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日曜日

荒木村重④ ~九鬼水軍~

前回は、九鬼嘉隆らが7隻の鉄甲船を造船し、大阪湾の制海権を奪回すべく、まずは紀淡海峡にて雑賀水軍500隻を圧勝後、堺へ寄港するところまでを描きました。(ここをクリック)(絵①)
①九鬼水軍・鉄甲船イメージ

そして荒木村重が有岡城で信長に反旗を翻してから4か月後の1578年11月、石山本願寺から兵糧を含む物資供給の要請を再び受けた毛利水軍は、大阪湾の木津川沖で警戒に当たる九鬼水軍に襲い掛かります。(絵②)

今回はここからお話をしたいと思います。お付き合いください。

1.第二次木津川口海戦の謎

今回も前回と同様に600艘の水軍で毛利氏は大阪湾へ突入します。(絵②)
前回の毛利水軍と違うのは、村上水軍がいない、若しくは影が薄いのです。

この時の戦の様子が、「信長公記」に以下の記述として残っています。

②石山本願寺に向かう木津川口6か所を
鉄甲船で夫々守った?(古地図上に追画)
紺:九鬼水軍
緑:毛利水軍
「敵船を間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを、大鉄炮を以て打ち崩し 侯へば、是れに恐れて、中中寄り付かず、数百艘を木津浦へ追上、見物の者ども、九鬼右馬允手柄なりと、感ぜぬはなかりけり」

《意訳》
毛利水軍の舟をなるべく鉄甲船の近くまで引き付けて、(船団の行動を差配している)敵将が乗っていると思われる舟を、大筒(大砲)を持って打ち壊した。すると毛利水軍は鉄甲船に恐れをなして中々寄り付かず、数百艘が鉄甲船により、木津浦へ追い上げられていった。
この戦を見ていた人々は九鬼嘉隆の手柄と(その鮮やかな手腕)に感動しない者は居なかった。

まあ、当然と言えば当然なのでしょうが、九鬼水軍の鉄甲船の大勝利といったところでしょうか?

ただ、「信長公記」は当然信長寄りの記録となっていますので、大勝利と断定するのも信長軍側の見方ではあります。

一方、この海戦について、実は毛利水軍の勝利と見る説も浮上してきています。

石山本願寺側の武将、下間頼廉(しもつま らいれん)書状に

「諸警固一昨日六日至木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

という記述があります。訳すと「この11月6日に木津浦に着岸できた。当寺(石山本願寺)はこのことを大いに慶(よろこ)んだ」ということなのです。

どういうことでしょうか?

どうやら、毛利水軍が当初企図した通り、兵糧等の石山本願寺への舟による供給は成功したようなのです。この辺り、色々な史料にちょっとずつしか書かれていないため、諸説紛々なのですが、以下のように想定をまとめてみました。

2.考える毛利輝元
③毛利輝元

時を、鉄甲船が雑賀水軍500隻を圧勝後、堺へ寄港している時まで戻します。

堺に停泊中の7隻の鉄甲船の噂は、瞬く間に近畿一帯に広がります。

「おいっ、鉄でできた船やそうや!」
「どないして鉄が海に浮かぶんかの?」
「よう分からん。えらい頑丈やさかい、鉄砲や矢を弾くんやて!」

これを謀反を起こしたばかりの荒木村重が放っておく訳がありません。

鉄甲船に係わる情報は、信長から鞍替えした毛利への良い手土産となります。尼崎から堺は半日もあれば着く距離です。

彼は堺へ探索方を出します。そして鉄甲船を一般公開している時に、詳細に観察した報告を安芸の毛利水軍に提供するのです。

船の大きさ、装置、雑賀水軍を打ち破った戦い方等、堺で仕入れた情報を毛利輝元へとシェアします。(絵③)

◆ ◇ ◆ ◇

一方、石山本願寺ですが、雑賀水軍が負けたことで大阪湾の制海権が九鬼水軍に戻ってしまい、またもや兵糧搬入の危機に立たされるのではないかとの危惧が募ります。

石山本願寺住職・顕如は直ぐに毛利家当主・輝元のところへ使いを送り、兵糧搬入と、大阪湾の制海権再奪取を依頼します。(絵③)

うーむ!

これらの情報を基に毛利輝元は考えます。

正直彼にとって鉄の船だの、大筒を持って木端微塵にするなどは大した話ではないのです。むしろ、それほどまでに金を投入して信長が欲しい大阪湾の制海権とはなんなのだろうか?

荒木村重をはじめとする摂津の国人たちの謀反。信長が制海権など握っても摂津国が離反すれば、石山本願寺に陸路からでも兵糧どころか兵も毛利や荒木村重から送ることができる。荒木村重支配下の尼崎城から石山本願寺は目と鼻の先。村重もまだ信長に離反したばかりで、国内の体制を固めるのに忙しく、直ぐには石山本願寺と連携して信長を挟撃するほどの余裕はないのだろう。

とすれば今、喫緊の課題である石山本願寺の兵糧欠乏さえ解消できれば、村重が立ち上がってくるので、大阪湾の制海権を持つか持たぬか等大した問題ではない。新しいもの、南蛮もの好きな信長の虚栄心を満たす大きな鉄甲船等、まともに相手にする方が損だ。あくまで今回の毛利水軍出動は石山本願寺への兵糧供給に目的を絞ろう と。

3.第2次木津川口海戦の詳細(想定)

④第2次木津川口海戦 開始時
安芸(現在の広島)を出航した毛利水軍の600艘の舟、前回と違うのは安宅船等比較的大きな船を持つ村上水軍に支援を頼まなかったこと、これにより比較的小さな、しかしながら小回りの利く舟で、毛利水軍の制海権の境目である明石海峡を越えて、九鬼水軍の守る大阪湾へ入ります。

600艘は3つの船団に分けてあります。(図④参照)

11月6日朝8時頃、この日の大阪湾は朝霧が立ち込めています。前回は明石海峡を通過する時点で荒木村重の花隈城からの「敵襲!」を知らせる狼煙があがったのですが、今回は既に荒木村重は信長を裏切っていますので、なんら連絡はありません。

木津川口を守る鉄甲船の目の前に、朝霧の中から毛利水軍が急に出現するのです。まだ船団の全容もつかめないまま、九鬼水軍は威嚇射撃を始めます。(図④)

距離があるので、大筒による砲撃は大部分水面に落下します。毛利水軍にもっと近づいて砲撃しようと7隻の鉄甲船が前進し出した途端、毛利水軍の第1陣は大阪湾を南下し始めます。

「すわ!堺を攻撃するつもりか!」

と九鬼水軍は鉄甲船を全力で漕ぎ毛利水軍の第1陣の後を追います。船体が小さな毛利水軍と違い、図体のデカい鉄甲船は初動が遅いため毛利水軍から引き離されていくのです。

⑤第2次木津川口海戦 後半戦
これは不味いとばかりにガレ―船のように懸命に漕ぐ九鬼水軍。

ところが、先に南下を始めた毛利水軍の第1陣は途中で舟先を反転し、東西に鶴翼のように広がります。九鬼水軍は重い船ですから、毛利水軍のように急には止まれず、毛利水軍第1陣の懐深くに入って行きます。(図⑤)

そして、九鬼水軍のすぐ後ろから毛利水軍の第2陣が追い付いてきます。

九鬼水軍は毛利水軍の第1、第2陣の400艘に囲まれ、その囲みの中で接近戦を繰り広げるのです。(図⑤)

接近戦なら鉄甲船の思いのままとばかりに、得意の大筒を至近距離から毛利水軍の軽い舟に打ち込み、次々と木端微塵にしていきます。

毛利水軍も火矢や焙烙玉で応戦しますが、流石、金を掛けただけの鉄甲船、そんなものでは到底歯が立ちません。ただ、舟数では圧倒的に多い毛利水軍、木端微塵にされる舟が続出するも、果敢に舟を鉄甲船に寄せようとします。

さて、この九鬼水軍を木津川の南沖で毛利水軍の第1,2陣が囲っている間に、毛利水軍の第3陣がさっさと木津川口から木津浦伝いに石山本願寺へ兵糧供給を行います。

第1、2陣には兵糧は殆ど積んでおらず、朝霧に紛れて九鬼水軍に戦いを挑んでいる間、兵糧を沢山積んだ毛利水軍第3陣が木津川口から石山本願寺へ兵糧を運ぶ、そういう作戦だったのかもしれません。(図⑤)

ただ、やはり鉄甲船は攻守能力に関しては毛利水軍の舟のはるかに上であることは間違いありません。

その日の午後までに毛利水軍、第1陣・第2陣の400艘は退却します。ただ、これは「信長公記」のいうところの「是れ(大筒)に恐れて、中中寄り付かず、数百艘を木津浦へ追上」だったというより、鉄甲船を引き付けて置いて、兵糧を運ぶ舟の邪魔をさせないための作戦だったかもしれません。

ただ、大阪湾の制海権は、その後も九鬼水軍が握り続けます。

⑥九鬼嘉隆(よしたか)
毛利輝元は、もっと勢力を増すであろう荒木村重ら摂津国の反信長勢力に期待したのでしょう。そうすれば大阪湾の制海権を奪い返さなくても、石山本願寺は尼崎城の目と鼻の先。陸伝いで兵糧の支援等できると踏んだのだと思います。

しかし輝元の目論見は、この後、荒木村重ら摂津の反信長体制が崩壊することで、達成できませんでした。

そして石山本願寺も2年後の1580年、ついに信長に降参するのです。

荒木村重ら摂津の反信長体制の崩壊については、次回のブログで描きたいと思います。

4.その後の九鬼水軍

また脱線しますが、この鉄甲船を持つ九鬼水軍。この後どうなったのでしょうか?
この鉄甲船の活躍が信長に認められ、九鬼嘉隆は3万5千石の大名となります。(絵⑥)

1582年に本能寺の変で信長が死去すると、九鬼水軍は秀吉傘下に入ります。
小牧・長久手の戦いでは家康の三河を海上から攻めたり、小田原攻めの時は、伊豆半島下田の城を落した後、海上から小田原城包囲網に秀吉水軍の棟梁として参戦する等、各地を転戦して回るのです。

そして、九鬼水軍の本領発揮は朝鮮出兵。1592年の文禄・慶長の役で、九鬼嘉隆は初めて大きな日の丸を掲げ、朝鮮へ大水軍で押寄せたのです。(絵⑦)
⑦朝鮮出兵時の九鬼水軍船団
九鬼嘉隆の座船・日本丸を中心に大艦隊だった模様

話飛びますが、私が韓国はソウル市に行った時、ソウル市の一番の目抜き通りに大きく英雄視された像があったことが印象的でした。(写真⑧)

⑧朝鮮出兵時に日本水軍を退けた
とされる李舜臣の像(ソウル市)
ソウル市中心部の一番良い場所に、靖国神社の大村益次郎像のような感じで建っているのですが、じつはこの像、李舜臣(イ・スンシン)という朝鮮水軍の武将で、この朝鮮出兵の時に大活躍し、日本水軍をやっつけたということで、英雄視されているのです。

そう、対戦相手は九鬼嘉隆です。李舜臣は、かなり強力に九鬼水軍と渡り合ったようです。

細かな戦況はここでは省略します。李舜臣が一方的に勝ったわけでは無いようですが、ご存知のように朝鮮出兵自体が最終的には日本が退却をしたことから、日本軍を退けた水軍の棟梁として今でも韓国では絶大な人気なのです。

2014年には映画化もされています。逆を云えば、朝鮮出兵において九鬼嘉隆がいかに重要な役割を果たしていたかの証左のような像が、ここソウル市の中心にあると言っても過言ではないでしょう。

このように、海を挟んでの朝鮮出兵では、まさに日本を代表する水軍の棟梁として九鬼嘉隆は活躍するのです。

この九鬼水軍の絶頂期が終わる頃、九鬼嘉隆は息子の守隆に家督を譲ります。

◆ ◇ ◆ ◇

そして関ヶ原の戦では、真田幸村・昌幸親子が西軍(石田三成)に、東軍(徳川家康)には真田真之がつくことで、どちらが勝っても真田家が存続できるように工夫したのと同様に、九鬼嘉隆は西軍、息子・守隆は東軍につくのです。

勝利した東軍の徳川家康から、九鬼守隆はその功績により、5万6千石まで石高を加増してもらいます。

5.陸に上げられた水軍

徳川家でも日本水軍の中核としての存在意義を高めた九鬼守隆。

ところが、守隆が1632年に亡くなると、その息子の兄弟間で家督争いが発生しました。
これが、お家騒動に発展するのです。江戸幕府の介入を許してしまいました。

ご存知のように江戸幕府の藩行政への介入というのは非常に厳しく、国替えは勿論のこと、領地召し上げ、お家断絶等は当たり前。特に幕府は、この頃こそ諸藩の勢力を弱めるのに懸命な時でしたから、九鬼家も例外ではないと噂されていました。

➈三田市にある三田御池
(Googleマップから)
ところが国替えはされたものの、兄は3万石、弟は2万6千石を別々に与えられたため、九鬼家総石高はなんと5万6千石に留め置かれたのです。

なんとラッキーな!と思いたくなりますが、そこは江戸幕府、抜かりはありません。

一番の仕置きは、兄は三田藩(現在:兵庫県三田市)、弟は綾部藩(現在:京都府綾部市)という藩の場所です。

なんとこの二藩両方とも海に面していません。そう、合計石高は変わりませんが、九鬼水軍から海を取り上げたのです。一番大事なものを!

ご存知のように、江戸幕府は鎖国政策を徹底すると同時に、30m以上の大型の造船を禁じました。おかげで先の鉄甲船を造っていた頃であれば、欧州の造船技術と遜色の無いレベルだったものが、この鎖国と造船規制によって日本の造船レベルは急速に低下していきます。

⑩九鬼水軍最後の海?・三田御池
四囲が海で囲まれているからこそ、発展させれば大英帝国のようになれたかもしれない日本は、その四囲が海に囲まれてるからこそ鎖国し、海外からの船も一部の国から、しかも長崎だけという入りを制御すると同時に、国内からの出も造船規制等で制御したのです。

そうなると一番面倒くさい存在が九鬼水軍です。なので江戸幕府はお家騒動に付け込んで、まんまと九鬼水軍を解体に追い込んだ訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

三田市には、三田御池と呼ばれる池があります。(地図➈、写真⑩)

地図➈を見て頂ければ分かると思いますが、三田城(現・三田小学校)という九鬼氏のお城の手前に池があります。これが三田御池ですが、この池で、三田藩は昔の九鬼水軍の魂を忘れないようにと、水軍演習を怠らなかったようです。とても水軍としての演習ができる規模の大きさの池ではなく、ある意味九鬼水軍の悲哀を感じます。

6.鬼は内、福は内

さて一世を風靡した九鬼水軍ですが、江戸幕府の鎖国政策という時代の流れには逆らえませんでした。

歴史に「もし」は禁句ですが、もし信長が生きていれば、前回も書いたように、彼は交易が生み出す富というものの経済哲学を持っている先見性がありました。

きっと天下布武で国内を纏め上げたなら、秀吉が明という大国に攻め入るようなことはせず、マカオ、マニラ、バンコク等、それこそ東南アジアの有力な貿易都市に侵出し、当時の世界的な(ヨーロッパ的な?)潮流である植民地政策の初期に日本も自然に参画出来ていたかもしれません。

その時にこそ、九鬼水軍の鉄甲船が大活躍していたのでしょう。

◆ ◇ ◆ ◇

⑪三田の豆撒きは今も「鬼は内」
神戸新聞の今年の節分の記事から
(記事はここをクリック)
九鬼家は、節分の時に「鬼は内、福は内」と豆まきをすると、まだ歴史を知らない小学生の頃、ふくろうの本で読んだことがあります。九鬼という姓だけに「鬼は外」とは言えなかったのでしょう。

もしかしたら、九鬼家は「鬼は内」で、徳川幕府という鬼を内に入れてしまったかもしれませんね。それでも江戸時代の230年間、三田藩、綾部藩として途中断絶や国替えも無く九鬼家として続いたのですからやはり「福は内」でもあった訳です。

さて、荒木村重のシリーズ、信長への謀反の話から、かなり脱線してしまいました(笑)。次はまた有岡城(伊丹市)へ話を戻したいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

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【石山本願寺跡】〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【李舜臣の像(ソウル)172 Sejong-daero, Sejongno, Jongno-gu, Seoul, 韓国
【三田御池】〒669-1532 兵庫県三田市屋敷町5

土曜日

荒木村重③ ~鉄甲船~

荒木村重が織田信長に謀反を起こす2年前の出来事について、前回は描きました。(ここをクリック
①第一次木津川口海戦イメージ

石山本願寺・雑賀衆・根来寺や毛利家・村上水軍らの連合軍と戦う織田信長、これらの戦いを尼崎の地から望見していた荒木村重は何を感じたのでしょうか。(絵①)

やはり、この瀬戸内海の制海権を握る者の優位性、摂津国はこの優位者に付くべきではないのか。

その考え方が、荒木村重の織田信長離反を促したと考えてもおかしくはないのだろうという論考を書きました。

そして、1578年7月、荒木村重は有岡城で織田信長に対する謀反の狼煙を上げるのです。
本シリーズ 荒木村重①を参照

今回、この謀反の頃を前回と同じ制海権争奪戦という視点で描いていきたいと思います。
お付き合いください。

1.木津川口海戦の分析

前回の海戦で圧倒的な強さを見せた毛利・村上水軍。荒木村重はそれらを見て「信長おそるるに足らず」「やはりこれからは水軍だ!毛利氏には勝てない」と思ったかもしれません。勢いってやつですね。これも一因で2年後の1578年7月に伊丹・有岡城で信長への謀反を起こすのです。

一方、信長らは、今回の海戦の敗因は何かを冷静に分析していました。
②長篠の戦では
火器を有利に使う信長ではあるが
オリジナルは雑賀衆という説がある
当然、2倍近い船数の違いは大きな敗因ですが、それ以上に重視したのが、敵の武器・焙烙玉です。これを抑えない限り、海戦での勝ち目はないのです。

◇ ◆ ◇ ◆

話しが逸れますが、信長は、今までも、毛利・村上水軍の焙烙玉という火器だけでなく、根来寺の根来衆・雑賀衆の鉄砲でも、その高度な活用手法にはかなり影響を受けていました。

後の長篠の戦で、馬柵の後ろに鉄砲射手が3人ずつ組みになり、ローテーションで武田騎馬軍団に鉄砲を撃ちかけることで、通常一発撃ってから次の発射まで30秒以上かかると言われたものを10秒までに短縮。武田騎馬隊は「信長軍が間断無く鉄砲を撃ってきた」ように見えたという鮮やかな鉄砲活用術も、これら根来・雑賀衆にあった手法(つるべ撃ち)を活用したものとの説があります。(絵②)

この時、そもそも3段撃ちは無く、一斉射撃の轟音により馬を驚かした鉄砲活用術だったとの説もあります。もしこの活用術が長篠の戦いで使われていたとしても、これも雑賀衆のオリジナルで次のようなものを応用した可能性が高いです。

鉄砲は弾込めのプロセスで砲身を掃除する作業が結構大変なのです。ただ火薬に点火し轟音だけを出す(つまり弾は飛ばない)のであれば非常に短時間に準備が出来ます。これを上手く使い、空砲含めた一斉射撃で誰が撃っているか分からなくすることで敵をパニックに陥れるという手法です。

今回の焙烙玉対策もそうですが、このように信長は、敵による火器の斬新な活用方法に悩まされ、その対策を考えることで、他の武将より、この火器を誰よりも上手く活用できるようになったのでしょう。

◇ ◆ ◇ ◆

さて、火器の話から派生してしまいましたが、信長は今回は焙烙玉に驚かされた訳ですが、冷静かつシンプルに対策を考えました。

防御:「焙烙玉でも燃えない、壊されない頑丈な船を作る」
攻撃:「焙烙玉を投げて届く距離に船が来る前に、こちらの火器で敵の船を破壊、または延焼させる」

この2点だけです。


2.鉄甲船の建造

結論からお話すると九鬼嘉隆が造ったのは戦艦です。正確には鉄甲船です。

「えっ、黒船が来る300年も前に戦艦が日本で作れたの?」と思われるかもしれませんが、この頃の日本はかなり造船技術も高かったようです。(勿論、黒船のような蒸気機関を持つような船を産業革命前に造るのは無理ですが)
江戸幕府が鎖国政策を取ったこともあり、かなりこの造船技術は廃れていった訳ではありますが。
③大阪湾に現れる九鬼水軍の鉄甲船群

まず、防御に対する対策として、鉄の船であれば焙烙玉が飛んできて、爆発直後に高熱の鉛を飛散させても木材ではないので燃えることはありません。ただ、戦艦大和のように厚さ30cm以上の装甲板が全部鉄のような、魚雷や大砲を考慮する訳ではありませんから、従来の木材の甲板や舷側に鉄の板を張り巡らしたものとなります。

また、攻撃に関しては、焙烙玉が飛んでくる前に、敵の船に穴を空けて浸水させ、船を沈めてしまう戦法をとることとしました。そのための武器を作りました。

と言ってもそんな大層な発想ではありません。従来の鉄砲では小さな穴しか空けることができないので、浸水効率は悪い、じゃあ、従来の鉄砲を大型化しようということなのです。まあ、その発想が後々大砲に繋がるのですが、この当時は大筒といっていました。1隻の舷側あたり3門、計6門の大筒を備えました。

なので、結果的に鉄の甲板と大砲を持つ船、つまり戦艦を作ったという訳です。

3.大阪湾口での海戦
④雑賀水軍 対 九鬼水軍
赤字:毛利側
青字:信長側

この鉄甲船を九鬼義隆は伊勢の本拠地で6隻作ります。長さ22m、幅12mというこの当時としては非常に大きな船でした。
5000人は乗船できたという記録もあります。

ついでに九鬼義隆が伊勢の北畠氏から信長の軍門に入った時の直属上長である滝川一益(かずます)も1隻鉄甲船を建造。

1578年6月26日、計7隻の鉄甲船は伊勢志摩の浦を出航し、大阪湾を目指します。(絵③)

これを察知した石山本願寺。雑賀衆の門徒船を500隻準備し、雑賀沖は紀淡海峡で鉄甲船を迎え撃ちます。(地図④)

前回の海戦で負けている九鬼水軍としては、大軍とはいえ、こんな小舟の群れに負けては、大枚はたいて建造した鉄甲船が泣くというものです。

一方、雑賀水軍も考えます。

「よし、あのデカい船を乗っ取ってやろう!随分重そうな図体しているし、我々小舟のように小回りが利かんだろうから、次々に近づいて雑賀得意の鉄砲つるべ撃ちにし、焙烙玉を甲板に投げ込めば、船上の敵はいなくなるだろう。そうしたら我々の舟を横付けして乗り込み白兵戦で残兵を撫で斬りにして乗っ取ればいい。船数なら圧倒的にこっちが多いのだから。」

船数の多い雑賀水軍は、少数の敵を包み込んで殲滅する鶴翼の陣、九鬼水軍は一点突破に有利な魚鱗の陣の隊形を取り、お互い間合いを詰めていきます。(地図④参照)

◇ ◆ ◇ ◆


⑤村上水軍の焙烙玉
両船団の間合いが1km近くなってくると、雑賀衆は舟上で鉄砲の火縄に火を点けはじめます。300m程度の距離になれば射かけるつもりです。

また村上水軍から分けてもらった焙烙玉(写真⑤)も100m以下の距離になれば九鬼水軍の軍船に投げ込むつもりで、準備を開始していました。その時です。

ドン!、、ドン!、ドン!、、、ドン!、、ドドン!

と立て続けに大きな太鼓を打つような音が響いてきて、雑賀水軍舟の目の前に水柱が数本立ち上がりました。

なんだ?なんだ?

と雑賀衆は驚きます。
と、直ぐ隣の舟が浸水し始め、あっという間に沈んでしまいました。

鉄砲の有効射程距離が300mですが、筒が大きい程長距離飛びますので、九鬼水軍の大筒はそれの2倍の距離600mは飛ぶのです。そのリーチの違いが攻撃の先制の違いとなって現れたのです。

水柱による水しぶきが凄い勢いで降ってきます。

最前列の舟があらかた浸水、航行不能状況に陥っています。後続の舟も上手くそれらの舟の前に出ることが出来ません。
⑥戦闘状態の鉄甲船

そこを狙うがごとく砲弾が飛んできます。

殆ど当たらず、水面に落ちるのですが、それでももう雑賀水軍の舟は水浸しで、焙烙玉に火を点ける余裕はありません。また準備中だった鉄砲の火縄もずぶ濡れで消火してしまいました。

今までは木造船を「焼き払う」戦い方だったのが、鉄甲船に装備された大筒6門の砲弾で「破壊し沈ませる」という新しい戦い方となり、雑賀水軍は驚きます。

歯が立ちません。

そんな大混乱の大阪湾口の雑賀水軍の中から、1,2隻、飛び出して鉄甲船に近づきます。そしてなんとか火を付けられた焙烙玉を投げつけるのですが、鉄甲船は看板からして鉄を貼ってありますので、熱した鉛が飛び散っても火災が発生しません。歯が立ちません。(絵⑥)

こうして雑賀水軍500隻は、九鬼水軍の鉄甲船7隻に、ほぼなす術もなく大阪湾突入を赦してしまうのです。

4.堺での「大船御覧」

紀淡海峡から大阪湾へ入った九鬼水軍は、7月17日に堺へ入港します。
堺は当時、信長配下の港町でした。

堺と信長について少々書きたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

信長は、尾張半国から版図を拡大し、美濃、北伊勢等の中京地域をほぼ制し、他の戦国武将からも一目置かれる存在になりました。(地図⑦)

そんな信長は、足利義昭(よしあき)を伴って上洛。第15代室町幕府将軍(征夷大将軍)に据えます。
⑦信長が欲しがった3都市(緑字)
と版図内の港町(青字)

感激した義昭は、信長に副将軍職や管領(執事)等、幕府としての要職を与えたがりますが、信長は一向に欲しがりません。

義昭は信長に聞きます。

「我が父君(信長のこと、義昭は信長をこう呼んでいた)は無欲じゃのう。一体何が欲しいのじゃ?」
「はっ、さすれば町を3つ程頂きたい。」
「まち?この京の街を欲しいと申すのか?」
「いえいえ、恐れ多くも京は朝廷や将軍の街でございます。私はその周辺の地・堺、大津、草津あたりを頂ければ幸いかと。」
「とはいえ、堺は会合衆(えごうしゅう)という商人どもが共同で納めている自治の町と聞く。ワシが幾ら『下賜する』と言うたところで、これを従えるのは至難の技じゃぞ。」
「下賜するとお言葉だけで十分です。」

◆ ◇ ◆ ◇

この時信長は何を考えていたのでしょうか。勿論、実質主義で天下布武の構想に突き進む信長が、既に形骸化した室町幕府の要職なぞ、貰って益になるどころか却って弊害の多いものを望むわけがありません。


⑧堺市の鉄砲鍛冶屋敷
よく言われる説は、信長が親・信秀の代から引きついだ領国・尾張には津島、熱田等の良港があり、これらの港から上がる利益は国1つ以上の莫大なものでした。当初尾張半国という小さな版図しか持たなかった織田家に、それに不釣り合いな程、軍資金があったのも、これらの良港があったおかげなのです。関東の土地と共に生きる坂東武者等とは違い、彼はこの普通の武者では目に見えない経済論理を貿易という形で体得していて、これが実質的に大きな資金を生み出すとの強い認識を持っているのです。

なので、堺という西日本側に開かれた港を何としても手に入れたい。ついでに言うなら堺は根来衆らが種子島から持ち込んだ鉄砲の製造技術を堺の町で大量生産することに成功したため、鉄砲欲しさにこの堺を欲しがった。大体、この2つの説が堺を信長支配下に置く理由として挙げられています。(写真⑧)

そして、草津・大津は堺ほどではないにせよ、水運による日本の東側への物流拠点なので、ここを制すれば、例えば、東の雄・木曽氏、武田氏、上杉氏等へのけん制となったのではないかという説もあります。

でも、地図⑦を良く見て下さい。私にはどうもこの3都市の配置を見ると、京に対する物流制御の布石のようにも見えるのです。既に信長の版図自体が東側への物流制御を果たせると想定されますので、やはり西の堺、東の草津・大津を抑えて有事の際に京を制御したいという思惑があったのではないかと想像してしまいます。
⑨当時の堺はぐるっと濠で囲まれた
強力な自治都市でした

ただ、堺だけは確かにその要素だけでははく、海外交易と鉄砲という魅力もあったのでしょう。

◆ ◇ ◆ ◇

ということで、信長は軍を引き連れ、堺に出向きます。信長に服従し、その証として矢銭(軍用金のこと)2万貫(約20億円)を払うこと。さもないと町を焼き払うと脅すのです。これが本気であることを会合衆は知っています。というのはちょっと前に、やはり自治都市であった尼崎にも同じ2万貫の矢銭を要求し、払わないとなると焼いたのですね。流石信長です。やる時は徹底してやるのです。

堺の会合衆は、それこそ名前のように会合を開き、この「服従か?抵抗か?」の要求に対し、大勢は「抵抗」を選択するのです。そして町は濠に架かる橋を上げ、櫓には鉄砲を並べ、来る信長軍に備えます。(地図⑨)

ところが、この信長の要求を「服従or抵抗」と捉えず「投資」と捉えた商人がいました。


⑩今井宗久 肖像画
(京都市立芸術大学所蔵)
今井宗久(そうきゅう)です。(絵⑩)

彼は、信長等、将来天下人になる人材に投資することで、将来自分達に利潤が廻ってくるという発想に立つのです。そして2万貫を信長に払うのは「服従」ではなくてあくまで「投資」と考えるのです。

今でこそ当たり前になったこの辺りの経済学的なセンス、当時分かっていたのは信長や秀吉等の天下人となる人物、堺の有力商人の一部くらいですかね。逆に見えないものが見えるからこそ、天下人の器なのかもしれません。

◆ ◇ ◆ ◇

長くなりましたが、話を戻します。

堺は、この鉄甲船にも投資していました。(正確にはさせられていました。)「九鬼兵糧」と称して毎月鉄甲船に掛かる莫大な投資資金を、この堺から出すように信長から指令を受けていたのです。

なので、当然投資案件のお披露目のために、この堺に鉄甲船は入港したのです。

ある意味、堺入港前の雑賀水軍への圧勝は、まさに今井宗久ら堺の商人らに対する良い土産話になったことでしょう。鉄甲船は1か月程度堺の港で「大船御覧」という形で、信長の政界関係者(近衛、細川、一色氏等)や会合衆、一般民衆にまで公開されたようです。


また信長の「総見記」には、この時宗久の屋敷で九鬼嘉隆や信長等を交えた茶会が開催されたとあります。(写真⑪)

この時に信長から九鬼嘉隆と滝川一益らに褒美が下されました。

九鬼嘉隆も面目躍如というところでしょう。

5.毛利水軍との対決


⑪今井宗久の屋敷跡
さて、冒頭にも述べましたが、1578年7月、丁度、九鬼水軍が雑賀水軍と交戦をする頃、荒木村重は信長に反旗を翻したのです。

彼からすれば、2年弱前の1576年11月に毛利・村上水軍が信長・九鬼水軍を鮮やかに破り、大阪湾を含む瀬戸内海の制海権を握った圧倒的な勝利に直ぐに感化されることなく、慎重に様々な要素を検討し悩んだ結果、信長を寝返り、毛利方に着く結論に至ったと思うのです。

もし、九鬼水軍の鉄甲船による勝利を知ったとしたら、どうだったのでしょう?
いや、知っていたのかもしれません。しかし、もう2年にも渡る謀反への思いは、鉄甲船くらいでは変わりようもないフェーズまで行っていたのかもしれません。

そして、荒木村重が謀反を起し、有岡城へ立てこもってから4か月後の1578年11月。

鉄甲船で大阪湾口の警戒に当たっていた九鬼水軍に再び、毛利水軍600隻が襲い掛かります。

長くなりましたので、続きは次回へ。次回はこの鉄甲船が大活躍する第2次木津川合戦について詳しく解説します。
またその後の九鬼一族のについても調査しましたので、是非お楽しみに!

《続く》

ご精読ありがとうございました。

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【鉄砲鍛冶屋敷】〒590-0928 大阪府堺市堺区北旅籠町西1丁3

【今井宗久屋敷跡】〒590-0955 大阪府堺市堺区宿院町東3丁1

荒木村重② ~石山本願寺~

①有岡城址(本丸)
前回(ここをクリック)から描き始めました荒木村重、話が段々黒田官兵衛にシフトしていってます。大河ドラマや吉川英治の原作「黒田如水」にひっぱられていますかね(笑)。

これらの話では、有岡城(写真①)に監禁された黒田官兵衛の話にばかり焦点が当たっていました。

しかし、城の外では何が起こっていたのか。それらを荒木村重はどのように分析をしていたのか。今回から順次それらを調べながら描いていきたいと思います。

お付き合いください。

1.石山本願寺

勿論、荒木村重が信長に無策で謀反の狼煙を上げた訳ではありません。ではどのように戦況が有利に働くと考えていたのでしょうか?

地図②を見てください。これは伊丹荒木軍記に記されている軍略地図です。
②伊丹荒木軍記掲載の地図
この地図上、四角枠で囲った地名等は荒木村重にとって重要な軍事拠点のようです。

ど真ん中に、有岡城のある伊丹、その直下に尼崎、西(左)へ行くと六甲山らしき薄墨の下に「花隈」。この3拠点の城を中心に対・信長軍への備えを万全にしている荒木村重ですが、彼が期待するものがこの地図の一番右下に記載されています。

そう「石山本願寺」です。(地図②では右から左へ「石山寺大坂」と書かれています。)
③戦国時代当時の石山本願寺想像図

ご存じのように当時、石山本願寺が建っていた場所に、後に秀吉が大阪城を建てました。まるで城郭のような縄張りを持つ大寺院です。全国に衆徒を集めた一向宗の総本山なのです。
石山本願寺の当時の想像図を絵③に示します。

周囲を濠に囲まれているように見えますが、これは当時の淀川系である木津川の流れを上手く使っていたようです。つまり、木津川を大阪湾から船で遡り、この寺まで物資を輸送することが可能だったようです。

◆ ◇ ◆ ◇

話が逸れますが、どうしてここを石山寺というのでしょうか?
一説には、本願寺を建立しようと土地を掘り返していたら、そのまま礎石になりそうな大きな石がゴロゴロと出てきたからというものがあります。

何故、礎石になりそうな大きな石が出て来たのでしょうか?

大阪の方は良くご存知でしょうが、この石山本願寺跡のある大阪城の南側、堀を渡ったところに難波宮跡があります。(写真④
④石山本願寺跡は難波宮跡地に建った?
大化の改新頃にあったとされる難波宮跡は、近年(1950年代後半)になって発見されました。それまでは伝説の宮だった訳なのです。意外と最近なのですね。本当に。

つまり、本願寺を建てた時に、ゴロゴロ出て来たのは、この難波宮の一部の礎石だったのですが、当時は宮がここにあったとは、当然知らず「なんでこんな大きな石ばかりでるんやろ?」と思ったに違いありません。なので「石山」(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇

話しを戻します。一向宗の総本山石山本願寺。一向宗といえば一揆ですよね。一向一揆。

一向一揆は信長だけでなく、家康など各地の武将たちが悩まされた、大きな対抗勢力になったのは有名です。伊勢長島一向一揆、三河の一向一揆、他にも北陸方面(越前、越中、加賀等)や畿内にもあります。これらのは全て一向宗の農民らが中心になって起こしており、その精神的拠所がこの石山本願寺なのです。信長はこれら増長した一向一揆の元凶が石山本願寺と断じ、これをぶっ潰したいと常々思っていたのです。

そこで、明智光秀らと石山本願寺を攻めます。(地図⑤参照)

ところが、石山本願寺は紀伊の根来(ねごろ)寺の根来衆、雑賀衆とも結託しております。この雑賀衆、大量の鉄砲を所持すると同時に、鉄砲技術にも長けていた集団です。これらの支援にも信長軍は悩まされるのです。

更に、石山本願寺には強力なパトロン戦国武将が付いていたのです。

2.天王寺合戦

そう、それは西の中国地方の毛利氏です。勿論、毛利輝元(てるもと)は当初、荒木軍を含む羽柴秀吉軍と交戦中なので、石山本願寺に援軍を簡単に出せるはずもありません。

しかし、瀬戸内海の制海権は当時、毛利氏が握っていたのです。瀬戸内海といえば有名な村上水軍と共に、瀬戸内海に面したところであれば、水軍を使って軍を派遣することは訳はないのです。

地図⑤を見てください。これは1576年の7月、俗にいう天王寺合戦と第一次木津川口海戦の状況をプロットしたものです。(地図⑤
⑤天王寺合戦と第一次木津川海戦の概略図

有岡城で荒木村重が信長に反旗を翻したのが1578年7月ですから、2年前の出来事ですね。


信長は、石山本願寺を明智光秀に包囲させます。光秀は頭の良い武将でしたから、石山本願寺の物資等の補給基地となっている木津川の河口を陸路から攻め、ここを落して石山本願寺への供給を断とうとします。

⑥石山本願寺 顕如
ここで石山本願寺の住職・顕如(けんにょ:絵⑥)は、根来寺の根来衆、雑賀衆等に援軍を頼むと同時に、陸路では、西方面は当時はまだ信長配下である荒木村重が守る3つの城(有岡城、尼崎城、花隈城)が鉄壁の構えであるため、海路による毛利・村上水軍の支援を要請します。

石山本願寺・根来・雑賀連合軍1万余が明智光秀軍数千へ猛反撃します。

寡兵の光秀は天王寺の砦に立て籠もるしかない状況にまで追い込まれます。

この時、光秀のピンチを聞いた信長は全軍に陣触れ(兵を出してくれとの依頼)を出しますが、兵が揃うのを待っていては明智軍は全滅してしまうとの危機感に駆られ、真っ先に3,000のみの兵を率いて天王寺に駆け付け、砦を囲んでいる石山本願寺連合軍1万5千を突き破るのです。

明智光秀のために命を惜しまない信長なのですね。なのに本能寺の変・・・( ;∀;)。

◆ ◇ ◆ ◇

砦内で合流した信長に光秀は言います。

「殿、よくぞ1万5千の敵包囲を、たった3,000の寡兵で突破してくださいましたね。我々の兵は5,000、合わせて8,000ですが、力を合わせ、殿が陣触れで集めた後続部隊が来るまで、ここで立て籠りたいと思います。」

「光秀、ここを守っていくつもりはない。直ぐに8,000の兵で、この砦を打って出るぞ!」

「へっ?直ぐにですか?そんな無茶な。今度こそ敵1万5千の兵にやられてしまう!」

と躊躇する光秀の意向を無視して、疲れを知らない信長は即、今突破してきたばかりの敵の包囲陣へと、砦から再び打って出るのです。

◆ ◇ ◆ ◇

驚いたのは光秀だけではありません。敵・石山本願寺連合軍もです。
光秀と同様に、敵・信長軍は天王寺の砦に立て籠もるのだろうと考えていたのです。3,000の寡兵でなんとか砦に飛び込むことに成功した信長軍は、陣触れで後から万は集まる味方の到着まで、この砦で踏ん張るのだろうと考えるのが普通です。

⑦花隈城天守台
ここから狼煙を上げれば当時は大阪湾の
奥の九鬼水軍にも見えたことでしょう
そこが信長の奇想天外なところですね。砦を打って出る戦法によって石山本願寺連合軍はたじろぎます。信長軍のように戦闘専門集団ではなく、坊主、傭兵、一揆農民、更には根来衆・雑賀衆等の連合です。思いもよらぬ信長軍の逆襲が、この連合軍を石山本願寺内にまでに退却させてしまうのです。

◆ ◇ ◆ ◇

その後、信長は付け城を3か所も設置し、石山本願寺の包囲網を完璧なものとします。完全な形勢逆転です。

更に補給基地である木津川口には、九鬼嘉隆(くき よしたか)率いる九鬼水軍を本拠である伊勢志摩から300艘の軍船を回航させ、警戒に当たらせます。

3.第一次木津川海戦

信長軍の完全な包囲網の中の石山本願寺は飢え始めます。住職・顕如はかねてからの約定どおり、毛利輝元へ毛利・村上水軍による兵糧及び弾薬等の搬送を要請します。

輝元は顕如からの情報で、九鬼水軍の船数が300艘であることを知ったので、自分達はそれの2倍、600艘からなる水軍を迅速に編成します。
そして石山本願寺へ向かわせるのです。(地図⑤参照)

⑧木津川河口付近(あべのハルカスから撮影)
遠方に明石海峡に架かる明石大橋も見えます
ただ、600艘の大船団、明石海峡沖を悠々と通過してくると、この当時はまだ信長軍であった荒木村重配下の花隈城が直ぐに察知します。花隈城から馬を飛ばして石山本願寺を包囲している信長軍や木津川河口沖を海上封鎖している九鬼水軍に伝えていたのでは遅すぎます。伝わる頃には九鬼水軍との交戦が始まってしまいます。

村重配下の花隈城は、勿論早馬も出しますが、狼煙(のろし)による緊急連絡を行います。九鬼水軍へ毛利・村上水軍の来襲とその船団規模の報告を火薬の調合による狼煙の色種別で行うのです。(写真⑦

と同時に、有岡城に居る荒木村重にも「敵・毛利・村上水軍来襲!」の報を早馬にて伝えます。(こちらは陸路・地形上も花隈城の狼煙は良く見えません。)
この報を聞くと、村重は内陸の有岡城では状況把握が難しいことから、木津川河口も良く見える尼崎城へ移ります。



一方、この花隈城の狼煙を見た九鬼嘉隆は焦ります。なんと自分達が持っている軍船300の2倍もの船団です。海上戦は山岳戦等と違って完全に見通しの利く海という平場での戦になるため、軍船の数で勝敗が決まるといっても過言ではありません。あとは上手く潮の流れを使う方法しかありませんが、残念ながら、この日の大阪湾は鏡のように静かな海で、そんな干満の差による潮の流れなどは期待できそうにありません。(写真⑧

とりあえず木津川河口に船団を集め、海に流れ込む川の流れに乗り、敵・水軍の主導船である安宅船(あたけぶね)に集中的に漕ぎよせ白兵戦でこれを落す。これにより、敵・船団全体の統率能力を奪い混乱させるという作戦で行くことにしました。(写真⑨

⑨村上水軍の安宅船
そうこうするうちに、毛利・村上水軍が木津川沖に現れました。

迎撃の体制が出来ている九鬼水軍は、かねてからの作戦通り、「それーっ」とばかりに敵の安宅船目掛けて漕ぎ寄せます。当時、安宅船が戦艦だとすると、巡洋艦級は関船(せきふね)、駆逐艦は小早(こはや、「小型の早船」から来ている)という軽量クラスの船がありました。

九鬼嘉隆は、これら比較的高速な関船・小早を駆使し、火矢を構えて敵の安宅船に近づいて行きます。火矢が届くところまで近づき、射こむと、安宅船内がそれらの消火に慌てふためき、安宅船からの攻撃が手薄になるはずです。。そうしたら関船・小早を横づけして乗り込み、白兵戦でこれらの船を奪うという戦い方です。

当時の海賊のノーマルな戦い方ですね。
⑩焙烙玉

ところが、毛利・村上水軍は実は紀州の雑賀衆・根来衆から鉄砲を大量に仕入れていました。なので船上や櫓を出す舷側の穴(写真⑨参照)から、バンバン鉄砲を撃ってきます。これは敵わんとして中々安宅船に近づけない九鬼水軍。

そのうち驚くべきことが起きました。

バチバチバチと音を立てながら黒い玉(野球ボールより少し大きい)が飛んで来て九鬼水軍の小早の甲板に落ちて来たかと思うと、その瞬間

ドッカーン

と音がして小早の上にいた人間は全て消え失せました。そして船は勢いよく燃え上がっています。

「な、なんじゃあ?」

見る間に次々に黒い玉が、九鬼水軍の船上に飛んで来ては、ドッカン、ドッカンと破裂音がし、船は大きく燃え上がり、火矢の比ではありません。

この兵器、焙烙玉(ほうろくだま)と言います。絵⑩にありますように、黒い玉の中は火薬と鉛玉で出来ており、火薬が爆発すると中の鉛玉が飛び散り、殺傷能力が高いと同時に焼夷性もあるものです。鎌倉時代の元寇の時に日本人が初めて見た火薬兵器「てつはう」にヒントを得て、瀬戸内海の水軍の間に広まった兵器なのです。後に改良されて近代では手榴弾にまで発展した兵器ですね。

驚いたのは伊勢志摩の九鬼水軍。噂くらいは聞いていたでしょうが、実戦で見るのは初めてです。

「ち、近づくな!安宅船に近づくな!」

と九鬼嘉隆は下知をしますが、毛利・村上水軍は安宅船だけでなく、関船・小早にも積んでいる焙烙玉を次々に九鬼水軍の軍船に投げ込み炎上させます。九鬼水軍はタダでさえ半分の船数しかありませんので、あっという間に壊滅的な状況に追い込まれます。

九鬼水軍は散り散りになって堺や尼崎の港に逃げて行きます。

反対に殆ど無傷の毛利・村上水軍、悠々と木津川河口から川を遡り、石山本願寺へ兵糧や鉄砲、弾薬等の供給を果たすのです。

◆ ◇ ◆ ◇

この戦の一部始終を尼崎城から見ていた漢(おとこ)がいます。

荒木村重です。

4.荒木村重が期待したこと

この海戦が行われたのが、荒木村重が織田信長に謀反を起す2年前の事です。
この後、羽柴秀吉の三木城攻めに参加していた荒木村重が突如謀反を起すのです。

さて、荒木村重が謀反を起した理由を改めて考えてみたいと思います。

勿論、摂津国の国人たちの反信長に対する圧に負けたとか、信長の部下に対する苛酷な態度にあった等、やはり信長の人格に対する反発のような事ばかりが取り上げられます。しかし、今だ真相は分かっていません。

明智光秀の謀反と同様に怨恨説が強く言われるようにも感じます。

勿論、そう云った要素があることは否定できませんが、荒木村重一個人の感情だけで動くわけにはいかないのは組織の長として当然でしょう。

やはり荒木村重にも冷静に情勢を分析して身(というか家)の処し方を決める必要があったのです。

改めて地図⑤を見て下さい。赤字または橙文字反・信長軍青字信長軍です。

前章まで描いてきた胸のすくような海戦での勝利。圧倒的な瀬戸内海の制海権を持つ毛利・村上水軍に、摂津の荒木村重の3つの城が味方ついて橙文字になれば、毛利は石山本願寺等と組み、海・陸の両面から信長をいとも容易(たやす)く摂津・大坂から駆除できるだろう。

その証拠を海戦でまざまざと見せて貰った!と村重が考えてもおかしくないですね。(写真⑪

そして村重は今回の海戦のように花隈城や尼崎城に毛利・村上水軍が船団を横づけして、兵や兵器を大量に荒木軍へ支援し、また三木城への供給も花隈城経由でしっかりおこなえば、信長軍を摂津国から一掃できる。

また、勢いのある毛利氏だけでなく、石山本願寺や雑賀衆・根来衆、伊賀をはじめとする全国の一向一揆等、信長包囲網にて信長は滅びる運命なのだろう。

荒木村重はそう期待したに違いありません。
⑪摂津国からの大阪湾(現代)
ところが・・・

◆ ◇ ◆ ◇

「そうか、出来たか!」

と嬉しそうな信長。これに対して九鬼嘉隆は言います。

「はい、苦節2年、先の海戦の雪辱を果たしてみせまする!」

◆ ◇ ◆ ◇

続きは次回・・・

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【有岡城】〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
【石山本願寺跡】〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【難波宮跡】〒540-0006 大阪府大阪市中央区法円坂1丁目6
【尼崎城(大物城)跡】〒660-0823 兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6
【花隈城】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4
【三木城】〒673-0432 兵庫県三木市上の丸町5