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土曜日

首洗井戸④ ~雛鶴姫 その2~

①王子神社
前回のシリーズ「首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~」では、護良親王の側室である雛鶴姫が、斬首された護良親王の首を持って横浜市の戸塚まで逃げ、そこの井戸で血だらけの首を洗うところまで描きました。

今回はその続きです。

1.王子神社

護良親王の首を洗い清めた後、御付きの藤原宗忠、馬場小太郎は、雛鶴姫に早く埋葬することを勧めます。

しかし、雛鶴姫は、懸命に京から親王に会いに来たのであるから、京に居る第1子の綴連王子のところまで持って帰り、親子で供養したいと嘆願します。

ただ、それを持って歩けば目立つので、敵の足利軍から追われやすくなります。

そこで宗忠は、近くの神社の神主にお願いし、境内に目立たぬよう、作業は自分達だけで行い、夜中に首を埋めると伝えます。

②護良新王の首を埋めたという場所
現在の王子神社(写真①)と埋めたとされる場所(写真②)です。

しかし、これはカモフラージュで、実は首は埋めずに、持って行ったのです。

つまり、首を埋めた話がこの辺り一帯で噂になれば、足利軍の追手等から首を持っているという理由で、追跡されることもないと考えたのです。

ただし、宗忠は、雛鶴姫に約束させます。

「いつ何時足利軍が襲ってきて、首を奪おうとするかもしれません。非常時は即、親王の首を埋めさせて頂きます。」 と。

2.大山道から甲州街道へ

さて、雛鶴姫一行は、護良親王の首を持って京へ急ぎます。

下の地図は、首洗井戸(③地図右下ポイント)からの雛鶴姫ら一行の足取りを示したものです。

通説では、雛鶴姫らは、出発すると東海道を小田原まで進みますが、そこで東海道は足利軍の警戒が厳しいので、甲州街道(今の中央道)を使い京へ向かうため、丹沢の大山をぐるっと迂回する地図③の紺色の線を進むこととしたとなっています。

③雛鶴姫逃亡ルート

但し、史実としては、③地図の点線で囲ったあたり、津久井の青山の寺で、雛鶴姫は病に伏せってしまい、数日逗留する事実を証明する史跡(写真⑤)が残っているだけです。

この事実だけを元にすると、通説のルートは不思議なのです。

鎌倉で護良親王の首を持って、京へ向かうつもりなら、どうして鎌倉から海岸伝いに藤沢方面に出て小田原に向かった方が早いのに、わざわざ北上して戸塚で首を洗ったのでしょうか?

身重の雛鶴姫を、戸塚への北上や、小田原から大山をぐるっと廻り込む等、こんなに迂回するルートを歩かせるでしょうか?
④大山道への分岐
(これより大山道とある)

ちなみに、妊婦なので大井川、天竜川等の大きな川を渡川するのが困難な東海道(当時は橋が無く、水に入って渡る必要があった)を避け、甲州街道を行ったとの説もあります。

首洗井戸から100m程度の所に、東海道でも有名な「不動坂」という場所があります。

ここは、大山へ向かう主要8道のうちの1つ、「柏尾通り大山道」への出発点となっています。(写真④)

これを進めば、上の地図に示したように、津久井の青山には最短で進むことが出来ます。これを使わない手は無いと思います。

私は当初から雛鶴姫らは、「柏尾通り大山道」を使って、そこから甲州街道へ出て、京へ帰ることを企図していたのではないかと思っています。

そして、この大山道に入る前に、井戸で首を清めたのではないか。だから首洗井戸は、この大山道の出発地点である戸塚区柏尾町にあるのではないかと想像しています。

それを想定ルートとして上の図に赤い線で描いています。

3人は、修験者の恰好に姿を変え、足利軍に見つからないように大山道を出発します。

3.津久井での滞在
⑤津久井 青山の畑の中にある千部塚

雛鶴姫は、体調に変調を来していました。食べ物も少なく、雨露の中、殆ど露天での生活をしているのですし、愛する人の生首を拾うショッキングな事態を経験し、更には身重と来れば、体調を崩さない方が不思議なくらいです。

姫を心配した宗忠は、津久井の青山村にあるお寺の住職と交渉し、姫の体調が復調するまで、休ませてもらいます。

住職は良い人で、姫の変調が、気から来る病と分かったのか、彼女の今迄の苦しい心内を全部聞いてあげます。つまりカウンセリング療法ですね。

そして、住職に奨められ、雛鶴姫は、護良親王の35日供養まで、この寺に滞在します。

また、この住職は寺内に護良親王のための千部塚(経文が千部入れてあるという供養塔:写真⑤)を建ててくれます。

これら住職の精神的な介抱により、雛鶴姫は体調を回復し、また旅を急ぐのです。
しかし、季節は寒い冬に向かっていました。

⑥無生野の山林
4.無生野にて

しかし、1か月以上の津久井での逗留は、雛鶴姫らにとって、あまり良い状況ではありませんでした。

というのは、この間に中先代の乱も鎮圧され、反足利勢力に対しては、否定的なムードがこの街道沿いにも蔓延していました。

また雛鶴姫たちが、どうやら護良親王の関係者らしいという噂も、津久井に滞在中に、この辺りに広がってしまったのです。

特に、護良親王に対しては、廉子らや足利家の吹聴もあり、かなりの悪に仕立てられています。太平記にも、「短絡的で傲慢」な人物として描かれています。

その一味である雛鶴姫らは、足利軍に突き出されこそしませんでしたが、支援が得られにくい窮地に立っていたのです。

それが露わになったのが、無生野(写真⑥)における雛鶴姫の早産に対する態度です。
雛鶴姫の変調は完全に治っていた訳では無く、予定より早く産気付いた自分に気が付きました。
⑦雛鶴姫が出産した峠の麓(現雛鶴神社)

今迄は、護良親王の子供を妊娠しているなんて、足利家や廉子らが知ったら、それこそ恨み返しを怖れて、子供ごと殺されるかもしれないので、御付きの二人以外には口外しないで、頑張ってきました。

また、気を張って行けば、ちょうど京に着くころに出産すると思っていたのですが、想像より早く産気付いてしまったのです。

小太郎が、止むにやまれず、近くの民家に出産の協力を求めますが、拒否されます。

ちょうど上の③地図の矢印の先辺りの土地ですが、このあたり無生野と言います。

小太郎や宗忠は、数少ない民家の戸を叩き廻り、軒先だけでも貸してほしいと交渉しますが、護良親王の遺児の出産に協力したと足利家や後醍醐天皇にバレた時の後難を怖れて、それすら叶わない状況です。

このような厳しい状況で、この野を行く雛鶴姫らが「無情や・・・」と言ったので、音を取って「無生野」になったとの言い伝えがあります。(一応雛鶴姫達は関西人ですので・・・文献によっては無情野とか無常野等と書かれたものもあります。)

上の③地図でルート矢印の先に「雛鶴神社」が2か所あるのが分かりますでしょうか。

この場所を大きくしたのが下の⑧の地図です。山梨県都留市のあたりです。
⑧無生野から先の雛鶴姫と護良親王御首の行方

まず、東側の雛鶴神社ですが、ここで、雛鶴姫は、小太郎と宗忠に、雑草などを集めさせて褥(しとね)を作らせ、誰の助けも得られず、一人で赤子を産むのです。

季節は12月の暮れも押し迫った頃でしたので、寒かったと思います。

赤ん坊は死産でした。
⑨峠の先にある雛鶴姫が
最期を迎えた場所

ロクに食べ物も得られず、寒い露天での出産は、雛鶴姫の体力を相当奪っていたのです。

雛鶴姫は、冷たくなった赤ん坊を抱きしめて、涙を流しながら言うのでした。

「寒かったでしょう。ひもじかったでしょう、赦してください。・・・先にお父様のところへご挨拶に行っててくださいね・・・母もすぐ参りますから。」

彼女は高熱を発します。宗忠と小太郎は、二人で彼女を背負って峠を越えます。もう少し行けば、今の都留市辺りの人里に辿り着けます。そこまでなんとしても姫を持ちこたえさせようと。

峠を越えて、下る途中に、もう一つ西側の雛鶴神社があります。

雛鶴姫は、残念ながら、ここで二人に見守られながら、息を引き取るのです。(写真⑨)

「色々とお世話になりました。・・・やっと親王さまにお会いできます・・・綴連王子によろしく・・・」

言い終わると、雛鶴姫を親王が迎えに来たのでしょうか?静かに安らかな表情で息を引き取ります。

宗忠と小太郎は、男泣きに泣きます。
それは、誰も居ない無生野の寂しい山々に低く、長く響き渡っていきました。

5.「共の松」
⑩「共の松」の根と代替木のいちょう
ここで宗忠と小太郎が殉死

雛鶴姫亡き後、宗忠と小太郎は、護良親王の首を近くの山深い高根山(高畑山)に埋葬し、足利軍からの探索をかわします。(地図⑧参照)

あれだけ親王の御首を大事に持って帰ろうとした雛鶴姫の近くに埋葬することが姫も一番喜ぶだろうと考えたのです。

そして、二人は雛鶴姫の供養をここで行い、その後、雛鶴姫の後を追います。

この御付きの二人の殉死を悼んで、村人たちがここに植えた松を「共の松」と呼びます。

この松は最近まで生えていたようなのですが、昭和60年代に松くい虫の被害によって枯れてしまったようです。

代わりに銀杏の木を植えました。(写真⑩)

⑪雛鶴神社再建の碑と雛鶴姫像(奥)
6.綴連王子

雛鶴姫と護良親王の間には、第1子である綴連王子という皇子が居ました。
彼は成人すると陸良親王となり、南朝から父の護良親王と同じ征夷大将軍に任じられ、近畿を中心に転戦して、これも父親と同じように大活躍します。

しかし、吉野で大敗を喫すると、歴史の表舞台からは姿を消し、諸国遍歴後に、ここ雛鶴神社のある無生野に辿り着き、母の墓前で泣きます。

そして、それまでの華々しい過去を捨てて、ここ雛鶴峠に73歳に死没するまで雛鶴神社を建てて住み着くのです。(写真⑪)

7.その後の護良親王の首

それから300年後、護良親王の首は掘り起こされ、地図⑧や、シリーズ①の写真にあるように復顔されます。
⑫護良親王御首と石船神社ご神官
(御首右目は木の根のため陥没)

それは足利家が権勢を誇った室町時代も終わり頃ですし、雛鶴姫が、生前の彼と一緒に居たかったという願望を、叶えてあげたいという一心から、能面技師の1人が技巧を凝らして作ったようです。

ただ、300年間、土に埋もれていたせいで、頭蓋骨の右目の穴から木の根が生え、右目の穴が大きくなってしまいました。(写真⑫)

そして、この首をご神体とした石船神社を山頂に建立しますが、後に、この神社は、祭礼等の実施が山頂だと危険であることから、現在ある山梨県都留市の朝日馬場の里に下りてきております。(写真⑬)

7.おわりに

「首洗井戸」をシリーズ4回の長きに渡り、お読みいただき、感謝します。

きっかけは私が小学生の頃、通学路の途中にあった「首洗井戸」。このマイナーな史跡がこれ程の背景とラブストーリーを持っているとは通学中は思いませんでした。(小学生で思ったら怖いですが・・(笑))
⑬護良親王の御首がある石船神社のご神体

話の最後は、護良親王、雛鶴姫、第2子、御付きの宗忠・小太郎も皆亡くなってしまうという哀しい結末となってしまいました。

こんな失望感ばかり膨らんでいく話でしたが、その絶望のハイライトである雛鶴姫のお墓(写真⑭)の後ろに見えるのは、なんと現代の希望の新技術であるリニアモーターカーの実験場です。

私たちも、この雛鶴姫のお墓参りの最中に、何度かリニアがガーッと走る音と姿をちらっと見ることが出来ました。

雛鶴姫も、このお墓から、毎日実験の様子を見守っていたのでしょう。無生野も煩くなったもんだと思いながら(笑)。

もうしばらくすると、日本中を走り出すと思います。

私たち日本人は、このように哀しかったり、寂しかったりする歴史の次には、新しい希望を生み出して逞しく生きて来たし、これからも生きて行く、
⑭雛鶴姫の墓の後ろはリニアモーターカー実験場
そういう絶望と希望の糸で編み上げ、更に強靭な国を、未来に向かって創っていくことの出来る素晴らしい民族なのでしょう!

そう実感させられた雛鶴姫紀行でした。

ありがとうございました。ではまた!!

番外編もお楽しみください↓
首洗井戸⑤ ~外伝:護良親王の恩返し(鎌倉ハム)~

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【王子神社】神奈川県横浜市戸塚区柏尾町939
【津久井青山千部塚】相模原市緑区青山452番2
【雛鶴神社】山梨県都留市朝日曽雌
【石船神社】山梨県都留市朝日馬場442番地

首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~

横浜市戸塚区にある護良親王の首洗井戸
さて、護良親王の首洗井戸について、このブログで取り上げたのを覚えておいででしょうか?

その時に、首洗井戸で洗った護良親王の首の行方や、それを騒乱の鎌倉から持ち出して脱出した雛鶴姫は、どうなったのか?を描くと言って、はや9か月(笑)。

かなり期間が空いてしまいましたが、レポートを再開したいと思います。

期間が空いたこともあり、今回から2回に渡り、主人公を護良親王ではなく、雛鶴姫にスイッチし、なるべく過去のブログを見なくても分かるように、遡って描くよう工夫します。

しかし、やはりこのブログを描いていると、どうしても前のシリーズを私自身が参照してしまうという事態が発生しています(笑)。

そこで、各所各所で、必要に応じ、前回、前々回のシリーズのリンクをしますので、お時間があればクリック頂き、該当箇所を並行して読んで頂けると理解が更に深まると思います。

1.十津川での出会い

20代前半で比叡山の天台座主を務めていた護良親王は、後醍醐天皇の第3皇太子です。
谷瀬の吊り橋(十津川)

後醍醐天皇は、鎌倉幕府に対し、反幕府軍を組織し、挙兵しましたが、失敗に終わり、捕縛されます。

護良親王は、一計を持って、父である後醍醐天皇の救出作戦を展開します。

もう少しで成功仕掛けますが、世間はそんなに甘くなく、最後の最後で大失態を犯しました。(シリーズ①参照

折角、護良親王が組織した反幕府軍の再挙兵も大混乱、鎌倉幕府軍も再起し、あっという間に護良親王は鎌倉幕府軍に追われる身となりました。

京都から紀伊半島の吉野方面へ逃亡する護良親王を、鎌倉幕府軍は執拗に追いかけます。

途中、般若寺での3つの経櫃を上手く使った逃亡劇は、明治時代からの尋常小学校の教科書にも載ったエピソードとしても有名です。(シリーズ①参照

その後、護良親王は奈良県の十津川村で約1年間潜伏します。
黒木御所跡

有名な「谷瀬の吊り橋」に行かれた方は、護良親王が過ごされた場所はその辺りですので、ご想像ください。(写真右上)

そこに「黒木御所」という、護良親王が居た仮の御所がありました。(写真右)

十津川という土地は、昔から京都・奈良等の都から近い割には、かなり山奥なので、潜伏し都の動向に関する諜報活動をするのに便利な土地だったようです。

護良親王は、ここの豪族、竹原八郎という蘇我入鹿の末裔の豪族の庇護の基に、鎌倉の北条氏の動きを追いかけ、再起する機会を伺うのです。

また楠木正成らとも、ここで盛んに情報交換をしていたようです。

護良親王がここに逃げている間に、挙兵失敗により捕えられた父、後醍醐天皇は隠岐へ配流となります。これにより、護良親王は倒幕に本気を出します。

比叡山の天台座主だった彼は、還俗をし、倒幕の令旨を発出するのです。

さて、この護良親王のエンジンに始動が掛かった1つの大きな要因に、竹原八郎の娘の滋子との恋愛があります。
雛鶴姫と護良親王
「キミノ名ヲ。」から抜粋)

実は還俗した理由が、この滋子を手に入れたいからとの説もある程です。

確かに帝(みかど)の子と言っても、ここ十津川での生活は素朴でしたので、人との触れ合いも、京の都で格式張った世界よりは遥かに、純朴で濃いものだったのではないでしょうか?

もしかしたら、右の漫画のように、出会った当初、滋子は護良親王の素性を知らず、それが却って、地位に拘った恋心ではないからこそ、最後の最期まで想い続けられる絆が2人の間に芽生えたのかも知れません。

この竹原滋子が、後の雛鶴姫と呼ばれます。実はしっかりした姫であったことから、成鳥の鶴のように、(手元から)飛んで行って欲しくない、鶴の雛のままでいてほしいということを、護良親王が強く願い、雛鶴と呼ぶのです。

雛鶴姫と護良親王の出会いは、以上のようなものでした。
護良親王22歳、雛鶴姫17歳です。

2.京での雛鶴姫

雛鶴姫は、護良親王が征夷大将軍に任じられる頃は、護良親王の側にいるために、京の名家である北畠家の養女となり、都にいました。

またこの頃、護良親王の第1子を宿し、出産をしています。

阿野廉子
この子は、雛鶴姫のその後の話に関連がありますので、また次回のシリーズで描きます。

シリーズ②で、征夷大将軍となった護良親王を、後醍醐天皇と足利尊氏で亡き者にしようとしたと書きました。

実は、後醍醐天皇の後ろで、護良親王を亡き者にしようとした黒幕は、後醍醐天皇が隠岐に配流の時も一緒だった寵妃の阿野廉子です。(右絵)

彼女は、自分の子供たちを後醍醐天皇の後継者として天皇に据えたいという野望を持っていたので、当然、後醍醐天皇の他の女が生んだ子で、世間からの注目度も高い護良親王を疎みます。

そして、護良親王が後醍醐天皇の王位簒奪計画を練っていたとの罪状をでっちあげ、親王を足利家預けにしました。なんと根拠が十津川での令旨を護良親王が勝手に発出したということです。後醍醐天皇の事を考え、実施したことが謀反の根拠という仇になりました。

東光寺跡(現鎌倉宮)
白い鳥居の下で仲間たちと
当時、鎌倉府の総督をしていた足利尊氏の弟、足利直義は、護良親王を鎌倉の東光寺の土牢(写真右下)に幽閉するのです。

廉子は、ゆくゆくはまた何か理由を付けて護良親王を斬首しようと考えていました。

可哀想に、この時既に護良親王は、後醍醐天皇や阿野廉子からは完全に見捨てられていたのです。

でも、時の政権である自分達が、実子の護良親王を殺害すれば、世間からの評価に罅(ひび)が入ります。

そこで、護良親王を足利家預けにしたのです。斬首でも何でも、足利家の好きにせいという訳です。

足利家も本当は斬首しても良いと思っているのですが、流石に、今は建武の新政時代、つまり皇室が偉い訳です。

その皇子を斬首するということは、皇室を軽んじるということになり、最悪の場合、後醍醐天皇から「足利家は皇族を斬首した」と言掛りを付けられ、攻め滅ぼされる線も考えられます。

このような微妙なパワーバランスの上に、護良親王の命は、かろうじて土牢の幽閉に止めて置かれていたという訳です。

護良親王の幽閉された土牢
可哀想な護良親王(右下絵)。もう誰も彼を必要としていないのでしょうか?

3.中先代の乱

さて、愛する護良親王が鎌倉の東光寺の土牢に幽閉されたとの報を聞き、雛鶴姫は愕然とします。そして、情熱的な彼女は、幽閉された護良親王を助けたい、助けられなくても近くに居たいと鎌倉行きを強く想うのです。

しかし、護良親王は謀反を企てた罪人という扱いですので、そう簡単に雛鶴姫が鎌倉に行って会えるものではありません。

そこに、好機が訪れます。

土牢に幽閉される護良親王
(歌川国芳:画)
滅ぼされた鎌倉幕府の最後の執権北条高時の遺児、北条時行が信州の諏訪で、足利氏に対し反乱を起こします。「中先代の乱」です。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれています。

建武の新政は、やはり無理が祟ったのか、この乱は不平不満武士が沢山集まり、勢いがありました。

彼らは、鎌倉に幽閉されている護良親王を皇族として反乱軍に導き入れ、令旨を得て足利尊氏を撃つという作戦を立てます。

鎌倉時代の征夷大将軍に位置する源氏の代わりに護良親王、執権は反乱首謀者の北条時行と、鎌倉時代の武家体制に戻すのです。

京に居る護良親王の取り巻き達は、親王救出の可能性が出てきた事に色めき立ちます。
そんな中、雛鶴姫は取り巻き達に言います。

「私も親王が居る鎌倉へ連れて行って下さい。」

実はこの時、雛鶴姫は、親王の二人目の子を妊娠しています。この時幽閉されて8か月目ですから、少なくとも妊娠8か月に入っています。

彼女が妊娠を隠していたかどうかは分かりませんが、強硬な彼女の想念の基、京から甲州街道沿いに、親王救出隊と一緒に北条時行の反乱軍に追いつき、京からの総距離500kmの鎌倉を目指しました。
井手の沢古戦場(町田市)

4.護良親王の首

反乱軍は快進撃を続けます。

後醍醐天皇らは、当初この反乱軍は、足利尊氏や後醍醐天皇が居る京に向かってくるものと思い込んでいました。

なので、鎌倉府側への反乱軍の情報伝達が遅れたことが、快進撃を許した一つの要因と言われています。

この後の鎌倉府側と雛鶴姫達の動きは前シリーズ②の方で詳しく書きましたので、ここでは話を要約して進めます。

鎌倉府が、やっと反乱軍がこちらに向かっていると気が付いた時には、既に反乱軍は鎌倉から歩いて1日の距離の井手の沢(現在の町田市:写真右上)近くにまで進軍していました。

もう、鎌倉府総督である足利直義が出馬しなければならない程、深刻な事態です。
淵辺義博に斬首される親王
(尾形月耕:画)

そしてあえなく鎌倉府側は敗退。

この時、直義はかねてから決めておいた護良親王の対応策を実行に移します。

護良親王を斬首する。

先に述べました通り、親王は後醍醐天皇と足利家との微妙なバランスの上で、幽閉という無期懲役で生き永らえています。つまり天皇に申し開き出来る口実さえあれば、足利家も即彼を斬首したいのです。今がその時です。

直義は家来の淵辺義博を親王に向かわせます。(右上絵)

少し、話が横に逸れますが、この護良親王の斬首後、足利家は、本当に後醍醐天皇を軽んじはじめます。

北条時行のこの乱は、鎌倉占拠後、20日で足利尊氏により鎮圧され、鎌倉に入った尊氏は、この乱鎮圧の論功恩賞を後醍醐天皇を無視して行っています。

護良親王の斬首は、この尊氏の後醍醐天皇軽視行動の試金石として予め準備されていたのです。つまり、斬首しても本当にお咎めが無いかどうか、何か問題がないかどうか。無ければ後醍醐天皇怖れるに足りず。

この乱に対する一連の対応で、武士の心は、かなり天皇家を離れ、足利家側に傾き、建武の新政は頓挫するのです。

言い換えると、廉子の自分の子供を天皇につけたいという近視眼的な謀略が、却って天皇中心の体制をあっという間に崩壊させたことになりますね。残念です。
まあ、武士の世に戻るのは時間の問題でしたが・・・。

話を戻しますが、北条時行の反乱軍と行動を共にしている雛鶴姫と、その御付き、藤原宗忠、馬場小太郎は、護良親王の命が危ないかも知れないということを察知します。

反乱軍は、井出の沢での大合戦をしなければならないので、先に雛鶴姫らは鎌倉へ向かうこととしました。
親王の首が捨てられていた藪

身重な体でありながらも、懸命に護良親王の身を按じ、雛鶴姫は鎌倉へ急ぎます。

鎌倉の東光寺に到着した雛鶴姫たちは、空になった土牢、その中に、既に時間が経ち酸化してどす黒くなっていた流血の跡を発見します。

その血の跡を辿ると、藪の中になにやら光るものと一緒に転がっている血だらけの生首を見つけます。(右写真)

淵辺の刀を咥えたまま、くわっと目を見開いたまま絶命している護良親王の首です。

今一歩間に合いませんでした。

雛鶴姫は、走り寄り、刀を口から外し、首を抱きかかえます。

本当に一人ぼっちで孤独に耐えながらも、決して絶望しきることなく生きてきた護良親王。

彼は、自分の命が不安定な政局のバランスの上に成り立っており、かなり危い立場だということは、冷静に分析していたと思います。

しかし、彼も人間です。

暗い土牢の中では、世間との断絶が続き、親を含め、誰も自分を愛さない、全世界が自分と対立しているという超ネガティブな恐怖感と戦い続けていたのです。

それでも、一縷の望みに賭けて来た彼に、最後に突き付けられたのは、9か月間もの土牢生活で足腰が弱くなり、抵抗できない彼の首を刀で掻き取られるという冷酷極まりない運命。

彼はそれでも必至に淵辺に抵抗します。(右上絵)

そして首を切られても、淵辺の刀に喰いついて離さず、目をくわっと開いて彼を見つめたのです。

彼は淵辺自身を憎しと思って喰らい付いたのではなく、親である後醍醐天皇、全世界の人間に対する怒り・哀しみを持って喰らいついたのでしょう。

くわっと開いた彼の両目からは、涙が流れていました。
淵辺は、この恐ろしい形相の親王の首を、怖くなって直ぐ近くの林に投げ捨てました。

その首を抱きかかえ、雛鶴姫は慟哭します。

護良親王の首を洗った井戸
こうしてここまで500km以上の道のりを身重の体でありながら来たのは、世界中が敵でも自分だけは護良親王の味方であること、彼の一縷の望みは叶えられることを伝えたかった、いつも彼の事を想っていることを伝えたかった、助けたかった。

生きている間に会いたかった!

5.首洗井戸

雛鶴姫は、親王の首を抱きしめながら長い事、哭き続けました。

しかし、この場所も実は、まだ足利軍の配下であり、いつ雛鶴姫たちも捕まるか分からない状態です。

雛鶴姫は、御付きの宗忠らに促され、立ち上がります。

そして、目を閉じてあげた護良親王の首を、宗忠に預け、彼女らは鎌倉街道を南下している反乱軍と合流するために、この街道の北上を急ぎます。

そして、鎌倉から約10㎞北上した今の横浜市戸塚区柏尾町のあたりで、反乱軍と合流するのです。(詳細はシリーズ②

そして雛鶴姫らは、血だらけの親王の首を、また泣きながら井戸で清めます。(右上写真)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
雛鶴姫の墓

長くなりましたので、首洗井戸で首を清めた後の雛鶴姫らの行動については次のシリーズで書きたいと思います。

最後に一言。私には冒頭の写真の「首洗井戸」と書かれた碑の銘文が、「建武の新政の墓」と見えてしまいます。上述しましたように、護良親王を斬首した瞬間、「建武の新政」の崩壊が始まったのですから。

ご精読ありがとうございました。


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【首洗井戸】横浜市戸塚区柏尾町1042−16
【黒木御所】奈良県吉野郡十津川村谷瀬4
【護良親王土牢】鎌倉市二階堂154 鎌倉宮内
【井手の沢古戦場】東京都町田市本町田802 菅原神社