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「奥州南部氏アンソロジー」掲載小説「七之池」の画像集

COMITIA126出展の「奥州南部氏アンソロジー」で、拙著小説「七之池」をお読み頂きました皆さま、本当にありがとうございます。

また、まだ小説をお読みで無い方で、この小説を読んでも良いと思われた方は、11月25日(日)東京ビックサイトで開催されますCOMITIA126にお運び頂き、「奥州南部氏アンソロジー」を是非ご購入ください。

もしくは私・玉木までSNSのメッセンジャー、またはこちらのメールアドレスへご一報頂ければ、COMITIA126開催後、代金(1000円+郵送料)と引き換えにて郵送手続きをさせて頂きます。是非お問い合わせください。

「奥州南部氏アンソロジー」表紙


この小説は、勿論創作ものですが、個々の話については、ほぼ本当にある伝説等からピックアップし、アレンジを加えて描いておりますので、8割程度は根拠あるものなのです。


以下にこの物語の舞台となった場所の概略地図を示します(地図①
①小説「七之池」の概略地図
こちらのBlogでは、小説の中に出て来る幾つかの現場を、私が取材した写真を使って、解説させていただくことにより、イメージして頂ければ幸いと思い作成しました。

更にこれらの現場に、何かの機会で足をお運び頂いた際に、この小説を思い出して頂けたら、とても嬉しいです。


1.信直の行軍中に出て来る丹沢の大山→相模川の橋

まず、最初の描写で出て来る大山ですが、これは横浜や東京に住む人々には非常に見慣れた山です。(写真②)
②丹沢山系 大山
相模の国と言えば、この大山と相模川が象徴的な地形ではないかと私は思っていますので、そこを通過する奥州南部信直の描写には、この2つを入れた訳です。八王子城を攻める前田利家のところから、箱根湯本に到着した秀吉本陣へ向かう信直が相模川沿いに南下したであろうことを想像して。

さて、小説で北信愛が南部信直に「かつて源頼朝公が落馬した馬入橋」と説明した橋は現在、このように立派なJRと自動車道路の橋が架かっています。(写真③)
③相模川にかかる馬入橋(河口方向を臨む)
馬入橋とは、頼朝公の乗っていた馬が、この橋から相模川に落ちたので「馬入」と名付けられ、その時に頼朝が落馬したとの言い伝えから付いた名前です。

④源頼朝公が落馬した時の相模川の橋脚跡
今から900年近く前のその頃の橋桁の跡が関東大震災時に田圃の中から出て来た史跡があります。(写真④)

この辺りは、拙著本Blogの「いなげや⑧ ~綾子の追善供養~」(ここをクリック)に詳しく描かれていますので、ご参考にして頂けると嬉しいです。

2.秀吉の本陣 箱根湯本→箱根越え旧道→山中城

一方、小田原城攻めに東征する秀吉軍は、箱根湯本にある早雲寺に本陣を張り、ここで信直と謁見します。(写真⑤)
⑤早雲寺
ここで、信直は為信が三枚橋城(沼津城)で秀吉に謁見している事実を知るのですね。

その後、湯本の本陣に帰った信直は早川の川原にある温泉に入りますが、今は写真⑥のように立派な温泉宿が立ち並ぶ湯本も、この頃はまだ小さな湯町だったと想像されます。(写真⑥)
⑥早川沿いの箱根湯本温泉
さて、信直は為信を追いかけて、箱根越えをし、山梨県の南部町へと向かいます。(写真⑦)
⑦箱根の石畳(旧東海道)
三島方面へ抜ける途中、秀吉軍が1日で北条軍を叩き潰した山中城の惨状を目の当たりにします。この城の堅固さを小説の中で「障子(しょうじ)濠(ぼり)(北条氏特有の堅固な堀の築城方法)を築いた北条氏でさえ・・・」と表現しましたが、その障子濠が写真⑧です。
⑧山中城の障子濠
3.三枚橋城(沼津城)→南部の郷

そして為信が秀吉に謁見した三枚橋城(沼津城)を通ります。(写真⑨)
⑨三枚橋城(沼津城)本丸跡

そして富士川沿いに北上し、南部の郷(山梨県南部町)へと向かいます。(写真⑩)
⑩富士川沿いにある南部の郷
※右奥に見えるのが七面山
南部家発祥の地は、この富士川の洲の直ぐ横にあります。(写真⑪)
⑪南部氏発祥の地
4.南部氏の元菩提寺 妙浄寺、新羅神社

さて、今回戦闘のシーンを描きました南部氏の元菩提寺 妙浄寺、新羅神社です。(写真⑫)、この妙浄寺の賽銭箱は南部氏の家紋「向鶴」がちゃんと入っています。この妙浄寺の右手に新羅神社があり、このお寺の後ろの山は神社を含め、南部氏の旧城山なのです。
⑫上:妙浄寺 左下:新羅神社 右下:賽銭箱の向鶴家紋
小説の中で櫓が建っていたと描いていた地点から、富士川方面の信直の陣方向を見た景色が写真⑬となります。(写真⑬)
⑬この妙浄寺山門あたりから富士川方面の信直軍方向を臨む
※ここに為信の櫓があった設定としました
5.七面山方面、七面天女・紅龍、ナナイタガレ

さて、最後は七面山です。小説でも出てきましたが、七面山は身延山の裏鬼門方向にあります。写真⑭は身延山頂上から南西方向の七面山を写したものです。
⑭身延山から七面山を臨む
さて、小説の中に出て来る七面天女=紅龍の伝説は、以下のように歌川国芳の絵にもなっています。この絵は、私が小説の中にも書いた一場面ですね。(絵⑮)
⑮七面天女(紅龍) 歌川国芳
そして、七之池伝説も本当にあります。(ここをクリック)

そして、小説最後崩れていく七面山のナナイタガレは以下のような景色です。(写真⑯)
⑯七面山のナナイタガレ
6.まとめ

このアンソロジーに小説を書いてみないかとのお誘いがあった当初、嬉しいと同時に、私はかなり遠方にある奥州という土地自体について明るくなく、本当に小説が書けるか不安でした。

とりあえず、最初に思い浮かんだ2つの構想は、以下の2つでした。

構想1)【平安~鎌倉時代:南部家事始め】南部家の始祖である南部光行をモデルとし、身延山を開いた日蓮聖人の話も含め、何故日蓮聖人がこの南部の地を選んだのか?

構想2)【戦国時代:超高速謁見合戦】小田原城攻めで東征してくる秀吉に、本領安堵の約束を得るために、津軽為信と南部信直はどちらが先に謁見できるか命がけのバトルを繰り返しながら秀吉に会いに行く!

どちらにするかは山梨県の南部町と沼津城等を見てから決めようと思いました。

そしてこの2つ+帰りに箱根の山中城も見て廻って帰宅しました。

⑰富士越龍図 画:葛飾北斎
さて、帰ってきて、ではどちらか?と考えていたら、不思議なことに「そうだ!どっちのシナリオもミックスしよう!」というアイデアが湧いて来ました。

ヒントは、小説本文の最後にも掲載しました「富士越龍図」の絵です。(絵⑰)

この絵は、葛飾北斎が90歳の亡くなる直前に描かれた有名な絵です。富士山の後方から煙が立ち上り、その煙の中に龍が昇天して行きます。

地図①を見て下さい。

北斎が住んでいた江戸から、七面山のナナイタガレの崩落が起きた現場は真西であり、ちょうど富士山の裏に当たります。

そして、日蓮宗には前述のように、七面山の七面天女という紅龍伝説があります。

この絵の龍は、北斎自身が龍となって昇天していることを表す等の諸説がありますが、勿論、真相は分かっていません。

ですので、この一致する事実を基に、この絵の表している場面を、上記2つの構想を合体させたもので作り上げ、推理しても良いのではないか?と考えた次第です。

私の推理のこの絵は、ナナイタガレを起している七面山から、その崩落の粉塵(爆発物を含む)が空高く舞う中、七面天女である紅龍が昇天していく という場面を北斎が描いたということです。

良く分からない方は、是非小説を読んで頂けると分かると思います(笑)。

おかげさまで、自分が訪問した現場を、小説の情景として、かなり取り入れることが出来たので、より迫力のある臨場感を出せたかなと思っております。勿論、今回のアンソロジー企画が創作歴史をコンセプトとしていますので、多分に史実とは違う部分もあることはご容赦ください。

本Blogもお読み頂き、誠にありがとうございました。

【馬入橋(相模川)】神奈川県平塚市馬入
【早雲寺】神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
【山中城】静岡県三島市山中新田410−4
【三枚橋城(沼津城)】静岡県沼津市大手町4丁目3−2
【南部氏発祥の地(南部町)】山梨県南巨摩郡南部町南部
【妙浄寺・新羅神社】山梨県南巨摩郡南部町南部8122
【七面山(ナナイタガレ)】山梨県南巨摩郡早川町雨畑
【身延山久遠寺】山梨県南巨摩郡身延町身延3567