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耳塚にて思うこと ~大航海時代と朝鮮出兵~

京都の方広寺と言えば、その梵鐘の銘文「国家安康」が有名である。徳川家康は、「家康」の諱の間に「安」の字を挿入したことを、あたかも自分の首を切断したことに等しいと難癖をつけた。

この屁理屈を口実として、徳川家康が豊臣家を征伐し、大阪の冬の陣・夏の陣で淀殿と豊臣秀頼を滅亡させたことは、社会科の授業でも習うほど有名な歴史的事実である。

当時の壮麗な方広寺は既に存在しないが、この地には豊臣家と縁の深い場所として、豊臣秀吉を祀る豊国神社が建立されている。

この豊国神社の正門から約100メートル先に、「耳塚」と呼ばれる塚があるのをご存じだろうか。(写真①)

①耳塚
首塚や胴塚は多いが、耳塚とは珍しい。そこで調べてみると、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592年~1598年)として知られる朝鮮出兵の際、敵兵の首は持ち帰るには重すぎるため、その(一部ではともいわれる)を切り落として持ち帰り、それを供養した塚だとされる。

その規模は相当なもので、高さは7~8メートル、直径は約20~25メートルにも及ぶのだ。

なるほど、海外からの帰国には首は大変だから耳、というわけか。

しかし、首や胴であれば骨が残るため、塚の真偽はすぐに判明するが、耳や鼻では何も残らない。この点はどうなのだろうか?また、これほどの巨大さは、大量殺戮の事実を物語っているのだろうか?

などの疑問が湧き上がり、さらには「そもそも秀吉は何のために朝鮮出兵を行ったのだろうか?」という根本的な疑問まで、この耳塚の霊に後押しされたかのように泉のごとく湧き出てきた。そこで、これらの疑問について少し調べてみることにした。

1.海外侵攻をしたがらない武士たち

テレビドラマなどでは、豊臣秀吉による朝鮮出兵が、愛息・鶴松(棄丸:すてまる)の病死による悲しみを紛らわすため、あるいは老耄(ろうもう)から思いつきで実行されたものとして描かれることが多い。しかし、これはあまりにドラマ仕立てに過ぎるだろう。たしかに高齢による判断力の衰えはあったかもしれないが、当時の日本の国家機構が、そのような無謀な行動を安易に許容するほど愚かな国であったとは考えにくい。

では、なぜこのような大規模な海外遠征が実現したのだろうか。鎌倉幕府以来、およそ400年以上にわたり、日本は元寇のように他国からの侵攻を受けることはあっても、自ら海外へ大規模な軍事遠征を行うことはなかった。この背景には、源頼朝以降の武士が海外領土の奪取といった発想を持たなかったというよりも、武士たちが「日本国」という統一国家の正規軍であるという明確な概念が薄かったことが影響しているのではないだろうか。

②熱田湊の灯台のような役割を
果たした村上社のクスノキ
日本が海外へ兵を進めたのは、六六三年の白村江の戦いまで遡る。この戦いで大敗した朝廷は、唐・新羅の侵攻に備え、防衛体制の強化に着手した。その一環として、「防人(さきもり)」を対馬・壱岐・筑紫(北九州)に設置し、彼らを律令制下の正規の防衛兵として位置づけたのである。
しかし、平安時代中期以降、天皇を頂点とする律令国家体制下でこのような「国家の兵」は徐々に形骸化した。これに代わって登場したのが、「北面の武士」などに代表される「」である。彼らは本来、「(朝廷や貴族に)さぶらう」、つまり従属した下人的な立ち位置から始まった組織だ。

「侍」は、個別の主君に仕える私的な武力集団であり、「国家」全体の軍事力を担うという意識は希薄であった。

鎌倉時代の元寇襲来について、「あれは国防意識があったからこそ、博多湾に集結して戦ったのではないか?」と疑問を持つ読者もいるだろう。

しかし、その後の経緯を考えて欲しい。

元寇後、武士たちの生活はどうなったのか。彼らは純粋な「国防」意識ではなく、「一所懸命」の地を守り、「御恩と奉公」という主従関係の図式で生きていたに過ぎない。敵を退けても、新たな領地や財産を得る恩賞は少なかった

結果、生活は成り立たなくなり、多くの武士が困窮する。

この困窮が原因となり、徳政令が頻発された。そして最終的には、不満を募らせた武士たちによって鎌倉幕府は転覆させられる。

この事実こそが、当時の武士たちの間に「国家の軍」であるという意識が、いかに希薄であったかを物語っているのだ。

現在の日本はシビリアン・コントロール(文民統制)の国であり、事情は多少異なる。しかし、そもそも律令国家として8世紀に始まった日本国の兵員も、天皇を頂点とする貴族国家という文官統制のもとに置かれていた。

つまり、この武士階級は、海外外交を含む「政府の機能」までを積極的に担うつもりは毛頭なかったのである。

2.型破りな武士・信長

しかし、この考え方とは対照的な武将がいる。

織田信長だ。

ルイス・フロイスの『日本史』には、これを裏付ける記述がある。「信長は毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考えであった」と記されている。

信長だからこそ、このような型破りな発想ができたとの見方もある。だが、当時は欧州の大航海時代であり、植民地政策が盛んな時代だ。

信長は領内の熱田湊などで貿易を行い、財を成した織田家の出身である。このため、大航海時代における海外進出の優位性を深く理解していた。海外遠征による壮大な貿易経済効果の構想を、秀吉にも話していた可能性は高いと言える。(写真②)

➂トルデシリヤス条約
(Wikipediaより)
3.トルデシリヤス条約

ここで、少々当時の欧州事情に寄り道しよう。

1494年、当時世界一、二を争う海軍国であったポルトガルとスペインは、トルデシリヤス条約を締結した。これは両国による植民地支配の境界を取り決めた条約である(写真➂)。

この境界設定に大きく影響したのは、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見したことだ。

ご存じの通り、彼は『東方見聞録』にある黄金の国ジパング、すなわち日本を目指していた。アフリカ経由よりも大西洋ルートの方が遥かに早いと考え、そのルート開拓を望んだ。問題はこの航路に必要な資金である。

コロンブスはまず海洋国第一のポルトガルに資金援助を求めた。しかしポルトガルは、喜望峰経由のアフリカルート開拓こそが有用と考えていた。大西洋ルートはそれまで何度か試みられたが、残念ながら陸地の発見報告はなかった。役に立たないと判断したポルトガルは、コロンブスの資金援助に応じなかったのである。

ポルトガルに失望したコロンブスは、次にスペインに支援を求めた。紆余曲折を経たものの、彼はなんとか支援を取り付けた。そして、ご存じの通り、コロンブスは大西洋ルートを進み、大陸を発見したのだ。

この発見はポルトガルを大いに焦らせた。「新世界」への進出は、スペインとポルトガルとの競争となり、侵出先での係争が絶えない状態となった。この摩擦を解消するために締結されたのが、トルデシリヤス条約である。

4.サラゴサ条約

図④中、紫の経線を境として、東回りはポルトガル、西回りはスペインの勢力圏と定めた。
④トルデシリヤス条約とサラゴサ条約
Wikipediaの図を加工)
この境界線は、ほぼ大西洋上に引かれている。興味深いのは、この分割線だけでは地球は二分割されたことにならないという、単純なからくりだ。地球は丸いので、もう一本分割線が必要である。

この盲点を問題視できたのは、マゼラン艦隊が世界一周を達成し、帰還した1522年以降である。そこで、もう一本の分割線として、図④の緑の線、すなわち東経約142度の位置に境界線を定めた条約が、1529年に締結された。それがサラゴサ条約である。

図から分かるように、日本はこの二本目の境界線上に位置し、その大部分はポルトガル側に属している。そのため、種子島に漂着したのがポルトガル船であり、日本で最初に平戸に入った貿易船もポルトガル船なのである。

5.遠大なる構想

⑤鉄甲船
かなり脱線したが、織田家が熱田湊で培った貿易の観点から、信長は南蛮(スペイン・ポルトガル)との交易を重視し、イエズス会の修道士たちと積極的に交流した。先に触れたルイス・フロイスもポルトガル人である。

信長が、ゆくゆくは天下布武を国内に留めず、スペインやポルトガルのように大航海時代に日本も乗り出したいと考えていたとしても不自然ではない。それゆえ、フロイスの記述に「一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考え」が出たのであろう。その構想の一端が垣間見えるのが、信長お抱えの九鬼水軍の「鉄甲船」である。(絵⑤)

鉄甲船自体は朝鮮出兵に直接参加していないが、九鬼水軍は後の出兵時、豊臣海軍の要となる。

また、この信長の話をフロイスが聞いていたくらいであるから、毛利平定の司令長官であった秀吉が聞いていなかったはずがない。そうなると、秀吉自身も毛利平定の頃から、信長の海外進出構想をいかに実現するか考えていたのだろう。

6.スペインの侵攻戦略

1580年フェリペ二世がポルトガル王を兼ねると、ポルトガルとスペイン間の植民地分割問題は霧散した。

一方で、ピサロインカ帝国を滅ぼした例に見られるように、当時のカトリックは、キリスト教を信じない地域についてはやりたい放題を許した。現在のキリスト教と違い、当時は神の教えに従わない者は虐殺も厭わないという思想のもと、植民地政策は進められたのである。

⑥船上で指揮を執る
コロンブス
(Wikipediaより)

コロンブスでさえ、前述の通り日本を「黄金の国(ジパング)」と信じ、そこを目的の地として航海に出た。彼が日本に到着していれば、その行動は略奪が主体となった可能性は極めて高い。実際、彼はカリブ海諸島で先住民の大虐殺を指揮し、「黄金探し」をスペイン王室の使命とし、現地インディアンに大量の黄金の献上を強いたのである。

以後、大航海時代が「黄金探し」を主な目的とするようになったのは、ピサロによるインカ帝国滅亡時も同様である。

「黄金の国」という日本像が、結果的に黄金目的の侵略を加速させた。その意味で、コロンブスが日本に到着できず、アメリカ大陸に阻まれたのは、日本にとって幸運であったのかもしれない。

インカ帝国滅亡のやり口は、あまりに凄惨であった。数百名のピサロの兵に対し、数万名のインカの民が皆殺しにされたのである。さらに、捕虜としたインカの王を助ける条件として、部屋を黄金で満たし、次に銀で満たすという、「黄金探し」の極致とも言える下劣な侵攻を行った。にもかかわらず、捕虜の王は条件達成後に殺された。

キリスト教徒ではない民族に対する侵攻は、次第にエスカレートしていった。超少数の欧州兵でも、火器兵器を用いれば簡単に征服でき、黄金を手にできるというスペイン式の征服手法が確立されたのである。

しかし、単なる暴力や略奪だけであれば、彼らは「野盗の群れ」と変わりない。彼らにとって重要なのは、神が後押ししてくれるからこそ容易に征服できるのであり、神が後押しをしない場所ではそれは難しい、という考えであった。

神が後押しをする土地かどうか。それを判断するため、イエズス会はまずその土地でキリスト教を布教し、情報を集め、祈ることで、その土地が侵攻すべき土地かどうかを見定めた。そういう意味で、イエズス会は宗教的な布教部隊であると同時に、重要な諜報部隊でもあったのだ。

では、当時の宣教師たちは日本をどのように見ていたのだろうか。

日本の習慣を尊重する「適応主義」という方針を打ち出した宣教師バリニャーノは、フィリピン総督府への書簡で日本侵攻について以下のように述べている。

「日本は、求めるべきものは少ない割には、勇猛果敢、かつ軍事訓練を怠らない兵士を持っているため、征服が困難である」

要するに、侵攻は非効率だと分析したのである。

その分析は的確であった。1580年後半の日本は、世界にあった鉄砲100万丁の約半分を保有していたという説もあるほどだ。戦国乱世で鍛えられた武士は精強であり、ヨーロッパ人が夢見た「黄金の国ジパング」というイメージとは裏腹に、資源に乏しい国でもあった。

一方、当時の明はどう見られていたか。人口が多く国力はあれど、日本ほどの軍事的脅威はないと判断されていた。スペインのわずかな鉄砲隊でたやすく征服できる、という報告がフィリピンから国王フェリペ2世へ送られている。これは、かつてインカ帝国を滅ぼした発想と通じるものがある。

これらのことから、スペインは植民地政策の優先順位として、日本よりも明への侵攻を優先していたと推測される。

7.妄想から構想へ

では、豊臣秀吉の朝鮮出兵に話を戻そう。この出兵が、最終的に中国・明の征服を目的とした壮大な侵攻計画の一部であったことは周知の事実である。

ここまで大航海時代、特にスペインの動向を追ってきた。その文脈に立てば、「秀吉はスペインに先んじて明を征服しようとした」という見方が、ごく自然な発想に思えるだろう。

(1)朝鮮出兵の動機を巡る議論

現在、この朝鮮出兵の動機を巡る議論は、大きく二つに大別される。

【説①】アジア統一構想 秀吉が明の地位に日本を置き換えることで、アジア全体の秩序を再編し、ひいては天下統一後の日本の安定を図ろうとした、という見方である。この説では、スペインの存在は直接的な動機と見なされない。

【説②】スペイン対抗説 いずれスペインが明を征服し、その次には必ず日本を狙ってくる。そうなる前に日本が明を支配し、来たるべき脅威に対抗しようとした、という見方である。これは、スペインの動向を強く意識した説だ。

これら二つの説は、果たして全く相容れないものなのだろうか。

素人考えではあるが、両者の違いはただ一点に集約されるように思える。それは、秀吉がスペインの侵攻戦略をどこまで具体的に認識していたか、という情報量の差に過ぎない。

つまり、秀吉がスペインの明侵攻計画を知らなかったのであれば、その動機は【説①】となる。逆に、それを知っていたのであれば、【説②】の結論に至る。本質的な違いは、そこだけではないだろうか。

⑧カラック船
(神戸市立博物館,Wikipediaより

秀吉が海外侵攻の構想を明確に打ち出したのは、1585年頃とする学説が有力だ。事実、この時期の書状には、外征計画への言及が頻繁に見られる。

その翌年、1586年にイエズス会副管区長ガスパール・コエリョは、大坂城で秀吉と謁見した。この時、秀吉は日本統一後の明侵攻構想を語り、そのために堅固な大型軍艦(カラック船)を2隻売却してほしいと依頼した記録が残っている。

だが、コエリョはこの申し出を結果的に断った。この一件が秀吉のイエズス会への不信を招き、翌1587年の伴天連追放令につながっていくのである。

この経緯だけを見れば、「スペインは自ら明侵攻を狙っているため、秀吉に協力しなかったのだ」と勘繰りたくもなる。しかし、真相は違った。スペイン側が、秀吉がその軍艦でフィリピンのマニラに攻め入ることを恐れたためであった。

そうこうするうちに、世界史を揺るがす出来事が起こる。1588年、スペインの誇る「無敵艦隊」がアルマダの海戦で、イギリスに壊滅的な敗北を喫したのだ。これにより、国王フェリペ2世は拡大路線から領土防衛へと舵を切らざるを得なくなった。

この事実を踏まえると、スペインの明侵攻はあくまで構想レベルに過ぎず、国家戦略として具体化してはいなかったと考えるのが妥当である。とすれば、やはり秀吉の動機は【説②】(スペイン対抗説)ではなく、【説①】(アジア統一構想)で考えるのが自然ではないか。

ただし、その【説①】にも一つ、大きな疑問符が付く。

かつて日本の支配者たちは、隋や唐の高度な文化・文明を吸収し、模倣することに終始した。彼らにとって、かの大国に攻め込んで勝利するなど、夢想だにできぬことであった。

その「常識」を、一介の農民から身を起こした秀吉が、なぜ突如として打ち破れたのか。国土、人口、文化の厚み、その全てにおいて比較にならぬ大国を征服するという発想は、あまりに荒唐無稽ではないだろうか。外部からの刺激なしに、そのような壮大な構想を独力で思いつき、実行に移せるとは、にわかには信じがたいのである。

(2)秀吉の明征服構想:その根拠と背景

当時の日本は、世界の鉄砲生産台数100万丁の約半分を保有していた。戦国時代の延長で兵力50万を備えることも可能であった。この状況を冷静に分析すれば、「明にも対抗できるだろう」と考える者がいるかもしれない。実際、1590年頃の天下統一期であれば、そう考えるのも不自然ではないだろう。

天正20年(1592年)6月、毛利家文書および鍋島家文書には、秀吉のこんな発言が残っている。「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。」これは、先に述べた冷静な分析に基づくものだと主張されるのは理解できる。

ところが、秀吉はそれより遡ること1578年、織田信長との対話で、日本、朝鮮、中国を統一帝国として統合すると豪語したのである。その達成は「筵(むしろ)を巻くが如く」容易であると主張したという。1578年は、長篠の戦いでやっと3千丁の鉄砲が使われてから、わずか3年後である。秀吉がこの時点で、火器兵力などの何の根拠もなく「筵を巻くが如く容易」と主張できたのかは何故だろうか。

(3)スペインの侵攻戦略と秀吉の推論

そこで私が想像したのは、信長や秀吉が、1533年のピサロによるインカ帝国征服など、「スペインの侵攻戦略」をどこかで聞いていたのではないかということだ。

秀吉が「筵を巻くが如く容易」と主張する2年前、フィリピン総督フランシスコ・デ・サンデはフェリペ2世に対し、4000〜6000の兵力で中国を征服できると上申している。この上申には日本の傭兵を利用する案も含まれていることを鑑みれば、日本側にその内容が漏れていたとしても不思議ではない。

この情報があったとすれば、秀吉はスペインに明への侵攻構想があることを意識した上で、こう考えたのかもしれない。

「スペインが数千人でできると考える明征服。今までの植民地政策で実績もあるのだから荒唐無稽な話ではないだろう。であれば、戦闘能力がスペインに劣らない日本兵が数万行けば明征服は可能である。」

これらを基に、彼は【説①】(アジア統一構想)を単なる妄想から構想へと変えていったのではないか。

(4)大航海時代の必然性

スペインが明の侵攻を構想していたこと自体を知っていたとすれば、「スペインが明へ侵攻し征圧してしまうと、次のターゲットは日本となる。そうなる前に明をとってしまえば、スペインに対抗できるだろう」と秀吉が考えても不自然ではない。

ただし、秀吉がどこまでスペインの征服を現実のものとして捉えていたかには疑問が残る。史料その他にスペインの侵攻時期を気にしていた形跡は見当たらない。そのため【説①】だけでも説明はできる。しかし、信長や秀吉のような革新的な人物が、この大航海時代という世界的なトレンドを見落としたり、無視したりしたとは考えづらい

【説①】は、発想一つだけであれば他の時代のトップ(源頼朝や足利尊氏、義満など)でもシナ征服は思い付けるはずだ。では、なぜ秀吉は思い付きだけでなく、実行に移すことができたのか。それは、大航海時代という必然があったからだと私は考える。したがって、秀吉は【説①】 を発想したが、 「スペインの明侵攻構想を知ったため、【説①】 を発想から構想のレベルに昇華したというのが、私の推論である。

8.おわりに

ご存じの通り、朝鮮出兵自体は、当初の目的である明の征服を15万の軍を投入しても達成できなかった。いくらスペインの侵攻構想を知っていたとしても、秀吉の見積もりが甘かったと言うほかない。

⑨アルマダの海戦(Wikipediaより
当時、明は日本の倭寇対策を主因とする鎖国(海禁)の方針をとっており、その軍力などの実情は分かっていなかった。これはスペインも同様であった。

そこでここからまた私の憶測だが、1588年のアルマダの海戦に敗れたスペイン(無敵艦隊)は、明征服について、秀吉の日本軍侵攻を試させ、どれくらいの軍勢と兵站をもってすれば侵攻が可能かを見極めようとした可能性も否定はできない。

結局、日本軍を大量投入しても成功しなかったため、スペイン自体も明を征服できるかを見極められず、シナは「眠れる獅子」として恐れられることとなった。この状況は、約250年後にスペインから世界の海上覇権を奪ったイギリスがアヘン戦争という形で清を落とすまで続くのである。

ご精読に感謝する。