1.はじめに
里見氏について調べてみたいと思いました。
自分がガキの頃、住んでいた近くの柏尾川で大きな合戦があり、沢山の戦死者が出たということを知っていました。後に中学生になって、これは北条氏と安房から攻めてきた里見氏との合戦の死者を供養した首塚という事を知りました。(写真①)
この戦闘の前に、進軍途上にある鶴岡八幡宮も、里見氏は焼討していたとのこと。
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| ①柏尾川脇にある首塚(玉縄首塚) |
また、神奈川県人なら誰でも行ったことのある三浦半島の先の城ヶ島。ここも三浦氏と里見氏の、取った取られたを繰り返していたとのこと。(絵②)
安房から東京湾を渡って、鶴岡八幡宮を焼討、大勢力である北条氏に戦を挑んで来るなんて、里見氏は海賊みたいでかっこええやんと、中学の教室の窓から見える、湾を隔てた遠くの房総半島を見ながら、ロマンのある物語を当時想像したものです。
ところが、驚くことに、この海賊みたいなやり方で鎌倉の元・お姫様をかっさらうという物語も、本当にあったのですね。しかも単純な強奪話ではなく、大恋愛の背景があるようです。青岳尼(せいがくに)と里見義弘(よしひろ)。これから少しずつ、対北条との係わりも含めながら、2人の話も書いていきたいと思います。
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そして日本人だれもが知る「南総里見八犬伝」。曲亭(滝沢)馬琴の人生の半分を掛けて作ったこの大長編物語もロマン溢れる日本の大傑作。これも里見氏から始まりますね。(写真③)
来年の大河ドラマは蔦屋重三郎という馬琴や葛飾北斎と同時代の出版プロデューサーの話なので、両者とも必ず話が出てくると思います。(写真④、絵⑤)
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④蔦屋重三郎「耕書堂」跡(中央区日本橋付近)
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そして馬琴と北斎は非常に仲が良かったことでも有名です。この秋には山田風太郎氏の「八犬伝」も映画化され、馬琴と北斎の魂のやりとりを観ることができそうです。このように、しばらくはメディアでも話題の尽きない里見氏について、主に上記2つの話題、青岳尼と里見義弘の恋愛物語と南総里見八犬伝について、史跡巡りを交えてお話させて頂ければと存じます。是非、御笑覧ください。2.里見氏の勃興
南総里見八犬伝は勿論創作ですが、史実に基づいて書いている部分も結構多いのです。里見氏の勃興も八犬伝に書かれている時代背景が基本的には合っています。(勿論、架空人物を設定しているので、全くそのまま合っているとは言えませんが・・・)
大本は新田義貞の庶子の系列からなり、所領は現在の上野国(現在の高崎市)の辺りですが、その後、常陸国(現在の茨城県)、美濃(今の岐阜県)にも分派が所領を持ちます。
では何故里見氏は、戦国時代「南総」つまり千葉県房総半島の先端・安房の国に居を構える戦国大名になったのでしょう。
それを解くカギはまず、鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立にあります。
3.鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立
ここから少しややこしくなります。応仁の乱勃発直前の関東ですね。応仁の乱自体も結構権勢争いが複雑ですが、関東も同時期騒乱が続く複雑な様相を呈して参ります。
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⑥高安寺に陣を敷く足利持氏 を上杉軍が攻めます |
まずは鎌倉公方問題です。そもそも足利尊氏の代から、鎌倉は火薬庫のようなリスクを含んだ場所でした。
鎌倉時代に長らく武士の都として君臨したこの都市は、ともすると、ここのトップを神輿担ぎすれば、京の足利将軍家に対抗できるのでは?と妄想する輩が多かったのかもしれません。なので、京の足利将軍家と、この鎌倉を中心に坂東武者を収めた鎌倉公方は、同じ足利家なのです。
ただ、鎌倉公方は尊氏の4男・基氏から代々の血縁が引き継ぎ、京の足利将軍家の血統が入ることを赦さない風潮を作ったことが、先に述べた「血筋は足利将軍家と同じ!」という対抗心を生み出したのかもしれません。京の将軍家と、徐々に対立基調になっていきます。
足利将軍家は、尊氏の母方の実家である上杉家を関東管領という形で、鎌倉公方の補佐役として付け、この上杉家が、鎌倉公方を京の将軍家に代わって監視するという、目付役的な立場で立ち振る舞ったため、関東においては、上杉家と鎌倉公方との対立が深刻化していくのです。
そしてとうとう上杉家の上杉憲実(うえすぎ のりざね)と鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の間で闘争が勃発。負けた持氏が自害してしまうという乱(永享の乱)が起きました。(写真⑥、絵⑦)
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⑦自刃する鎌倉公方・持氏(画面左上) ※出典:国立国会図書館デジタルコレクション |
上杉憲実は、この乱の原因が、今まで京の足利将軍家から鎌倉公方を選出せずに鎌倉の現地で世襲化してしまっていたことだと深く憂慮し、すぐさま京から持氏の後継者を鎌倉公方として下向させるように足利将軍家へ依頼します。
京の6代足利将軍・足利義教(よしのり)は、実子を鎌倉へ向かわせます。
「やれやれ、やっと傍流の足利家が代々継いできた鎌倉公方も、足利本家の血筋で治めることができる」
と思った上杉憲実の認識は甘かったのです。坂東武者の京への対抗心は既に根深いものとなっていました。4.結城合戦
自害した持氏の子供たちのうち、安王丸・春王丸・万寿丸の3人が、応仁の乱時代の関東の複雑な勢力図を形作っていきます。
まず安王丸・春王丸の二人は、下総国(千葉県北部)の結城氏朝(ゆうき うじとも)父子に担がれます。結城父子は「関東を京の足利将軍配下になぞ治めさせるか!」と幕府に対して反旗を翻すのです。(絵⑧)
この京に対するレジスタンス活動、関東は坂東武者の賛同を集め、幕府軍として討伐に来た上杉、今川等との連合軍と大規模な合戦に発展します。(写真⑨)
これが結城合戦です。
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| ⑨結城合戦の舞台となった結城城 |
しかし、いくら屈強な坂東武者が大規模な反乱を起こそうとも、流石に幕府軍には敵いません。結局、結城氏朝父子は自害。安王丸・春王丸も掴まり、京へ送られる途中、美濃(岐阜県)で殺されます。 |
⑩結城城本丸跡に建つ 結城合戦タイムカプセル |
この時、結城城の近く、常陸国(茨城県)に領地を持っていた里見義実は父と共に結城氏朝側に付きますが、父は討たれ、義実は常陸国の所領を捨て、房総半島の先、安房へ亡命し、安房の豪族らの間を渡り歩き、力を付け、勢力を拡大したという説が有力です。
5.鎌倉公方から古河公方へ
南総里見氏の勃興について4項までで書きました。これが今回のブログの中核なのですが、結城合戦のついでに、関東は早雲にはじまる後北条氏が台頭するまで、かなり複雑な豪族らによる勢力争いが続きます。それらに1本筋を通して話を簡単にするために、公方の変遷(鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方)もついでに書いちゃいます。少々お付き合いください。
結城合戦で、安王丸・春王丸は殺されましたが、実は万寿丸は生き延びていました。
幼いので寺に預けられていたとか、実は京に上る途中で6代将軍・義教(よしのり)が殺されたのでその騒ぎに乗じて信濃の大井氏の元に逃げた等、諸説ありますが、兎に角生き残るのです。
そして、鎌倉府再興は、坂東武者が持氏の遺児である万寿丸を鎌倉に迎え入れることで成立するのです。万寿丸は元服すると足利成氏(しげうじ)と名乗ります。
ところが、経緯は複雑なので簡略化してお話すると、またもや関東管領上杉氏とののもつれ、対立が始まります。
成氏は、上杉氏の勢力圏である常陸国の小栗城等を攻めるのですが、この征伐の最中に留守である鎌倉へ駿府(静岡)から今川氏(幕府側)が攻め入って、鎌倉を占拠します。
「そんなに鎌倉が欲しければ、そんな土地幾らでもやろう!どうせ鎌倉は上杉勢力圏だ。俺、いや坂東武者の勢力圏はここにある。」
と言って古河に御所を開く成氏。自分を「古河公方」と名乗ります。(写真⑪)
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⑪古河公方勢力(オレンジ)と上杉氏勢力(緑)の拮抗 (出典:古河歴史博物館) |
地図⑪の勢力図で分かるように、江戸川(当時は利根川)の東側が古河公方、西側が上杉氏と綺麗に分かれますね。この乱は、「享徳の乱」と言い、1454年~1482年まで30年近くも長く続くのです。ちなみに応仁の乱が1467年~1477年の11年間ですが、その戦より遥かに長いです。
関東も、応仁の乱で大混乱に陥る京に勝るとも劣らない(?)対立と混乱があった訳です。
6.南総里見八犬伝にも出てくる古河公方・足利成氏
この古河公方こと成氏は、南総里見八犬伝にも出てきます。(絵⑫)
そしてこの古河公方の古河城こそが、八犬伝の名場面、芳流閤(ほうりゅうかく)屋根上の決闘の場所となるのです。(写真⑬、写真⑭)
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⑬古河城本丸跡 ※今は何もありませんが、明治までしっかりした お城がありました(写真まで残っています) |
詳細は次回に、里見氏が安房で立ち上がる話と併せ描く予定です。また、古河公方から派生した小弓(おゆみ)公方、更には堀越公方等、関東にはいったい幾つの公方が乱立するんかい!といった混沌エピソードも次回以降描きたいと思います。長文・乱文失礼致しました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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【蔦屋重三郎「耕書堂」跡】〒103-0011 東京都中央区日本橋大伝馬町13
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【結城城跡】〒307-0001 茨城県結城市結城2486−1
【古河城跡】〒306-0047 茨城県古河市古河