マイナー・史跡巡り: いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~ -->

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いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~


①稲毛三郎重成像(右)と稲毛惣社(白幡八幡)(左)
《これまでのあらすじ》

1189年、稲毛三郎重成(しげなり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にある枡形城で、病に伏せるようになります。(写真①

この原因を江の島の弁財天が何かを知っているとの今若(義経の兄)からの情報に基づき、綾子の父である北条時政(ときまさ:以下、時政)は江の島を訪れ、源氏が滅ぼした平家と奥州藤原氏の亡者たちが原因であると弁財天から聞き出します。更に綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要とも。これを聞いた時政は、策謀を練り始めます。


1192年の頼朝の上洛時に、時政は三郎と、三郎の従兄弟・畠山重忠(しげただ:以下、重忠)に胸の内を打ち明けます。時政の策謀に戸惑いながらも同調した二人、翌1193年の「富士の巻狩り」の中で頼朝暗殺計画に加担します。

②早馬のイメージ(道寸祭りより)
この計画は時政が烏帽子親も勤めた曾我兄弟工藤祐経(くどうすけつね)に対する仇討ちを上手く使い、頼朝もこの兄弟に暗殺させるというものでした。

結果は、工藤祐経こそ討ち果たせたものの、頼朝暗殺は寸でのところで失敗。兄は斬殺され、弟も捕らえられ斬首となります。

曾我兄弟の弟が捕らえられたタイミングで、時政はこの計画に自分たちが加担していることの情報漏えい対策の一環として、三郎を巻狩りの現場から鎌倉の間を7時間以内の早馬で往復させます。(写真②)

鎌倉に到着した三郎は「頼朝殿が暗殺されかけた」と時政に指示された通り、関係者に話し、鎌倉に居る工藤祐経の幼児(犬房丸)を抱きかかえ、また直ぐに巻狩りの現場に引き返すのです。


時政はわざと三郎に「頼朝殿が暗殺されかけた」と鎌倉で言わしめ、鎌倉に居る幕府関係者を不安に陥れることで、今回の曾我兄弟による頼朝暗殺失敗のフォローをしようと仕掛けたのです。その結果は・・・・。では、はじめましょう。

【今迄の話 リンク集】
いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~
いなげや② ~弁財天~
いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~
いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~
いなげや⑤ ~富士の巻狩り㊦~

1.鎌倉

さて、稲毛三郎が犬房丸を真夜中の3時頃に連れ去ってから5時間後、鎌倉では大騒ぎが始まっていました。

頼朝殿が暗殺された!

という情報が飛び交うのです。三郎が言ったのは「暗殺されかけた」ですが、良くある喧伝間違い「暗殺されかけた⇒暗殺された」となった訳です。

③鎌倉(大蔵)幕府跡(御所) ※右は幕府屋敷の東御門跡
「直ぐに、狩宿へ使いを出しなさい!」

と情報統制の指揮を執るのは政子

しかし使いを出してから、鎌倉への戻りは、先に述べた通り、往復早馬でも、7時間以上は掛かります。つまり、この日の夕方にならないと、頼朝公が本当に暗殺されたかどうかは分からないのです。

緊急事態発生の御所では、使いの早馬を2,3出した後は、頼朝公の無事を祈るのみで、皆焦れるのです。(写真③

そんな中、緋糸縅之鎧(ひいとおどしのよろい)の立派ないでたちで、この沈痛な雰囲気の御所に颯爽と入ってきた人物が居ます。

頼朝の異母弟・範頼(のりより)です。(絵④

甲冑も脱がずに、つかつかと兄嫁である政子のところに来ると

「姉上、ご安心めされい!鎌倉には、この範頼がおります!!」

と威勢よく言うのです。

政子は、「範頼殿、かたじけなく存じます。」と感謝の口上を述べますが、ちょっと違和感を感じるのでした。

④源範頼
というのは、この範頼、平家討伐の西国遠征の時は、義経が常に搦め手側の機動部隊だったのに対し、正面側からの総大将を務めた人物です。義経が戦術の天才であるが故の自判断による行動が多かったのに対して、この範頼が頼朝に重用されたのは、戦況等について逐一頼朝に報告し、その判断を仰いだからに他なりません。

兵糧が無い、馬が無い、御家人間の争いに絶えない等、頼朝から突き放されることを怖がっているかのように、常に文を送ってきて、戦略判断を仰ぐ従順な範頼が「私に任せろ!」的な今回の態度というのは、実に似つかわしくないのです。

そうこうするうちに、早馬で戻って来た使者たちの報告を受けた政子らは、暗殺者嫌疑の曾我五郎が頼朝公の寝所の寸前で取り押さえられたことを聞いて、ホッと胸を撫でおろしました。

2.源(みなもとの)範頼

この鎌倉での空騒ぎ、勿論これだけで終わった訳ではありません。前回のBlogで描きましたように、「頼朝殿が暗殺されかけた」と夜中に鎌倉に駆けつけた三郎にワザと言わせたのは時政です。

⑤政子の所に来て話す父・時政
富士の巻狩りの一大イベントが完了し、頼朝公、御家人らと、鎌倉へ引き揚げて来た時政は、イベントの成功の報告と、自分の娘たちの近況を聞くために、政子の所にやってきます。(絵⑤

「政子、巻狩り最終日には要らぬ心配をかけたな。」

「三郎殿が真夜中に急に駆けつけ犬房丸をさらうように連れ出して、頼朝公が死にかけている、などと言われれば、それはもう皆心配で、心配で。」

「死にかけているとは言っておらんじゃろう?殺されかけたと言ったと聞いておるぞ。三郎本人は。」

「どちらでもかまいません。あの状況で、そのような紛らわしい状況を話されるのは、ちゃんと使いでも立てて、鎌倉へご報告いただかないと、却って混乱するばかりです!」

時政は、「その混乱をねらったのじゃがな。」とは言いません。時政は会話を続けます。

「で、鎌倉ではその噂で変な動きをするものはおらんかったか?」

⑥時政の娘たちの系図
※永井路子「続・悪霊列伝」から抜粋・加工
「ええ、皆一致団結して、この緊急事態に当たろうとして下さいました。範頼殿などは、頼朝の妻である私が気丈に振る舞っていることを涙ぐましく感じたのか、『姉上、安心してください。私が居ます』って優しく言ってくださった位ですから。」


「おおっ、範頼殿はやさしいのう!」

と言った時政の目の奥が一瞬光ったように、政子は感じました。

「妹たちはどうじゃ?」(図⑥

千万(せんまん、後の3代将軍源実朝)の乳母と、お父様がお決めになった徳子は、当初は枡形城の病床にある綾子の面倒を近くで見たいからということで、妙楽寺を出ることに乗り気ではなかったのです。そこで薬師の心得もある今若殿が代わりに綾子を診ることにしました。それで今、徳子は鎌倉にて乳母に専心できています。」(写真⑦

「やはり綾子は治らないのか?巻狩りの最中も随分と三郎も気を揉んでおった。枡形城に帰ったら、もうずーっと綾子を診ていたいと嘆息しておった。」
⑦妙楽寺の紫陽花
※現在は紫陽花寺として有名

「はい、今若殿のご報告によりますと、最近は『橋を、橋を!』と時々熱にうなされる中で叫び、何かに憑かれているような感じに悪化してきているようです。今若殿も盛んに護摩(ごま)を焚いて祈っているようですが、中々良い方向に向かわないようです。私たちも綾子のために鎌倉で護摩供養の準備をはじめたところです。」

「そうか、『橋を!』か・・・」

なにやら思いつくところのありそうな時政を、政子は何も言わずに見つめるのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

政子と会ってから約2か月弱、何かの宴会の席で時政は御所の頼朝公に政子から聞いた範頼の行動を報告します。

御所(頼朝のこと)殿、範頼殿が、御所殿が討たれたかも知れないと不安な我が娘に、『ご安心めされい、御所殿が万が一亡くなっても、その跡は私が征夷大将軍として、立派に幕府を存続させますから。』と伝えておったことはご存知ですな!」

「範頼が・・・・」

と言って眉間にうっすら皺を寄せる頼朝の表情を時政は見逃しません。

◆ ◇ ◆ ◇

それから3日後の8月に入ったばかりの暑い最中、時政は頼朝に呼び出されます。
蝉の声が喧しい御所の門を潜り、頼朝謁見の間に着座し、平伏して頼朝を待ちます。

しばらくすると、平伏している時政の前に、パサっと一枚の書状が落とされます。

「時政、範頼が起請文を持って来た。読んでみよ。」
夏用の直垂姿(ひたたれすがた)、扇で仰ぎながら、時政の横に立つ頼朝が言います。(図⑧

「はっ」
⑧直垂姿
「時政、余はやはり疑い深いのが短所よの。政子からも範頼のあの日の行動を聞いた。そこで人を範頼の所へやって、余の後釜は頼家(よりいえ、嫡男)ではなく、範頼のつもりであるか?と詰問したところ。ほれこの通り、全く他意は無く、巻狩り当時は頼家殿も狩りに同伴していたことから、政子の不安を取り除くための発言だったと書いておる。」

「赤心、御所殿に忠誠を尽くすと書いてございますな。」

「そうだ。」

時政は少し考えます。そしてもう一度書状に目を落し、しばらくじっと見入っていました。

風は無く、蝉の声だけが御所の中を吹き抜けます。頼朝はせわしなく扇で、自分の顔を仰ぎ、

「時政、何か気になる事でもあるのか。」

「はっ、私の思い違いなら良いのですが、この書状の最後、範頼殿の花押(かおう)の前の名称でございます。」

「源範頼と記してあるが?」

「征夷大将軍に任命された源家嫡流以外の方が源(みなもと)姓を名乗るというのは、この起請文を書くという事の重大性においては、あってはならぬこと。そもそも起請文を書いて寄越すこと自体、怪しく、このような小さなところで、御所殿をないがしろにする範頼殿の意識が出てしまうのではないでしょうか?御所殿の用心は決して疑い深いのではなく、今までもその御用心こそが、上手く新しい武家の時代を築くことができた肝だと、時政感心しておりまする。範頼殿が黒とは言いませんが、この起請文だけで白と断定されるのは御所殿らしくございません。」

「むむ・・・。」

頼朝はしばらくじっと考えていました。御所は強い西日に晒され、蝉の声は日中の油蝉から、ヒグラシへと変わりはじめました。四半刻が過ぎたでしょうか?

「時政、どうすれば良いか?」

頼朝のいつも長い熟考時間は、拝謁している臣下の者の考えをまとめて貰うための時間でもあるのです。

頭領たる頼朝は、熟考後の自分の考えを軽々しく述べるのではなく、配下の考えを自分の考えに照らし合わせるのが仕事です。時政はまとめた自分の考えを上奏します。

「御所殿、範頼に対し何も音沙汰せず放って置くのが上策かと。」

3.伊豆への流刑

頼朝との面会を済まし、放って置けと提案した時政は、その言葉とは裏腹に、自分は範頼の屋敷を訪れます。

そして、範頼に会うと、御所殿からの伝言と称し、起請文の源姓の活用問題に触れ、頼朝の逆鱗に触れている旨伝えます。

範頼は、かなり狼狽します。

「と、時政殿、どうすれば宜しいか?」

「範頼殿、御所殿は2,3日以内には沙汰を下すと言っておられました。大人しく蟄居し、それを待てばよろしいかと。」

ところが、それから4,5日経っても、頼朝公からは何の音沙汰もありません。
とうとう1週間、なんら沙汰は無いのですが、この時蟄居している範頼の屋敷に矢文が射こまれます。

明日夜半、御所殿、結城殿とご会合

とだけ記してあります。これを最初に見つけた範頼の家人は、文を渡しながら、範頼に言います。

「殿、私が明日御所に忍び込み、それとなく結城殿との会話を聞いて参ります。結城殿とは、結城朝光(ゆうきともみつ)殿ですね。彼は、平家打倒で義経と一緒に戦いながらも、戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝えた冷徹な漢(おとこ)として知られています。この時同様に、頼朝殿のご兄弟である殿に、結城殿が何らかの沙汰を伝えに来る可能性もありますし、そうでないにしても、この状況で矢文が投げ入れられたのは、殿の話がなんらか出るに違いありません。」(絵⑨

⑨結城朝光
憔悴した顔の範頼は、うつろな目をその家人に向け、「そうか」とだけ言うのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

翌日の夕刻、鶴岡八幡宮の御剣役として、近日開催予定の神事について頼朝と相談に来た結城朝光ですが、御所に入る時に、執事仕事をしていた時政に呼び止められます。

「結城殿、また今年も八幡宮での戦勝祈願、御剣役宜しく頼みますぞ!」

「時政殿、こちらこそ御家人の中で最多の御剣役を仰せ仕り、光栄至極でございます。」

「時に結城殿、良からぬ噂を聞いておるので他言無用でお聞き下さらぬか?」

「はっ?」

「目的は分からぬが、今日の御所殿との二人きりの会談中、不審な者が御所に侵入するかもしれないとの噂がこの時政の耳に届き申した。結城殿は御剣役なので、是非御所殿に何か危害が加わらぬよう四囲に気配りをお願い申す。なに、根も葉もない噂話に過ぎないとは思うものの、万が一があるといけないのでな。一応お耳にいれたまで。」

◆ ◇ ◆ ◇

夜半過ぎ、時政から忠告を受けたばかりの結城朝光は、頼朝と酒を酌み交わしながらの会合であっても、流石御剣役。床下のかすかな物音を察知し、何食わぬ顔で、板敷きの床に急に剣を突き立て、侵入者に手傷を負わせるのです。

そして床下からその不審者を引きずり出し誰何(すいか)すると、読者の方はお分かりのように、範頼の例の家人です。

「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ範頼殿の為に、形勢を伺うべく参った次第です。陰謀等ではありません。」と、手傷を治療されながら家人は弁明します。

家人が捕まった直後に、当然頼朝から呼び出しを受けた時政は、範頼の処置に意見します。

「しばらく時政の目の届きやすい伊豆国預かりとし、様子を見るのは如何でしょうか?」

「伊豆というと修善寺あたりか?」

「御意。修善寺に幽閉します。」

4.誅殺

それから1週間後、伊豆修善寺に範頼ら主従は幽閉されます。
ところが、幽閉された翌日、範頼らは、家人らが修善寺に立て籠もろうとした嫌疑で、結城朝光、新田四郎らに誅殺されてしまうのです。(写真⑩
⑩範頼の墓(修善寺)

これら誅殺の理由の1つに、時政が「曾我兄弟の仇討ち後の不穏当な動きと範頼が連動していた疑いが、伊豆に幽閉することで判明した」ことも挙げています。

範頼ら誅殺後に、曾我兄弟の同母兄弟である原小次郎(京の小次郎)という人物が範頼の縁座として処刑されているのです。

この原小次郎が範頼と何らかの連絡を取ろうとした等の挙動が推測できますが、正確には分かっていません。

もしかすると範頼事件のどさくさに紛れて、伊豆方面に若干残っている曾我兄弟関係者を抹殺することで、時政の情報漏えいの可能性を無くしたのかも知れません。

5.おわりに

曾我兄弟の仇討ちで、頼朝暗殺に失敗した時政でしたが、三郎に命じておいた「鎌倉に頼朝が殺されかけたとの風評をばら撒く作戦」は、範頼という源氏の大物を亡きものにすることで、源家の力を削ぐという成果を得ることが出来ました。

転んでもタダでは起きない北条時政。彼は粘り強く北条家台頭のために頑張ります。

しかし、元は自分の娘・綾子のためであり、稲毛三郎も妻の綾子の病が治るために頑張っているのですから、次回は綾子について描きたいと思います。

長文ご精読ありがとうございました。上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。

【鎌倉(大蔵)幕府跡】神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目11−45
【妙楽寺(紫陽花寺)】神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目9−3

【範頼の墓】 静岡県伊豆市修善寺1082