マイナー・史跡巡り: 12月 2016 -->

日曜日

善光寺と戦国武将について ~歩き廻る御本尊~

私は、このブログ調査のために行った場所で、他の史跡等にもついつい寄り道をします。

甲斐善光寺にて
寄り道した場所の話はショートなものなので、もう一つの拙著ブログ「Tsure-Tsure」の方に「外小話」として掲載するのですが、今回の話は、ショートではなくある程度ちゃんとお話ししたいので、こちらのブログに掲載し直しました。

さて、何の話かと言うと

「牛にひかれて善光寺参り」

と言っても、本元の信濃善光寺ではなく、甲斐善光寺です。

【※写真・地図・絵はクリックすると拡大します。】

1.甲斐善光寺

ご存じのように、「牛にひかれて善光寺参り」とは、ことわざで、
信濃善光寺御開帳

「思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ。」

なので、今回「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」のブログ関係で訪問した東光寺の帰りに、この甲斐善光寺にお参り出来たことは、偶然とは言え、きっと良い方面へ導かれていると信じます。(笑)

善光寺が、何故このことわざになる位、全国的に有名なのかについては、諸説ありますが、私が思うに

「宗派を問わない」ことと、「一生に一度お参りすれば、極楽浄土へ行ける」と言う簡素ながら分かりやすい教えが広まったお陰だと思います。

遠くとも 一度は詣れ善光寺
救い給うぞ 弥陀の誓願

甲斐善光寺の前立仏
本家本元の信濃善光寺は、去年5月に、最大の行事である7年に1度の御開帳の最中に、15歳の少年がドローンを飛ばし、墜落させたことでも、ニュースになりましたね。

ドローンというIoT時代のエッジ的な技術と、善光寺や姫路城(白亜に塗り替えられた姫路城にもぶつかって墜落しました。)等の日本のレガシーとの共存が話題性を持っていたように感じます。

彼も上空からの御開帳の中継に熱心の余りの墜落行為だったようです。

このように、どの時代の日本人をも惹き付けて止まない善光寺ですが、御本尊(如来像)は秘仏で、誰も見たことがありません。

代理の如来像を前立仏と言います。

これは全国に複数あります。

信濃善光寺の御開帳時でも、前立仏を御開帳し、あくまで御本尊は出て来ません。(これについては後程またお話します。)

また、現在の甲斐善光寺にも、この前立仏が、この寺の本尊として祀られているという訳です。

2.実はアクティブな善光寺御本尊

このように、丁寧に、信濃善光寺の奥の奥にしまってある感の御本尊・秘仏如来像ですが、実はかなりアクティブな仏像様なのです。

歴史のメインストリームに自ら積極的に係わりに行っています。

(1)欽明天皇、蘇我氏、物部氏

御本尊は、天竺(インド)で作られ、百済(韓国)へ渡り、そして日本の欽明天皇のところにやって来ます。

甲斐善光寺本堂
欽明天皇は、この仏像を拝むべきか、蘇我氏物部氏に相談しました。

そもそも蘇我氏は仏教擁護派、物部氏は反対派であることは有名です。

後の聖徳太子は、蘇我氏側で、物部氏を蘇我氏と一緒に滅ぼしたからこそ、法隆寺を始め、伝来仏教の普及を行うことができたのです。

話を戻しますが、欽明天皇の問いかけに蘇我稲目(そがのいなめ)が拝むべきということで、蘇我の屋敷に持ち帰り、お堂を建てました。

ところが、この後、全国に疫病が流行しました。

それみたことかと八百万の神信仰の物部尾輿(もののべのおこし)が、蘇我氏の屋敷を焼討にし、この御本尊を難波の堀へ投げ込んでしまうそうです。かなり過激な行為に思えます。

数年後に、本田善光という信濃(飯田市)の人が、この堀を通りかかると、「善光、善光・・・」と言って、御本尊がこの人の前に堀の水から飛び出してきました。

そして本田氏が、信濃にご本尊を持ち帰り彼の名前「善光」を取って、今の善光寺の基となった訳です。


(2)上杉謙信、武田信玄(川中島の戦い)
信濃善光寺と川中島は8km程度しか離れていない

その後、源頼朝が詣でたりしましたが、著名人が神社・仏閣に詣でるのは、ある意味珍しくはありません。

この御本尊の凄いところは、自分から移動するのです。

縁起にあるように、天竺から信濃まで移動してこられたのが最初だとすると、次の移動は戦国時代なのです。

戦乱の世が大丈夫かどうか、御本尊自ら歩き回って確かめたようです。

当時、信濃善光寺のすぐ近くでは、あの有名な川中島の戦いで、上杉謙信と武田信玄が国境紛争を繰り返していました。

当然、紛争地域のこの善光寺が戦火にまみれて、御本尊が燃えてしまわないかと、両武将とも心配します。一応、両者とも坊主ですからね。とてもそうは見えませんが。特に信玄(笑)。

右上の写真を見ると分かるように、川中島古戦場と善光寺は2里(約8km)しか離れていません。

まず謙信から、御本尊を新潟は直江津に持ち帰る行動に出ます。

第4次川中島合戦
但し、この時は実は偽物を掴まされていたそうです。

既に善光寺には信玄派の人間が入り込んでいたのです。

そして、1558年、あの有名な謙信と信玄の一騎打ちが行われる第4次川中島合戦の3年前に、信玄は甲斐に御本尊を含め、信濃善光寺組織ごと甲斐善光寺へ移行したのです。

甲斐の人々は狂喜乱舞しました。逆に長野の人々はがっかりします。

その恨みもあってか、あの第4次川中島合戦は世に残る大戦(おおいくさ)になったのかも知れません。(写真右上)

(3)織田信長・徳川家康

1582年に武田勝頼は、田野にて滅びます。

この時、甲斐善光寺の御本尊は、甲州征伐の総大将である織田信忠の弟である信雄(のぶかつ)によって、尾張清州城下に持ち去られます。

そして、ここでもまた御本尊は、滅びゆく織田家を見る訳です。本能寺の変の後、この善光寺御本尊を引き継ぐのは徳川家康です。

彼は、御本尊を甲斐善光寺へ戻しました。

武田家が1582年の3月に滅び、織田家が3か月後の6月に本能寺の変と短期間に大物武将が亡くなるを見て、世間では少しづつ、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」とか「武田家の怨念だ」と言う噂が出始めました。
方広寺の大仏頭部
(頭部の木像のみは近年まで残っていたそうです)

家康も当初は、浜松の鴨江寺に移したのですが、この祟りの噂を聴いたのか、直ぐに甲斐善光寺に戻しています。

(4)豊臣秀吉

さて、最後に御本尊が出向いて会うのは、豊臣秀吉です。

1596年の慶長元年に、近畿を中心とした大地震(推定マグニチュード7.5)が起きます。

夜中に起きたこの大地震、当時伏見城に居た豊臣秀吉は、かなり慌てふためいた事でも有名ですが、この地震により、当時建設中であった方広寺の大仏殿が崩れ落ちます。

奈良東大寺の大仏より大きくしようと、秀吉は自分の権力の一つの象徴にしたかったので、この崩壊は痛いところです。
方広寺の鐘

そこで、大仏に劣らぬ権威と思い、甲斐善光寺より、また御本尊を方広寺にお連れし、方広寺の御本尊とする訳です。

ところが、これをした頃から秀吉の体調が崩れ始めます。

もしかすると、甲斐善光寺の御本尊を方広寺へと勧めたのは、豊臣家を退け、天下を狙う家康ではないか?と私は邪推します。

ただ、世間でも当時盛んに「善光寺御本尊の祟りでは?」と噂されたようです。

そして、ある日この御本尊は秀吉の夢枕に立ちます。

「秀吉や。そろそろ、信濃の国へ帰しておくれ。」

慶長3年(1598年)、秀吉は急いで信州長野の現在の善光寺へ御本尊を送り返しましたが、御本尊が出発した翌日、秀吉は亡くなりました。

そして、御本尊が居た方広寺は、彼の有名な「国家安康」で「家康」の2文字を切り離したという言いがかりを付けられ、豊臣家が滅びるきっかけとなったことは、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」の法則に則ったものでした。

雲海の下にある甲斐善光寺
ざっと40年間、善光寺御本尊は信濃善光寺を出て、戦国時代の時の有力者たちを見回して、信濃へ戻ってきました。

3.おわりに

如何ですか?

このように有名武将の間を時代の流れとともに、全国を回ってきた仏像は珍しいと思います。

ところが、意外な事に、この御本尊、誰も見たことが無いのです。

これは、我々のような一般庶民が ということではありません。信濃善光寺に運ばれてから10年ほど経つ頃に自身のお告げにより、御隠れになったと、縁起に書かれています。

「聖☆おにいさん」のブッダ
なので、現在に至るまで参拝者のみでなく、善光寺の僧侶ですら見たことが無いのだそうです。

一応、善光寺本堂の厨子の中に安置されているということですが、Web等では「本当にあるの?」「誰も見たことないってどういうこと?」等の疑問が結構出ています。

もしかしたら、御本尊を見たら・・・

等、考えてしまいます。

また、このようにアクティブに出回る御本尊は、生身(しょうじん)すなわち本当に生命が宿っている霊像として信じられています。


もしかしたら、結構、身近にお友達感覚で、我々と一緒に生活しているかも・・・
雲海で湖のような甲斐の国

と最近流行った漫画で、聖人2人が若者の姿で、東京の下宿生活を、「バカンス」と言って過ごすという「聖☆おにいさん」というのがありますが、その中の主人公の1人がブッダ。(右上絵)

不謹慎で申し訳ありませんが、御本尊がこの漫画のようなキャラクタだったらと、勝手に想像してしまい、1人で吹き出しながら、雲海で湖のようになった甲斐の国を後に、東京に車を走らせていました。

ご精読頂き、ありがとうございます。

三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~

①三増峠合戦場
前回まで3回に渡り、三増峠の戦いについて、その歴史的背景から戦本番まで解説しました。(写真①

今回は、戦のその後ということで、北条軍を中心に、ヤビツ峠の話と、この戦に関係する北条方の人物を取り上げたいと思います。

三増峠の戦いの拙著ブログを読んでいらっしゃらない方は是非シリーズ①をご笑覧頂けると幸いです。

1.ヤビツ峠の餓鬼伝説

さて、三増峠の戦いでは、武田・北条合わせて4000人以上の死者が出たことは、前回のブログで書いた通りです。

また、戦当日の夕刻辺りに、赤備えの山県昌景隊が、北条軍の裏側に廻りこみ、北条軍に大混乱を引き起こしました。

②妖怪「餓鬼」 いつも腹を空かしている
北条軍が散り散りになって、近くの山々へ逃げ込んだということも書いた通りです。

さて、この散り散りになった北条軍の中には、丹沢山中を彷徨い、餓死した兵士がいました。

丹沢にはヤビツ峠という、有名な峠があります。

私も子供の頃から、秦野駅から出る神奈中バスの表示板に「ヤビツ峠」とカタカナ表記されているのが、日本の地名なのに漢字表記でないのは珍しいなと思っていました。

このヤビツ峠、「矢櫃峠」という説があります。三増峠の時に、彷徨った北条の兵士が背負っていた「矢櫃」を投げ捨てて登ったのだとか。

で、この峠で餓死した兵士は、妖怪「餓鬼」となり、この峠を越える人に乗り移るのだそうです。(絵②
③ヤビツ峠を通って小田原へ

なので、この峠を越える時、旅人は異様な空腹感に悩まされ、歩行困難に陥るという伝承が、三増峠の戦い以来、江戸時代を通じて約400年間まことしやかに伝えられ続けています。

そこで、三増峠合戦場に行った帰り道、このヤビツ峠を越えてみることにしました。

自分の体に「餓鬼」が乗り移るか!?伝承に対する捨て身の実験です(笑)。

さて、ヤビツ峠は、三増峠の合戦場から約30km南西の方向にあり、ちょうど小田原への撤退ルートの途中にあります。

現在は途中に宮ケ瀬湖がありますが、当時はこの人造湖はありませんから、三増峠を出るともう直ぐ丹沢山系の中を彷徨うことになります。(地図③

私も、この峠に向かう道路に驚いたのですが、かなり狭いです。昔、紀伊半島を一人で車で廻った時にも、かなり狭い林道を30km以上走り続けたのを覚えていますが、あの時のような道が神奈川県にもあるとは思いませんでした。

時刻も16時を回っていたので、周囲は薄暗くなり、途中何度か車のすれ違いが在るたびに、どちらかが、すれ違えることが可能な場所までバックし、やり過ごすというような走り方をしました。

④道は細く山は険しい(奥に見える山がヤビツ峠)
かなり寂しい場所です。(写真④

こんな寂しい山奥を、手負い状態で、逃げる北条軍の兵士達はさぞ大変だったのでしょう。

今でこそ、寂しいと言っても道路がある状況ですが、当時はきっと獣道のような道だったでしょうし、なんとか太陽の方向で方角だけは分かったとしても、この険しい山道が一体いつ終わるのか、空腹感と不安で一杯だったのでしょう。

と思うと、急に寂寥感が襲ってきました。

俺は、こんな処で何をしているのだろう。ブログを書くため?どうせ暇人の娯楽だろう。

手負いで、彷徨しながら、餓死して行った北条軍の気持ちを、本当に考えられる訳でもないし・・・

運転しながら、だんだんと、ブラックな気分に・・・

こ、これはヤバい!もしかしてそろそろ来たか!!
⑤通行止めでした

確かに、空腹も感じ始めました。この伝承は、かなり信ぴょう性が高いかもしれない・・・

と、その時、何と写真⑤のようにヤビツ峠6km手前で通行止の看板が・・・

看板の前で、車を降りると、看板の奥で、何やら、ゴソゴソと動く物音が、看板の裏の林の中からします。

餓鬼かっ!

殆ど暗くて見えなかったので、かなり慌てましたが、餓鬼ではなくて、鹿でした。(写真⑥

時計を見ると、既に18時を廻っていました。昼飯オニギリ2つのみでしたので、お腹が空く訳です。

⑥ガキではなくてシカ
ということで、幸か不幸か、今回のこのわが身を挺した伝承の検証については、通行止めで分からずじまいでした。

また12月16日以降チャレンジしたいと思いますが、どなたかヤビツ峠を越えた時に強い空腹感を感じられた方いらっしゃいましたら、玉木までご連絡をお願いします!

2.その後の早川殿

さて、話変わりますが、最近の戦国バサラもののゲームソフトは、意外と日本史の人物を幅広く調べ、その特徴を上手くビジュアル化してあるなあと感心します。

例えば、シリーズ①で出てきた、駿河攻めで信玄と意見が合わず東光寺に幽閉された武田義信は、右の絵のように、幽閉されている雰囲気が上手く描かれています。(絵⑦

⑦東光寺の義信
また、武田・今川・北条の三国同盟で交換しあった政略結婚の姫の中で、早川殿という今川氏真に嫁いだ北条氏康の娘についても、同じシリーズの①で、ちょっと触れました。

この人についてのゲームの中での描かれ方も、右下図左のように、父親である氏康との2ショット、なかなか美人に描かれています。(絵⑧

早川殿は、信玄の甲相駿三国同盟破棄の結果として、3カップルの中で、唯一最後まで破局しなかったことや、武将として無能と言われ続けた今川氏真を、陰ながら支えたという、優秀でありながら、一途な女性であったことから、気立ての良い、美人として描かれることが多いです。

今川氏真が、信玄に駿河を追われて、掛川城に逃げた後、結局、氏真は掛川城を開城します。

早川殿の父親、北条氏康が婿である氏真を客分として、小田原城下へ迎え入れるのですが、その屋敷を小田原城の西側を流れる早川沿いに建て、そこに住んだので、早川殿呼ばれるようになったのです。

⑧左:「戦国無双」の早川殿
  右:「信長の野望」の早川殿
ちなみに、「信長の野望」の早川殿は、まるで今風の可愛い女性として描かれています。(絵⑧右)

しかし、この方、単なる可愛い女性だけはないことが、次のエピソードから分かります。

氏康が無くなった1571年に、再び甲相同盟が北条氏政と信玄の間に結ばれ、小田原に居る今川氏真追討のために武田信玄が兵を廻します。
⑨今川氏真

屋敷に兵が到着し、氏真を捉えようとした時、早川殿は激怒します。

そして、小田原から譜代の水軍に、早川の河口から船を仕立て、白昼堂々と、氏真と一緒に小田原城下を脱出したという話です。

その後、氏真との間には4男1女を設け、江戸で氏真に看取られながら亡くなります。ちなみに氏真も77歳まで徳川の高家としての知遇を受けながら、こんなに素晴らしい女性と一緒に、一生を全うしているところを見ると、武将としては残念だった彼も、この時代の人間としては幸せな一生だったのかも知れません。しかし、大体ゲームに描かれる氏真は、こんな感じになってしまいます(笑)。(絵⑨


3.間宮氏について

結構最近なのですが、平成10年にこの古戦場の辺りで、人骨と六道銭が発見されました。(写真⑩
⑩間宮善十郎遺骨発見の看板

どうやら、間宮善十郎という北条の家臣の骨のようなのですが、この善十郎を含む、間宮氏というのは、私事で恐縮ですが、私の実家の直ぐ近くの笹下城という城の城主でした。(写真⑪
⑪幻の笹下城※左上の住宅街の辺りが本丸跡
間宮氏は、横浜を本拠とする北条の大水軍だったのです。
先に早川殿が譜代の水軍を使ってとあるのは、この間宮水軍かもしれません。

間宮氏の子孫に、間宮林蔵が居ます。

ご存じのように、彼は江戸の後期に、樺太が半島ではなく、島であることを発見したこと等、有名な冒険家として、またロジアからの海防に非常に役に立つ人物として名をはせました。

また、間宮林蔵と同時期に杉田玄白という人物がいます。

ドイツの解剖医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を書き上げ、日本の医学の開拓者となった人です。

笹下城から、横浜の磯子の浜に向けての土地が「杉田」となっていますが、彼は、ここ杉田の出身で、実は間宮氏の子孫なのです。

間宮林蔵と杉田玄白、両者とも分野は違えど、江戸時代には珍しいパイオニア精神に富んでいる人物であることは確かですね。

きっと大水軍であった間宮水軍の血を受け継いでいるからなのでしょう。

そう考えると、この三増峠で戦死した間宮善十郎という人物も、きっと気骨のある勇敢な漢だったと想像します。

ただ、水軍の頭らしく、海で死にたかったでしょうが、不運にも、多分一番苦手である山岳戦で若くして命を落とすとは、無念だったと思います。

大丈夫。一族のご子孫が大活躍されてますよ。と、三増峠合戦場の墓前で手を合わせておきました。

以上、
雑多ですが、三増峠の戦いに関係した北条軍について、シリーズで書き残したことをここにブログとして残すことができました。

お読みいただき、ありがとうございました。

三増峠の戦い③ ~信玄の山岳戦~

絵①をご覧ください。これが三増峠古戦場にある看板に描かれた両軍の配置図です。黒が武田軍、赤が北条軍です。
①三増峠の戦いの両軍配置図


 「あれ?」と前回のこのシリーズを読まれた方は疑問に思うでしょう。

前回のシリーズでは、北条軍が武田軍を迎え撃つために、山岳戦に有利である高台を占拠して待ち構えた、と書いたからです。
ところが、この看板の配置図は、どう見ても、武田軍が高台を占拠しています。
②上図北条軍の最前線(北条氏照軍のあたり)
から武田信玄の本陣方向を臨む

実は、この地図は、武田方の古文書「甲陽軍鑑」を基に作成されています。間違っているのでは無いと思います。
前回の話では、待ち構える氏照・氏邦と追いかける氏康・氏政に挟撃される筈だった信玄が、このような逆転現象を起こした事こそ、信玄がこのような戦を、最初に碓氷峠を越えて、関東に入った時から構想し練っていた証拠だと思っていますし、またそこが信玄の恐ろしくも偉大な戦上手、戦の神様と言われた証左なのです。

結論から言いますと、この配置はこの戦いの中盤から終盤を表しており、信玄は、北条氏照・氏邦らが待ち構えている三増峠に、彼らの作戦を上手く利用しつつ、裏をかいて行き、気が付くと看板のような、完全有利な配置になっていたという訳です。

流石は武田信玄。老練なのも勿論ですが、山岳戦は武田のお家芸、信玄より6つ年上の氏康でも、このお家芸には絶対敵わないというのに、それらの息子ごとき、何者ぞ!という感じの戦い方をしたのだと思います。

では、戦の経過を見て行きましょう。

1.待ち伏せする北条軍の配置

さて、先程の看板の絵を、現在の地図の上に展開すると地図③のようになります。
③看板を地図に落とした図

看板同様、黒が武田軍、赤が北条軍を表します。先程の看板のように、武田軍が山の上、北条軍は山の裾となっています。この状態になるまでをこれから説明します。

④築井城から三増峠と志田峠を臨む
(左が三増峠、右が志田峠)
説明の前に一つ、この地図で意識して頂きたいのは、築井城(津久井城)です。

合戦の前日10月6日の夜中に、信玄は乱波(らっぱ:忍者集団)等を使い、三増峠ではなく、志田峠から密かに築井城下のトウモロコシに火を付け、松明が燃えているように見せかけます。また案山子のような藁人形60体を作り、軍勢が城下直近に滞在しているように見せかけたのです。

これだけで、もう築井城は、北条軍得意のカメ戦法に入りました。翌日の合戦には全く援軍も送らず、甲羅である城に籠ってしまいます。信玄の築井城沈黙作戦大成功です。

さて、日が変わって10月7日早朝です。
この日の北条軍の配置は、右図の通りです。ちゃんと山岳戦の基本、「高いところを取った方が有利」を抑え、三増峠に差し掛かる武田軍を東側山麓で、整然と待ち構えています。

ここで北条軍の中に氏照・氏邦以外で北条綱成という武将が居ることにご注目ください。
⑤武田軍を待ち構える北条軍と小荷駄隊を先頭に進軍する武田軍

この時、待ち伏せする北条軍は1万2千~2万と言われています。勿論、氏照の滝山城や、氏邦の鉢形城の兵だけでなく、江戸城、小机城、玉縄城等、北条氏の名だたる城からも兵を集めています。

北条綱成は、玉縄城の城主であり、北条氏康と同い年です。

また勇猛果敢で若い時から有名であり、大将でありながら、一番に突撃していく無茶ぶり。しかも「勝った!勝った!」と叫びながら突っ込んで行き必ず勝つ、なんとも剛毅で頼もしい常勝の武将なのです。

今回、この待ち構える北条軍の中での総大将というのは決めていないようです。ただ、一番信玄に煮え湯を飲まされた氏照が、その思いと信玄との戦いの経験で、なんとなく総大将的な位置付けになっていたようですが、この綱成のように勇猛かつ親父の氏康と同い年の将が居たのでは、氏照も統一の取れた軍事行動を取ることは難しかったと思います。

⑥右側の山々が北条軍の陣を敷いた場所
と小荷駄隊の通過道
そんな状態を知ってか知らずか、信玄は、この方面に、まず小荷駄隊を、武田24将の1人である浅利信豊護衛の元、三増峠方面へ進めます。

これには訳があります。

武田が小田原攻めをした9年前、北条氏は上杉謙信の小田原攻めの際に、小荷駄隊を襲い、上杉軍がボロボロになると言う成功体験を持って居ます。北条軍は小荷駄隊襲撃は得意なのです。襲いたくなるだろうと。

つまり小荷駄隊は「餌」です。信玄得意の「自軍を餌にする作戦」です。

2.三増峠の合戦①(戦闘開始)
⑦武田軍の合戦における軍展開

さて、この罠に、北条氏照・氏邦は乗りません。乗らないというか、彼らは信玄に痛い目に合わされているので、こんな見え透いた手薄の小荷駄隊が最初に出てくるのを叩いていたら、親父殿である氏康・氏政軍との挟撃作戦が上手く行かなくなる可能性を怖れたのではないかと思います。また小荷駄位が通過しても、武田軍本隊が来ない限り、挟撃まで高所の陣構えは確保しておきたいでしょう。

しかし、ここで、今回信玄に痛い目にはあっていない、氏康と同い年、かつ常勝軍の勇将として知られる北条綱成が黙っていられませんでした。

彼は、小荷駄隊を守備しながら進んで行く浅利信豊に対して、一斉射撃を開始し、攻撃を仕掛けてしまいます。

この一斉射撃により、浅利信豊は見事戦死。

しかし、次の瞬間、武田軍から御諏訪太鼓(武田軍の陣太鼓)が鳴り響きます。

⑧銃弾により戦」死した浅利信豊を祀った浅利神社
それを合図に、厚木方面より一列で北上してきた武田軍が西側の山裾平原に向けて、猛烈な勢いで、展開して行くのです。

「すわっ、やられた!追え、追え!」と、孫子の紺に金字の風林火山の大旗が西に疾走していくのを見て、氏照は、叫びます。

「疾(はや)きこと風の如く」です。

西側の高所を取られてしまったら、山岳戦における北条の優位が保てません。取られる前に、武田軍に一撃を与えたい。

しかし、長く伸びた小荷駄隊とその守備兵たちが行く手を阻みます。彼らの防御力は貧弱ですから、破るのは容易いのですが、ここで足止めを食らう時間が致命傷です。

北条軍がやっと追撃して山裾の平原に出てきた頃には、武田軍は西側の丘の上に、軍の展開を完了していました。

「其の徐(しず)かなること林の如く」だったことでしょう。

その時の軍配置を書いたのが、上記看板になります。
⑨展開後の武田軍と追いかけて来た北条軍の配置
「三増峠合戦場」にある看板の軍配置

上にも再掲しておきますが、看板でも、北条軍の一番先頭に氏照の軍が書かれています。(看板では「北条陸奥守」と書かれていますが氏照のことです)

そこに小さく「orz」(がくっ)と書かれているように見えたのは私だけですね。笑

しかし、畏るべし武田信玄、山岳戦を知り尽くし、あっという間に敵と高所の入れ替わり技を披露してくれました。

信玄は、敵が三増峠で待ち構えているだろうことをかなり前から察知し、築井城への牽制だけでなく、乱波等を使い、この場所の地勢等も詳細に調べた上で、この合戦に臨んだようです。

⑩武田信玄本陣「旗立の松」あたり
なので、武田軍は、三増峠よりも志田峠を抜けるルートを詳細に調べ、ここに陣を張ることを意識したのです。

この戦が無ければ、三増峠を進軍して、築井城を包囲し、落として帰ったかもしれませんが、ここで大戦となると、甲府への撤退ルートは、築井城を避けて通れる志田峠からと考えていたのでしょう。

単に北条とは反対側の高所を取れば良いと考えていた訳では無いのです。

一方、武田軍は築井城へ進軍するであろう、よって、この三増峠の街道を行くに違いないと考えて布陣をした北条軍は完全に裏をかかれました。

3.三増峠の合戦②(勝敗の行方)

さて、皆さん、この合戦、武田軍の最前線で、あの真田昌幸が果敢に戦っています。

武田四天王の1人である馬場美濃守の補佐的な立場ですが、山岳戦に長けた真田昌幸が、それこそ山岳戦の神である信玄の元で、「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」戦っていたのではないでしょうか?
後で武田家滅亡となってしまう、武田勝頼も、この頃は素晴らしく勇猛果敢な働きをしていますね。
武田軍は、それこそ孫子の旗を立てた「旗立の松」の信玄が「動かざること山の如し」で采配する元で、生き生きと戦っています。

⑪信玄の本陣「旗立の松」からは
戦場も厚木方面も良く見渡せる
大河ドラマでは、昌幸も勝頼も、最後死ぬ時に「御屋形様ぁ!」と信玄の亡霊(?)に会って死にますが、奇しくも二人が一緒に信玄の元で大活躍した大山岳戦は、この三増峠しかありません。彼らと信玄が一番輝いていた時と言えるでしょう。

さて、戦も終盤に入ります。日も暮れかけて来た頃、ただでさえ、不利な北条軍に、当時の武田の赤備え隊で有名な山県昌景が、北条軍へトドメの一撃を食らわします。

彼は、その煌びやかな赤備え隊を率い、志田街道を南下、北条軍の背後から襲いかかります。

日も暮れかけて、薄暗い中、北条軍はこの隊に気が付くのが遅れたこともあり、大混乱です。

⑫赤備えの山県隊が北条の背後から襲いかかる
近くの山林へバラバラに敗走します。

この時、氏康・氏政親子は、1万の軍勢を引き連れ、まだ厚木に居ます。そして北条破れるの報を聞くと、さっさと小田原へ引き返します。

この戦で、北条の戦死者は3200人と言われております。武田軍も900人余りは戦死者が出たということで、武田軍の圧勝なのですが、合計で4000人以上の死者を出したというのは、山岳戦では最大規模の戦でした。

あの20万の軍が戦った関ヶ原の戦いでも、死者が3000~8000人と言うことですから、この戦がいかに大きかったことが分かると思います。

4.三増峠の合戦後

⑬雲峰寺にある孫子の旗と諏訪大明神の旗
※どちらも三増峠合戦の「旗立の松」で翻っていたはず
ところで、どうして氏康は、氏照・氏邦を見殺しにするような行動をしたのでしょうか?
そもそも、挟撃を氏照・氏邦から具申されているのであれば、この戦始まる頃には、合戦場に現れて良いはず。

実は氏康は夜を待っていたのです。

彼は勿論カメ戦法だけで、関東を上杉から切り取ってきた訳ではありません。拙著のブログの「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で詳しく書いていますが、彼のもう一つの必殺技というか戦術は

「夜襲」

なのです。デビュー戦の小沢原の戦いは、それで上杉朝興を破り、また河越城を落とした「河越夜戦」は、旧日本陸軍に研究し尽されるほどの腕前。

籠城と夜襲、これが氏康の得意技ですが、山岳戦で信玄に勝てる訳が無いと踏んでいたのです。

なので、彼としては、氏照・氏邦らが、信玄の挑発には乗らずに、たとえ、西側の高所を武田軍に取られたとしても、東側の高所で、対峙して、氏康の到着を待ってほしかったのだと思います。
⑭北条氏康の馬標

多分、綱成が挑発に乗らず、じっと待って居たら、氏康は10月7日の夜半に得意の夜襲で、信玄に鉄槌を下したかも知れません。

まあ、力量のある人程、自分の得意・不得意を明確にして、勝てない戦はしないということでしょうね。

これこそ、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の孫子の言葉は、信玄だけでなく、氏康などの名将も意識されていたのでしょう。

兎に角この戦で、信玄は当初の計画通り、北条にガツンと一発食らわすことが出来ました。

氏康は、2年後の1571年に急速に衰え病死します。臨終に際し、子・氏政に「武田との同盟を復活するように」と遺言したと伝えられ、北条は武田と同年12月、再度甲相同盟を締結するに至るのです。

そして、翌年1572年、武田信玄は、ようやく念願の上洛を開始するのでした。

5.このシリーズの終わりに

3回に渡る長いシリーズを読んで頂き、ありがとうございました。

⑮築井城では遭難しかかりました(笑)
三増峠の戦いは、ある意味、その後の武田家の上洛に対しても、北条氏の関東固めにとっても、そして日本の山岳戦にとっても、この戦の意味は大変大きいと思います。決してマイナーな戦ではありません。

その割には、その戦い自体も不明な点が多く、また歴史的背景も含め複雑であり、諸説紛々なのです。その中で多くの説などを基に、事実で分かっているところは抑えるも、そこから次の明確な事実の間の話は、私の推測で展開されていますので、ご容赦ください。

なるべく時代のメインストリームとどう絡むのかを、分析を基に私なりに分かりやすく描いたつもりですが、ちょっと強引なところも多いのは私も認識しておりますので、この場をお借りして陳謝します。

さて、このシリーズは一応、この回で終わりですが、
次のブログあたりでは、この戦に直接、間接的に絡む人物や、いくさ後の江戸時代から今に至るまで長きに渡る都市伝説のような伝承が本当かどうかを現場で私自身が検証してきた事などを外伝として、軽く(?)ご報告したいなと思っていますので、宜しくお願いします。