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火曜日

荒木村重⑥ ~道糞から道薫へ~

信長に謀反を起した荒木村重が、黒田官兵衛を有岡城の牢に幽閉して約1年弱が経ちました。

その間、最初は荒木村重に味方した高山右近や中川清秀らは信長側に翻意。仕方なく摂津国の中で一人孤立した形で信長に対する謀反を続ける村重。

有岡城、尼崎城、花隈城の3城で粘り強く信長に対抗し、毛利水軍の到来を待ちますが、信長(九鬼)水軍の鉄甲船の活躍等で、徐々に敗色が強くなってきます。

①花隈城跡
そして村重は有岡城を脱出、単身尼崎城に逃避したことで、有岡城の防衛戦は将士に限らず妻子も含め悲惨な状況になっていきます。(前回のブログ参照

しかし、村重は信長へ降参し、自らが切腹する等の武将らしい行動はとらず、尼崎城も抜け出し、最後はこの3つの城の中で一番毛利領に近い城・花隈城に逃げ込みます。(写真①

今回は、この続きですが、この「荒木村重」シリーズの最終回となります。お付き合いください。

1.池田恒興(つねおき)

さて、この花隈城を攻めるのは、信長の若き頃からの側近、池田恒興です。(写真④

後に、姫路城を今ある美しい姿に改築した城主として有名な池田輝政(てるまさ)は、この恒興の息子です。

この息子・輝政が、花隈城の東側、神戸の生田神社の森に布陣。そして恒興らは花隈城の北、ちょうど六甲山の麓にあたる諏訪山に布陣し、花隈城への攻撃準備をしていました。(図②

②花隈城の戦い布陣図

荒木村重軍は、神戸に古くからある由緒正しい生田神社が占拠されていることに腹を立てたのでしょう。1580年3月2日、花隈城を出て、生田神社の森の池田輝政軍に攻撃を仕掛けます。

するとこの攻撃を神戸が一望できる諏訪山から見ていた池田恒興は、手薄になった花隈城へ攻撃をするのです。(図②写真③

③諏訪山から花隈城方面の景色
※当時は神戸中心街のビルは無かったので、
花隈城の様子は良く見えたのでしょう。

この戦い、かなりの乱戦になり、総大将である池田恒興自身も5,6名、荒木軍の兵士を討ち取る自体になったようです。

池田軍の奮戦も空しく、この日の戦では勝敗の決着はつきませんでした。

最終的に、この戦の4か月後に恒興らが、力押しに押すことにより、花隈城は開城せざるを得なくなるのです。

荒木村重は、自領の最後の城・花隈城も捨てて、更に西に逃げ、毛利氏のところへ転がり込みました。

それからしばらくは、村重の消息は不明となってしまいます。

流石に村重は総大将なのですから、この最後の砦である花隈城が開城になるに辺り、切腹の1つもすれば、後々の彼への評価も変わってきたのかもしれません。

ところが、やはり彼が選んだのは、毛利氏への亡命。自分の妻や親族、全部殺されても自分は生き残る。

この辺りが、「武将としてどうよ?」という疑問符が湧く方が多いように思われます。

ただ、どうでしょう?もし現代の我々がこの時代の彼の立場になった時、彼の気持ちが分からないと本気で言える人ってどれくらいいるのでしょうか?

④池田恒興

戦国ものが好きだ!という人は多いです。食うか食われるか、殺さなければ殺される。白黒はっきりしている。そういう死生観で生きているからこそ、凄まじいドラマが繰り広げられる。それが戦国時代の醍醐味のように感じられる。それは結構な事ですが、やはり同じ人間、たかだか数百年では変わらない本質的な部分はあると思います。

悔しい思い、死ぬに死ねない執着、これらを人間・荒木村重が持っていても、少なくとも当事者ではない私は、彼を非難することができないなあと強く感じます。

2.黒田長政

さて、有岡城が開城した時、牢に幽閉されていた黒田官兵衛はどうなったのでしょうか。

彼は、1年間も監禁されたため、足腰が相当弱っていましたが、信長方の武将・滝川一益(かずます)らによって救出されました。

彼が幽閉から救出されたという知らせを聞いて、救出されたことを喜ぶと同時に、「これはヤバい!」と感じた武将がいます。そう織田信長です。彼は「黒田官兵衛が村重側に寝返ったようだ」との噂を信じてしまったこと。更に、それに伴い、官兵衛の嫡子を竹中半兵衛に命を下し、殺してしまったこと。この2つについて苦悩しました。今までも彼は沢山の人を処断していますが、見誤ったことは無く、今回の見誤りは、全軍に対する将としての信頼を著しく失墜するものとなります。また、官兵衛の嫡子を殺したことは、この猜疑心が一時的な怒りの感情にまかせたためでもあることを思うと、官兵衛に合わせる顔もありません。

ただ、信長が凄いのは、過去のことには囚われない、常に未来にある困難に立ち向かうことのみが彼の関心事であるということへの切り替えです。

「是非に及ばず。よし、官兵衛に会おうぞ!」

1人での歩行もままならない官兵衛でしたが、官兵衛を救出した滝川一益らの兵士らに担架に乗せられ、信長の前に現れるのです。
しゃべることも困難な官兵衛ではありましたが、それでも今回の次第を信長に詫びようと懸命に口上します。信長はそれを遮り

「いや、詫びは、この信長が言いたい。今回の件は信長が誤った。ゆるせ、官兵衛。」
「既に聞き及びであろうが、質子(人質として預かった子)の御嫡男については、信長の誤解で既に亡き者としてしまった。これには申し開きの言葉もない。官兵衛。すまぬ。」

⑤大河ドラマ『軍師官兵衛』の信長(手前)
と官兵衛(奥)の再会場面
(右の竹中直人は秀吉)

と述べると、官兵衛は眼差しをしっかりと信長に向け、静かに話しはじめます。

「我が愚息の件は、これも天下静謐に向かうために支えとなった1つの小さな組石だったと思い、既に得心しております。」

と言いつつ、目に大粒の涙を溜めているのが信長には分かります。

その時です。

「大殿、どうしてももう1人、この場で引き合わせたい者がおります!」
と大声で言いながら、この場に、子供を連れて入ってきたのは羽柴秀吉です。(写真⑤

その子を見た瞬間、官兵衛も信長も同時に「あっ!」と声を上げます。

◆ ◇ ◆ ◇

そう、秀吉が連れていた子は斬られたはずの官兵衛の嫡男だったのです。

「な、なんと・・・」
「大殿、驚かれましたかな。半兵衛(竹中半兵衛)のやつ、この状況を予測しておりました。そして私に大殿には良く謝っておいて欲しいと言い残しました。」

「半兵衛は斬ったのではなかったのか?確かに幼子の首がわしに届いたぞ」

「半兵衛が大殿に送った首は、溺死した半兵衛の領内の子供です。親御さんに了解を得て処置したものでございます。半兵衛はその時、言っておりました。大殿は村重をはじめ、本願寺や毛利、武田勝頼等の包囲網で気が立っておられるのだ。大殿のこと、きっとこの包囲網を崩した時には気が付くはず。黒田官兵衛は大殿を裏切るような漢(おとこ)ではないと。」

それを聞いた官兵衛は、ハッとなり、秀吉に問いかけます。
「竹中半兵衛殿は今いずこに?」

「半兵衛殿は半年前に、持病が悪化し、三木城包囲作戦中に倒れ、残念ながら亡くなったのじゃ。」

「おお!」

⑥黒田官兵衛が竹中半兵衛から
引き継いだ家紋「石餅」

官兵衛は息子が生きていたことの嬉しさ、その反対に自分を完全に信頼してくれた半兵衛の死、死ぬであろうと思っていた自分が寸でのところで救出されたこと等、あまりに翻弄される運命の波に耐えがたいものを感じ、とうとう大粒の涙を流します。

また、信長も竹中半兵衛の人を見抜く力、信頼する力に感服せざるを得なかったのです。

「死者にはねぎらいの言葉も届かぬか。良くやった、半兵衛。。。」

事態がまだよく分からない官兵衛の嫡子は、父が生きていたというだけで、嬉しくてしょうがないという笑顔を湛えていました。

この子が後に、「西海道に黒田あり!」と言われる猛将・智将の黒田長政になるのです。

黒田官兵衛は、この時、信長によって1万石の石持(こくもち)に格上げされるのですが、黒田家の家紋として「石餅」(こくもち、「黒餅」とも書きます)を使います。洒落のようにも聞こえますが、実はこの家紋、非常に恩義のある竹中半兵衛の家紋を引き継いだと言われています。(図⑥

3.道糞

花隈城も捨てて、更に西の毛利領へ逃げた村重はどうなったのでしょうか?

⑦唐草文染付茶碗『荒木』
高麗茶碗(徳川美術館蔵)

次に村重が、史上に現れるのは信長が本能寺の変で亡くなった後です。武将時代から嗜んでいた茶の道を堺の町で究めようとします。

当初、彼は自分の名乗りを「道糞」としました。自分が「道端の糞」のような汚いもの、役に立たないものの自虐的な意を込めたのです。今までの自分の生き方に対するやさぐれ感が思いっきり現れている名乗りです。

村重の持つ茶器と信長謀反との関係について、以下のような説もあるくらいですから、自虐的、ヤケクソ的な感情を持つ村重の気持ちも分からないでもありません。

荒木村重は「荒木高麗」という名物茶器を所有していることで有名でした。(写真⑦

現在の価値で1.5億円は下らないというモノですが、名物茶器に目が無いことで有名な信長、「荒木高麗」を差し出せば帰参を許すと、謀反を起こし有岡城に立て籠もる村重に通達します。

ところが、ご存知の通り、村重はこれを拒否。「荒木高麗」を持って尼崎城に単身逃げてしまうのです。

殿は家臣や家族・親族よりも「荒木高麗」の方が大事なのか。

口さが無い人たちは言います。茶人として命がけで「荒木高麗」を守ったみたいなことまで言う人もいたのでしょう。

⑧道薫宛黒田官兵衛書状写

これは、やさぐれますね。まあこの話は大袈裟だとしても、村重が堺に来た当初、「あいつは自分や自分の持ち物(茶器)ばかり大事にし、妻子に至るまで仲間を大事にしない奴だ。人の上に立つ器ではなかったのだ。」と陰口をたたかれたことは想像に難くないと思います。

そんな村重こと道糞の心を茶の道によって解きほぐしてくれたのが千利休です。利休は秀吉の許可を貰い、道糞改め「道薫」、つまり(茶の)道を、村重を通し「薫る」ようになってもらいたいという、音は似ていながら、きわめて前向きな名乗りに改めさせます。

そして秀吉の側近(茶坊主)の一人として働かせ、利休十哲(じってつ、利休の高弟子)のレベルまで村重を高めるのです。

素晴らしいV字復活。秀吉の側近として活躍していた村重、黒田官兵衛とも一緒に仕事をする様子が分かる書状が残っています。(写真⑧

4.おわりに

➈村重の墓(墨染寺)
ただ、やはり信長の謀反に対する村重のトラウマは、なかなか消えなかったようです。

特にこの戦いで、村重はキリシタンを目の敵にするようになりました。黒田官兵衛や高山右近らキリシタン大名の自分に対する行動や、妻・おだしさんの行動、なんとなく荒木村重も一時はこれらの人々に感化されていたような気がしますが、多分自分の失敗を中途半端に感化されたキリスト教にあると見なしたのではないでしょうか?

キリシタンである黒田官兵衛もすぐに斬らず牢に入れて生かした、高山右近の人質も結局斬らずに生かしておいた等、謀反の初期にはキリシタンに対する村重の寛容な行動が目立ちます。

しかし、聖書は「すべての権威は神によって与えられたものであるから、(自分の)上に立つ権威に対しては従うべき」と教えています。この考え方からすれば、やはり村重の取った謀反という行動は間違っていたとなる訳で、キリシタンの誰が何を言ったかは分かりませんが、本質的にキリシタンと相容れないと判断したのでしょう。

なので、秀吉の覚えも良くなってきたタイミングで、高山右近や小西行長を讒訴しますが、これが秀吉の勘気に触り、秀吉から遠ざけられてしまいます。

やはり、過去を反省し心を入れ替えたからこそ、側近にて働かせてもらえた村重には、まだくすぶるものがあり、完全には反省していないと秀吉は悟ったのでしょう。

更に悪いことに、秀吉が出陣で居ない間に、村重が秀吉の悪口を話すのを北政所(きたのまんどころ、秀吉の正室)が聞きつけたのです。処刑を恐れた村重は、またもや逃亡します。

そして1586年、堺でひっそりと死去します。享年52歳。位牌は堺の南宗寺にあるようですが、お墓は墨染寺という伊丹市にあるようです。(写真➈

⑩尼崎城に来た村重が懇意の
武将へ援軍要請を記した書状

いかがですか。荒木村重。平成16年11月20日に伊丹市立博物館所蔵の資料から村重は尼崎城に単身来たのも、逃亡のためではなく、反撃の機会を狙ったものであるとの証拠の書状が発見されました。(写真⑩

雑賀衆の援軍を得て反撃をうかがう切迫した心境がつづられています。

徐々に見直される荒木村重の人物像ですが、私が見るところ、村重も自己保身が強い人物というよりは、やさしい武将だったのでは?ただ、中途半端なやさしさは、誤解を生みやすいですよね。そんな気がします。ある意味、現代の社会で生きる我々には共感しやすい人物ではないでしょうか?

当初、信長にその胆力を買われて、摂津国の統治を任される程の逸材が、少々残念なイメージで終わってしまいますが、人としての生き方に優劣はありません。そういった意味では村重自身の生き方にも参考になる事は沢山あると思います。

昨今は石田三成や明智光秀等、過去戦国時代の問題児とされた武将たちの人間性も吟味される時代です。村重についても、まだまだ調べれば出てくると思いますので、今後の村重の武将像に期待し、このシリーズの筆を置きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《執筆ブログ一覧はこちら》

【花隈城跡】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4
【南宗寺】〒590-0965 大阪府堺市堺区南旅篭町東3丁1−2
【墨染寺】〒664-0851 兵庫県伊丹市中央6丁目3−3


土曜日

荒木村重② ~石山本願寺~

①有岡城址(本丸)
前回(ここをクリック)から描き始めました荒木村重、話が段々黒田官兵衛にシフトしていってます。大河ドラマや吉川英治の原作「黒田如水」にひっぱられていますかね(笑)。

これらの話では、有岡城(写真①)に監禁された黒田官兵衛の話にばかり焦点が当たっていました。

しかし、城の外では何が起こっていたのか。それらを荒木村重はどのように分析をしていたのか。今回から順次それらを調べながら描いていきたいと思います。

お付き合いください。

1.石山本願寺

勿論、荒木村重が信長に無策で謀反の狼煙を上げた訳ではありません。ではどのように戦況が有利に働くと考えていたのでしょうか?

地図②を見てください。これは伊丹荒木軍記に記されている軍略地図です。
②伊丹荒木軍記掲載の地図
この地図上、四角枠で囲った地名等は荒木村重にとって重要な軍事拠点のようです。

ど真ん中に、有岡城のある伊丹、その直下に尼崎、西(左)へ行くと六甲山らしき薄墨の下に「花隈」。この3拠点の城を中心に対・信長軍への備えを万全にしている荒木村重ですが、彼が期待するものがこの地図の一番右下に記載されています。

そう「石山本願寺」です。(地図②では右から左へ「石山寺大坂」と書かれています。)
③戦国時代当時の石山本願寺想像図

ご存じのように当時、石山本願寺が建っていた場所に、後に秀吉が大阪城を建てました。まるで城郭のような縄張りを持つ大寺院です。全国に衆徒を集めた一向宗の総本山なのです。
石山本願寺の当時の想像図を絵③に示します。

周囲を濠に囲まれているように見えますが、これは当時の淀川系である木津川の流れを上手く使っていたようです。つまり、木津川を大阪湾から船で遡り、この寺まで物資を輸送することが可能だったようです。

◆ ◇ ◆ ◇

話が逸れますが、どうしてここを石山寺というのでしょうか?
一説には、本願寺を建立しようと土地を掘り返していたら、そのまま礎石になりそうな大きな石がゴロゴロと出てきたからというものがあります。

何故、礎石になりそうな大きな石が出て来たのでしょうか?

大阪の方は良くご存知でしょうが、この石山本願寺跡のある大阪城の南側、堀を渡ったところに難波宮跡があります。(写真④
④石山本願寺跡は難波宮跡地に建った?
大化の改新頃にあったとされる難波宮跡は、近年(1950年代後半)になって発見されました。それまでは伝説の宮だった訳なのです。意外と最近なのですね。本当に。

つまり、本願寺を建てた時に、ゴロゴロ出て来たのは、この難波宮の一部の礎石だったのですが、当時は宮がここにあったとは、当然知らず「なんでこんな大きな石ばかりでるんやろ?」と思ったに違いありません。なので「石山」(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇

話しを戻します。一向宗の総本山石山本願寺。一向宗といえば一揆ですよね。一向一揆。

一向一揆は信長だけでなく、家康など各地の武将たちが悩まされた、大きな対抗勢力になったのは有名です。伊勢長島一向一揆、三河の一向一揆、他にも北陸方面(越前、越中、加賀等)や畿内にもあります。これらのは全て一向宗の農民らが中心になって起こしており、その精神的拠所がこの石山本願寺なのです。信長はこれら増長した一向一揆の元凶が石山本願寺と断じ、これをぶっ潰したいと常々思っていたのです。

そこで、明智光秀らと石山本願寺を攻めます。(地図⑤参照)

ところが、石山本願寺は紀伊の根来(ねごろ)寺の根来衆、雑賀衆とも結託しております。この雑賀衆、大量の鉄砲を所持すると同時に、鉄砲技術にも長けていた集団です。これらの支援にも信長軍は悩まされるのです。

更に、石山本願寺には強力なパトロン戦国武将が付いていたのです。

2.天王寺合戦

そう、それは西の中国地方の毛利氏です。勿論、毛利輝元(てるもと)は当初、荒木軍を含む羽柴秀吉軍と交戦中なので、石山本願寺に援軍を簡単に出せるはずもありません。

しかし、瀬戸内海の制海権は当時、毛利氏が握っていたのです。瀬戸内海といえば有名な村上水軍と共に、瀬戸内海に面したところであれば、水軍を使って軍を派遣することは訳はないのです。

地図⑤を見てください。これは1576年の7月、俗にいう天王寺合戦と第一次木津川口海戦の状況をプロットしたものです。(地図⑤
⑤天王寺合戦と第一次木津川海戦の概略図

有岡城で荒木村重が信長に反旗を翻したのが1578年7月ですから、2年前の出来事ですね。


信長は、石山本願寺を明智光秀に包囲させます。光秀は頭の良い武将でしたから、石山本願寺の物資等の補給基地となっている木津川の河口を陸路から攻め、ここを落して石山本願寺への供給を断とうとします。

⑥石山本願寺 顕如
ここで石山本願寺の住職・顕如(けんにょ:絵⑥)は、根来寺の根来衆、雑賀衆等に援軍を頼むと同時に、陸路では、西方面は当時はまだ信長配下である荒木村重が守る3つの城(有岡城、尼崎城、花隈城)が鉄壁の構えであるため、海路による毛利・村上水軍の支援を要請します。

石山本願寺・根来・雑賀連合軍1万余が明智光秀軍数千へ猛反撃します。

寡兵の光秀は天王寺の砦に立て籠もるしかない状況にまで追い込まれます。

この時、光秀のピンチを聞いた信長は全軍に陣触れ(兵を出してくれとの依頼)を出しますが、兵が揃うのを待っていては明智軍は全滅してしまうとの危機感に駆られ、真っ先に3,000のみの兵を率いて天王寺に駆け付け、砦を囲んでいる石山本願寺連合軍1万5千を突き破るのです。

明智光秀のために命を惜しまない信長なのですね。なのに本能寺の変・・・( ;∀;)。

◆ ◇ ◆ ◇

砦内で合流した信長に光秀は言います。

「殿、よくぞ1万5千の敵包囲を、たった3,000の寡兵で突破してくださいましたね。我々の兵は5,000、合わせて8,000ですが、力を合わせ、殿が陣触れで集めた後続部隊が来るまで、ここで立て籠りたいと思います。」

「光秀、ここを守っていくつもりはない。直ぐに8,000の兵で、この砦を打って出るぞ!」

「へっ?直ぐにですか?そんな無茶な。今度こそ敵1万5千の兵にやられてしまう!」

と躊躇する光秀の意向を無視して、疲れを知らない信長は即、今突破してきたばかりの敵の包囲陣へと、砦から再び打って出るのです。

◆ ◇ ◆ ◇

驚いたのは光秀だけではありません。敵・石山本願寺連合軍もです。
光秀と同様に、敵・信長軍は天王寺の砦に立て籠もるのだろうと考えていたのです。3,000の寡兵でなんとか砦に飛び込むことに成功した信長軍は、陣触れで後から万は集まる味方の到着まで、この砦で踏ん張るのだろうと考えるのが普通です。

⑦花隈城天守台
ここから狼煙を上げれば当時は大阪湾の
奥の九鬼水軍にも見えたことでしょう
そこが信長の奇想天外なところですね。砦を打って出る戦法によって石山本願寺連合軍はたじろぎます。信長軍のように戦闘専門集団ではなく、坊主、傭兵、一揆農民、更には根来衆・雑賀衆等の連合です。思いもよらぬ信長軍の逆襲が、この連合軍を石山本願寺内にまでに退却させてしまうのです。

◆ ◇ ◆ ◇

その後、信長は付け城を3か所も設置し、石山本願寺の包囲網を完璧なものとします。完全な形勢逆転です。

更に補給基地である木津川口には、九鬼嘉隆(くき よしたか)率いる九鬼水軍を本拠である伊勢志摩から300艘の軍船を回航させ、警戒に当たらせます。

3.第一次木津川海戦

信長軍の完全な包囲網の中の石山本願寺は飢え始めます。住職・顕如はかねてからの約定どおり、毛利輝元へ毛利・村上水軍による兵糧及び弾薬等の搬送を要請します。

輝元は顕如からの情報で、九鬼水軍の船数が300艘であることを知ったので、自分達はそれの2倍、600艘からなる水軍を迅速に編成します。
そして石山本願寺へ向かわせるのです。(地図⑤参照)

⑧木津川河口付近(あべのハルカスから撮影)
遠方に明石海峡に架かる明石大橋も見えます
ただ、600艘の大船団、明石海峡沖を悠々と通過してくると、この当時はまだ信長軍であった荒木村重配下の花隈城が直ぐに察知します。花隈城から馬を飛ばして石山本願寺を包囲している信長軍や木津川河口沖を海上封鎖している九鬼水軍に伝えていたのでは遅すぎます。伝わる頃には九鬼水軍との交戦が始まってしまいます。

村重配下の花隈城は、勿論早馬も出しますが、狼煙(のろし)による緊急連絡を行います。九鬼水軍へ毛利・村上水軍の来襲とその船団規模の報告を火薬の調合による狼煙の色種別で行うのです。(写真⑦

と同時に、有岡城に居る荒木村重にも「敵・毛利・村上水軍来襲!」の報を早馬にて伝えます。(こちらは陸路・地形上も花隈城の狼煙は良く見えません。)
この報を聞くと、村重は内陸の有岡城では状況把握が難しいことから、木津川河口も良く見える尼崎城へ移ります。



一方、この花隈城の狼煙を見た九鬼嘉隆は焦ります。なんと自分達が持っている軍船300の2倍もの船団です。海上戦は山岳戦等と違って完全に見通しの利く海という平場での戦になるため、軍船の数で勝敗が決まるといっても過言ではありません。あとは上手く潮の流れを使う方法しかありませんが、残念ながら、この日の大阪湾は鏡のように静かな海で、そんな干満の差による潮の流れなどは期待できそうにありません。(写真⑧

とりあえず木津川河口に船団を集め、海に流れ込む川の流れに乗り、敵・水軍の主導船である安宅船(あたけぶね)に集中的に漕ぎよせ白兵戦でこれを落す。これにより、敵・船団全体の統率能力を奪い混乱させるという作戦で行くことにしました。(写真⑨

⑨村上水軍の安宅船
そうこうするうちに、毛利・村上水軍が木津川沖に現れました。

迎撃の体制が出来ている九鬼水軍は、かねてからの作戦通り、「それーっ」とばかりに敵の安宅船目掛けて漕ぎ寄せます。当時、安宅船が戦艦だとすると、巡洋艦級は関船(せきふね)、駆逐艦は小早(こはや、「小型の早船」から来ている)という軽量クラスの船がありました。

九鬼嘉隆は、これら比較的高速な関船・小早を駆使し、火矢を構えて敵の安宅船に近づいて行きます。火矢が届くところまで近づき、射こむと、安宅船内がそれらの消火に慌てふためき、安宅船からの攻撃が手薄になるはずです。。そうしたら関船・小早を横づけして乗り込み、白兵戦でこれらの船を奪うという戦い方です。

当時の海賊のノーマルな戦い方ですね。
⑩焙烙玉

ところが、毛利・村上水軍は実は紀州の雑賀衆・根来衆から鉄砲を大量に仕入れていました。なので船上や櫓を出す舷側の穴(写真⑨参照)から、バンバン鉄砲を撃ってきます。これは敵わんとして中々安宅船に近づけない九鬼水軍。

そのうち驚くべきことが起きました。

バチバチバチと音を立てながら黒い玉(野球ボールより少し大きい)が飛んで来て九鬼水軍の小早の甲板に落ちて来たかと思うと、その瞬間

ドッカーン

と音がして小早の上にいた人間は全て消え失せました。そして船は勢いよく燃え上がっています。

「な、なんじゃあ?」

見る間に次々に黒い玉が、九鬼水軍の船上に飛んで来ては、ドッカン、ドッカンと破裂音がし、船は大きく燃え上がり、火矢の比ではありません。

この兵器、焙烙玉(ほうろくだま)と言います。絵⑩にありますように、黒い玉の中は火薬と鉛玉で出来ており、火薬が爆発すると中の鉛玉が飛び散り、殺傷能力が高いと同時に焼夷性もあるものです。鎌倉時代の元寇の時に日本人が初めて見た火薬兵器「てつはう」にヒントを得て、瀬戸内海の水軍の間に広まった兵器なのです。後に改良されて近代では手榴弾にまで発展した兵器ですね。

驚いたのは伊勢志摩の九鬼水軍。噂くらいは聞いていたでしょうが、実戦で見るのは初めてです。

「ち、近づくな!安宅船に近づくな!」

と九鬼嘉隆は下知をしますが、毛利・村上水軍は安宅船だけでなく、関船・小早にも積んでいる焙烙玉を次々に九鬼水軍の軍船に投げ込み炎上させます。九鬼水軍はタダでさえ半分の船数しかありませんので、あっという間に壊滅的な状況に追い込まれます。

九鬼水軍は散り散りになって堺や尼崎の港に逃げて行きます。

反対に殆ど無傷の毛利・村上水軍、悠々と木津川河口から川を遡り、石山本願寺へ兵糧や鉄砲、弾薬等の供給を果たすのです。

◆ ◇ ◆ ◇

この戦の一部始終を尼崎城から見ていた漢(おとこ)がいます。

荒木村重です。

4.荒木村重が期待したこと

この海戦が行われたのが、荒木村重が織田信長に謀反を起す2年前の事です。
この後、羽柴秀吉の三木城攻めに参加していた荒木村重が突如謀反を起すのです。

さて、荒木村重が謀反を起した理由を改めて考えてみたいと思います。

勿論、摂津国の国人たちの反信長に対する圧に負けたとか、信長の部下に対する苛酷な態度にあった等、やはり信長の人格に対する反発のような事ばかりが取り上げられます。しかし、今だ真相は分かっていません。

明智光秀の謀反と同様に怨恨説が強く言われるようにも感じます。

勿論、そう云った要素があることは否定できませんが、荒木村重一個人の感情だけで動くわけにはいかないのは組織の長として当然でしょう。

やはり荒木村重にも冷静に情勢を分析して身(というか家)の処し方を決める必要があったのです。

改めて地図⑤を見て下さい。赤字または橙文字反・信長軍青字信長軍です。

前章まで描いてきた胸のすくような海戦での勝利。圧倒的な瀬戸内海の制海権を持つ毛利・村上水軍に、摂津の荒木村重の3つの城が味方ついて橙文字になれば、毛利は石山本願寺等と組み、海・陸の両面から信長をいとも容易(たやす)く摂津・大坂から駆除できるだろう。

その証拠を海戦でまざまざと見せて貰った!と村重が考えてもおかしくないですね。(写真⑪

そして村重は今回の海戦のように花隈城や尼崎城に毛利・村上水軍が船団を横づけして、兵や兵器を大量に荒木軍へ支援し、また三木城への供給も花隈城経由でしっかりおこなえば、信長軍を摂津国から一掃できる。

また、勢いのある毛利氏だけでなく、石山本願寺や雑賀衆・根来衆、伊賀をはじめとする全国の一向一揆等、信長包囲網にて信長は滅びる運命なのだろう。

荒木村重はそう期待したに違いありません。
⑪摂津国からの大阪湾(現代)
ところが・・・

◆ ◇ ◆ ◇

「そうか、出来たか!」

と嬉しそうな信長。これに対して九鬼嘉隆は言います。

「はい、苦節2年、先の海戦の雪辱を果たしてみせまする!」

◆ ◇ ◆ ◇

続きは次回・・・

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【有岡城】〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
【石山本願寺跡】〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【難波宮跡】〒540-0006 大阪府大阪市中央区法円坂1丁目6
【尼崎城(大物城)跡】〒660-0823 兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6
【花隈城】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4
【三木城】〒673-0432 兵庫県三木市上の丸町5