マイナー・史跡巡り: いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~ -->

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いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~

鎌倉時代創成期の物語「いなげや」。

今回は、皆さんも良くご存知の「曽我兄弟の仇討ち」です。私も小学生の頃、この曽我兄弟が父親の仇・工藤祐経(くどうすけつね)を兄弟力を合わせて、やっつける話しや、最後に頼朝が出て来て、遠山の金さんバリに、見事な裁きをするのに、感動と爽快感を感じたものです。(絵①
①篠突く雨の中、朝霧高原で仇討ちを果たす曽我兄弟
出典:歌川国芳:「曽我兄弟本望遂圖」
歌舞伎等でも盛んに演じられ、江戸時代に忠臣蔵等と並び3大仇討ちとして大人気だったこの物語、実は色々と裏があるようです。それらの全てが、この「いなげや」の物語と繋がっているように感じましたので、今回はこの「曽我兄弟の仇討ち」を取り込んで、前回からの続きの物語を描いてみたいと思います。


1.前回までのあらすじ
※詳細は「いなげや①」「いなげや②」をご笑覧ください。(記事一覧にもあります。)

稲毛三郎重成(しげなり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にあり、鎌倉の第1防衛拠点である枡形城で、病に伏せるようになりました。彼女は、頼朝が討伐した奥州藤原軍の亡者たちが、多摩川を越え枡形城へ押し寄せようとしているのが見えるのです。
1189年、奥州合戦から帰国した三郎は、衰弱した綾子を診た今若(義経の兄)と会って話しを聞きます。今若は、病気の原因を見破り、綾子の命を亡者たちから助けているのが、江の島の弁財天であると予想しました。そして今若は、綾子の状況について綾子の父・北条時政(以下時政)に伝え、弁財天に話しを聞きに行くよう書状にて勧めたとの事でした。
②江島神社(江の島)の神紋
も北条氏と同じミツウロコ

1190年、江の島の弁財天を訪れた時政に、弁財天は、鎌倉の鬼門から来襲する奥州の亡者、裏鬼門から来襲する平家の亡者の話をし、これらから綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要であることを伝えます。

そして畠山重忠(以下、重忠)、三郎、時政の3人でこの国難を乗り切るよう、自分の蛇の化身の鱗(うろこ)3枚を残して海に消えるのです。この3つ鱗が、後々北条氏の有名な家紋となるのでした。(写真②

2.頼朝の上洛

時政は、江の島の弁財天に何か背中を押されたような気分になりました。
以前より自分が幕府の執権に留まるだけでなく、実質的な政権運営をしたいと考えていた矢先のことです。
この機に乗じて生贄に差し出すのは頼朝公にしよう。さすれば、政権運営と同時に、綾子も鎌倉の人々をも助けることが出来ると考えたのです。早速、彼は策を練りはじめました。

ちょうどこの直後、頼朝は朝廷への奥州合戦勝利報告と、後白河法皇との積年の対立構造解消のため、1千騎を従えて上洛します。頼朝は約束通り、三郎及び重忠を従え、上洛を果たすのです。重忠は、この上洛軍の先鋒を務める程の張り切りようでした。(絵③
③頼朝上洛図(歌川貞秀作)
この上洛はたったの40日間でしたが、それでも頼朝と後白河法皇との対面は8回を数え、両者のわだかまりは消えたかのように見えました。ところがこの時、法皇らが頼朝に下賜くださった位は権大納言・右大将であり、かねてから欲しいと頼朝が要求していた「大将軍」では無かったのです。彼は直ぐにこの役職を辞任し、2年後、後白河法皇の崩御直後にやっと「征夷大将軍」を改めて拝受することになるのです。

最後の最期まで、大狸だった後白河法皇に頼朝は翻弄された訳ですね。

一方、この上洛中に、三郎と重忠は、時政から「折り入って話しがある」との申し出を受けます。

3.時政の策謀

時政の京の宿所へ招かれた三郎と重忠の2人。
下座に着座する三郎と重忠。自分達の義父である時政が上座に着くと、2人は平伏します。

時政は静かに話しを始めます。



「さて、このたびの鎌倉殿(頼朝公)上洛同伴、大儀であった。これで名実ともに武家社会の再構築は完成し、鎌倉殿も満足げじゃったな。」
「お義父上、この歴史的な上洛に関して、私、先鋒を務めることが出来た栄誉に身も震える想いでございます。」と重忠。
「おお、そうであったな。重忠は鎌倉殿の片腕のような働きであった。なるほど平安末期から機能不全に陥っていた武家社会を再構築した頼朝公は大したものだ。だがの、短兵急で作り上げたこの社会、色々と問題も出ておる。思えば源家は100年前の義家の時代から血塗られた一族。源義仲(木曽義仲)や義経殿を見てみよ。日本を実効的に支配する力はない。平家の血をひくわしが日本の実質的な主になる。」

「な、なにを言い出すのですか。」
④上洛中、三郎と重忠に話しをする時政(イメージ)
※3つ鱗の紋章が旗(左上)や幕に見られます

「源家は古いモノを打ち破り、革新的な社会機能は作れても、それを永代に渡り運用できる能力はない。実はな。先日江の島の弁財天に岩窟の中でお会いして来た時にお告げがあったのじゃ。源家が日本の主では、この国は安定しない。よって平家の末裔である北条が日本の主を務めよ。もしお前の子孫が正しい運用が出来なければ、七代以上は続かないから覚悟しろと。」


「かなり乱暴なお告げですな。」あまりに藪から棒な時政の言い分に不満顔の重忠です。

「重忠。おぬし、今でこそ鎌倉殿への情が移っているようであるが、10年前、平家側から源家側へ鞍替えする時に、何と言っていたか覚えておるか?」

「はあ?」

「『私(重忠)は、平家方として石橋山合戦で鎌倉殿へ刃を向けただけでなく、自分の祖父である三浦義明(みうらよしあき)さえ討ち取った程の覚悟で、源家と敵対してきました。これは私の中に流れる秩父平氏の血。』とそなたは申しておったではないか。」

「・・・」
重忠は、時政の指摘が確かなのでうなだれました。



三郎は黙っていました。時政は娘・綾子のことには触れません。あくまで自分の策謀を正当化する事しか言っていないのです。やはり、綾子への親子の情で国家の一大事を語る訳にはいかないとお義父上は考えているのだろうか。

そして時政は、最後に3つ鱗の話を2人にし、今後北条家が政権の主導権を取れるように、この紋章を家紋にする覚悟だと述べたのです。この覚悟を聞いた2人は、時政の並々ならぬ情熱に心を揺さぶられましたが、まだ時政の勝手な立身・保身のためだけではないかとの疑惑は払拭しきれません。(絵④

三郎は、今若が時政に綾子の話をしているのを知っていますので、時政に聞きます。
「綾子は・・・、綾子は良くなるのでしょうか?」
「うむ、良くなる。そして鎌倉の多くの命が助かるのじゃ。」

綾子を助けたい一心で、三郎は言います。

⑤富士山の西側に広がる朝霧高原
「私は、時政殿に従います。」
この三郎の一言で、重忠も時政についていく覚悟を決めました。

4.曾我五郎 



それから2年後の1192年7月、頼朝が念願の「征夷大将軍」に任命され、主だった武将は祝賀のため鎌倉に集まりました。

時政は、この祝いの席で頼朝へ献策します。征夷大将軍になられた武将のトップの威光を世間に知らしめるためには、当時の軍事演習である「巻狩り」の大規模なものを開催しては如何でしょうか。

場所は時政の領地の近く、富士山の東側の裾野から南廻りに西側へと獲物を勢子(せこ、鉦などの鳴り物を叩きながら獲物を驚かせて移動させる人夫たちで追いこんで行きます。開催時期は、後白河法皇の喪が明ける来年(1193年)の3月以降と献策するのです。(写真⑤

頼朝の快諾を得た時政は、早速鎌倉に祝賀に来ている三郎・重忠を自分の屋敷に呼び寄せます。
「三郎、綾子の病状はどうだ?」 「はっ、私の見る限り、一向に回復の気配も見られず、却って徐々に悪化しているようにも見えまする。相変わらず『橋を!』とうわ言ばかり申し、熱にうなされる日々でございます。」
 「そうか、では急がねばならないの。例の件1つ具体的な策が出来た。」

三郎と重忠は顔を見合わせます。
時政は続けます。
「現在、わしの元に、伊豆の国衆だった河津祐泰(かわづすけやす)次男坊が飛び込んできた。祐泰は知っての通り、同じ伊豆の国衆・工藤祐経(くどうすけつね)と土地問題が発端となって祐経に殺されてしまったのじゃが、この次男坊・父親・祐泰の仇が討ちたくて仕方が無いようじゃ。とりあえず、烏帽子親(成人式を司る名付け親、武士としては実の親よりも大切と言われた。幼名から改名する名を与える役割も持つ)をわしに勤めて欲しいとのことじゃった。」

「わしは、これを引き受け、奴に『時致(ときむね)』と、わしの一字を(いみな)として与えたのじゃ。母親の再婚先・曾我家の息子として、曾我五郎時致と名乗っておる。」(絵⑥右

「時致の兄は、この曾我家を継いでいるため、名を曾我十郎祐成(すけなり)と言うのであるが、弟と一緒に父の仇討ちをしたいとのことじゃ。」(絵⑥左

「わしは今回、彼らの本懐を遂げさせたいと考えておる。そこで鎌倉殿に『富士の巻狩り』を提案し快諾頂いた。」

「その仇討ちとやらと、2年前にお話し下さった話しとどう関係があるのです?」
じれったそうに重忠が問いただします。

時政は重忠をじっと見つめた後、三郎と重忠を手招きしました。2人はそろそろと時政の近くに寄ると、彼は囁きます。

「曾我五郎時致を使い頼朝公を殺る! 鎌倉のため、そして綾子のためにも頼朝公に生贄になってもらう必要があるのだ。」

5.富士の巻狩り(上)

1193年5月、頼朝は、征夷大将軍たる権威を誇示するための大軍事演習として富士の裾野で大規模な巻狩りを行います。(絵⑦
⑦富士の巻狩り(神奈川県立歴史博物館蔵)
⑧東名御殿場付近から愛鷹山を臨む(富士山は画面右外)
手前のなだらかな丘陵が富士山南側の裾野
巻狩りは、時政の提言どおり、富士山の裾野の東側(現在の静岡県御殿場辺り)から始まり、西側(現在の朝霧高原)にまで及びました。

現在でも東名高速の御殿場IC辺りから南の愛鷹山方面にある富士山の裾野は平たくて広大ですね。この裾野伝いに朝霧高原まで巻狩りを行った当時の遠景は、現在とあまり違わないのではないかと想像してしまいます。(写真⑧

『吾妻鏡』には「(弓の)射手たる輩の群参、あげて計ふべからず 云々」との記述があり、相当数の武将たちが参加したと想定されます。

この大規模な狩りは、色々なエピソードを生み出します。
頼朝の息子である頼家が鹿を倒したことを、わざわざ鎌倉に居る政子に報告するも「それがどうした、大将軍の嫡子なら当然やろ」発言問題、新田四郎による大猪退治、工藤家長老の神鹿の怪異等々です。

巻狩りも終盤・頼朝は時政らによって準備された朝霧高原の宿所に入りました。この周辺に武将達の宿もあります。(写真⑨写真⑩参照)
⑨巻狩り終盤の頼朝の宿
住所もその名の通り狩宿地区にて
⑩頼朝の宿所から見える富士山
※笠をかぶっています
そして狩りは勢子の獣の追い込み・弓射手による大猟を経て大成功のうちに終わります。

頼朝の宿所から約1.5㎞の白糸の滝の周辺で、獲った獲物を肴に最後の酒宴が開かれていました。遊女も呼んでの大宴会、その中に、曽我兄弟が仇討ちをしたいと願っている工藤祐経も居るのです。

(つづく) 

お読み頂き、本当にありがとうございます。
上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。

【頼朝の宿所:狩宿の下馬桜】のGoogleMaps