マイナー・史跡巡り: 日本三悪人② ~失意の道鏡~

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日本三悪人② ~失意の道鏡~

①道鏡終焉の地 下野の国の風景
(龍興寺からの景色)
日本三悪人として、前回は平将門(まさかど)をご紹介しました。(ご笑覧頂ける方はこちらをクリック

将門は悪人ではないという事を書きましたが、もう1人の悪人とされる道鏡(どうきょう)についてはどうでしょうか?

ということで、今回は、将門から約200年遡る、8世紀中頃、奈良時代における道鏡の栄枯盛衰についてお話したいと思います。(写真①)

1.孝謙(こうけん)天皇

奈良時代等、いにしえの日本では、女性の天皇は頻出します。有名なのは推古天皇。聖徳太子を摂政につけた女帝ですね。今迄全部で7人の女帝がいらっしゃるようですが、最後から2番目(と言っても1300年近くも昔ですが)、それが孝謙天皇です。(絵②)

以後850年間もの間(次は最後で江戸時代)女帝はいません。

父は、あの東大寺の大仏建造に深く関与した聖武天皇。息子が居なかったのですね。後を継いだ女帝は、色々な権力闘争に藤原仲麻呂(後に恵美押勝(えみおしかつ))と組んで、これを抑えます。そのお蔭で藤原仲麻呂は、どんどん権力を持つようになります。
②孝謙天皇

ところが、この藤原仲麻呂にとって大きな政敵が現れます。それが今回の主人公、道鏡です。

2.道鏡

孝謙天皇は、母である光明皇太后が病気となってしまったため、淳仁天皇に譲位し、自分は上皇に退位しました。

しかし、これも良くある話ですが、この孝謙上皇、陰の権力者として影響力を保持しようとします。いや、するのです。

当然、時の淳仁天皇とぶつかります。(図③)

この時、恵美押勝の名を淳仁天皇から拝命した藤原仲麻呂は、既に天皇の片腕として権勢を振るっていますが、彼の対抗者として孝謙天皇が用意したのが道鏡です。

道鏡は、孝謙上皇が、病に伏せった時に、献身的に看病した高僧で、この時以来、孝謙上皇から寵愛されるようになりました。(絵④)

一部の俗物的な説では、「道鏡は、座ると膝が三つでき。」の歌に代表されるように、凄く大きかったので気に入られたとか(笑)。

江戸時代にはそのような説はわんさか出てきているようですし、かなり危ない浮世絵等もあるようですが、ちょっと悪乗りし過ぎの感もあります。
③孝謙派と淳仁派の対立構図

兎に角、図③の政治的な対立構造は、このような経緯で出来上がりました。

3.恵美押勝の乱

一発触発の導火線に火を付けたのが、恵美押勝の乱です。そうです。藤原仲麻呂こと恵美押勝は、新興勢力である道鏡の台頭によって、少々焦りを感じたのでしょう。軍事力を持って政権奪取を図ろうとしたのです。

764年、恵美押勝は、都の兵役を司る役職を天皇から与えられました。
軍事力が手に入ると、図③の均衡を打ち破りたくなる欲望が鎌首を持ち上げます。

早速、彼はこの役職を使い、作戦を開始します。

まず、20名の兵士を平城京に集めて軍事演習をする恒例行事があるのですが、この時は、この数を大幅に上回る600人を集めます。

そして、この兵力でクーデターを起しました。
将門の時もそうでしたが、この時も権力の象徴である印鑑の争奪戦が始まったのです。

太政官印(行政執行関連)鈴印(軍事発動関係)等、皇権に必要な印を奪取します。

④道鏡
ところが、孝謙上皇も負けていません。

まず、淳仁天皇を軟禁します。そして孝謙上皇は改名して称徳天皇と、天皇に復権します。つまり、淳仁天皇の実権を剥奪するのです。
(※孝謙上皇は、この時点で称徳天皇と改名しましたが、紛らわしいので、孝謙天皇で話は続けます。)

そして、次にスパイ大作戦宜しく、印鑑奪取にスパイを送り込み、鈴印を取り戻すことに成功します。
取り返すと即、恵美押勝討伐の軍事権発動をします。

恵美押勝は慌てます。後ろ盾の淳仁天皇も居なければ、軍事権も無いので、朝敵にされてしまうのです。

彼も再度鈴印を奪おうと、スパイを孝謙天皇の元に送り込みますが、そんな事は予測済みの孝謙天皇側は、2度もスパイを弓で射て殺し、水も漏らさぬ鉄壁の構え。

恵美押勝側は、平城京から逃げ出し、途中、残りの印鑑である太政官印で、盛んに各地に号令を出しますが、孝謙天皇は、諸国に太政官印のある文書を信用しないように通達し、かつ恵美押勝を討ち取った者に厚い恩賞を約束するのです。

孝謙天皇側の軍は、ついに琵琶湖周辺の城に立て籠もる恵美押勝軍を破り、湖上に逃げようとした恵美押勝を斬捨てます。

あっという間に、恵美押勝を破滅に追いやった孝謙天皇、あまりの鮮やかさに、この乱は恵美押勝が仕掛けたように見えますが、実は道鏡の入知恵で孝謙天皇が裏仕掛けをしていたのではないかとの説もあります。

⑤藤原恵美押勝(仲麻呂)
道鏡の絵(絵④)と恵美押勝(絵⑤)を比較してみてください。後世の人が書いたものですから、根拠にならないかもしれませんが、やはり恵美押勝の方がやられちゃう感じのする顔つきをしていませんか?

4.宇佐八幡宮事件

さて、孝謙天皇からの寵愛を受け、恵美押勝の乱により政敵も駆逐した道鏡は、2年後の766年、僧としての最高位である法王に就いています。

この法王、実は今まで皇族しかなったことが無く、道鏡のような一般人から成るのは初めてのことでした。

この道鏡の破竹の勢いに、宮中は、道鏡の躍進が、まだ続くことを予感していました。

2年後の768年、豊前国(大分県)にある宇佐八幡から「道鏡を天皇に!」との神託が伝えられます。(写真⑥)

孝謙天皇は大喜び。しかし、道鏡は顔色一つ変えず、いつもの精力的な形相をしつつも、慇懃な態度で、神託を拝聴しています。

しかし、宮中は、先に述べたように、これはまたしても裏で手を引く道鏡の謀略ではないかと皆疑っているのです。

先に述べた道鏡が恵美押勝の乱の裏首謀者という噂以外にも、乱の時軟禁した淳仁天皇は、解放するもその後変死、道鏡のライバルらの位階剥奪と、道鏡が出世するために邪魔となる要素は全て排除されており、宮中は数々の道鏡陰謀説で持ち切りでした。

また、この神託を持って来たのは、道鏡の弟なのです。怪しすぎます(笑)。

「その神託、ちょっと待った!」と宮中の誰かが叫び出そうとします。
と、その瞬間、道鏡がすかさず孝謙天皇の前に進み出て、提言します。

⑥宇佐八幡宮(大分県)
「恐れながら、この神託には不可思議に思われる点もございます。調査のために宇佐八幡へ人を遣わしては如何でしょうか?」

宮中ざわつきます。一番怪しいと思う本人が調査せいとはどういうことか?

一瞬喜んだ孝謙天皇も、これには驚いた顔をしましたが、直ぐに冷静に

「それでは、和気広虫(ひろむし)に調べさせましょう。」

和気広虫は、孝謙天皇が道鏡の次にお気に入りの女官で、30年も孝謙天皇に仕え、また孤児院を開設するほどの人格者でした。

しかし、広虫は高齢であり、体調不良を理由に遠国大分県までの調査を弟の清麻呂にさせたいと孝謙天皇に願い出て、受け入れられます。

さて、調査から帰ってきた和気清麻呂は言います。

「ご神託は、天皇は皇族が継いでいくもの。一般人の道鏡は、早々に除くがよかろうということでした。」

⑦和気清麻呂像
※竹橋駅の改築工事のため
像も工事中です。
和気清麻呂は、この報告をしたことの実績を皇室に高く評価され、現在、皇居前に銅像として建てられているのです。(写真⑦)

これを聞いて孝謙天皇は激怒します。和気清麻呂は鳥取県に左遷。更に実は清麻呂の調査結果が虚言だと分かると、更に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と悪名に改名させ、調査に行った大分県よりも更に遠い、鹿児島県へ左遷し直します。

5.失意の道鏡

どうやら、この問題、道鏡側、反道鏡側の偽証合戦だったようで、疑心暗鬼になった孝謙天皇は、後継者は自分が決めると言い出します。

つまり、この時まだ孝謙天皇は、道鏡に天皇を譲るつもりがあったのかも知れません。
道鏡もその野望を諦めていませんでした。

ところが、この事件の2年後の770年に孝謙天皇は体調を崩し、平城京で亡くなるのです。
この時、急な容体悪化だったせいで、道鏡も宮中人も居ない寂しい最期でした。52歳です。

残念なことに、最期まで孝謙天皇の口から、「後継者は道鏡に・・・」という言葉が出てくることはありませんでした。

孝謙天皇の死後、後ろ盾を失った道鏡は、急転直下。当時の政敵らが推して皇位に就いた光仁天皇により下野(しもつけ)(栃木)へ左遷させられます。(写真⑧、写真①も参照)

彼が左遷された下野の龍興寺は、日本三戒壇とされる、仏教布教の当時にあっては、官製の立派な寺ではありました。但し、彼は別当という、まあ今の会社で言う処の相談役みたいな役職で、寺院経営を担う役割でもありません。

⑧龍興寺(栃木県)
しかし彼は従容として、この下野行きを受け入れます。

相当な失意だったと思います。それが原因かどうかは分かりませんが、彼はそれからたった2年後の772年に、この下野の国で亡くなるのです。(写真⑨)享年72歳でした。

埋葬についても、当時の貴人としての扱いではなく、一般人として扱われたようです。

6.おわりに

さて、どうして道鏡は、神託について自分から「調査させましょう」と言ったのでしょうか?

これも諸説ありますが、一番有力なのは、和気清麻呂を、昇進をエサに懐柔する見込みだったのが失敗したというものです。

しかし、そうだとすると、これだけの陰謀術策をクリアーしている道鏡にしては脇が甘すぎると感じませんか?

そこで、これはあくまで一部の説なのですが、この神託の件については、孝謙天皇も一枚加わっているというものがあります。

つまり道鏡と孝謙天皇で一芝居して見せ、調査のための指名は、和気広虫にと事前に示し合せていたのです。

⑨道鏡の墓(龍興寺境内)
その話を事前に聞かされていた広虫は、先に述べた通り、孤児院を開く等、誠実な人柄であったことから悩みます。ただ、30年お世話をしてきた孝謙天皇を裏切るのも心痛みます。

彼女は考え抜いた挙句、弟の清麻呂に背景を教えずに任せるのです。

これは、孝謙天皇や道鏡の計算外でした。更に広虫は孝謙天皇に弟を調査させたいとの奏上の中で、「清麻呂には私から良く言ってあります。」と。

なので、道鏡も懐柔はするものの、深くはしなくて大丈夫と思ったのでしょう。

和気清麻呂も、恵美押勝の乱では、藤原恵美押勝の強引な政治手法に反発し、早くから孝謙天皇側についた一人でした。ところが、流石に道鏡の強引さにも嫌気がさしていたようです。

それで、偽証に対して、偽証で返すのです。

道鏡亡き後、彼は政界復帰を果たし、朝廷に重用され、平安京遷都等でも活躍します。

しかし、度胸ありますね。道鏡の陰謀で殺されるかもしれないのに。
皇室もその勇気を褒めたたえ、銅像を建てたのでしょう。

孝謙天皇が絡んでいるのではないかというこの説は、道鏡の罪が下野への左遷だけでは軽すぎるということが根拠になっています。

しかし、和気清麻呂も偽証で返しています。更には孝謙天皇の後継として光仁天皇を立てる時も、道鏡の政敵が「孝謙天皇の遺言として」と、これまた偽証で進めたとの説があります。

偽証を偽証で塗り固める嘘だらけ(笑)。
今の政治のはしりがここにあり、学ぶべきことは多いような気がします。

また、上皇と天皇の大掛かりな確執の事例が、この時から始まったことを考えると、やはり最近の「退位」をめぐる特例法案も、これらの過去の事例等を、専門家だけでなく、私たちも良く認識の上、進めなければいけないと思いませんか?

⑩龍興寺境内のシラカシ
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

最後に、従容として、この下野行きを受け入れた道鏡についてです。

彼の下向は失意に満ちていたと考えられますが、きっと元法王のプライドとして、少しも表に出さなかったことでしょう。

このように強い道鏡のイメージには相変わらず、容赦なく下ネタ的なエピソードが付けられているのです。特に日光の「金精峠」という有名な峠の名前は、道鏡が下向の途中、この峠を通る時、あんまり重いので切り捨てたことが由来となっています。

そんな伝説があると聞くだけで、日本三悪人の1人とされている道鏡も、後世の日本人はそれ程悪人という感覚で捉えていないような気がします。

道鏡が、騙し合いの政争から離れ、孝謙天皇への供養を、この龍興寺でじっくり出来たことが、彼の生涯の一番の宝となったことでしょう。

そして心安らかに、この下野の国で眠られたのだろうと、境内のシラカシの木を見て想いました。(写真⑩)

ご精読ありがとうございました。

【和気清麻呂像】東京都千代田区大手町1丁目4清麻呂公園内
【龍興寺】栃木県下野市薬師寺1416