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火曜日

南総里見発見伝② ~公方と鎌倉公方~

 前回は北関東を発祥の地とする里見氏が、結城合戦敗戦により、房総半島へ逃避するまでを描きました。

今回は、戦国時代の引き金を引いたとされる、この混乱を引き起こした鎌倉公方(関東公方)とその変遷についてみていきたいと思います。

1.鎌倉殿こと鎌倉公方
鎌倉時代に武家の政権が鎌倉に発足しました。しかし、それから約140年後、建武の新政があったことや、南北朝の対立等、鎌倉から京へ政治の中心は移ります。

ただ、鎌倉はやはり武士の聖地、特に坂東武者を中心とする東日本の武士たちは、野放しにすれば大変なことになります。

実際、鎌倉幕府最後の北条得宗家・高時の遺児が鎌倉を奪還し、鎌倉幕府再興を企てる「中先代の乱」が起こっています。(写真①)

中先代の乱」で北条時行と足利直義がぶつかった
「井出の沢」古戦場(町田市)
※わずか10歳の時行が、この戦で勝利。直義は鎌倉を退散

当時は、足利尊氏の弟・直義(ただよし)が鎌倉府を守っておりましたが撤退。その後も足利尊氏・直義らが京と鎌倉を何度も往復せざるを得ない程、鎌倉は武家を統治するのに重要な地点だったわけです。

尊氏は、幼少期より鎌倉で育った嫡男・足利義詮(よしあきら)に統治を任せていた時期もあったのですが、義詮は尊氏を次いで京で将軍職を拝命します。そこで鎌倉のトップとなった初代は足利基氏(もとうじ)。尊氏の四男です。(絵②)

②足利基氏

もともと鎌倉公方という呼び方は当時はありません。鎌倉公方自体が正式な役職ではなく、前述のように武家を統治するのに重要な鎌倉に、京の将軍こと公方の代行としてなんとなく存在したからです。
なので当時、室町時代であっても鎌倉時代と同様に「鎌倉殿」と呼ばれていたようです。(ここでは便宜上、鎌倉公方という後世に付けられた名称で通します。)

問題はこの後です。鎌倉公方は、京から公方が決定した足利血縁者を鎌倉へ送り出す方式を採用していれば大きな問題は発生しなかったかもしれません。しかし実態は違い、関東公方は足利基氏以降、世襲制を踏襲することになるのです。
③足利基氏館跡(埼玉)
※基氏という方は初代鎌倉公方とは言っても
鎌倉で安穏と生活していた訳ではなく、関東のあちこち
で発生する乱を鎮圧するために転々としていました。
こちらの館跡も「岩殿山合戦」的に本陣としていた場所です。

④入間川御所

※足利基氏は「入間川殿」と呼ばれるくらい、

この場所に「入間川御所」を開設し、長期に南朝方と交戦していたことでも有名です。


2.公方と鎌倉公方の対立
やはり土地への執着が強烈な坂東にあっては、そんな一時の任官地方長官のようなトップでは収められない程、坂東武者らを統率するのは難しかったのでしょう。そしてそれ程大変であれば、時として公方より鎌倉公方の方が傑出した人物が出ることもあり、公方と関東公方の仲が悪くなり始めるのも不自然ではないですね。

鎌倉で武家のガバナンスがしっかりできる人物は、京で公家相手の「まつりごとごっこ」をやっている公方よりも人物的に優れている。なぞ坂東武者らが言い出し、鎌倉公方を担ぎ上げて、京にでも攻め上ってきたら大変です。なので公方はなるだけ鎌倉公方の力を削いでおきたいわけです。ところが鎌倉公方は鎌倉公方で、関東を抑えるのに懸命なわけで、現場を知らない京の公方が「鎌倉公方の力を削ぐ」等と言い出したら、「大変困る」訳です。

ま、ロケーションが離れているからええやん。と思うのですが、そうは問屋が卸しません。

3.鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立
鎌倉公方を、京の公方の立場から抑える人物が必要なのです。

それを担ったのが、関東管領・上杉家です。元々管領は「執事」的な立場で、公方を補佐する役割を果たします。
この執事は最初から上杉家だったわけではありません。面白いのは、当初基氏の執事だった畠山国清は、なんやかやで基氏と対立、滅ぼされてしまいます。そして次の次くらいから、上杉家となります。
この関東管領を任命するのが、京の公方です。

そう、関東公方の執事は、京の公方側の人物でもある訳なので、鎌倉公方とうまがあうわけがありません。
鎌倉公方の暴走を抑えながらも、その補佐をする。この微妙なバランスを保ちながら、上杉家は存続しておりました。
ただ、このバランスは非常に危ういのです。

そして、この微妙なバランスが崩れ、起こったのが永享10年(1438年)に起こった「永享の乱」。逆に鎌倉公方が出来てから約100年も微妙なバランスを上杉家は良く保ったものだと感心します。

正確には、この乱の2年前に既に上杉禅秀の乱ということで関東管領である上杉家が鎌倉公方と対立しております。この時は京の公方と鎌倉公方は協働して、この乱を収めているのですが、この困難を越えた後に、この時の4代目の鎌倉公方である足利持氏が唯我独尊に走ります。

そして鎌倉公方・持氏は、室町幕府の第6代将軍(公方)足利義教(よりのり)と対立。当然、持氏は義教方である管領・上杉憲実(のりざね)とも仲が悪く、武力衝突に至ります。(写真⑤)

⑤高安寺(府中市)
※持氏は、上野平井城へ逃れた上杉憲実へ近臣の一色直兼に
 軍を与えて差し向け、自身もこの寺に陣を構えました。

北関東の平井城に居た上杉憲実は京の公方に支援を乞うと、流石は室町幕府、駿河の今川氏や信濃の小笠原氏も動員し、上杉憲実を援護し、持氏と対立します。更には持氏の居ない鎌倉の留守役だったはずの三浦氏も持氏を裏切り、鎌倉を占拠するのです。あっという間に形勢逆転、持氏はピンチに陥ります。

結局、持氏は室町幕府に恭順を誓い、金沢文庫の称名寺にて出家します。(写真⑥)

⑥称名寺(金沢文庫)

この後、持氏は鎌倉へ移されますが、室町幕府に対して持氏の助命嘆願と、その嫡子の鎌倉公方就任を懇願したのは、なんと敵であった上杉憲実なのです。
この辺りが、この鎌倉公方と関東管領・上杉氏の妙ですよね。
しかし、幕府は赦しません。持氏もその嫡子も鎌倉でほろぼしてしまいます。

4.結城合戦
足利家4代に渡って続いてきた鎌倉公方の世襲制が宜しくないのではないかと、室町幕府はこの頃やっと気づいたようです。そこで、京の足利家から鎌倉公方の候補を選び、鎌倉へ下向させようとしました。

ところが、これにまた反発する坂東武者たち。
「やはり、足利基氏殿からの代々続く鎌倉に根付いた血縁が、我ら坂東武者の棟梁たる鎌倉公方である。」
と言ったかどうかは定かではないですが、下総の有力者である結城氏朝・持朝親子が、持氏の子・春王・安王・永寿丸を担いで反乱を起こします。(写真⑦⑧
⑦結城城址

⑧結城合戦記念碑
※タイムカプセルの中身が気になりますね

残念ながら、この乱は鎮圧され、春王・安王は途中美濃で捕まり、斬首となります。
生き残った永寿王丸が、経緯は複雑ですが、後の第5代鎌倉公方(古河公方)・足利成氏(しげうじ)となります。
この辺り、鎌倉公方の世襲制を止めようとした室町幕府の意向はどうなったのでしょうね。明確に世襲制が問題と認識されなかったのかもしれません。

そして成氏は、北関東の龍興寺に父・兄弟の供養塔を建立したのです。(写真⑨)
⑨【龍興寺】足利成氏が建てた
(父)持氏、(兄)春王・安王の供養塔

さて、このゴタゴタに巻き込まれたのが、安房里見氏のご先祖・里見義実(よしざね)です。

5.里見氏、房総半島に渡る
里見一族は元々、新田義貞の一族でした。現在の群馬県高崎市の里見郷で土地の名を名乗った新田一族の流れです。その後、この里見氏は南北朝の動乱等を経て、色々と分散したようですが、鎌倉公方に召し出されて、常陸国に所領を得ていた里見氏が居ました。この里見氏、足利持氏に奉公衆として仕えたのですが、永享の乱、結城合戦で嫡流が断絶。結城合戦で打たれた結城家基の一子・義実は安房国に落ち延び、安房里見氏の開祖となったとされています。

滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」では、この義実が、逃亡先の安房国で無一文から成り上がる過程で対立した敵将・安西景連との戦いの最中の出来事を書いています。
愛犬・八房に「安西景連の首を食いちぎって持ってきたら、娘の伏姫をおまえにやろう」
等と冗談を言ったばかりに、大変面倒なことになったのですね。笑
⑩滝田城址

その義実が八房にその冗談を言ったとされる城が、
八犬伝の中の設定では写真⑩の滝田城となっています。しかし実際、義実が、この安房国で最初に拠点とした城は稲村城(写真⑪)ではないかとされています。

まあ、馬琴はあれだけの大作を書いておきながら、1度も安房には行ったことが無いようです。安房はおろか、房総半島にも1歩も入ったことの無い、想像の戯作なので、史実とかけ離れていることは仕方の無い事ですけど。
⑪稲村城

さてこの後、里見氏は「天文の内訌(稲村の変)」等の御家内騒動があり、また史実も良く分からない経緯が続きます。

後に、小弓公方との関係から里見義弘の代に、房総半島にて大きく勢力を伸ばすのですが、その辺りは後日書きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。



土曜日

南総里見発見伝① ~安房里見氏と八犬伝の源流~

1.はじめに

里見氏について調べてみたいと思いました。

自分がガキの頃、住んでいた近くの柏尾川で大きな合戦があり、沢山の戦死者が出たということを知っていました。後に中学生になって、これは北条氏と安房から攻めてきた里見氏との合戦の死者を供養した首塚という事を知りました。(写真①)
この戦闘の前に、進軍途上にある鶴岡八幡宮も、里見氏は焼討していたとのこと。

①柏尾川脇にある首塚(玉縄首塚)

また、神奈川県人なら誰でも行ったことのある三浦半島の先の城ヶ島。ここも三浦氏と里見氏の、取った取られたを繰り返していたとのこと。(絵②)
②版画「里見左馬頭義弘相州城ヶ島にて北条と戦ふ」(歌川芳虎)

安房から東京湾を渡って、鶴岡八幡宮を焼討、大勢力である北条氏に戦を挑んで来るなんて、里見氏は海賊みたいでかっこええやんと、中学の教室の窓から見える、湾を隔てた遠くの房総半島を見ながら、ロマンのある物語を当時想像したものです。

③曲亭(滝沢)馬琴

ところが、驚くことに、この海賊みたいなやり方で鎌倉の元・お姫様をかっさらうという物語も、本当にあったのですね。しかも単純な強奪話ではなく、大恋愛の背景があるようです。青岳尼(せいがくに)と里見義弘(よしひろ)。これから少しずつ、対北条との係わりも含めながら、2人の話も書いていきたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

そして日本人だれもが知る「南総里見八犬伝」。曲亭(滝沢)馬琴の人生の半分を掛けて作ったこの大長編物語もロマン溢れる日本の大傑作。これも里見氏から始まりますね。(写真③)

来年の大河ドラマは蔦屋重三郎という馬琴や葛飾北斎と同時代の出版プロデューサーの話なので、両者とも必ず話が出てくると思います。(写真④、絵⑤)

④蔦屋重三郎「耕書堂」跡(中央区日本橋付近)

そして馬琴と北斎は非常に仲が良かったことでも有名です。この秋には山田風太郎氏の「八犬伝」も映画化され、馬琴と北斎の魂のやりとりを観ることができそうです。

⑤蔦屋重三郎
このように、しばらくはメディアでも話題の尽きない里見氏について、主に上記2つの話題、青岳尼と里見義弘の恋愛物語と南総里見八犬伝について、史跡巡りを交えてお話させて頂ければと存じます。是非、御笑覧ください。

2.里見氏の勃興

南総里見八犬伝は勿論創作ですが、史実に基づいて書いている部分も結構多いのです。里見氏の勃興も八犬伝に書かれている時代背景が基本的には合っています。(勿論、架空人物を設定しているので、全くそのまま合っているとは言えませんが・・・)

大本は新田義貞の庶子の系列からなり、所領は現在の上野国(現在の高崎市)の辺りですが、その後、常陸国(現在の茨城県)、美濃(今の岐阜県)にも分派が所領を持ちます。

では何故里見氏は、戦国時代「南総」つまり千葉県房総半島の先端・安房の国に居を構える戦国大名になったのでしょう。

それを解くカギはまず、鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立にあります。

3.鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立

ここから少しややこしくなります。応仁の乱勃発直前の関東ですね。応仁の乱自体も結構権勢争いが複雑ですが、関東も同時期騒乱が続く複雑な様相を呈して参ります。

⑥高安寺に陣を敷く足利持氏
を上杉軍が攻めます
まずは鎌倉公方問題です。そもそも足利尊氏の代から、鎌倉は火薬庫のようなリスクを含んだ場所でした。

鎌倉時代に長らく武士の都として君臨したこの都市は、ともすると、ここのトップを神輿担ぎすれば、京の足利将軍家に対抗できるのでは?と妄想する輩が多かったのかもしれません。

なので、京の足利将軍家と、この鎌倉を中心に坂東武者を収めた鎌倉公方は、同じ足利家なのです。

ただ、鎌倉公方は尊氏の4男・基氏から代々の血縁が引き継ぎ、京の足利将軍家の血統が入ることを赦さない風潮を作ったことが、先に述べた「血筋は足利将軍家と同じ!」という対抗心を生み出したのかもしれません。京の将軍家と、徐々に対立基調になっていきます。

足利将軍家は、尊氏の母方の実家である上杉家を関東管領という形で、鎌倉公方の補佐役として付け、この上杉家が、鎌倉公方を京の将軍家に代わって監視するという、目付役的な立場で立ち振る舞ったため、関東においては、上杉家と鎌倉公方との対立が深刻化していくのです。

そしてとうとう上杉家の上杉憲実(うえすぎ のりざね)と鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の間で闘争が勃発。負けた持氏が自害してしまうという乱(永享の乱)が起きました。(写真⑥、絵⑦)

⑦自刃する鎌倉公方・持氏(画面左上)
※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

上杉憲実は、この乱の原因が、今まで京の足利将軍家から鎌倉公方を選出せずに鎌倉の現地で世襲化してしまっていたことだと深く憂慮し、すぐさま京から持氏の後継者を鎌倉公方として下向させるように足利将軍家へ依頼します。

京の6代足利将軍・足利義教(よしのり)は、実子を鎌倉へ向かわせます。

「やれやれ、やっと傍流の足利家が代々継いできた鎌倉公方も、足利本家の血筋で治めることができる」

⑧結城氏朝
と思った上杉憲実の認識は甘かったのです。坂東武者の京への対抗心は既に根深いものとなっていました。

4.結城合戦

自害した持氏の子供たちのうち、安王丸・春王丸・万寿丸の3人が、応仁の乱時代の関東の複雑な勢力図を形作っていきます。

まず安王丸・春王丸の二人は、下総国(千葉県北部)の結城氏朝(ゆうき うじとも)父子に担がれます。結城父子は「関東を京の足利将軍配下になぞ治めさせるか!」と幕府に対して反旗を翻すのです。(絵⑧)

この京に対するレジスタンス活動、関東は坂東武者の賛同を集め、幕府軍として討伐に来た上杉、今川等との連合軍と大規模な合戦に発展します。(写真⑨)

これが結城合戦です。

⑨結城合戦の舞台となった結城城

しかし、いくら屈強な坂東武者が大規模な反乱を起こそうとも、流石に幕府軍には敵いません。結局、
結城氏朝父子は自害。安王丸・春王丸も掴まり、京へ送られる途中、美濃(岐阜県)で殺されます。

⑩結城城本丸跡に建つ
結城合戦タイムカプセル
この時、結城城の近く、常陸国(茨城県)に領地を持っていた里見義実は父と共に結城氏朝側に付きますが、父は討たれ、義実は常陸国の所領を捨て、房総半島の先、安房へ亡命し、安房の豪族らの間を渡り歩き、力を付け、勢力を拡大したという説が有力です。

5.鎌倉公方から古河公方へ

南総里見氏の勃興について4項までで書きました。これが今回のブログの中核なのですが、結城合戦のついでに、関東は早雲にはじまる後北条氏が台頭するまで、かなり複雑な豪族らによる勢力争いが続きます。それらに1本筋を通して話を簡単にするために、公方の変遷(鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方)もついでに書いちゃいます。少々お付き合いください。

結城合戦で、安王丸・春王丸は殺されましたが、実は万寿丸は生き延びていました。

幼いので寺に預けられていたとか、実は京に上る途中で6代将軍・義教(よしのり)が殺されたのでその騒ぎに乗じて信濃の大井氏の元に逃げた等、諸説ありますが、兎に角生き残るのです。

そして、鎌倉府再興は、坂東武者が持氏の遺児である万寿丸を鎌倉に迎え入れることで成立するのです。万寿丸は元服すると足利成氏(しげうじ)と名乗ります。

ところが、経緯は複雑なので簡略化してお話すると、またもや関東管領上杉氏とののもつれ、対立が始まります。

成氏は、上杉氏の勢力圏である常陸国の小栗城等を攻めるのですが、この征伐の最中に留守である鎌倉へ駿府(静岡)から今川氏(幕府側)が攻め入って、鎌倉を占拠します。

「そんなに鎌倉が欲しければ、そんな土地幾らでもやろう!どうせ鎌倉は上杉勢力圏だ。俺、いや坂東武者の勢力圏はここにある。」

と言って古河に御所を開く成氏。自分を「古河公方」と名乗ります。(写真⑪)

⑪古河公方勢力(オレンジ)と上杉氏勢力(緑)の拮抗
(出典:古河歴史博物館)

地図⑪の勢力図で分かるように、江戸川(当時は利根川)の東側が古河公方、西側が上杉氏と綺麗に分かれますね。この乱は、「享徳の乱」と言い、1454年~1482年まで30年近くも長く続くのです。ちなみに応仁の乱が1467年~1477年の11年間ですが、その戦より遥かに長いです。

関東も、応仁の乱で大混乱に陥る京に勝るとも劣らない(?)対立と混乱があった訳です。

6.南総里見八犬伝にも出てくる古河公方・足利成氏

この古河公方こと成氏は、南総里見八犬伝にも出てきます。(絵⑫)

⑫八犬伝の足利成氏

そしてこの古河公方の古河城こそが、八犬伝の名場面、芳流閤(ほうりゅうかく)屋根上の決闘の場所となるのです。(写真⑬、写真⑭)

⑬古河城本丸跡
※今は何もありませんが、明治までしっかりした
お城がありました(写真まで残っています)

⑭2024年10月に公開予定の映画「八犬伝」

芳流閤(古河城本丸)屋根上の決闘場面

※ちなみに下に見えるのが当時の利根川(現・江戸川)です

八犬伝の話の中では、この川が重要な役割を成すのです


◆ ◇ ◆ ◇

詳細は次回に、里見氏が安房で立ち上がる話と併せ描く予定です。また、古河公方から派生した小弓(おゆみ)公方、更には堀越公方等、関東にはいったい幾つの公方が乱立するんかい!といった混沌エピソードも次回以降描きたいと思います。

長文・乱文失礼致しました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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【古河城跡〒306-0047 茨城県古河市古河