①九鬼水軍・鉄甲船イメージ |
そして荒木村重が有岡城で信長に反旗を翻してから4か月後の1578年11月、石山本願寺から兵糧を含む物資供給の要請を再び受けた毛利水軍は、大阪湾の木津川沖で警戒に当たる九鬼水軍に襲い掛かります。(絵②)
今回はここからお話をしたいと思います。お付き合いください。
1.第二次木津川口海戦の謎
今回も前回と同様に600艘の水軍で毛利氏は大阪湾へ突入します。(絵②)
前回の毛利水軍と違うのは、村上水軍がいない、若しくは影が薄いのです。
この時の戦の様子が、「信長公記」に以下の記述として残っています。
②石山本願寺に向かう木津川口6か所を 鉄甲船で夫々守った?(古地図上に追画) 紺:九鬼水軍 緑:毛利水軍 |
《意訳》
毛利水軍の舟をなるべく鉄甲船の近くまで引き付けて、(船団の行動を差配している)敵将が乗っていると思われる舟を、大筒(大砲)を持って打ち壊した。すると毛利水軍は鉄甲船に恐れをなして中々寄り付かず、数百艘が鉄甲船により、木津浦へ追い上げられていった。
この戦を見ていた人々は九鬼嘉隆の手柄と(その鮮やかな手腕)に感動しない者は居なかった。
まあ、当然と言えば当然なのでしょうが、九鬼水軍の鉄甲船の大勝利といったところでしょうか?
一方、この海戦について、実は毛利水軍の勝利と見る説も浮上してきています。
石山本願寺側の武将、下間頼廉(しもつま らいれん)書状に
「諸警固一昨日六日至木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
という記述があります。訳すと「この11月6日に木津浦に着岸できた。当寺(石山本願寺)はこのことを大いに慶(よろこ)んだ」ということなのです。
どうやら、毛利水軍が当初企図した通り、兵糧等の石山本願寺への舟による供給は成功したようなのです。この辺り、色々な史料にちょっとずつしか書かれていないため、諸説紛々なのですが、以下のように想定をまとめてみました。
2.考える毛利輝元
③毛利輝元 |
時を、鉄甲船が雑賀水軍500隻を圧勝後、堺へ寄港している時まで戻します。
堺に停泊中の7隻の鉄甲船の噂は、瞬く間に近畿一帯に広がります。
「おいっ、鉄でできた船やそうや!」
「どないして鉄が海に浮かぶんかの?」
「よう分からん。えらい頑丈やさかい、鉄砲や矢を弾くんやて!」
これを謀反を起こしたばかりの荒木村重が放っておく訳がありません。
鉄甲船に係わる情報は、信長から鞍替えした毛利への良い手土産となります。尼崎から堺は半日もあれば着く距離です。
彼は堺へ探索方を出します。そして鉄甲船を一般公開している時に、詳細に観察した報告を安芸の毛利水軍に提供するのです。
船の大きさ、装置、雑賀水軍を打ち破った戦い方等、堺で仕入れた情報を毛利輝元へとシェアします。(絵③)
◆ ◇ ◆ ◇
一方、石山本願寺ですが、雑賀水軍が負けたことで大阪湾の制海権が九鬼水軍に戻ってしまい、またもや兵糧搬入の危機に立たされるのではないかとの危惧が募ります。
石山本願寺住職・顕如は直ぐに毛利家当主・輝元のところへ使いを送り、兵糧搬入と、大阪湾の制海権再奪取を依頼します。(絵③)
うーむ!
これらの情報を基に毛利輝元は考えます。
正直彼にとって鉄の船だの、大筒を持って木端微塵にするなどは大した話ではないのです。むしろ、それほどまでに金を投入して信長が欲しい大阪湾の制海権とはなんなのだろうか?
荒木村重をはじめとする摂津の国人たちの謀反。信長が制海権など握っても摂津国が離反すれば、石山本願寺に陸路からでも兵糧どころか兵も毛利や荒木村重から送ることができる。荒木村重支配下の尼崎城から石山本願寺は目と鼻の先。村重もまだ信長に離反したばかりで、国内の体制を固めるのに忙しく、直ぐには石山本願寺と連携して信長を挟撃するほどの余裕はないのだろう。
とすれば今、喫緊の課題である石山本願寺の兵糧欠乏さえ解消できれば、村重が立ち上がってくるので、大阪湾の制海権を持つか持たぬか等大した問題ではない。新しいもの、南蛮もの好きな信長の虚栄心を満たす大きな鉄甲船等、まともに相手にする方が損だ。あくまで今回の毛利水軍出動は石山本願寺への兵糧供給に目的を絞ろう と。
3.第2次木津川口海戦の詳細(想定)
④第2次木津川口海戦 開始時 |
600艘は3つの船団に分けてあります。(図④参照)
11月6日朝8時頃、この日の大阪湾は朝霧が立ち込めています。前回は明石海峡を通過する時点で荒木村重の花隈城からの「敵襲!」を知らせる狼煙があがったのですが、今回は既に荒木村重は信長を裏切っていますので、なんら連絡はありません。
木津川口を守る鉄甲船の目の前に、朝霧の中から毛利水軍が急に出現するのです。まだ船団の全容もつかめないまま、九鬼水軍は威嚇射撃を始めます。(図④)
距離があるので、大筒による砲撃は大部分水面に落下します。毛利水軍にもっと近づいて砲撃しようと7隻の鉄甲船が前進し出した途端、毛利水軍の第1陣は大阪湾を南下し始めます。
「すわ!堺を攻撃するつもりか!」
と九鬼水軍は鉄甲船を全力で漕ぎ毛利水軍の第1陣の後を追います。船体が小さな毛利水軍と違い、図体のデカい鉄甲船は初動が遅いため毛利水軍から引き離されていくのです。
⑤第2次木津川口海戦 後半戦 |
ところが、先に南下を始めた毛利水軍の第1陣は途中で舟先を反転し、東西に鶴翼のように広がります。九鬼水軍は重い船ですから、毛利水軍のように急には止まれず、毛利水軍第1陣の懐深くに入って行きます。(図⑤)
そして、九鬼水軍のすぐ後ろから毛利水軍の第2陣が追い付いてきます。
九鬼水軍は毛利水軍の第1、第2陣の400艘に囲まれ、その囲みの中で接近戦を繰り広げるのです。(図⑤)
接近戦なら鉄甲船の思いのままとばかりに、得意の大筒を至近距離から毛利水軍の軽い舟に打ち込み、次々と木端微塵にしていきます。
毛利水軍も火矢や焙烙玉で応戦しますが、流石、金を掛けただけの鉄甲船、そんなものでは到底歯が立ちません。ただ、舟数では圧倒的に多い毛利水軍、木端微塵にされる舟が続出するも、果敢に舟を鉄甲船に寄せようとします。
さて、この九鬼水軍を木津川の南沖で毛利水軍の第1,2陣が囲っている間に、毛利水軍の第3陣がさっさと木津川口から木津浦伝いに石山本願寺へ兵糧供給を行います。
第1、2陣には兵糧は殆ど積んでおらず、朝霧に紛れて九鬼水軍に戦いを挑んでいる間、兵糧を沢山積んだ毛利水軍第3陣が木津川口から石山本願寺へ兵糧を運ぶ、そういう作戦だったのかもしれません。(図⑤)
ただ、やはり鉄甲船は攻守能力に関しては毛利水軍の舟のはるかに上であることは間違いありません。
その日の午後までに毛利水軍、第1陣・第2陣の400艘は退却します。ただ、これは「信長公記」のいうところの「是れ(大筒)に恐れて、中中寄り付かず、数百艘を木津浦へ追上」だったというより、鉄甲船を引き付けて置いて、兵糧を運ぶ舟の邪魔をさせないための作戦だったかもしれません。
ただ、大阪湾の制海権は、その後も九鬼水軍が握り続けます。
⑥九鬼嘉隆 |
しかし輝元の目論見は、この後、荒木村重ら摂津の反信長体制が崩壊することで、達成できませんでした。
そして石山本願寺も2年後の1580年、ついに信長に降参するのです。
荒木村重ら摂津の反信長体制の崩壊については、次回のブログで描きたいと思います。
4.その後の九鬼水軍
また脱線しますが、この鉄甲船を持つ九鬼水軍。この後どうなったのでしょうか?
この鉄甲船の活躍が信長に認められ、九鬼嘉隆は3万5千石の大名となります。(絵⑥)
1582年に本能寺の変で信長が死去すると、九鬼水軍は秀吉傘下に入ります。
小牧・長久手の戦いでは家康の三河を海上から攻めたり、小田原攻めの時は、伊豆半島下田の城を落した後、海上から小田原城包囲網に秀吉水軍の棟梁として参戦する等、各地を転戦して回るのです。
そして、九鬼水軍の本領発揮は朝鮮出兵。1592年の文禄・慶長の役で、九鬼嘉隆は初めて大きな日の丸を掲げ、朝鮮へ大水軍で押寄せたのです。(絵⑦)
⑦朝鮮出兵時の九鬼水軍船団 九鬼嘉隆の座船・日本丸を中心に大艦隊だった模様 |
話飛びますが、私が韓国はソウル市に行った時、ソウル市の一番の目抜き通りに大きく英雄視された像があったことが印象的でした。(写真⑧)
⑧朝鮮出兵時に日本水軍を退けた とされる李舜臣の像(ソウル市) |
そう、対戦相手は九鬼嘉隆です。李舜臣は、かなり強力に九鬼水軍と渡り合ったようです。
細かな戦況はここでは省略します。李舜臣が一方的に勝ったわけでは無いようですが、ご存知のように朝鮮出兵自体が最終的には日本が退却をしたことから、日本軍を退けた水軍の棟梁として今でも韓国では絶大な人気なのです。
2014年には映画化もされています。逆を云えば、朝鮮出兵において九鬼嘉隆がいかに重要な役割を果たしていたかの証左のような像が、ここソウル市の中心にあると言っても過言ではないでしょう。
このように、海を挟んでの朝鮮出兵では、まさに日本を代表する水軍の棟梁として九鬼嘉隆は活躍するのです。
この九鬼水軍の絶頂期が終わる頃、九鬼嘉隆は息子の守隆に家督を譲ります。
◆ ◇ ◆ ◇
そして関ヶ原の戦では、真田幸村・昌幸親子が西軍(石田三成)に、東軍(徳川家康)には真田真之がつくことで、どちらが勝っても真田家が存続できるように工夫したのと同様に、九鬼嘉隆は西軍、息子・守隆は東軍につくのです。
勝利した東軍の徳川家康から、九鬼守隆はその功績により、5万6千石まで石高を加増してもらいます。
5.陸に上げられた水軍
徳川家でも日本水軍の中核としての存在意義を高めた九鬼守隆。
ところが、守隆が1632年に亡くなると、その息子の兄弟間で家督争いが発生しました。
これが、お家騒動に発展するのです。江戸幕府の介入を許してしまいました。
ご存知のように江戸幕府の藩行政への介入というのは非常に厳しく、国替えは勿論のこと、領地召し上げ、お家断絶等は当たり前。特に幕府は、この頃こそ諸藩の勢力を弱めるのに懸命な時でしたから、九鬼家も例外ではないと噂されていました。
➈三田市にある三田御池(Googleマップから) |
なんとラッキーな!と思いたくなりますが、そこは江戸幕府、抜かりはありません。
一番の仕置きは、兄は三田藩(現在:兵庫県三田市)、弟は綾部藩(現在:京都府綾部市)という藩の場所です。
なんとこの二藩両方とも海に面していません。そう、合計石高は変わりませんが、九鬼水軍から海を取り上げたのです。一番大事なものを!
ご存知のように、江戸幕府は鎖国政策を徹底すると同時に、30m以上の大型の造船を禁じました。おかげで先の鉄甲船を造っていた頃であれば、欧州の造船技術と遜色の無いレベルだったものが、この鎖国と造船規制によって日本の造船レベルは急速に低下していきます。
⑩九鬼水軍最後の海?・三田御池 |
そうなると一番面倒くさい存在が九鬼水軍です。なので江戸幕府はお家騒動に付け込んで、まんまと九鬼水軍を解体に追い込んだ訳です。
◆ ◇ ◆ ◇
三田市には、三田御池と呼ばれる池があります。(地図➈、写真⑩)
地図➈を見て頂ければ分かると思いますが、三田城(現・三田小学校)という九鬼氏のお城の手前に池があります。これが三田御池ですが、この池で、三田藩は昔の九鬼水軍の魂を忘れないようにと、水軍演習を怠らなかったようです。とても水軍としての演習ができる規模の大きさの池ではなく、ある意味九鬼水軍の悲哀を感じます。
6.鬼は内、福は内
さて一世を風靡した九鬼水軍ですが、江戸幕府の鎖国政策という時代の流れには逆らえませんでした。
歴史に「もし」は禁句ですが、もし信長が生きていれば、前回も書いたように、彼は交易が生み出す富というものの経済哲学を持っている先見性がありました。
きっと天下布武で国内を纏め上げたなら、秀吉が明という大国に攻め入るようなことはせず、マカオ、マニラ、バンコク等、それこそ東南アジアの有力な貿易都市に侵出し、当時の世界的な(ヨーロッパ的な?)潮流である植民地政策の初期に日本も自然に参画出来ていたかもしれません。
その時にこそ、九鬼水軍の鉄甲船が大活躍していたのでしょう。
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⑪三田の豆撒きは今も「鬼は内」 神戸新聞の今年の節分の記事から (記事はここをクリック) |
もしかしたら、九鬼家は「鬼は内」で、徳川幕府という鬼を内に入れてしまったかもしれませんね。それでも江戸時代の230年間、三田藩、綾部藩として途中断絶や国替えも無く九鬼家として続いたのですからやはり「福は内」でもあった訳です。
さて、荒木村重のシリーズ、信長への謀反の話から、かなり脱線してしまいました(笑)。次はまた有岡城(伊丹市)へ話を戻したいと思います。
ご精読ありがとうございました。
《つづく》
【石山本願寺跡】〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【李舜臣の像(ソウル)】172 Sejong-daero, Sejongno, Jongno-gu, Seoul, 韓国
【三田御池】〒669-1532 兵庫県三田市屋敷町5