楠木正成の千早城籠城が開始されて2か月、この間で、楠木正成が期待していた最大のレジスタンス活動が、新田義貞と足利高氏によって開始されました。
そう、鎌倉幕府倒幕活動です。
足利高氏は1333年5月7日丹波(京都の北)篠村八幡宮にて挙兵、京の六波羅探題攻略に向かいます。
一方、上野国(群馬県)生品神社にて新田義貞は5月8日に挙兵し、一路鎌倉攻めに邁進するのです。(写真①)
①左:足利高氏 旗揚げの地 篠村八幡宮 右:新田義貞 旗揚げの地 生品神社 |
②新田義貞 鎌倉攻め |
地図②に新田義貞軍が旗揚げから鎌倉まで攻め寄せるプロセスを纏めてみました。(地図②)
前回のブログでもお話しました通り、当初150騎で鎌倉幕府に対するレジスタンス(反乱)軍として旗揚げした新田義貞。(地図②の①)
利根川を越え、足利高氏の息子・千寿王(せんじゅおう:後の足利2代将軍・義詮(よしあきら))と合流すると、そのレジスタンス軍は3万にまで膨れ上がっていました。(地図②の②)
一方、鎌倉幕府側も5月9日には緊急に軍議を開き、総大将に北条(桜田)貞国、長崎高重(内管領(北条家の執事のような役職)長崎円喜の孫)らを副将とする軍5万を発出します。
鎌倉に攻め込まれては大変と、慌てて北上する幕府軍は、新田軍が入間川を渡ってきた小手指ヶ原という丘陵地帯で、5月11日に遭遇します。(地図②の③)
「くそっ!遅かったか!」
長崎高重は悔しがります。彼ら幕府軍は入間川を挟んで新田軍と対峙する計画でした。しかし新田軍の方が迅速だったと言われています。
ただ、義貞が生品神社で挙兵したのが5月8日、3日後の11日に開戦するのですが、1日遅れの5月9日に軍議を開いて、新田軍の1.7倍はある軍勢を揃え、2日後に駆け付けた地点は、ほぼ生品神社と鎌倉の中間(地図②参照)です。鎌倉幕府軍は軍事行動としては新田軍に引けはとっていない迅速さであると思いませんか?
話を戻します。合戦はお互いに陣を敷いている余裕はなく、遭遇戦の形となります。つまり、行き当たりばったりの局所、局所で戦をしており、その数30以上にもなったといわれています。
現在の小手指ヶ原もその丘陵地帯にある林や、あちこちに点在する森等が、戦闘当時の雰囲気を残しているような感じがします。(360°写真③)
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
③小手指ヶ原古戦場
※赤い点がある森が新田義貞の本陣
(白旗塚)
※赤い点がある森が新田義貞の本陣
(白旗塚)
④久米川近くの八国山に 陣を置いた新田義貞の塚 |
新田軍は入間川まで、幕府軍は南側にある久米川までの撤退です。(地図②の④)
翌日5月12日早朝、久米川に布陣する幕府軍に対して、勢いに乗っている新田軍は奇襲をかけます。(写真④)
北条貞国や長崎高重は、波に乗っている新田軍が奇襲をかけるだろうと恐れていたので、久米川の幕府軍の布陣は鶴翼の陣を布いた戦闘態勢で各隊とも休ませていたのでした。鶴翼の陣は敵より味方の兵数が多い時に有効なので、この時の幕府軍の布陣は間違いではないのです。
なので、早暁攻め寄せる新田軍は手こずります。そして久米川の戦場のあちこちで、幕府軍の反撃が始まり、そもそもあちこちからの寄せ集め軍である新田軍は、散り散りになり始めました。これらを追いかける幕府軍。気が付くと鶴翼の陣の翼は長々と伸び、北条貞国や長崎高重の居る本陣も手薄になっていたのです。(写真⑤)
やはり、新田義貞の方が一枚上手でした。彼らは自分たちの烏合の衆に近い軍が鶴翼の陣にひっかかることは、最初から分かっていたのです。これらの軍の使い方を最初から、幕府軍の陣を拡散することに決めていたのです。十分手薄になった本陣に新田義貞ら、生品神社で旗揚げした150騎が騎馬の機動力を使い突っ込んでいきます。
⑤久米川古戦場跡碑 |
2.分倍河原の戦い(新田義貞)
幕府軍はこの退却で意気消沈、逆に新田軍は意気揚々と幕府軍を追撃します。
5月15日早朝、両軍は分倍河原で再び激突します。(地図②の⑤)
頼朝の開府以来、鎌倉の防衛線は、地図⑥のようになっています。(地図⑥)
そもそも鎌倉はその名前の通り、倉のように四囲を山に囲まれ、出入りは「切通し」という関門を通らねばならない天然の要害なのはご存知の通りです。また海側からの攻撃については、熱海と三崎に土肥氏や三浦氏などの有力水軍による防衛線をもっていたのです。
これらの天然の防衛線は、地図上赤い線で示しています。これらの赤い線は、言い換えると、いわば鎌倉の「内堀」のような機能を担っています。
では「外堀」は?というと、これは地図の黄色い線ですね。西からは箱根・足柄峠、北側からは多摩川が外堀、つまり第1防衛線なのです。
鎌倉幕府軍は、この多摩川を新田軍に突破されては、第1防衛線を崩され、鎌倉陥落の危機に立つことになるため、まさに多摩川を背にした「背水の陣」の覚悟で戦に臨みます。
⑥鎌倉の2段階防衛ライン ※黄色が第1防衛ライン、赤が第2防衛ライン |
ー背水の陣の覚悟で守る幕府軍は強いかもしれない!ー
と新田義貞は一瞬悪い予感が走ります。
⑦分倍河原古戦場石碑 |
分倍河原に黒々と固まって陣を張る幕府軍。北条の「三つ鱗」の旗がたなびき、必死の形相でこちらの新田軍を睨んでいる雰囲気が伝わってきます。多摩川の川面自体は幕府軍の陣の先の土手(盛り土)のため見えませんが、今は雨期なので水量も多いと想像できます。(写真⑦)
ー俺たちには勢いがある。この勢いは天が授けてくれたものだ!負ける訳がない!ー
と義貞は自身を奮い立たせます。
「かかれっ!」との義貞の号令と同時に合戦陣太鼓・ほら貝の音が響き渡ります。
やーっとばかりに、幕府軍へ正面切って新田軍の先鋒隊は押迫ります。するとやはり、その勢いに気圧されたのでしょうか?北条貞国と長崎高重の軍がそれぞれ多摩川の下流側、上流側に逃げるように駆け出しました。
ーやはり天は俺たちに味方している。幕府軍は弱い!-
と先程の悪い予感が払拭され、ほっとする義貞。
ところが次の瞬間、左右に開いた分倍河原の向う側、土手から大量の兵が登ってきたのです。彼らは登るとすぐに矢を射掛け始めます。
―なに!ー
土手から、後から後から兵が湧き上がってくるように見えます。
これら新手の幕府軍が、新田軍に正面からぶつかり合い始めました。以前から戦っている幕府軍とは勢いが違います。
やがて、悠々と大将格らしい武将が騎馬に乗って盛り土の向う側から現れました。大層立派な兜です。この頃はまだ数も少ない明珍(みょうちん)の黒光りする兜を被っているのです。
―北条泰家(やすいえ)だ!鎌倉からの援軍なのだ!まずいぞ!これは。先鋒隊が全滅する!ー
⑧分倍河原駅にある新田義貞像 ※鬼切丸を振り上げ何か叫んでいます |
もともとにわかに3万も集まった新田軍。烏合の衆の感は否めません。こういう不利な形勢の時に、弱点が現れるのです。
これを見た新田義貞は、急遽愛馬に跨り、一直線に次鋒隊の後方に回り込み
「総大将の新田義貞である。逃げようとする者は切る!」
と鬼切丸を天に付き上げ、大音声(だいおんんじょう)で叫びます。(写真⑧)
敗走しようとした兵は、その声に最初は恐懼の目を義貞に向けますが、義貞の表情は優しく、口元には笑みを湛えています。
「ワシに策がある。ついてこい!」
敗走しかけた兵2000が、その余裕のある義貞に信頼を置き、後についていきます。
またこの義貞の大音声により、多摩川の上流側に散開した敵将・長崎高重が、「おお、あれが総大将新田義貞ぞ!これは絶好の機会。打ち取れ!打ち取れ!」と声を上げます。
実は、これも義貞の作戦のうちなのです。
義貞の後を追いかけてきた騎馬150騎(久米川の戦いでも活躍した騎馬隊)に対し、義貞は、長崎隊より更に多摩川上流から長崎隊の裏に回り込むよう指示をします。義貞自身はついてくる兵2000と一緒に、まるで囮のような行動をします。つまり執拗に義貞の首を狙う長崎隊をかき回し、騎馬隊の行動を分かりづらくします。そして150の騎馬が長崎隊の背後から襲い掛かると、長崎隊が崩れ、新田軍先鋒隊の包囲網は多摩川上流方面が破れるのです。
ー今だ!ー
新田の先鋒・次鋒隊に伝令を走らせ、幕府軍の囲みから全軍を脱出させ、義貞は全軍に退却を命じます。
退却の法螺(ほら)が分倍河原に響き渡り、新田軍は分倍河原から北へと敗走を始めます。新田軍はこの日だけで、1000以上の死傷者を出し、旗揚げ以来、幕府軍に初めて大敗を喫したのでした。
3.裏切り
しかし天は、一度決まった時勢の流れを、多少の浮き沈みはあっても、決して止めないものなのですね。戦いに敗れ分倍河原の北側に退却した新田義貞のところに、夜半幕府軍の大物が寝返ってくるのです。
➈六波羅探題跡 |
三浦義勝は義貞に言います。
「明日の戦中、ワシらが幕府軍の中で、突然寝返るので、新田軍は外から、ワシらは内から仕掛ければ幕府軍はたちどころに壊滅するじゃろう。」
「・・・」
義貞は無言です。
ーなぜ敗者の俺たちに?-
と夜来不思議に思っていた義貞も、だんだん三浦氏・その他寝返った武将たちと話をしていて分かってきました。
六波羅が落ちた!
その噂が、この鎌倉幕府軍にも流れ始めていたのです。(写真➈)
4.六波羅攻め(足利高氏)
⑩北条仲時 享年28歳 |
分倍河原の戦いが5月15日。8日間もあれば、京都から鎌倉へ早馬で伝えられたであろう六波羅探題陥落、9日に出陣した武将たちは知らないでしょうが、後から援軍で来た北条泰家が引き連れてきた三浦等の有力武将たちが知らないはずがありません。
六波羅探題側も足利高氏が4月29日丹波・篠村八幡宮で反旗を翻した時から、危機感にあおられてはいたのです。
自分たちが擁立している光厳天皇の綸旨(りんじ)という形で、楠木正成が立て籠る千早城を包囲する数万の鎌倉幕府軍に至急京へ戻り、六波羅探題の守備に就くよう要請するなどの努力はしていました。
しかし、平和時の対応に慣れ切ったお役所・六波羅探題。結果的にこれらの処理は後手後手に廻り、侵略すること火の如しの足利高氏・赤松円心・佐々木道誉らの軍になすすべもなく、総崩れとなったのです。
この時六波羅探題北方(総督)の北条仲時(なかとき)は、光厳天皇(後の北朝最初の天皇)、花園上皇、後伏見法皇をはじめとする皇族を脱出させるのがやっとでした。(絵⑩)
洛中は市街戦で六波羅探題だけでなく、あちこちの建造物で火災が発生し、レジスタンス軍の幕府軍弾圧の悲惨な最期が繰り広げられています。これらをかいくぐるも、北条仲時らは近江のあたりで何度も野伏に襲われたり、佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれたりしました。やむなく天皇や上皇らの乗り物を入れ替えて何とか無事皇族を通過させた後、仲時は一族432人と自刃しているのです。享年28歳の若さでした。
⑪関戸古戦場と分倍河原古戦場の位置 |
5.関戸の戦い(新田義貞)
話を分倍河原の新田軍に戻します。
六波羅陥落の話を聞いた義貞は、翌日5月16日早朝、全軍に向かって大音声で告げます。
「皆聞け!六波羅は落ち、箱根以西はすでに全軍宮方(後醍醐帝側)に降伏した。残すは鎌倉のみぞ!心してかかれい!」
これは新田軍のモチベーション向上には一番の言葉でした。昨日の負け戦で意気消沈していた新田軍はまたにわかに盛り上がります。
この時幕府軍は、多摩川を渡った関戸城に布陣。新田軍の逆襲に備えていました。(地図⑪、地図②の⑥)
以前私は、鎌倉幕府創成期に活躍した稲毛三郎重成(しげなり)の物語ブログ「いなげや」でも鎌倉の第1防衛線について書きました。つまり、稲毛三郎の枡形城や小沢城をはじめ、多摩川南側の河岸段丘上にずらっと並べて造った城や砦が鎌倉第1防衛線なのです。
関戸城もその1つなのですが、多摩川方面のどこから新田軍が逆襲してくるか分らない幕府軍にとっては、この城から分倍河原方面を監視するのが戦の常道だったのでしょう。
⑫関戸城から多摩川方面を監視する二人(笑) ※実際にはここまで綺麗な景色は見えません |
とこのように幕府軍の監視兵も楽しく談笑していたのかもしれませんが、やはりこの多摩川を渡って新田軍3万が逆襲してくるのを発見します。
「ふん、懲りない新田軍め!またぞろ返り討ちにしてみようぞ!」と北条泰家が言ったかどうかは知りませんが、この城から打って出て、多摩川の河原で両軍ぶつかり合います。
数の上では圧倒的に幕府軍の方が上ですので、また新田軍は劣勢に立たされます。しかも渡河をしながらの戦ですから不利なことこの上無いです。
しかしほぼ北条全軍が河原で戦闘を開始したその直後、三浦一族を始め相模党一派の兵が内部から寝返りはじめ、本陣の北条泰家、貞国らを襲います。
「な、なんと卑怯な!鎌倉武士もここまで落ちたか!」と幾ら泰家・貞国が嘆いてもあとの祭り。
⑬関戸古戦場跡 |
六波羅探題陥落の報は、既に幕府軍全軍も知るところとなってしまい、6000の兵以外にも次から次へと裏切りが出て、この幕府軍はほぼ自沈してしまうのです。
新田義貞は、これらの裏切る幕府軍を受け容れながら、時の勢いというものを強く感じずにはいられませんでした。
新田軍が大勝した関戸の戦いは、今はお地蔵さんが立っているのみですが、これで鎌倉の第1防衛線が破られたことは大きな歴史の転換点となったのです。(写真⑬)
次回は、鎌倉の第2防衛線の攻防へと舞台は鎌倉周辺へと移ります。(地図⑥参照)
ご精読ありがとうございました。
《つづく》
【生品神社】〒370-0314 群馬県太田市新田市野井町645
【篠村八幡宮】〒621-0826 京都府亀岡市篠町篠上中筋45−1
【小手指ヶ原古戦場】〒359-1152 埼玉県所沢市北野2丁目12
【将軍塚】〒359-1132 埼玉県所沢市松が丘1丁目
【久米川古戦場跡記念碑】〒189-0021 東京都東村山市諏訪町2丁目20
【分倍河原古戦場碑】〒183-0033 東京都府中市分梅町2丁目59−1
【分倍河原駅前・新田義貞像】〒183-0021 東京都府中市片町3丁目26−29−2
【六波羅探題跡】〒605-0842 京都府京都市東山区三盛町162
【関戸城 天守台跡】〒206-0013 東京都多摩市桜ケ丘1丁目53−17
【関戸古戦場跡】〒206-0011 東京都多摩市関戸5丁目23