マイナー・史跡巡り: いなげや⑧ ~綾子の追善供養~ -->

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いなげや⑧ ~綾子の追善供養~

《これまでのあらすじ》

1189年、稲毛三郎重成(しげなり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にある枡形城で、病に伏せるようになります。
①江の島の弁財天

この原因を江の島の弁財天が何かを知っているとの今若(義経の兄)からの情報に基づき、綾子の父である北条時政(ときまさ:以下、時政)は江の島を訪れました。(写真①

時政は、源氏が滅ぼした奥州藤原氏の亡者たちが原因であると弁財天から聞き出します。更に綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要とも。早速、時政は策謀を練り始めます。

1192年の頼朝の上洛時に、時政は三郎と、三郎の従兄弟・畠山重忠(しげただ:以下、重忠)に頼朝暗殺計画を打ち明けます。時政のこの策謀に戸惑いながらも同調した二人、翌年の「富士の巻狩り」の中でこの計画に加担ます。

この計画は、有名な曾我兄弟の仇討ちを利用し、仇討ちの対象である工藤祐経以外に、頼朝も暗殺してしまうというものでした。仇討ちは成功しましたが、頼朝暗殺は、寸でのところで失敗に終わります。

しかし、時政は転んでもタダで立ち上がる漢(おとこ)ではありません。頼朝が暗殺されたとの風評を鎌倉へ流し、頼朝の妻・政子を不安にさせます。この時頼朝の異母兄弟である範頼(のりより)が政子に、「鎌倉には範頼がいますのでご安心を」と言うのです。

この思いやりのある一言が仇となり、範頼は、頼朝に謀反の心ありとされ、伊豆へ流刑後、誅殺されました。

一方、三郎の妻・綾子の病状を改善するために、今若は多摩川を渡ろうとする亡者が見えない自分の寺に綾子を移し、介抱を続けます。三郎は綾子の病状を心配しますが、寺に移ってからは多少安定してきたという今若の言葉に安心し、頼朝から伴をするようにいわれている第2回の上洛に旅立つのです。
ところが上洛の帰途、綾子が重態に陥ったとの報告が三郎や頼朝一行にもたらされます。

頼朝から駿馬を与えられた三郎は、今の滋賀県大垣市辺りから枡形城までの500kmを3日で走り、綾子の最期を看取るのです。息を引き取る数刻前、手を握り続ける三郎は夢を見ます。それは多摩川を泳いで渡ろうとする綾子を弁財天の化身である大蛇が阻むというものでした。
②江の島の南側海に面した岩屋洞窟

三郎は綾子が息を引き取った即日、稲毛入道と改名し、その後は綾子の追善供養に生きることを決意するのです。

【今迄の話 リンク集】
いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~
いなげや② ~弁財天~
いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~
いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~
いなげや⑤ ~富士の巻狩り㊦~
いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~
いなげや⑦ ~綾子~

1.弁財天再び

綾子の葬儀も終わり、8月の蝉が喧しい季節に、三郎は頼朝と政子に上洛の帰途での対応や綾子の葬儀への参列について、感謝の意を伝えに鎌倉に出向きました。

出向いたついでに、鎌倉から目と鼻の先にある江の島の岩屋洞窟に立ち寄りました。(写真②
ここはかつて時政が今若の助言により、弁財天と会った場所です。
③江の島の岩屋に現れた弁財天

そこで綾子の霊が成仏するよう熱心に祈ると、期待したとおり、弁財天が三郎の前に現れます。

時政の時と同様に、上半身は女性、しかし下半身は蛇という姿で、上半身をきちんと海面に出して濡れないように、下半身のウロコと尻尾を使い上手に泳いで、岩屋洞窟に現れたのです。(絵③

その現実離れした姿に少々戸惑う三郎に、弁財天は言います。

「迷うまいぞ、三郎。そなたが、何を聞きに来たのかは分かっておる。綾子のことであろう。」

「はっ」

「あれは優しすぎるな。奥州の亡者どもへの同情が強すぎ、とうとうあちら側へいってしまった。」

「あちら側ですか・・・。」

「そうじゃ。あちら側とは多摩川の北岸に居る亡者ども側であるが、彼らが、そなたらの枡形城の地を何と呼んでいるか知っているか?」

「・・・」

④相模川の河口付近(馬入橋から写す)
「むこうが丘じゃ(※今の「向ヶ丘遊園」の地名の由来)。つまり多摩川の南岸が『向こう岸』。彼らは川に非常に弱い。そもそも三途の川も銭六文も払って舟に乗らないと渡れないのが亡者じゃ。彼らにとって多摩川を渡り鎌倉で怨みを晴らすことが三途の川を渡る前に必要なのじゃ。かわいそうに、そんな亡者と一緒の綾子も成仏できずに『向こう岸』を目指している。」

「どうすれば綾子を楽にすることができますか?」

「稲毛三郎重成、橋を掛けよ!」

「やはり・・・」

「ただし、多摩川にだけ橋を掛けたのでは、鎌倉に亡者が入り込み、沢山の犠牲者が出る。鬼門から入った亡者は裏鬼門を開ければ、自然と西方浄土目指して吸い込まれるように流れ出ていく。そのためには、ここじゃ!」

弁財天が自分の持つ玉に映し出されたのは、多摩川ではなく、相模川の河口付近でした。(写真④


「ここが裏鬼門へ抜ける時に、また障害となる大きな川、相模川がある。鬼門である多摩川の橋を開くとほぼ同時に、南西の裏鬼門である相模川に掛けた橋も開くのじゃ。さすれば、亡者も、綾子も成仏することが出来る。」(地図⑤

2.狛江人

枡形城に戻ると、三郎は早速、多摩川を渡り、狛江人の技術者たちと、打合せを兼ねて、深大寺の水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に参拝し、多摩川と相模川への橋完成を祈念しました。

狛江人とは、この時代より500年近く前に、当時の朝鮮半島から来た渡来人であり、狛江の土地名の由来も、朝鮮半島の高麗(こま)の人々が住んだ多摩川の入り江であることから、高麗江が狛江となったことは以前も書きました。

脱線しますが、ちなみに神社にある狛犬は高麗犬、つまり朝鮮からもたらされたものです。

元々は獅子(ライオン)で、スフィンクスと同じ神の守り神として作られた石像なのです。
⑥狛犬は確かにライオンのようなたてがみがある
※元はスフィンクスと同じライオンの石像

これが朝鮮半島から日本に伝わり、当時の日本人は獅子を見たことが無かったからなのか、ライオン像が「朝鮮から来た変わった犬」という意味も含め、「高麗犬⇒狛犬」となったようです。(写真⑥

深大寺の縁起自身にも、狛江人は登場します。

縁起の概要をお話します。(絵⑦

この地区の豪族に美しい娘がおり、この娘が狛江人の渡来人(絵⑦中の右下の人物)と熱愛に至ります。

渡来人との結婚を望まない豪族の両親は、娘をこの土地にあった湖の真ん中にある島(絵⑦の左端)に連れて行き、渡来人が娘にアクセスできないようにしてしまうのです。

困った若者は、先の水神「深沙大王」にヘルプを求めます。深沙大王こと沙悟浄写真⑧)は、霊亀(れいき:どでかいカメ?)をこの渡来人に与え、渡来人は霊亀に乗って娘の居る島に渡り、娘を連れて帰ります。そして根負けした豪族の両親の承諾を得て、娘と結婚しました。
⑦深大寺縁起絵巻
そして出来た子供が優秀なお坊さんになるに及んで、両親がこの息子に沙悟浄を祀る寺を建ててくれと頼んで出来たのが深大寺。というストーリーです。
⑧沙悟浄(深沙大王)のイメージ
(岸部シロー演じる西遊記ですね・・・)

なので、この深大寺は恋愛成就、かつ水の神様としてカップルがお参りするパワースポットになっているのです。


ところで、深大寺周辺のどこに大きな湖があったのか?確かに深大寺の周辺は水生植物園を始め、至る所に湧水があり、水は豊富ですが、真ん中に島を持つような大きな湖が、ここにあったとは考えにくいのです。

縁起にある湖は、深大寺から南へ3㎞のところにある多摩川ではないかという私の推測を描いたのが、以前のBlog「深大寺縁起について」(こちらをクリック)です。よろしければご笑覧ください。

まとめると、狛江人は朝鮮からの渡来人であり、この武蔵野の地域に「仏教」を伝えるために深大寺を、「治水技術」を伝えるために多摩川の治水を担当した優秀な技術者集団であったのではないかということです。

3.多摩川と相模川
⑨多摩川と相模川の違い

このように、深大寺縁起の頃(8世紀)から、治水技術を駆使して多摩川の氾濫に対応してきた狛江人ですが、彼らを持ってしても、この500年間、この川に恒常的な橋が架けられた試しがないのです。

図⑨を見て下さい。
後に、三郎がきちんとした橋を架けた相模川と多摩川、全長はそんなに変わらないにも係わらず、水源の標高差がなんと2倍以上違うのです。

流れ出る高さが違うのですから、水量が増えた場合の押し流れる水の勢いが違うのは理解できますね。なので、多摩川は古来から「あばれ川」として有名なのです。
⑩舟橋

そんな川ですから、普段水量が少ない時は大丈夫でも、一旦大雨でも降って降水量が増えれば、折角架けた橋も簡単におし流されてしまうのです。

なので、多摩川には近年までなかなか橋が架けられなかった ということです。

深沙大王への参拝後、三郎は狛江人の治水技術者らと協議を開始しました。

そこで決まったことは、以下の通りです。

①綾子の追善供養として多摩川と相模川の両川に同時に橋を架ける。

②相模川には狛江人の技術力を結集して、きちんとした大橋を建設するが、多摩川にそのような橋を建てても、押し流されるので、多摩川には一時的に舟橋(舟を紐で繋ぎ合わせ、その上に板を敷く臨時の橋)を架けることとする。(絵⑩

③両橋の建設完了は、3年後の川が渇水期となる12月を目途とする。
渇水期の多摩川に架ける舟橋は1,2か月もあれば完成できます。しかし、相模川に架ける橋はその後も永代的に利用することを想定し、試作橋の設計・木材調達・試作橋の敷設・強度等の検証・本設計・本物の敷設 等の工程を積んでいくと、最低でも3年は掛かると狛江人の技術者達は見積もったのです。

⑪相模川に架かる現在の大橋(馬入橋)
これらの方針を狛江人と決めた三郎は、心の中で、「綾子、待っていろよ。3年後にはそこから救ってやるからな。」と呟くのです。

◆ ◇ ◆ ◇


そしてこれらの方針を、早速綾子の父親である北条時政の名越の屋敷に報告に行きます。

時政は、三郎が弁財天の話や2つの川への橋建設について熱心に報告するのを、静かに聞いておりましたが、途中から目を瞑っていました。三郎は一気に話し終えた後、まだ目を瞑っている義父に対し、「寝てしまわれたのか?」と心配になったので、

「して、多摩川の稲田堤に架ける橋は我が領内のことですし、一時的な舟橋ですので、特に御裁可は必要ないと考えますが、相模川については領外です。御裁可をどなたに仰げば宜しいでしょうか?」

「・・・」

「お義父殿!」

しばらくすると、時政は目を開き話を始めました。

「よいか三郎。御裁可については、作事奉行(さじぶぎょう)等を統括するわしが裁可すれば良いことだ。勿論裁可はする。しかしじゃ。今の話、綾子の追善供養として鎌倉と京の都を結ぶ東海道の最初の難所・相模川に橋を架けるという大事業を稲毛入道(この時の三郎の正式名)が請け負いたいと頼朝公に請願するのじゃ。そして3年後に落成した暁には、是非相模川の大橋の落成式にご出席賜りたいともお伝えせい。この相模川への大橋、その規模の大きさ・技術力の高さから、頼朝殿も驚き、三郎の綾子への想いの深さ、強く共感して下さると思う。また多摩川に永代的な橋を架けられなかった狛江人にしても、頼朝公が落成式に来るとなれば、俄然張り切って相模川へは頑丈で長持ちする橋を架けるはずじゃ!」

「なるほど、流石はお義父殿。早速頼朝公にお話に行きます。」

「但し頼朝公には、綾子と亡者の関係、それから多摩川に橋を架けるということは話してはならぬ。あくまで相模川に綾子の追善供養として大きくて頑丈な橋を架けたいという事のみをお話するのじゃ。」

「はっ!」

4.相模川の大橋の完成

さて、それから3年間、狛江人は、自分達の持てる技術を全て投入して、着々と相模川への大橋の建設を進めました。

◆ ◇ ◆ ◇

北条時政に言われる通り、三郎が頼朝に今回の相模川への大橋建設について上奏したところ、頼朝公は大変喜び、

「あっぱれ稲毛入道、綾子殿への追善供養として、これ程鎌倉の民に役に立つ建設事業はない。狛江人にも是非頑丈な橋を架けるよう頼朝がお願いしていたと伝えてほしい。勿論橋の落成式には出席させてほしい。」

との事でした。三郎がこの内容を狛江人に伝えたところ、

⑫上:関東大震災後突如現れた相模川橋脚
下:現在の整備された橋脚跡    
「おおっ、頼朝公が喜ばれ、落成式に参列頂けるのであれば、今まで500年間、多摩川で架けても架けても流される橋を作って来た技術を全部投入して、相模川では決して流されない橋を見事作ってみせようぞ!」

と大張り切りな訳です。北条時政の予想通りと言ったところでしょうか。

◆ ◇ ◆ ◇

ただ、多摩川に比べて、相模川が幾ら落差が少なく、多摩川程氾濫が少ないと言っても、大河であることには変わりありません。

また、この時代はコンクリート等がある訳では無く、全て木造建築なのですから、橋が押し流されないようにする技術は大変な苦労があったと想像されます。参考に現代の相模川へ架けられている橋の様子を写真⑪に示します。現代の橋を架ける場合であっても、かなりの大工事であることは想像するに難くないですね。(写真⑪

ところが割と最近になって、この三郎が綾子の追善供養として架けた鎌倉時代の橋の一部が見つかったのです。(写真⑫

1923年の関東大震災で、突如田圃の中から、旧相模川の橋脚が出現しました。(写真⑫上)

現在は橋脚の保護措置が取られ、写真⑫の下のように綺麗に整備されていますが、この措置の過程で、やはり狛江人が、かなり高度な技術で橋を建設したということが判明したのです。(写真⑬

3年後に出来上がった橋は、幅は9m以上ある屈強のものでした。写真⑬にある杭が橋脚として打たれたのです。
橋の上の構造物はそれなりに修理が可能ですが、この杭が雨期等で流されてしまうと、橋として永代使えるものではなくなってしまうため、この杭を橋脚としていかにしっかりと建てるかが、狛江人の技術の腕の見せ所です。
⑬相模川架けた橋の杭(橋脚)構造 ※現地看板より

写真⑬の写真と図で分かるように、杭は川底から先の地中は細くなり、深く差し込む形となっています。こういう構造を取ることで、上部の柱に水圧がかなり掛かっても、すぐに地中部分の柱がぐらつかないような構造に加工しているのです。

◆ ◇ ◆ ◇

このような狛江人の技術的な努力もあって、3年後には無事両橋の完成が見込まれる状況となりました。

相模川に架ける橋の落成式の日取りも決定しました。予定通りの渇水時期である1198年の12月27日です。

5.おわりに

この橋の落成式の予定が決まる11月上旬頃、時政は狛江人の技術者の1人を名越の屋敷に呼び寄せます。その狛江人は多摩川を敵が渡河しようとするときに、あるものを川底に仕掛け、渡河の妨害をする技術を持った隠密の軍事技術者でした。

彼のその技術の存在は、軍事機密にあたるので、三郎しか知らないはずなのですが、流石は時政、そういう技術者が居ることを彼の情報網で見つけ出していたのです。

時政はこの技術者に、三郎にも黙っているという約束で、12月27日に向け、ある約束を取り交わします。

秋の深まる鎌倉は、これから起きることを予感させることなく、いつものように静かに紅葉に彩られた季節を迎えているのでした。

《つづく》

お読み頂き、ありがとうございました。
上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。

【多摩川水道橋(舟橋を架けた想定地点)】神奈川県川崎市多摩区登戸 県道3号線
【旧相模川橋脚跡】神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目3
【江の島岩屋洞窟】神奈川県藤沢市江の島2丁目5 江の島2丁目
【深大寺】東京都調布市深大寺元町5丁目15−1