①小机城攻撃時に太田道灌が 歌を詠んだとされる硯松 |
小机城に関する史跡巡り第2弾です。
1.硯松について
15世紀、長尾景春の乱で、景春に味方する豊島氏と小机弾正らの地方豪族が小机城に立て籠もっているのを、攻める太田道灌が詠んだ歌です。(写真①)
太田道灌は、この戦国時代が始まろうとした時期に、まだ珍しかった足軽隊というものを編成し、その機動力を活かして、関東の戦で連勝した武将です。
その太田道灌が、小机城を攻める時に、足軽隊に上記の歌を歌わせて、景気付をしたと伝えられます。
流石、歌人でもあった太田道灌らしいエピソードですね。
右の写真が、太田道灌がこの歌を詠んだ場所と言われる硯松です。現在、当時から4代目で少々小ぶりになっていますが、当時はかなり大きな松だったとあります。
2.太田道灌について
しかし、当時の関東の状況は、後の戦国時代の時のように、誰が敵で誰が味方で、誰が勝ったのか負けたのか、はっきりしない時代でした。
②東京国際フォーラムに建つ 太田道灌像 |
1432年~1486年。ちょうど応仁の乱の頃に活躍した人物です。
この頃、応仁の乱等で、歴史の中心は京都であり、関東は結構野放し状態でした。
鎌倉時代に幕府のあった関東は、室町時代に入って、足利将軍もちゃんと抑えなければならない地域として、関東管領職を設置し、足利家の親戚によって統治してきました。
ところが、この時期になるとこの統治機構が暴走をしはじめ、全部一つ格上げして、京都と並ぶ役職名となっています。
つまり、関東管領であった関東足利家は、関東公方と称し、その執事役である上杉家が関東管領職となったのです。この上杉家の家老または執事の一人が太田家でした。
一人がと言ったのは、上杉家自体が、山内上杉と扇谷上杉の2家に分かれていたのです。山内上杉が本家、扇谷上杉が分家。山内上杉の家老が長尾家、後には、長尾景虎(上杉謙信)が有名ですね。扇谷上杉の家老が太田家、太田道灌の出番です。(図③)
で、野放し状態の関東では、この家老の長尾家の家督争いで、長尾景春という武将が反乱を起こし、関東豪族達を捲きこんで、大暴れ(?)。
③山内上杉家と扇谷上杉家 |
更に酷いのは、関東公方足利家も、長尾家の味方をしたり、上杉側についたりと、全くガバナンス機能を発揮することなく、一勢力として、あっちこっち掻き回していたことなんです。
公方とか称しておきながら、行動は本当にしょうも無いですね。
個人的には、この時太田道灌も長尾景春と一緒に、下剋上的に上杉家、足利家を追い回せば、後の戦国時代期に、北条氏が関東支配する代わりに、太田家が関東支配も夢ではなかったのにと悔やまれてなりません。
長尾景春も、太田道灌を乱に誘った形跡があるのです。
ここで乗らなかったのは、やはり歌人でもある太田道灌の教養の広さが、軽はずみを自重する自制に繋がったからではないかと思います。
④山吹をさしだす娘さんの絵 |
なんのことやら分からず、雨に濡れながら、ぷりぷり怒って帰った太田道灌に、家臣が、それは後拾遺和歌集の
「七重八重花は咲けども山吹のみ(蓑)の一つだになきぞ悲しき」
に掛けた風流な断り方だと伝えたところ、恥じ入って歌の猛勉強をしたのです。
私も小学生の頃、この話を読んで、偉い人は考えることが違うと感心したものです。
に掛けた風流な断り方だと伝えたところ、恥じ入って歌の猛勉強をしたのです。
私も小学生の頃、この話を読んで、偉い人は考えることが違うと感心したものです。
冒頭の小机城攻略時の歌も、そんな歌人となった太田道灌らしいエピソードです。
しかし、最後は、主君である上杉家に暗殺されてしまいます。主君より実力のある太田道灌を恐れたので、暗殺したという説もあります。
そんな結末ならやはり、後の戦国武将のように、下剋上しておくべきだったのでは?とも思いますね。あまりに素直な生き方です。
そんな結末ならやはり、後の戦国武将のように、下剋上しておくべきだったのでは?とも思いますね。あまりに素直な生き方です。
3.早雲に殺された太田道灌
この太田道灌と対照的なのが、この頃小田原に進出してきた北条早雲です。この戦国時代先駆けの下剋上バリバリの人物は、太田道灌と同い年の人です。
道灌とも交流があり、道灌と仲が良かったとの説もあります。このあたり、逆にどうもこの人物が道灌暗殺に一役かったのでは?と怪しまれる所以です。
というのは、16世紀に入って、早雲は、上杉家とかなり対立します。扇谷上杉を河越城で破る等、道灌亡き後になって、対立活動が活発化します。
有能な道灌を、自分で殺すには、損害が大きくなる可能性が高いので、上杉家に殺させ、その後に上杉家を叩き潰すという戦略だったのではないかと疑いたくなります。
前々からその可能性を考えていたのですが、最近、童門冬二氏の小説を読んでいたら、同じことが書かれていたのには驚きました。童門氏は、勿論それが暗殺の全ての原因では無く、他にも色々とある中の一つとしてあげてはいます。
しかし、同い年生まれで、戦上手な大人物でも、このように大きく権謀術策型と、忠節ストレート型に分かれるのが、この時代の面白いところかもしれませんね。
4.太田道灌の不思議2つ
今回、小机城の関係を見て廻った時に2点分からなかったことがあります。
1点目は、この硯松は、小机城の南側、2~3kmの場所にありますが、「小机城① ~城址跡を訪ねて~」でご紹介した陣立てのように、太田軍は、鶴見川を挟んで小机城の北東亀の甲山に陣を張っています。
元々、太田道灌は江戸城から、この城を鎮圧に来たのですから、亀の甲山に陣を張るのはよく分かります。江戸城は小机城から見ても北東側ですから。
ただ、この歌を詠んだのが、なぜ小机城の南側なのでしょうか?
一説には陽動作戦で、軍を2分し、亀の甲山は囮、硯松が本軍だったと、川中島の上杉謙信バリの戦術だったというのがあります。
確かに硯松の場所は高台になっており、ちょっと高い櫓か何かを立てれば、北の小机城方面の見通しは良かったような雰囲気の場所でした。(実際、この松の近くのアパートの4階に上っては見ましたが、今は構造物が多いので、城山までは確認できませんでしたが・・・)
でも、正確なところは良く分かりません。
⑤鎌倉にある太田道灌の首塚 |
2点目は、太田道灌は、伊勢原市の扇谷上杉氏の館に招かれて、そこで暗殺されています。
であるのに彼の首塚は鎌倉にあるのです。何故なのでしょうか?かなり朽ちた首塚が北鎌倉からのハイキングコースにあります。(写真⑤)
両不可思議な話には、多分、鎌倉方面との係りが何某かあるような気がします。
これからも更に調査を進め、また何か分かれば是非、このマイナー史跡巡りに掲載したいと考えております。
それでは、小机城についての記事はこれにて一旦終わりにしたいと思います。
ご精読ありがとうございました。
【硯松】神奈川県横浜市神奈川区羽沢町993