マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~ -->

土曜日

荒木村重② ~石山本願寺~

①有岡城址(本丸)
前回(ここをクリック)から描き始めました荒木村重、話が段々黒田官兵衛にシフトしていってます。大河ドラマや吉川英治の原作「黒田如水」にひっぱられていますかね(笑)。

これらの話では、有岡城(写真①)に監禁された黒田官兵衛の話にばかり焦点が当たっていました。

しかし、城の外では何が起こっていたのか。それらを荒木村重はどのように分析をしていたのか。今回から順次それらを調べながら描いていきたいと思います。

お付き合いください。

1.石山本願寺

勿論、荒木村重が信長に無策で謀反の狼煙を上げた訳ではありません。ではどのように戦況が有利に働くと考えていたのでしょうか?

地図②を見てください。これは伊丹荒木軍記に記されている軍略地図です。
②伊丹荒木軍記掲載の地図
この地図上、四角枠で囲った地名等は荒木村重にとって重要な軍事拠点のようです。

ど真ん中に、有岡城のある伊丹、その直下に尼崎、西(左)へ行くと六甲山らしき薄墨の下に「花隈」。この3拠点の城を中心に対・信長軍への備えを万全にしている荒木村重ですが、彼が期待するものがこの地図の一番右下に記載されています。

そう「石山本願寺」です。(地図②では右から左へ「石山寺大坂」と書かれています。)
③戦国時代当時の石山本願寺想像図

ご存じのように当時、石山本願寺が建っていた場所に、後に秀吉が大阪城を建てました。まるで城郭のような縄張りを持つ大寺院です。全国に衆徒を集めた一向宗の総本山なのです。
石山本願寺の当時の想像図を絵③に示します。

周囲を濠に囲まれているように見えますが、これは当時の淀川系である木津川の流れを上手く使っていたようです。つまり、木津川を大阪湾から船で遡り、この寺まで物資を輸送することが可能だったようです。

◆ ◇ ◆ ◇

話が逸れますが、どうしてここを石山寺というのでしょうか?
一説には、本願寺を建立しようと土地を掘り返していたら、そのまま礎石になりそうな大きな石がゴロゴロと出てきたからというものがあります。

何故、礎石になりそうな大きな石が出て来たのでしょうか?

大阪の方は良くご存知でしょうが、この石山本願寺跡のある大阪城の南側、堀を渡ったところに難波宮跡があります。(写真④
④石山本願寺跡は難波宮跡地に建った?
大化の改新頃にあったとされる難波宮跡は、近年(1950年代後半)になって発見されました。それまでは伝説の宮だった訳なのです。意外と最近なのですね。本当に。

つまり、本願寺を建てた時に、ゴロゴロ出て来たのは、この難波宮の一部の礎石だったのですが、当時は宮がここにあったとは、当然知らず「なんでこんな大きな石ばかりでるんやろ?」と思ったに違いありません。なので「石山」(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇

話しを戻します。一向宗の総本山石山本願寺。一向宗といえば一揆ですよね。一向一揆。

一向一揆は信長だけでなく、家康など各地の武将たちが悩まされた、大きな対抗勢力になったのは有名です。伊勢長島一向一揆、三河の一向一揆、他にも北陸方面(越前、越中、加賀等)や畿内にもあります。これらのは全て一向宗の農民らが中心になって起こしており、その精神的拠所がこの石山本願寺なのです。信長はこれら増長した一向一揆の元凶が石山本願寺と断じ、これをぶっ潰したいと常々思っていたのです。

そこで、明智光秀らと石山本願寺を攻めます。(地図⑤参照)

ところが、石山本願寺は紀伊の根来(ねごろ)寺の根来衆、雑賀衆とも結託しております。この雑賀衆、大量の鉄砲を所持すると同時に、鉄砲技術にも長けていた集団です。これらの支援にも信長軍は悩まされるのです。

更に、石山本願寺には強力なパトロン戦国武将が付いていたのです。

2.天王寺合戦

そう、それは西の中国地方の毛利氏です。勿論、毛利輝元(てるもと)は当初、荒木軍を含む羽柴秀吉軍と交戦中なので、石山本願寺に援軍を簡単に出せるはずもありません。

しかし、瀬戸内海の制海権は当時、毛利氏が握っていたのです。瀬戸内海といえば有名な村上水軍と共に、瀬戸内海に面したところであれば、水軍を使って軍を派遣することは訳はないのです。

地図⑤を見てください。これは1576年の7月、俗にいう天王寺合戦と第一次木津川口海戦の状況をプロットしたものです。(地図⑤
⑤天王寺合戦と第一次木津川海戦の概略図

有岡城で荒木村重が信長に反旗を翻したのが1578年7月ですから、2年前の出来事ですね。


信長は、石山本願寺を明智光秀に包囲させます。光秀は頭の良い武将でしたから、石山本願寺の物資等の補給基地となっている木津川の河口を陸路から攻め、ここを落して石山本願寺への供給を断とうとします。

⑥石山本願寺 顕如
ここで石山本願寺の住職・顕如(けんにょ:絵⑥)は、根来寺の根来衆、雑賀衆等に援軍を頼むと同時に、陸路では、西方面は当時はまだ信長配下である荒木村重が守る3つの城(有岡城、尼崎城、花隈城)が鉄壁の構えであるため、海路による毛利・村上水軍の支援を要請します。

石山本願寺・根来・雑賀連合軍1万余が明智光秀軍数千へ猛反撃します。

寡兵の光秀は天王寺の砦に立て籠もるしかない状況にまで追い込まれます。

この時、光秀のピンチを聞いた信長は全軍に陣触れ(兵を出してくれとの依頼)を出しますが、兵が揃うのを待っていては明智軍は全滅してしまうとの危機感に駆られ、真っ先に3,000のみの兵を率いて天王寺に駆け付け、砦を囲んでいる石山本願寺連合軍1万5千を突き破るのです。

明智光秀のために命を惜しまない信長なのですね。なのに本能寺の変・・・( ;∀;)。

◆ ◇ ◆ ◇

砦内で合流した信長に光秀は言います。

「殿、よくぞ1万5千の敵包囲を、たった3,000の寡兵で突破してくださいましたね。我々の兵は5,000、合わせて8,000ですが、力を合わせ、殿が陣触れで集めた後続部隊が来るまで、ここで立て籠りたいと思います。」

「光秀、ここを守っていくつもりはない。直ぐに8,000の兵で、この砦を打って出るぞ!」

「へっ?直ぐにですか?そんな無茶な。今度こそ敵1万5千の兵にやられてしまう!」

と躊躇する光秀の意向を無視して、疲れを知らない信長は即、今突破してきたばかりの敵の包囲陣へと、砦から再び打って出るのです。

◆ ◇ ◆ ◇

驚いたのは光秀だけではありません。敵・石山本願寺連合軍もです。
光秀と同様に、敵・信長軍は天王寺の砦に立て籠もるのだろうと考えていたのです。3,000の寡兵でなんとか砦に飛び込むことに成功した信長軍は、陣触れで後から万は集まる味方の到着まで、この砦で踏ん張るのだろうと考えるのが普通です。

⑦花隈城天守台
ここから狼煙を上げれば当時は大阪湾の
奥の九鬼水軍にも見えたことでしょう
そこが信長の奇想天外なところですね。砦を打って出る戦法によって石山本願寺連合軍はたじろぎます。信長軍のように戦闘専門集団ではなく、坊主、傭兵、一揆農民、更には根来衆・雑賀衆等の連合です。思いもよらぬ信長軍の逆襲が、この連合軍を石山本願寺内にまでに退却させてしまうのです。

◆ ◇ ◆ ◇

その後、信長は付け城を3か所も設置し、石山本願寺の包囲網を完璧なものとします。完全な形勢逆転です。

更に補給基地である木津川口には、九鬼嘉隆(くき よしたか)率いる九鬼水軍を本拠である伊勢志摩から300艘の軍船を回航させ、警戒に当たらせます。

3.第一次木津川海戦

信長軍の完全な包囲網の中の石山本願寺は飢え始めます。住職・顕如はかねてからの約定どおり、毛利輝元へ毛利・村上水軍による兵糧及び弾薬等の搬送を要請します。

輝元は顕如からの情報で、九鬼水軍の船数が300艘であることを知ったので、自分達はそれの2倍、600艘からなる水軍を迅速に編成します。
そして石山本願寺へ向かわせるのです。(地図⑤参照)

⑧木津川河口付近(あべのハルカスから撮影)
遠方に明石海峡に架かる明石大橋も見えます
ただ、600艘の大船団、明石海峡沖を悠々と通過してくると、この当時はまだ信長軍であった荒木村重配下の花隈城が直ぐに察知します。花隈城から馬を飛ばして石山本願寺を包囲している信長軍や木津川河口沖を海上封鎖している九鬼水軍に伝えていたのでは遅すぎます。伝わる頃には九鬼水軍との交戦が始まってしまいます。

村重配下の花隈城は、勿論早馬も出しますが、狼煙(のろし)による緊急連絡を行います。九鬼水軍へ毛利・村上水軍の来襲とその船団規模の報告を火薬の調合による狼煙の色種別で行うのです。(写真⑦

と同時に、有岡城に居る荒木村重にも「敵・毛利・村上水軍来襲!」の報を早馬にて伝えます。(こちらは陸路・地形上も花隈城の狼煙は良く見えません。)
この報を聞くと、村重は内陸の有岡城では状況把握が難しいことから、木津川河口も良く見える尼崎城へ移ります。



一方、この花隈城の狼煙を見た九鬼嘉隆は焦ります。なんと自分達が持っている軍船300の2倍もの船団です。海上戦は山岳戦等と違って完全に見通しの利く海という平場での戦になるため、軍船の数で勝敗が決まるといっても過言ではありません。あとは上手く潮の流れを使う方法しかありませんが、残念ながら、この日の大阪湾は鏡のように静かな海で、そんな干満の差による潮の流れなどは期待できそうにありません。(写真⑧

とりあえず木津川河口に船団を集め、海に流れ込む川の流れに乗り、敵・水軍の主導船である安宅船(あたけぶね)に集中的に漕ぎよせ白兵戦でこれを落す。これにより、敵・船団全体の統率能力を奪い混乱させるという作戦で行くことにしました。(写真⑨

⑨村上水軍の安宅船
そうこうするうちに、毛利・村上水軍が木津川沖に現れました。

迎撃の体制が出来ている九鬼水軍は、かねてからの作戦通り、「それーっ」とばかりに敵の安宅船目掛けて漕ぎ寄せます。当時、安宅船が戦艦だとすると、巡洋艦級は関船(せきふね)、駆逐艦は小早(こはや、「小型の早船」から来ている)という軽量クラスの船がありました。

九鬼嘉隆は、これら比較的高速な関船・小早を駆使し、火矢を構えて敵の安宅船に近づいて行きます。火矢が届くところまで近づき、射こむと、安宅船内がそれらの消火に慌てふためき、安宅船からの攻撃が手薄になるはずです。。そうしたら関船・小早を横づけして乗り込み、白兵戦でこれらの船を奪うという戦い方です。

当時の海賊のノーマルな戦い方ですね。
⑩焙烙玉

ところが、毛利・村上水軍は実は紀州の雑賀衆・根来衆から鉄砲を大量に仕入れていました。なので船上や櫓を出す舷側の穴(写真⑨参照)から、バンバン鉄砲を撃ってきます。これは敵わんとして中々安宅船に近づけない九鬼水軍。

そのうち驚くべきことが起きました。

バチバチバチと音を立てながら黒い玉(野球ボールより少し大きい)が飛んで来て九鬼水軍の小早の甲板に落ちて来たかと思うと、その瞬間

ドッカーン

と音がして小早の上にいた人間は全て消え失せました。そして船は勢いよく燃え上がっています。

「な、なんじゃあ?」

見る間に次々に黒い玉が、九鬼水軍の船上に飛んで来ては、ドッカン、ドッカンと破裂音がし、船は大きく燃え上がり、火矢の比ではありません。

この兵器、焙烙玉(ほうろくだま)と言います。絵⑩にありますように、黒い玉の中は火薬と鉛玉で出来ており、火薬が爆発すると中の鉛玉が飛び散り、殺傷能力が高いと同時に焼夷性もあるものです。鎌倉時代の元寇の時に日本人が初めて見た火薬兵器「てつはう」にヒントを得て、瀬戸内海の水軍の間に広まった兵器なのです。後に改良されて近代では手榴弾にまで発展した兵器ですね。

驚いたのは伊勢志摩の九鬼水軍。噂くらいは聞いていたでしょうが、実戦で見るのは初めてです。

「ち、近づくな!安宅船に近づくな!」

と九鬼嘉隆は下知をしますが、毛利・村上水軍は安宅船だけでなく、関船・小早にも積んでいる焙烙玉を次々に九鬼水軍の軍船に投げ込み炎上させます。九鬼水軍はタダでさえ半分の船数しかありませんので、あっという間に壊滅的な状況に追い込まれます。

九鬼水軍は散り散りになって堺や尼崎の港に逃げて行きます。

反対に殆ど無傷の毛利・村上水軍、悠々と木津川河口から川を遡り、石山本願寺へ兵糧や鉄砲、弾薬等の供給を果たすのです。

◆ ◇ ◆ ◇

この戦の一部始終を尼崎城から見ていた漢(おとこ)がいます。

荒木村重です。

4.荒木村重が期待したこと

この海戦が行われたのが、荒木村重が織田信長に謀反を起す2年前の事です。
この後、羽柴秀吉の三木城攻めに参加していた荒木村重が突如謀反を起すのです。

さて、荒木村重が謀反を起した理由を改めて考えてみたいと思います。

勿論、摂津国の国人たちの反信長に対する圧に負けたとか、信長の部下に対する苛酷な態度にあった等、やはり信長の人格に対する反発のような事ばかりが取り上げられます。しかし、今だ真相は分かっていません。

明智光秀の謀反と同様に怨恨説が強く言われるようにも感じます。

勿論、そう云った要素があることは否定できませんが、荒木村重一個人の感情だけで動くわけにはいかないのは組織の長として当然でしょう。

やはり荒木村重にも冷静に情勢を分析して身(というか家)の処し方を決める必要があったのです。

改めて地図⑤を見て下さい。赤字または橙文字反・信長軍青字信長軍です。

前章まで描いてきた胸のすくような海戦での勝利。圧倒的な瀬戸内海の制海権を持つ毛利・村上水軍に、摂津の荒木村重の3つの城が味方ついて橙文字になれば、毛利は石山本願寺等と組み、海・陸の両面から信長をいとも容易(たやす)く摂津・大坂から駆除できるだろう。

その証拠を海戦でまざまざと見せて貰った!と村重が考えてもおかしくないですね。(写真⑪

そして村重は今回の海戦のように花隈城や尼崎城に毛利・村上水軍が船団を横づけして、兵や兵器を大量に荒木軍へ支援し、また三木城への供給も花隈城経由でしっかりおこなえば、信長軍を摂津国から一掃できる。

また、勢いのある毛利氏だけでなく、石山本願寺や雑賀衆・根来衆、伊賀をはじめとする全国の一向一揆等、信長包囲網にて信長は滅びる運命なのだろう。

荒木村重はそう期待したに違いありません。
⑪摂津国からの大阪湾(現代)
ところが・・・

◆ ◇ ◆ ◇

「そうか、出来たか!」

と嬉しそうな信長。これに対して九鬼嘉隆は言います。

「はい、苦節2年、先の海戦の雪辱を果たしてみせまする!」

◆ ◇ ◆ ◇

続きは次回・・・

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【有岡城】〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
【石山本願寺跡】〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【難波宮跡】〒540-0006 大阪府大阪市中央区法円坂1丁目6
【尼崎城(大物城)跡】〒660-0823 兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6
【花隈城】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4
【三木城】〒673-0432 兵庫県三木市上の丸町5