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大楠公⑩ ~鎌倉第2防衛線の攻防~

前回、鎌倉幕府の防衛線は第1防衛線と第2防衛線があることをお話ししました。(地図①
①鎌倉幕府の防衛線(再掲)
そして第1防衛線の多摩川を新田義貞らのレジスタンス軍に抜かれてしまったところまでを描きました。

今回はその続きからです。

1.足利高氏2つの悲劇
②浮島ヶ原(沼津市)

ちょっと脱線します。

足利高氏、彼がこの時期に見せた行動には相当練られた策があるように見えますし、後日の護良親王をはじめとする反尊氏派も、彼の手練手管を「卑怯」と罵っていました。

高氏は、鎌倉幕府に対して反旗を翻すという大きな変革から身を守ろうとして、これらの策を弄するのですが、やはり完全に無傷という訳にはいきませんでした。彼の親族関係で、かわいそうな話が2つあります。

1つは、竹若丸(たけわかまる)です。嫡子・千寿王(後の2代将軍・義詮)は鎌倉脱出に成功し、新田義貞と一緒に鎌倉攻めに参加し生きながらえることができました。


③赤橋守時のお墓(浄光明寺)
もう1人の庶子である竹若丸は、高氏の六波羅探題攻撃の報を聞くと、山伏姿で密かに上洛しようとしました。しかし、静岡県沼津市の浮島ヶ原という場所で北条の刺客に追いつかれ殺されました。(写真②

私も竹若丸が殺されたという浮島ヶ原に行ってみましたが、一面葦が背の高さまで茂る湿地帯でした。こんなところで人知れず殺された、まだ10代前半の竹若丸の事を想うととても寂しい気持ちになりましたし、高氏の悲しさは想像以上かもしれないと思いました。

◆ ◇ ◆ ◇


もう1つ、それは北条(赤橋)守時の話です。

以前このシリーズ「大楠公⑦」でも、赤橋守時については、「赤橋」姓の由来が、彼の屋敷のあった鶴岡八幡宮の源平池に架かる赤い橋の近くであったことを、少しお話しました。

彼は、妹・登子(とうこ)が足利高氏に嫁いだので、高氏からすると義兄になります。

守時は妹思いだけでなく、他人思いのやさしい漢(おとこ)でした。(写真③

少し前の話になりますが、北条高時が出家してしまい、執権職が空席になると、内管領(執権の執事)職で長崎氏と安達氏が争った「嘉暦(かりゃく)の騒動」が起こります。


の政変の報復を恐れて北条一門はだれも執権に就きたがらない中、自ら16代執権を買って出る男気のある人物でした。

結局、実権は殆ど内管領の長崎円喜・高資(たかすけ)親子と出家した高時に牛耳られていて守時は傀儡(かいらい)に過ぎない状態だったようです。こうなることは守時を含め、皆分かっていたのでしょう。
それでも敢て執権につく守時の真面目さ・やさしさは大したものです。

さて、足利高氏が楠木正成の千早城攻撃への出陣にあたり(この出兵で高氏は鎌倉幕府を裏切るのですが)、北条高時は高氏に妻の登子、千寿丸を人質に鎌倉へ置いていくよう命令します。

高氏は抵抗感はあったものの、謀反を疑われずに出陣したかったので、面従腹背ではありますが、笑顔で二人を鎌倉に残して出陣していったのです。

ところが、篠村八幡宮で鎌倉幕府に反旗を翻した訳ですから、登子も千寿丸も殺されてもおかしくない状況です。しかし、この二人は鎌倉を上手く脱出しているのです。

実はこれには登子の兄である赤橋守時が関係していたという説が有力です。手助けをしたとまでは言いませんが、高氏の部下が密かに二人を救出するのを、見て見ぬふりをしたというストーリー、兄を裏切ることに葛藤する登子、北条高時を裏切ることになると葛藤する赤橋守時、等を描く話が良く語られています。

2.洲崎の戦い

この話、つまり北条を裏切ったことへの罪償いをするかのように、赤橋守時は新田義貞が鎌倉の第1防衛線を突破したと聞くと、武装姿で北条高時の前にひれ伏し、

「新田勢を鎌倉には一歩たりとも入れません!」

と誓って、寡兵であるにも関わらず、鎌倉の第2防衛線の防衛に走ります。

◆ ◇ ◆ ◇

話を戻します。関戸を破った新田勢、5月17日は関戸で体制を整え、鎌倉第2防衛線の西側に到着したのは翌5月18日。旗揚げをした生品神社を出発してから10日。

地図④を見てください。鎌倉を東側から俯瞰した3D地図です。今でこそ、宅地開発が進み、少し分かりづらくなってしまいましたが、由比ガ浜から鶴岡八幡宮までの鎌倉中心部を緑が縁取っているのが分かります。これが鎌倉第2防衛線です。(地図④
藤沢の北側、境川と柏尾川が合流する辺りに布陣した時には、新田勢は益々兵が集まり、総勢10万を超える勢いです。
⑤洲崎古戦場碑

これだけの大軍勢ですから、鎌倉の第2防衛線を破るのに4つの切通しに攻撃軍を分けます。(地図④)昔から「切通し」という険しい山を削った場所を通らなければ、鎌倉には出入りできないようになっていて、そのような場所は「〇〇坂」と呼ばれました。

4つの切通しは、北から「巨福呂(こぶくろ)坂」「化粧坂」「大仏坂」「極楽寺坂」です。(地図④

また新田義貞の本陣はその第2防衛線のすぐ外側、洲崎という柏尾川の流域、現在の大船駅の南側に陣を張ります。

さて、赤橋守時ですが、北条高時に挨拶をして、5月18日の早暁に向かったのは巨福呂坂です。ここで、御大将・守時自身が65回も突撃を繰り返し、新田勢と切りあったのです。(地図④の赤い線)

守時は、この絶望的な戦でも、自分が北条高時を窮地に追い込んだ償いを果たそうとする真面目さを感じます。「登子や千寿王を逃がしたのは、仕方なかったことだ」と言えば言えるはずなのに、そうは言わず、高時への償いを懸命に果たそうとするのですから。

この懸命な守時らの勢いに、巨福呂坂の新田勢は徐々に押されて、化粧坂攻撃隊のところまで退却していきます。ここでも守時は死力を尽くし、巨福呂坂・化粧坂攻撃隊の連合部隊とも戦うのです。

この守時の奮戦が効を奏したのか、鎌倉は巨福呂坂・化粧坂の北側2方面からの新田勢の攻撃を受け続けますが、最後まで破られることは無かったのです。

最期、守時は、残り少なくなった部下を集め、洲崎の新田義貞本陣に突入を試みます。(写真⑤

しかし、衆寡敵せずの状況でこの突入ではビクともしない新田勢にあきらめ、赤橋守時ら90の兵はここ洲崎で自刃します。(写真⑤、360°写真⑥)


守時は、妹・登子の息子・千寿王が敵となってこの戦に参戦していることも知っていたのでしょう。守時はすべて「致し方ないことだ」と潔く受け入れたのかもしれませんが、見ている私達からすると、なんともやりきれない感じがしますね。

現在、この洲崎古戦場の周辺は360°写真⑥のように、柏尾川の氾濫域なので平らで、四方に見通しが効く場所です。鎌倉攻めの本陣にしていた雰囲気がよく伝わってきます。(360°写真⑥)


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 ⑥洲崎古戦場周辺
 ※黒い小さな森が泣塔

この平な土地に一か所小高いやぐらの小山があります。そこは「泣塔」と呼ばれる場所なのです。(360°写真⑥の工事用コーンが立っている小山、写真⑦

この「泣塔」。近年この塔の基壇部の銘文が発見され、実はこの洲崎で新田勢に突入していった赤橋守時勢の死者(自刃を含む)を後日周辺住民が弔って建てたものであることが分かりました。

現在、この敷地内は立入禁止となっており、フェンスで囲まれています。
仕方なく、フェンスの外側から望遠レンズを使って撮った写真が写真⑦です。

⑦泣塔
※立入禁止のため望遠にて撮影
何故立入禁止なのでしょうか?こういう経緯のようです。

1943年、周辺の土地が大日本帝国海軍に買い上げられ、横須賀海軍工廠の分工場が造営されることになりました。その際、泣塔周辺も建設予定地に含まれており、泣塔は周りの丘ごと削平される予定だったのです。

しかし、古くからの言い伝え(泣塔が建つ土地を所有した者は貧乏になる、泣塔を目にした者は後日幽霊と出遭う、祟りを受ける、など)を知る周辺住民はこれを思い留まるよう嘆願しました。また、塔の撤去作業中にたびたび怪我人が出たことや、付近の工事現場で死者5名を数える事故が起きたこと、夜中に異様な音が聞こえるなど、凶事・変事が様々に起きたことから、ついには当局も泣塔の破却を断念し、この一角だけは手を着けることなく建設予定地の脇にて旧態地形のまま保存され、周辺住民によって供養され続けることとなりました。

第二次世界大戦後、横須賀海軍工廠のこの敷地は、1949年に発足した日本国有鉄道(国鉄)に払い下げられ、車両整備工場として再整備されましたが、この際も泣塔については保存の方針が引き継がれ、毎年の創立記念日には供養が行われました。(Wikiを編集)

ちょうど最近、このJRの整備工場がこの場所から撤退したので、写真⑥のようなだだっ広い更地の景観になっているのですが、この泣塔は以上の経緯から、ここに残置され、鎌倉市が管理しているという訳なのです。泣塔に関する言い伝えは、この場所だけは土地開発から取り残すほどの影響力を持っているということなのですね。

言い換えれば、赤橋守時ら鎌倉を守った武士(もののふ)の嘆き、現在もまだ継続しているということでしょうか。

3.稲村ケ崎

さて、地図④の鎌倉攻撃地図を再びご覧頂きたいのですが、4つの攻撃ルートのうち北側2か所(巨福呂坂、化粧坂)は、先程の赤橋守時をはじめとする幕府軍の守りが硬く、なかなか落ちません。
⑧七里ガ浜海岸を馬で走る新田義貞から
見た稲村ケ崎

新田義貞は南側2か所(大仏坂、極楽寺坂)の攻撃部隊に期待します。


ちなみに大仏坂の攻撃部隊は千寿王(後の義詮)です。若干4歳の千寿王なぞ新田義貞の足手まといくらいの感じだろうというのは全くの読み違えで、千寿王を足利高氏の名代として、補助する大人たちに囲まれ、新田勢の中でも独立した軍勢に近い組織となってきていたのです。

そして、これを憂う新田義貞の部下がいました。大舘宗氏(おおだちむねうじ)です。

前回のブログで、分倍河原の戦いで先鋒部隊として幕府軍へ突入し、前・左右の幕府軍に囲まれ、殲滅しそうになったところを、義貞の機転により、窮地を脱出した部隊を率いていた武将です。新田義貞への献身意欲が強いだけに、先鋒となって切り込む等の積極的行動が目立つ武将です。義貞も目をかけ、分倍河原では義貞自ら救出する等、相互の信頼関係が高い訳です。

大舘宗氏は、たかだか4歳の千寿王を祭り上げる武将たちが日に日に増えることに、自分の主君新田義貞が侮辱されている感を持ったようです。そして義貞が大仏坂方面の攻撃軍の大将を千寿王にしたことについて、非常なる危機感を募らせたのです。

➈稲村ケ崎の先端部は波に洗われています
「殿、これで大仏坂方面軍の千寿王が鎌倉へ一番乗りなどになれば、この鎌倉攻めは新田ではなくて、足利の功績として高氏に横取りされてしまいますぞ!」

これに対して義貞は

「まあ、いいじゃねえか。この戦で、足利と新田のどっちが本物の武士らしいか、坂東の武者どもにとくと見てもらえばいいのさ!」

この潔い義貞の発言で、大舘宗氏は自ら極楽寺坂方面軍の大将を買ってでるのです。
この豪放磊落な主人・義貞のために、何としても鎌倉第2防衛線突破に一番乗りを果たそうと決意して。

5月18日明け方から4方面の鎌倉攻めが始まり、守時の抵抗を含む北2か所の切通しが難攻不落、大仏坂が矢合戦になっており、まだ停滞したままの報告を受ける義貞は

「極楽寺坂はどうなっている?」

⑩由比ガ浜方面から見た稲村ケ崎
※確かに水深は浅く海底のウミウシが見える
と周囲に聞きます。「はっ、まだ大舘宗氏殿からの連絡がありません。」
と報告定時である正午になっても連絡が無い極楽寺坂方面。義貞は伝令を走らせ、報告を待ちます。

第1報が入ったのは、未の刻(午後2時)になってからでした。
「ご注進!大舘宗氏殿は稲村ケ崎から鎌倉一番乗りを果たしました!」

「稲村ケ崎だと?極楽寺坂ではないのか?」
義貞は稲村ケ崎という聞きなれない地名が出てきたので聞き返します。

「はい、大舘は極楽寺坂の幕府軍が他の切通し同様、守備が堅いことから、海伝いの狭い道を稲村ケ崎から鎌倉へ侵入した模様。」

義貞はそれを聞いて咄嗟に思ったのは

ー宗氏、おまえが鎌倉一番乗りを果たしたことで、新田が足利より優れた武士であることを証明したぞ!-

という賞賛の気持ちと

ーだが、宗氏は分倍河原の先鋒の時も無茶をして全滅するところだった。もしかすると今回も無理をしているのでは?-

という不安な気持ちです。

「馬を曳け。すぐにその稲村ケ崎へいくぞ!」

弟・脇屋義助に本陣を任せ、義貞は大舘宗氏のところへ急行しようとします。

洲崎の陣から柏尾川沿いに南下し、腰越海岸から七里ガ浜を疾走すると、波際の先に稲村ケ崎が見えてきました。(写真⑧
稲村ケ崎には大舘軍がひしめいています。

「宗氏は?」
「宗氏殿は、軍の一部とこの稲村ケ崎の海沿いの道を通って鎌倉入りを果たしました。」

「なに?稲村ケ崎の先に海沿いの道なぞ無いではないか!」
と義貞は聞き返します。(写真➈写真⑩


「今は潮が満ちているからです。宗氏殿がここに少数精鋭の騎馬で我々より先に来た時は干潮で海沿いの道があったのです。宗氏殿らは一気にそこを駆け抜け、鎌倉への一番乗りを果たしたようです。ただ、私達が四半刻後にここに到着した時にはすでに潮が満ちて道は消えていました。」

義貞は悪い予感がしました。

その時、大舘宗氏ら鎌倉第2防衛線を最初に破り、一番乗りを果たした隊は、どの辺りに居たのかというと、360°写真⑪のあたりです。

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 ⑪稲村ケ崎から鎌倉にちょっと入った場所
 ※鎌倉1番乗りを果たした大舘宗氏らが幕府軍と奮戦した場所

ちょうどテトラポットの代わりに逆茂木(さかもぎ)という防衛柵を沢山鎌倉幕府は設置していたのでしょう。

孤立化した大舘宗氏の少数の兵士たちは、この辺りで必死に戦いますが、後ろの稲村ケ崎の退路となるべき道は、満潮による波に洗われ、完全に絶たれていました。

つまり、宗氏らはここで鎌倉幕府軍との絶望的な戦いを686年前の5月18日に繰り広げていた訳です。まさに孤軍奮闘。

◆ ◇ ◆ ◇


さて、次回はとうとう鎌倉陥落です。新田義貞の太刀投げです。お楽しみに!

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

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【泣塔】〒247-0064 神奈川県鎌倉市寺分11
【稲村ケ崎】〒248-0024 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1丁目19