①皇居前の楠木正成の銅像 |
では、何故ここまでカッコよく、皇居前にこの銅像があるのでしょうか?
それは過去に皇統に対して忠誠を尽くしてくれた臣民を二人程、天皇の皇居前に祀っているからなのです。
(1)足利尊氏(あしかが たかうじ)
(2)平将門(たいらの まさかど)
(3)道鏡(どうきょう)
2つの銅像は、この(1)(3)に対抗してくれた人物なのです。
(1)の足利尊氏に対抗した人物として楠木正成(写真①)。
(3)の道鏡に対抗した人物として和気清麻呂(わけのきよまろ:写真②)なのです。
(2)の平将門には勿論、平貞盛(さだもり:あの平家物語で有名な清盛の7代前のご先祖)等、対抗した人物は居るのですが、銅像を建てていません。
それは平将門が江戸の地の鎮守として、平安末期から現代にいたるまで、ずっとこの地で人気を博しているので、対抗する人物を褒めたたえることが難しいということなのでしょう。
また、今の天皇家は足利尊氏が立てた北朝の延長にあり、楠木正成がついたのは南朝側、つまり敵対した側なのに、どうして天皇家の英雄として祀られるのかという疑問を持たれる方もいらっしゃるようです
これは、南朝も北朝も関係ない、南北朝合一の考え方が「大日本史」を編纂した、水戸光圀の頃から浸透したため、楠木正成は南朝・北朝関係なく、皇統に寄与したとの考えが広まり、明治天皇も支持したためと考えられています。
この楠木正成、大楠公(だいなんこう)と呼ばれ、戦前は七生報国(何度生まれ変わっても皇国のために尽くす)等の美談が盛んだったこともありました。
ただ戦後は、戦前程は細かなエピソード等も喧伝されなくなった分だけ、大楠公の日本史における知名度は下がったかのように感じます。また、皇統に寄与した以外に、どんな日本史的価値があったのかが、若干分かりづらいということもあります。
③上:後醍醐天皇 中:足利尊氏 下:新田義貞 ※何故皆左を見るのか? |
今回、そこを分かりやすく補足しながら、鎌倉時代から室町時代への架け橋となった人物の一人として彼を取り上げます。
その彼の生き様を通してこの時代を描いてみたいと思いますので、お付き合いいただければ幸いです。
1.鎌倉幕府から建武の中興、そして室町幕府への移行
ダイジェストでお話をしますと、元寇という未曽有の外圧により、弱体化しはじめた鎌倉幕府。王政復古を果たしたい後醍醐天皇側が楠木正成を召喚。正成はイノベーティブな戦術により、幕府軍を大阪、河内で散々打ちのめしこれを弱体化。
この反幕府勢力の勢いに乗り、足利尊氏が京都の鎌倉幕府出張拠点である六波羅探題、新田義貞が鎌倉を攻め、ついには鎌倉幕府を崩壊させます。
ここで晴れて、後醍醐天皇は王政復古を果たします。建武の中興(新政)と呼ばれます。1333年ですね。
しかし、鎌倉幕府というコンサーバティブ(保守的)な世の中の閉塞感を打ち破った後醍醐天皇は、皆からイノベーティブ(革新的)な世の中を作り出してくれると期待されていただけに、単に武士の世を貴族の世に戻す保守的なやり方は、「なーんだ、全然イノベーティブじゃないじゃないか!」と失望のうちに終わります。
やはり武士の世じゃなきゃダメだと、再び武士が立つ先頭に立ったのが足利尊氏。彼は、後醍醐天皇らに対抗すべく新たに天皇を立てます(北朝)。紀伊半島は吉野・熊野に逃げた後醍醐天皇らは、足利尊氏が京都に立てた天皇とは別の朝廷であるという地理的な位置から、南朝と言われます。楠木正成、新田義貞らが、引き続き南朝側に着き、足利尊氏らと対立。最後は足利尊氏が楠木正成、新田義貞らを破り、室町幕府成立へ。
ざっと、こんな流れなのですが、後醍醐天皇は、何故楠木正成を召喚しようと考えたのでしょうか?
2.夢のお告げで白羽の矢が立った楠木正成
楠木正成が、例えば「北面の武士」の頭領だったとか、左衛門尉(さえもんのじょう)、検非違使のような、古くからあるそれなりの役職者であれば、まだ分かるのですが、後醍醐天皇に召喚された時の楠木正成は無位無官です。(鎌倉幕府御家人の「兵衛尉」という官職を持っていたという説もありますが、朝廷側のものではありません。)
では、何故彼が召喚されたのか?
これはもう、「太平記」の有名な場面ですので、何度か本やドラマで見られた方も多いと思いますが、今一度復習ということで。
◆ ◇ ◆ ◇
④笠置山は巨岩が多い この巨岩の上あたりが御在所 |
というのも、幕府転覆を謀る計画が、京の六波羅探題にバレたことで、後醍醐天皇は六波羅に追われる身となり、奈良の北東の外れのこの笠置山に逃げて来たという状況なのです。
後醍醐天皇は不安で一杯で夜も眠れませんでした。
「ああ、頼れる仲間が欲しい。私の右腕になって働いてくれる有能な部下はいないものか。数人程度で我を慕ってくる者はおるが、100騎、200騎単位を引き連れて参陣しようという者は皆無じゃ。源頼朝が石橋山合戦で平家に負けて房総に命辛々落ち延びた後に、次々に関東武者が集まり、鎌倉入りする前には20万にもなっていた状況が羨ましい(TT)」
と彼は悲観に暮れます。
◆ ◇ ◆ ◇
実際この時、後醍醐天皇が頼れる一番の武将は、笠置山の直ぐ近くの「柳生の里」の柳生一族だったようです。
私も笠置山へ行く途中、企図せずこの柳生の里を通りました。
のどかな田園風景を車で走らせていると陸橋に「柳生の里」と大きく書かれた横断幕が目に飛び込んできました。
ここがあの剣豪で有名な「柳生の里」か!(写真⑤)
と思いましたが、なんとなく後醍醐天皇のいらっしゃった笠置山との位置関係上、何か太平記の時代と関係がありそうな予感はしていました。
⑤笠置山近くの「柳生の里」 |
この柳生永珍は、戦国期の新陰流で有名な柳生但馬守宗厳(むねよし:別名:石舟斎)から8代前のご先祖にあたるのです。
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さて、話を元に戻します。人間、不安な思考に成ればなる程疲れてきます。後醍醐天皇もいつしかウトウトしてしまうのですが、眠りは浅いのではっきりとした夢を見ます。(絵⑥)
その夢に二人の童(わらべ)が出て来るのです。童たちは、南向きに枝が伸びた大きな木の根のところに、後醍醐天皇の座る場所があると言うのです。後醍醐天皇が顔を上げると、目の前に大きな白い敷き砂が広がっており、奥に立派な常緑樹が見えます。その木の根元に立派な御座(天皇が座るところ)があり、その場所の両側には官位の順に人が並んで座っています。
二人の童は更に後醍醐天皇に話します。
「天皇自身が京を逃れ、このような人里離れた山奥に退避しなければならないようなこと自体、前代未聞の出来事ですが、これからも御身には予想を超える乱れを見ることになります。しかしながら、あの大樹の南枝のあるところこそ、御身を置くのに安泰な御座です。」
⑥後醍醐天皇の夢 ※絵中央に童二人と左上に立派な常緑樹がある |
翌朝、この夢の分析を、後醍醐天皇の取り巻きにしてもらうと、皆口々に「それは吉夢に違いない」と言います。
⑦笠置山の弥勒(上)、虚空蔵(下)の岩堀 この2つの菩薩が⑥の絵の童を夢に送った |
「その大樹の南枝とは、南の木、つまり「楠(くすのき)」を表すのでしょう。この辺りに楠という者はおらんか?」
「河内に楠木正成という悪党がおります。」
「悪党!?」
取り巻き達は、一斉に後醍醐天皇の表情を伺います。
3.楠木正成参陣
この時代の「悪党」というのは、現代とはちょっと意味合いが違います。悪者という意味合いよりは、既に死語になりかけていますが「ちょいワルオヤジ」の延長上のような、社会のハイアラーキに完全には従っていないようなものの集団を言います。
とは言うものの、やはり「ちょいワル」はちょっとですがワルです。つまり皇統のような正統派が当てにして良い人物かどうかは物議を醸しだすところなのです。
なので、私はこの夢の内容の真偽は兎も角、実力はかなり高いと思われる楠木正成を味方に取り込むにあたり、後醍醐天皇の夢告(むこく)という形をとることによって、素行がちょいワルでも良いのかという議論をシャットアウトするための手段だったのではないかと推測します。
また、楠木正成に対しても、天皇の夢告だと伝えた方が、勅命だとか綸旨(りんじ)とか言う格式ばったものより、喜んで参陣して貰えるのではないかという観点もあったのではないでしょうか。
この時の後醍醐天皇らは、夢告という形を使ってまで有力者を取り込まなければならないくらい、鎌倉幕府に対し形勢は不利だったのではないかと想像します。
いずれにせよ、上記の推測の根拠は、この夢告の話が出る前に、後醍醐天皇もその取り巻きも楠木正成を知っていたとの見方が、今の歴史家の間で有力となっているからです。
つまり、夢を見た後醍醐天皇が「南の木=楠」⇒「楠木という者はおるか?」⇒「はい、河内に楠木正成が居ます。」⇒「おお、そうか、それは奇遇だが、きっと夢告に違いない。なのでその楠木何某やらを呼ぶのじゃ!」のような、私が小学生の頃に読んだ単純な夢告エピソードではないようです。
◆ ◇ ◆ ◇
また脱線しました。話を戻します。
後醍醐天皇は、これら取り巻きの話を聞くと、満足気に言い渡します。
「夢告である。楠木正成を呼ぶように!」
⑧笠置山と赤城城の位置関係 |
ということで、勅使を立て、河内の楠木正成を、笠置山へ呼び寄せようとします。(地図⑧)
私が小学生の頃に読んだ本ですと、この夢告の話を勅使から聞いた楠木正成は、「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾したことになっております。
これも「太平記」の記述が論拠となっているようですが、吉川英治氏の「私本太平記」によれば、勅使がそれを伝えても、楠木正成は2回はそれを辞しています。勅使も後醍醐天皇の強い要望を意識し、死を賭して説得に当たり、最後は「では、親族で協議し、明日回答します。」との譲歩を楠木正成から引き出したとあります。
当時、やはり「悪党」という社会のハイアラーキに従わない者達の説得にはかなりの覚悟が必要だったのでしょう。このために夢告話も準備されたのではないかと思われます。吉川英治氏の説は現実味があるように感じます。ですので、この吉川英治氏の話を前提に進ませてください。
さて、勅使が来たその日の晩に楠木正成は、親戚縁者を集め、後醍醐天皇側につくかどうかの議論をします。この中には、この後正成の良き理解者で片腕となる弟・正季(まさすえ)もいます。
そんな親族で大議論をする程のものでもなく、さっさと天皇側に着く判断ができないものかと思うかもしれません。しかし、この時はまだまだ北条氏が牛耳る鎌倉幕府の勢力は巨大であり、それに反旗を翻すということは、失敗すれば親戚縁者全員殺される可能性も高かったのです。
むしろ、鎌倉幕府側に付いて、笠置山の朝廷側を攻め落とす方が、この時の楠木側にとってはたやすいことのように感じます。
しかし、楠木家は鎌倉幕府の走狗(そうく)となるより、朝廷側につくことを選びました。勿論利は薄いと分かっていながらです。この辺りは皇統に対する無償の愛を注いだとする楠木家として称賛される十分な根拠であると思います。
ただ一方で、やはり彼らは鎌倉幕府という社会のハイアラーキに反する動きをしたいという、本物の「悪党」気質を持ち合わせていたことも一つの要因だったのでは?と思います。
さて、天皇側へお味方すると決まった楠木正成は、急ぎ笠置山へ参内します。
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⑨赤坂城址 |
また脱線しますが、私がこの正成が居た赤坂城址に登ったのが、昨年8月13日の午後3時頃。(写真⑨)
この写真の向う側に広がるのは大阪平野。阿倍野ハルカスや六甲山まで見渡せる素晴らしい眺望です。正成がここに赤坂城を築城したのも良く分かりました。
その時です。ちょうどこの赤坂城の山裾が終る辺りから町内放送のようなものが聞こえてきました。
「こちらは富田林警察署です。現在、逃走犯を捜索中です。逃走犯の特徴は・・・・身長163㎝・・・。」
と、山上に吹き上げて来る風に乗りながら途切れ途切れで聞こえてくるのです。
― ヤバい。逃走犯は山の方向に逃げ込むのが常ではないか?ただでさえ、この城址まで登ってくるのは、私しかおらず、蜘蛛の巣や、青大将が目の前を横切る等の怖い目に遭いながら登って来たのに、逃走犯に遭遇したらもっと怖い。早く下山せねば。ー
と慌てて降りて行きました(笑)。
勿論、後日逃走犯は反対方向の山口県で逮捕されましたね。(ニュースはこちら)
そしてこの後、笠置山に向かいました。この時はまだ地図上でどれくらい笠置山とこの赤坂城が離れているのか知らず、正成が直ぐに後醍醐天皇の元に馳せ参じたという小学生の頃の記憶だけを頼りに、「まあ、今から笠置山へ車で向かえば、直ぐに着くだろう。」くらいに感じていました(笑)。
上記写真⑤の柳生の里を経由して、笠置山へ到着したのは夕方6時を廻っていました。
ー 全然近くないじゃん!奈良を対角線で跨がなきゃいかんもんな。正成は直ぐなんか着くわけないよ!-
と独り言ちていました(笑)。
◆ ◇ ◆ ◇
長くなりましたので、後醍醐天皇に謁見する楠木正成の続きから、次回描いていきます。(絵⑩)
⑩湊川神社にある楠木正成物語の看板の1枚(笠置山への参内) |
長文、ご精読ありがとうございました。
【楠木正成像(皇居前)】東京都 千代田区皇居外苑1−1
【笠置山後醍醐天皇御在所跡】京都府相楽郡笠置町笠置笠置山
【柳生の里】奈良県奈良市柳生下町216
【赤坂城址(楠木正成居城)】大阪府南河内郡千早赤阪村桐山