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北斗七星を追え!⑧ 〜勝海舟、幻の幕府BCP計画を発動す〜

①江戸城を中核とした
天海の霊的防御構想
(再掲)
 これまで、戦国の動乱期を生き抜き、一説には明智光秀の生まれ変わりとも囁かれる南光坊天海について論じてきた。天海が江戸幕府の創成期において、霊的な結界によって都市の安寧に尽力した足跡や、徳川家康を「東照大権現」として神格化することが、代々の将軍家による長期政権の安定にいかに寄与したかについても触れた。

だが、これらは風水をはじめとする霊的、すなわち「静的」な都市防衛計画にすぎない。もし実際に有事が起きた際、幕府はいかに組織と統治を守るべきか。実は、現代でいう「BCP(事業継続計画)」に相当する実効的な危機管理を、幕府創設期にすでに「構想」していた人物がいる。服部半蔵正成である。

そして、およそ260年の時を経て、この半蔵の「構想」を、現実の有事に初めて「発動」した人物が存在する。幕末の三舟のひとり、勝海舟だ。

天海が構想した「北極星・北斗七星を背に江戸を北から守護する霊的防衛構想」と、半蔵が残した実効的な危機管理計画は、江戸の終焉という幕府最大の有事において、この海舟の手に託されたのである。(図①)

1.江戸幕府BCP計画の発動

前回、徳川家康と人質時代から辛苦を共にしてきた服部半蔵が、江戸城の「半蔵門」から将軍を脱出させる計画を構想していたことについて詳しく述べた。これは、甲州街道沿いに配置した半蔵の手下(伊賀衆)たちの護衛によって、甲州の甲府城まで将軍を落ち延びさせるという、極めて実効的な危機管理体制である。(写真②)

②江戸城搦手にある半蔵門

服部半蔵自身も、この甲州街道沿いに居を構えていた。現在も四谷付近の街道から少し住宅街に入った場所に、彼の墓が静かに残っている。(360°写真⑤)

江戸城の搦手(裏門)にあたる半蔵門から、将軍を隠密裏に脱出させる。そして、半蔵とその手下の護衛によって甲府城まで護送する。その後は、甲府城から江戸城を攻める反幕府軍の動静を見極めつつ、必要な反撃や対処を行う。これは、現代の視点から見ても非常に合理的なBCP計画だ。

しかし、この計画には一つだけ無理な点があった。

江戸城の大手門(正門)は東側にある。(図③)のように、武蔵野台地が東へ張り出した突端に位置しており、西側が台地続きとなるため大手門を造りづらいという構造上の理由もある。だが、東側に正門を設けた最大の要因は、やはり「仮想敵が東側からやってくる」ことを前提としていたからである。

江戸城の原型は、太田道灌が築いた城を基盤としている。(もちろん、二の丸付近にはそれ以前に江戸氏の居館跡があった。しかし、こちらは日比谷入江側となる南側を正面としていた説が有力であり、道灌の築城に大きな影響は与えていない。)

道灌が活躍した時代の仮想敵は、古河公方や千葉氏など、東側からの脅威が中心であった。そのため、武蔵野台地が東に向かって突き出している地形を利用し、大手門側の防備を徹底的に固めたのである。

だが、その裏返しとして、搦手(西側)の防備は課題として残った。台地続きとはいえ、当時は鬱蒼とした原生林に守られていたわけではなく、開けた芒野(すすきの)が広がっていたのである。つまり、攻め寄せる敵軍が容易に陣を敷き、長期間滞留できてしまう地形だった。

ある意味で、この西側の搦手こそが、江戸城防衛における最大のアキレス腱だったわけである。(図③)

③江戸城より西側の搦手は芒野(すすきの)武蔵野台地

家康が江戸城を再構築する際にも、大手門は東側に置かれたままであった。それには、東側を正面とする構造上の造りやすさだけでなく、当時の政治状況も深く関係している。

家康が江戸に入って城の改築を始めた頃、豊臣政権はまだ盤石であった。そのため、西側にいる豊臣家などを仮想敵とする発想は生じにくかったのである。むしろ警戒すべきは、伊達や佐竹といった東北・北関東の有力大名であった。つまり、依然として東側や北側からの脅威の方が大きかったのだ。

その結果、家康は太田道灌時代の基本構造を踏襲し、そのまま東側に大手門を構えることになったのである。(地図④)

④江戸城の大手門は東側、半蔵門は西側にある

ところが、秀吉の天下統一以降、徳川家にとっての脅威は徐々に西国へと移っていく。のちに家康が臨終に際して残したとされる、次のような有名な言葉がある。

「幕府への脅威は西から来る。我が遺骸は久能山へ、身を西に向けて立ち姿で据えよ。死して敵を睥睨(へいげい)する」

家康の視線は、完全に西を向いていたのだ。それならば、東側に大手門を構える江戸城の構造は、警戒すべき仮想敵の方向と矛盾しているのではないか。西側に広がる搦手(からめて)、すなわち半蔵門側から攻め込まれることこそが、江戸城の最大のアキレス腱だったと言えるだろう。

実は、家康が江戸に入り城の防備を固め始めた当初から、すでにこの西側の弱点を見抜き、有事に備えた危機管理体制を構想していた人物がいる。

それが服部半蔵である。(360°写真⑤:半蔵の墓)

⑤甲州街道沿い・四谷にある
服部半蔵正成の墓

万が一、江戸城が攻め込まれ形勢が不利になった場合、将軍を隠密裏に甲府城まで護送する。これが半蔵の立案したBCP計画である。

彼は単に机上の計画を立てただけではない。有事の際、迅速に将軍の護送任務を遂行できるよう、自身を含めた配下の忍者たちをあらかじめ甲州街道沿いに住まわせ、万全の実行体制まで整えていたのである。(図⑥、写真⑦)

⑥江戸城から甲府城への将軍脱出ルート

⑦小仏峠関所跡

2.甲陽鎮撫隊

ところが、江戸時代の260年間、半蔵が危惧したような事態は一度も起きなかった。よって、甲府城への将軍脱出計画が発動されることは、当然ながら無かったのである。天海と家康の目論見通り、江戸の平和は守られたわけだ。

そして、服部半蔵正成が構想し、江戸城の門に自らの名を冠してまで準備した綿密な計画は、幕末になって意外な形で利用される。勝海舟による「厄介払い」の作戦である。

その厄介払いの対象とは、いわずもがな新選組だ。

慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組や旧幕府の血気にはやる兵士たちが、江戸へ逃げ帰ってきた。彼らは、新政府軍が江戸へ攻めてくれば徹底抗戦も辞さず、市中での暴動すら起こしかねない勢いである。その筆頭に立ちそうなのが新選組だった。江戸城の無血開城を密かに志していた勝海舟らにとって、彼らは非常に危険で厄介な存在であった。

そこで海舟は、まず新選組の局長・近藤勇を直参の幕府旗本、それも若年寄格(大名並みの格式)に引き上げる。これが直後に控える「厄介払い」を円滑に進めるための布石であったとすれば、海舟も相当な策士である。もちろん、それまでの近藤の功績に対する褒賞という名目が第一であったと考えよう。

そして、海舟は近藤を呼び出し、次のように持ちかけたのだろう。

「直参入り、おめでとう。さて、幕府の今後について話そうか。江戸はもう持ちこたえられないかもしれない。そこで、いにしえの『服部半蔵計画』を発動する可能性が出てきた」

「服部半蔵計画、ですか」

「そう。260年前に立てられた将軍脱出計画だ。半蔵門という名は、そのために半蔵の名が付けられているのさ」

「はあ……」

「新政府軍に奪われる前に、お前さんたちでひとっ走り行って、甲府城を押さえてきてくれないか。いざという時は、将軍様をあそこに逃げ込ませる」

「承知いたしました」

こうして、甲府城の確保を命じられた近藤たちは新たに「甲陽鎮撫隊」と名付けられ、幕府軍と共に甲州街道を西へと進軍することになる。これが3月1日のことであった。

◆ ◆

ところが、甲陽鎮撫隊は甲州街道を進む途中、現在の調布市野川周辺にある近藤勇の生家に立ち寄ってしまうのである。(360°写真⑧)

360°写真⑧:近藤勇の生家

一介の農家の出身であった近藤からすれば、幕府の直参旗本、それも大名に匹敵する若年寄格へと異例の出世を遂げた直後である。故郷に錦を飾るべく、どうしても立ち寄りたくなったのだろう。

しかし、ここで道草を食っていたことが命取りとなった。彼らが手間取っている間に、東征を進める新政府軍(土佐藩)が先回りし、あっさりと甲府城を占拠してしまったのである。(360°写真⑨)

360°写真⑨:甲府城

この時、新政府軍を率いていた乾退助(いぬいたいすけ)は、武田信玄の重臣である板垣信方の遠縁にあたるという理由だけで、周囲から改名を勧められていた。「板垣と名乗れば、武田四天王に敬意を抱く甲州の人心が靡(なび)くはずだ」というのだ。かくして彼は「板垣退助」へと名を改めた。

この改名が功を奏したのか、新政府軍は新選組よりも一足早く甲府城への無血入城を果たした。目前に迫る危機をよそに故郷で油を売ってしまうあたり、時代の波に乗り遅れる運命にあった新選組らしさが表れているとも言えるだろう。

3.柏尾戦争

「どうやら甲府城は既に敵の手に落ちたらしい」——笹子峠のふもとでその衝撃的な報せを受けた近藤らは、急遽、3月5日にこの柏尾の地へ防衛線を張ることとなった。

「トシ、お前はひとっ走り江戸へ戻って援軍を連れてきてくれ!」

「分かった、往復50里の道を死に物狂いで駆けてくる。局長、それまで持ちこたえてくれよ!」

そんな緊迫したやり取りがあったのだろうか。土方歳三はすぐさま江戸へ向けて疾走した。近藤は、土方が援軍を連れて戻るまでの間、この地で板垣退助率いる大軍をなんとか食い止めようと覚悟を決めるのである。(写真⑩)

⑩柏尾の戦場跡に立つ近藤勇像

翌3月6日の正午すぎ、甲府城から板垣率いる新政府軍が怒涛の勢いで攻め込んできた。しばらくは大砲の撃ち合いや激しい白兵戦など一進一退の攻防が続いたものの、新政府軍の一隊が山越えによる迂回作戦に成功する。甲陽鎮撫隊は側背を突かれ、兵たちの間に動揺が一気に広がった。部隊はわずか数時間で総崩れとなり、江戸へ向けて無惨な敗走を余儀なくされる。

「援軍が来るまでの数日間を持ちこたえる」という戦略が、いかに過酷で現実味の薄いものであったか。戦場となった現地の地形を見上げると、当時の悲壮感がリアルに伝わってくる。(写真⑪)
⑪当時の新聞に掲載された柏尾戦争絵図

4.捨てられた江戸幕府BCP計画と新選組

⑫近藤らは流山に陣を張る
このように、服部半蔵が描いた江戸幕府のBCP計画とも言える「半蔵門脱出計画」。260年の時を経て幕末に日の目を見るかと思いきや、勝海舟による新選組の厄介払い作戦に利用されただけで終わってしまった。

その後の近藤勇の物語について、簡単に記しておこう。

甲州勝沼での敗戦後、新選組は京都守護職時代に後ろ盾となってくれた松平容保のいる会津藩への合流を図る。しかし、方針の違いから永倉新八や原田左之助らが袂を分かって離隊し、隊士はわずか10余名にまで激減していた。そこで旧幕府軍の脱走歩兵らをかき集めて部隊を再編し、200余名からなる「下総鎮撫隊」を結成したのである。

一行は江戸川の「丹後の渡し」から流山へ渡って陣を構えた。しかし4月3日、急襲してきた新政府軍にあっけなく包囲されてしまう。(写真⑫)

覚悟を決めて切腹しようとする近藤を、土方歳三はこう制した。

「近藤さん、諦めるのはまだ早い。俺たちの偽名(近藤=大久保大和、土方=内藤隼人)は、まだ官軍には割れていない。弁の立つ近藤さんが『この隊は徳川の鎮撫隊だ』と堂々と主張し、敵を説き伏せてくれ」(写真⑬)

⑬流山の近藤勇陣屋跡碑
土方の言葉を受け、近藤は「大久保大和」と名乗って新政府軍に出頭した。しかし、板橋宿の本営へ連行されると、かつて近藤の顔を知る者の証言などにより、あっさりと正体が露見してしまう。

一方、急ぎ江戸へ戻った土方は勝海舟らに助命嘆願や救出を働きかける。だが、その奔走も虚しく、4月25日、近藤は板橋宿の刑場にて斬首され、その生涯を閉じたのである。(写真⑭)

近藤の首級は見せしめとして京都の三条河原へ送られ、板橋に残された胴体は刑場近くに打ち捨てられるように簡易的に埋葬された。

⑭近藤が斬首された板橋にある供養塔

だが、物語はここでは終わらない。深夜、甥の宮川勇五郎や兄の音五郎ら身内、そして天然理心流の門弟たちが官軍の目を盗んで遺体を掘り起こし、密かに故郷・多摩(武蔵国上石原村)へと運び去ったのである。

こうして郷里の地に手厚く葬られたのが、近藤家の墓である。(360°写真⑮)

つまり、ここ多摩の地には、波乱の幕末を駆け抜けた近藤勇の「胴体だけ」が静かに眠っているのだ。

⑮武蔵国・龍源寺にある近藤家の墓

ご精読に感謝する。

《つづく》

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【史跡巡りポイント】

📍 半蔵門(江戸城跡)

東京都千代田区麹町1丁目1(Googleマップで開く

📍 甲府城(舞鶴城公園)

山梨県甲府市丸の内1丁目5-4(Googleマップで開く
📍 服部半蔵の墓(西念寺):東京都新宿区若葉2-9 西念寺内(Googleマップで開く) 
📍 小仏関所跡:東京都八王子市裏高尾町419(Googleマップで開く
📍 近藤勇生家跡:東京都調布市野水1丁目6-8(Googleマップで開く
📍 柏尾古戦場跡(近藤勇像):山梨県甲州市勝沼町勝沼3424付近(Googleマップで開く
📍 近藤勇陣屋跡:千葉県流山市流山2丁目109-9(Googleマップで開く
📍 近藤勇と新選組隊士供養塔(寿徳寺境外墓地):東京都北区滝野川7丁目8-10(Googleマップで開く) 
📍 龍源寺(近藤勇の墓):東京都三鷹市大沢6丁目3-11(Googleマップで開く