだけ蓋が開け放してあり、中の経文が見えています。

「よし!」

と言って、親王は、わざと蓋がしていない経櫃の中に飛び込み、経文を頭から被り、隠れます。

直ぐに追手数人が、この伽藍に飛び込み、仏像の隙間やら仏具入れ等に、親王が居ないか探し回り始めました。

案の定、3つの経櫃も見つかります。

追手は、当然蓋のしてある2つの経櫃を開け、中を調査します。

「見えないなあ!」

と言って、経櫃を元に戻すと、伽藍を出て行って寺の他の場所を探し回り始めました。

逃げる側の心理として、蓋の空いた経櫃に潜むとは考えづらく、経文をかき分け捜査するのは時間の無駄と考えたようです。

さすが親王頭良いです!

⑦経櫃
親王はそれで有頂天になるような軽薄な人物ではなく、彼らが他の場所を探している間に、既に捜査済みの蓋のしてある経櫃に入りなおします。

これも予期した通り、暫くすると追手の一部は、この伽藍に戻ってきて、先ほどの蓋の空いていた方の経櫃も、中の経文を取り出して調べ始めました。

「やっぱり、見えないなあ」 
「やはり、この寺に逃げ込んだのでは無かったのかもしれない。先を急ごう!」

ということで、親王のこの所作が、追手をこの寺を諦めさせる締めの一手となりました。

ただ、この逸話、実は元々経櫃3つとも蓋がされていて、その中の一つに身を潜まそうとしたようです。

親王が、体を櫃の中に入れ、余った経文を自分の上に掛けていたら、自分の体の分だけ経文の嵩が高くなり、蓋が閉まらない。

「うーん、うん」と蓋を閉めようと頑張っていたのですが、追手が来て時間切れになったので、仕方無く蓋を開いたままにした と考えるのが自然のようです。

それが後にこのような言い伝えになったのでしょう。

さて、この後、後醍醐天皇は、幕府によって隠岐の島に流されますが、大脱出します。

反乱軍を組織し、鎌倉幕府から天皇の追討に向かった足利高氏(後、尊氏)を寝返らせ、鎌倉幕府の京都派出所である六波羅探題の攻略に成功します。

さらに、東国で挙兵した新田義貞が、鎌倉幕府を陥落させるという、スターウォーズ張りの、大スペクタクルが展開されるのです。

この後、護良親王がどうなるのか、シリーズ②で書きたいと思います。

【首洗井戸】横浜市戸塚区柏尾町1042−16