①太田道灌 |
これにより、早雲から見て、上杉家中にあった最大の脅威は去りました。哀れ道灌は定正の部下に暗殺されてしまったのです。(絵①)
今回は、この続きからです。
1.長尾景春、再び・・・(長享の乱)
この道灌排除の活動を通じ、早雲と扇谷上杉当主とは奇妙な連帯感が発生しました。
また、そこまで早雲が予期して行動していたかどうか分かりませんが、両上杉家の力関係にも変化が生じていたのです。(図②参照)
山内上杉家は、元々本家なので、強大なパワーを持っていました。しかし、今回の長尾景春の乱以降、この家のNo.2の景春が離反し、各地の豪族もこぞって景春を支援したことから、勢力はガタ落ちです。
一方の扇谷上杉家は、No.2の太田道灌が景春の反乱軍鎮圧に活躍したことで、豪族等の信頼度が高まり、勢力は拡大します。
その結果、両家ほぼ対等なレベルとなったのです。
②上杉両家の構造(再掲) |
山内上杉家と扇谷上杉家は、これが原因で対立します。これを長享(ちょうきょう)の乱と言います。
それまでは、本家と分家は格の差が大きすぎたので、表立った対立は避けて来たのですが、対等となれば話は別です。
両家は泥沼の戦いである長享の乱を1487年~1505年の18年間にかけて行うのです。
詳細は色々とあり過ぎるので、ここでは描きません(笑)。
ただ、山内上杉家は前回も出て来た長尾景春が築城した「鉢形城」、扇谷上杉家は「河越城」を本拠として、今の埼玉県の北西周辺を中心に戦い続けるのです。(写真③)
③扇谷上杉家の河越城(川越城) |
また長尾景春も、景春の乱失敗による失踪後も、秩父の山に隠れ生き長らえ、早雲とは連絡を取り続けます。
そしてこの長享の乱でも、多分、早雲からの支援要請もあったのでしょう。北関東から参戦して、山内上杉家を攪乱します。
2.早雲の小田原城乗っ取りの真相
ただ、扇谷上杉家も早雲や長尾景春の支援があるからと言って、この乱の期間中、ずっと優勢に立っていた訳では無く、人望が篤かった太田道灌を排除したことから、離反する武将も多く、山内上杉家より劣勢に立たされる場面もありました。
逆に、山内上杉家は、鉢形城から北側、特に上野国(群馬県)や、更にその北側になる越後(新潟)の国人の支援もあって、徐々に盛り返して来るのです。
そして、1496年には、なんと埼玉県以北でばかりの戦いをしていた山内上杉軍が、扇谷上杉家が強い相模国(神奈川)へ侵出しており、扇谷上杉側の武将、大森氏が守る小田原城をも落としています。(写真④)
④小田原城 |
更に相模国の諸城を山内上杉家が落としていくのです。
扇谷上杉家はかなりの劣勢に立たされました。
一方、このピンチに見える事態を、早雲は、自身のチャンスにも変えてしまいます。
扇谷上杉家に彼は言います。
相模国の諸城を山内上杉家から奪還するために、まず、最初の一歩として小田原城を奪還します。
そして、奪還した小田原城を他の諸城攻略の足掛かりにしたいので、これを早雲の管理する城として下さい。
扇谷上杉家は、これを承諾します。
そしてここで、本当に小田原城を山内上杉側から奪還し、ここを足掛かりに、相模国の諸城を山内上杉家から奪還して廻るのです。
これは今までの通説、扇谷上杉側の大森氏から小田原城を奪う話と随分違います。
今迄の通説では、小田原城の背後の箱根山に、早雲の領地である伊豆方面から逃げた鹿を追いかける形で勢子を入れておき、夜中に牛の角に松明を付けて箱根山から大軍が押し寄せるように見せかけて、小田原城に居る大森氏を慌てふためかせて、城を乗っ取るという話が有名です。しかし、近年これは創作なのではないかとされています。(写真⑤)
真相は、扇谷上杉家の窮状に付け込み、早雲に相模国の一部を割譲する形にしてしまったという事が、近年分かって来たようです。(大森氏が山内上杉家側に寝返ったため、これを早雲が打ち破ったという説もあります。)
⑤小田原駅前の早雲像も松明を角に付けた 牛たちと一緒の小田原城攻め説を表している |
3.権現山城
このように、山内上杉家も扇谷上杉家も、小田原城の攻防の後も、取った取られたの一進一退が続いたようですが、最後、2家は同盟を結びます。ある意味、彼らにとっては、内紛であった今回の乱。実は、これを利用して、もっと両上杉家の力を削ぎたかったのは、早雲なのです。
なので、上杉家に争乱が無くなると、早雲は関東攻略の次なる手として、相模国から武蔵国へ影響力のある扇谷上杉家へ仕掛けざるを得ないと考えます。
ただ、太田道灌の排除を企図した頃から、今回の乱終結の今まで、非常に仲良くやって来たように早雲が見せかけた扇谷上杉家。それにより小田原城も割譲して貰ったのですから、短兵急に、波風を立てるより、もう少し扇谷上杉を利用したいと早雲は考えます。また、下手をすると伊勢原から三浦半島一帯という相模国の有力者、三浦道寸らが扇谷上杉を支援する可能性があり、その場合早雲は扇谷上杉と三浦氏に挟撃されてしまうという具体的なリスクもあります。
そこで策士早雲は、太田道灌亡き後の扇谷上杉家のNo.2である上田正忠(まさただ)をなんとか調略し、扇谷上杉に対し離反させる方策を考えます。
先の山内上杉家のNo.2である長尾景春を味方に付ける時もそうですが、早雲は、流石戦国武将のはしりと言われるだけの知力がありますね。
⑥権現山城址と東海道線等の線路 |
早雲が何故上田正忠を調略したのか。上杉家のNo.2なら誰でも良いという訳ではありません。
写真⑥を見て分かるように、現在でも権現山城の直ぐ横を東海道線等の主要大動脈である鉄道が沢山走っています。これらの線路の上りの行きつく先は東京駅、つまり江戸城です。この当時江戸城を牛耳っているのは扇谷上杉家です。
では、地図⑦を見て下さい。
この権現山城を早雲側が奪取することが出来れば、主力部隊を江戸城に置いている扇谷上杉軍と、鎌倉にある司令塔・扇谷上杉屋敷との連携を断つことができます。
⑦早雲の相模攻略時における主要城配置 |
また、三浦半島に居城を置く三浦一族と江戸城の上杉軍との連携も阻害することが出来るのです。
つまり、先に述べた上杉軍と三浦一族の挟撃に会うことを防ぐ役割を、この城に担ってもらうのです。
言い換えれば、対江戸城(その後ろの河越城も)の抑えの城として、この権現山城は使えるのです。
更に、拙著Blog「神奈川台場 ~横浜港の誕生秘話~」(ここをクリック)でも書きましたが、この頃からこの権現山城は良港として名高い「神奈川湊」を城下に持ちますので、当時伊豆半島に勢力を持っていた早雲の水軍による物資補給や兵の補充、または敗戦時の伊豆への脱出等、神奈川湊の利用も含め、価値の高い城なのです。
ここまで早雲は読んだので、この城主である上田正忠を調略したという訳です。
余談ですが、写真⑥の権現山城、この当時はもっと高い山で、また城郭もかなり大きかったようです。Blogにも書きましたが、幕末に神奈川台場を造るために、この城址を削ったので、かなり低く、小さな城址になってしまったのです。
4.権現山合戦
⑧権現山合戦図 |
前回のBlogで、太田道灌によって小机城を取られた矢野兵庫助(ひょうごのすけ)を覚えていらっしゃいますか?
小机城と権現山城は6㎞程度しか離れておらず、当時この城間を「飯田道」(現県道12号線)というほぼ直線の道で結んでいたため、太田道灌に小机城を攻められると、矢野兵庫助らはこの権現山城に退避していたのです。
勿論、長尾景春の乱が終わると扇谷上杉氏の赦しを得て、矢野兵庫助は、また小机城主に返り咲いていました。
扇谷上杉氏は、この矢野兵庫助に至急権現山城を囲むよう下知すると同時に、この緊急事態打開のために、和睦したばかりの山内上杉家に対して、共通の敵として早雲と戦って欲しいと依頼します。
⑨突撃して暴れる間宮氏 |
予想よりも早い上杉側の行動により、権現山合戦、わずか9日間で両上杉軍に鎮圧されてしまいます
鎮圧直前に、城主上田氏の活路を開けるためか、一人の勇将が城から飛び出し、「神奈川の住人、間宮の何某」と叫びながら攻め手の陣中に突撃してきました。(絵⑨)
彼は、以前Blog「三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~」(ここをクリック)で取り上げた後の北条一族の重臣間宮の先祖であり、更には江戸時代の間宮林蔵の先祖なのです。この間宮氏については、次回以降別途調査結果をご報告します。
この間宮氏ら勇将の落城直前の敵突破のお蔭で、城主の上田氏らはなんとか生き延びたようです。消息は不明となりますが、子孫は、後に北条氏康により武蔵国松山城主(埼玉県吉見町)とされていますから、間宮氏ら共々生き延びたのではないでしょうか?
いずれにせよ、権現山合戦は両上杉軍の大勝利。早雲の戦略は失敗となったように見えます。
5.玉縄城の構築
⑩早雲の相模国侵攻戦略変更 |
これは私の推測ですが、早雲はこの権現山合戦の敗北を想定内と考えていたのではないかという気がします。
というのは、そもそも早雲は先のBlogに描きましたように、駿河に居るころから上杉氏を倒し関東に覇を立てるつもりだったと思うのです。
山内・扇谷2家の上杉当主のつまらないプライドを上手く刺激するのです。
最初は長尾景春に乱を起こさせ、これの鎮圧で重要な役割を果たした忠臣の太田道灌を扇谷上杉氏を刺激して排除。
この乱と道灌暗殺により、2家の実力が落ちながらも伯仲してきたところで、両家のつまらない意地の張り合いをしていることを上手く利用し、長享の乱を起させる。
そして、長享の乱では、成り行き上扇谷上杉家の支援に廻り、山内上杉家と戦い、その力を削いでいく。
早雲は、別に上杉であれば山内も扇谷も無いのです。両家とも力を弱め、早雲らが関東に覇を立てられれば良いのですから。
それが端的に現れたのが、この権現山合戦です。長享の乱が終り、両家が和睦した後、この上杉家の力を弱めるには、目の前の扇谷上杉にも牙を剥くしかないという状況だったのでしょう。あわよくばバックに早雲が居ると気付かれずに、また単なるNo.2の反乱と思って欲しいと考え、上田氏をけしかけたのでしょう。
⑪玉縄城址付近にある龍宝寺玉縄北条氏の菩提寺 |
また、上杉家がどれ程弱体化しているのかを、この権現山合戦で推し量ろうとしたのではないかと思います。彼は長享の乱が長引き、両家が消耗し続けるのが理想だったのですが、終わってしまった以上、どれ位の実力になっているかを測定しておく必要があったのです。
その結果、この敗北によって、やはり早雲が正面切って戦いを挑むには、まだ時期尚早という結論を得たのです。
負けることも予測していた。ということは、負けたらどういう筋書きで相模国・武蔵国へ侵出しようと考えていたのでしょうか?
地図⑩を見て下さい。やはり腐っても鯛の上杉家にはまだまだ歯が立ちそうにないことが、この戦でハッキリしたので、早雲は次善策として用意してあった三浦一族を先に攻めることとします。
⑫玉縄城ジオラマ(龍宝寺蔵) |
権現山等、現在の横浜市範疇は上杉家の力が強いことが判明したので、この勢力から多少逃れられる場所、玉縄(たまなわ:現 大船駅)に城を築く(新築ではなく改築)ことにしたのです。(写真⑪、⑫)
そして、ターゲットを上杉氏から三浦一族に切換え、現在の三浦半島は油壷(あぶらつぼ)にある新井城にて三浦一族を殲滅させるのです。(写真⑬、⑭)
6.おわりに
いかがでしたでしょうか?
早雲と三浦一族の長・三浦道寸との死闘については、また別途三浦一族シリーズ第2弾 戦国編として、調査し描いて行きたいと考えています。
※既に同名の鎌倉編はあります(笑)。
⑬新井城 |
既に有識者の方々からはお叱り(?)を受けておりますが、戦国時代に入る直前の関東・東海地域における政治・勢力模様は、ここに描かれたものより何十倍も複雑です。
あえて足利公方やら堀越公方、茶々丸等を登場させず、長享の乱に出て来る太田道灌の親戚筋や子孫、更には両上杉家の関係者、それらをバッサバッサと切って、ストーリーにのみ集中しやすいように描いたつもりです。
それはこのBlogが、お読みになられた方に歴史知識の習得を企図したものではなく、少しでも史跡にまつわる過去にあった出来事が印象に残るようにしたいと思うからです。
⑭新井城の一角は現在油壷マリンパークとなっている |
まさに早雲はそのような人物だと想い、彼の思考を私なりに想像しながら、このシリーズを、史跡調査を基にしつつ描きました。
この後の、上杉家と北条家の死闘の続きは、是非拙著Blog「北条五代記① ~高縄原の戦い~」(ここをクリック)に引き継がれますので、ご笑覧頂ければ幸いです。
長文お付き合い頂き、どうもありがとうございました。
【河越城】 埼玉県川越市郭町2丁目27
【小田原城】神奈川県小田原市城内
【権現山城】神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷5
【玉縄城】神奈川県鎌倉市植木48−3
【新井城】神奈川県三浦市三崎町小網代1024