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土曜日

いなげや⑩ ~八的ヶ原~

《これまでのあらすじ》

1189年、稲毛三郎重成(以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にある枡形城で、病に伏せるようになります。

源頼朝(以下、頼朝)が滅ぼした奥州藤原氏の亡者たちが原因であると江の島の弁財天から聞き出した綾子の父・北条時政(以下、時政)は、綾子救済と北条家栄達のための策謀を練ります。

時政は、1193年の「富士の巻狩り」にて、婿である三郎とその従兄弟の畠山重忠も使い、頼朝暗殺計画を実行に移します。

この計画は、現在では有名となった曾我兄弟の仇討ちを利用するというものでした。仇討ちは成功しましたが、頼朝暗殺は、すんでのところで失敗に終わります。

そうこうするうちに、綾子は重態に陥ってしまいます。
頼朝から駿馬を与えられた三郎は、綾子の最期を看取ることが出来ました。息を引き取る数刻前、綾子の手を握り続ける三郎は夢を見ます。それは亡者の側に居た綾子が多摩川を泳いで渡ろうとするのですが、弁財天の化身である大蛇が阻むというものでした。

稲毛入道と改名した三郎は、綾子の追善供養に生きることを決意します。
①あばれ馬イメージ:画・歌川国芳

そして、弁財天に夢の解釈を聞くと、多摩川と相模川の2ヵ所に同時に橋を架けることを勧められます。鎌倉へ向かう亡者たちは、その鬼門である多摩川の狛江地区を渡ると、同時に裏鬼門の相模川河口付近に橋を架ければ、そこから西方浄土へ吸いだされ成仏することが出来るという理屈です。

早速、渡来人である治水の技術者集団である狛江人を動員し、三郎は橋を架ける事業を追善供養として手掛けます。

3年後、立派に出来上がった相模川の大橋の渡初式(落成式)、三郎は時政の奨めもあって、頼朝を招待します。

しかし頼朝が渡初めをする式中、乗馬していた神馬があばれ馬となってしまう珍事が発生し、馬は川へ飛び込んでしまいます。これが馬入橋の事始めです。(絵①

幸い頼朝は欄干に腰を打ち付けただけで、命に別条はありませんでした。

【今迄の話 リンク集】
いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~
いなげや② ~弁財天~
いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~
いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~
いなげや⑤ ~富士の巻狩り㊦~
いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~
いなげや⑦ ~綾子~
いなげや⑧ ~綾子の追善供養~

いなげや⑨ ~渡初式~

1.仕掛け

「馬が・・・ですか?」
「そうだ、この馬は、西から連れてきたな。一度、この馬を曳いて橋を東へ渡ってみてくれ。」

手当を受け、鎌倉へ帰る馬を曳いてきた三郎へ頼朝は強い口調で言いました。

「御意・・・」

三郎は馬を曳いて、頼朝が渡ってきた方向と反対方向、つまり東へ橋を渡り始めます。
1つ目の橋を渡り終え、土留に差し掛かった時です。

馬はピタッと歩行を止め、小さくヒヒーンといななきました。そして三郎がたずなを曳いても、歩を進めようとしません。

「あっ!」

三郎は、それを見てあることに気が付きました。そして馬が立っている位置に体を移すと、橋から川面をじっと凝視します。少しすると彼は、何かを見つけ、急ぎ土留の斜面を川へと走って降りはじめました。

②現在の馬入橋付近の相模川
そして先ほどの神馬のようにザンブと川に入りました。この時期は渇水期なので川は浅く、水も膝下までしかありません。しかし水はとても冷たく、凍えそうになるのを我慢しながら、三郎は川底に手を入れて、何かを探していました。(写真②

しばらくすると、彼は何か木枠で出来たものを拾い上げました。

それを川岸へもって行き、岸の白砂の上に置くと、またジャバジャバと川に入って行き、続けてあと2つ同じような物体を探し当て、それらを全て川岸まで運んでくると、そのうちの1つを持って頼朝の下へ戻ってきました。

頼朝は三郎に向かって聞きます。

「これは何じゃ?三郎」
「はい、馬止鏡と言います。」
「馬を止めるのか?」
「左様。稲毛は代々多摩川より北からの敵の侵攻を食い止めるのが役目。そのための1つの兵器として開発したものにございます。」
「ほぉ」
「ここに軸があり、この木枠の中の鏡が廻るようにできています。」

と言って、三郎は木枠の中に、羽車のようなものが軸で止められ、その羽に銀粉と硝子が貼ってある部分を指し示しました。
三郎は説明を続けます。

「元来、馬は目の視野角が広く、集光能力にも長けています。なので光物には敏感で、日中でもキラキラ光るものは直ぐに見つけ出します。また急に飛び出して来る獣から咄嗟に逃れるために、動体視力が人間の何十倍も優れているのです。馬は我々が連続に見えているものが、その瞬間、瞬間の止まった像として捉えることができるのです。」
「それが長じて、高速に走りながらも、矢を避けるのが上手なのじゃな。」

と頼朝。

「はい。なのでこの2つの性質を上手く利用し、狛江人が開発した技術が馬止鏡です。この装置を川の流速が、上の層と下の層で微妙に違う箇所に設置します。するとこの羽車が回転します。設置場所で上手く回転数を調整し、人間には単に川面が光っているとしてしか見えないようにしたこの装置、馬には光が明滅するように見えるのです。明滅する光の間隔がある長さ(現代の周波数)という調節が出来ると、馬は強烈な不安を感じ、その場から動けなくなるという事実を、鏡を多用する技術に長けた狛江人が見つけました。」
③馬から見た明滅イメージ

更に三郎は続けます。

「人の目には光っているようにしか見えないものを、馬が嫌う明滅間隔に設定するには、かなりの熟達が必要で、一部の軍事技術者にしか伝わっていないはずです。この装置が3つ設置されているのも、この3つ僅かづつですが、その明滅の間隔や強度が違うよう、羽車の大きさや、流速の違う場所に設定してあり、そのうちの1つでも、ここを通る馬の不安感のツボを押さえるられるように設定してあると考えられます。」(写真③

頼朝は三郎の長い説明を黙って聞いていましたが、ここまで話を聞くと次のように問いかけます。

「ということは三郎、誰かがワシを、その仕掛けで不安となってあばれた馬ごと川へ落そうと考えたのだな?」
「どうでしょうか?先程私が曳いた馬の様子を見て分かる通り、この技術は馬をその場所から先へは動けないようにいすくめるための技術であり、御所殿の馬のようにあばれ馬となるようなことは滅多に無いはずなのですが・・・。いずれにせよ、後程、狛江人の誰がこれを仕掛けたのか、徹底的に調査いたします。」

「うむ、頼むぞ。富士の巻狩りの時と言い、今回の事と言い、誰かがワシを狙っているような気がしてならぬ。」

三郎は、嫌な予感がしました。

―また黒幕は確かに義父・時政殿かもしれない。時政殿には、義父という気の緩みから馬止鏡の話はしたことがある。今回の初渡式に頼朝を招待せよと勧めたのも時政殿である・・・。しかも頼朝公も薄々これに気が付いている。-

2.時政の目

三郎が馬止鏡を回収したので、腰痛である頼朝は、周囲の助けも借りながら、なんとか馬上の人となりました。

これから腰をかばい、馬に乗りながら、ゆっくりと鎌倉へと戻るのです。万が一の事も考え、三郎の麾下も数名付けました。

腰に晒しを捲いた頼朝は、逆にいつもよりも馬上での背筋が伸び、姿勢がよく見えます。
が、頼朝自身はやはり乗りにくいのでしょう。腰に激痛が走らないように馬上でバランスをとるのに苦労している様子が、駆け付けた三郎にも良く分かります。

「御所殿、この度の不始末、お詫びの申し上げようもございません。」
「三郎、狛江人の技術者やらを縛り上げ、下手人を白状させよ。今日中にワシの所に報告にこい。」
「はっ、何としてもすぐに見つけ出し、鎌倉へご報告に上がります。」

地面に片膝を付き、深く項垂(うなだ)れた三郎を尻目に、馬上でフラフラしながらも、従者と共に、ゆっくりと鎌倉へと帰って行くのでした。

◇ ◆ ◇ ◆

頼朝らが見えなくなるまで、その場で悔恨の姿勢を取っていた三郎が、顔を上げたのは半刻も経ってからのことでした。

―狛江人の技術者が下手人であろうが、黒幕はお義父殿しかあるまい。しかし、富士の巻狩りの時の計画は、自分の娘・綾子救済のためという名目があったが、既に綾子が亡くなってしまった今、そんな危険を冒してまで御所殿殺害を企てるだろうか・・・しかも、大軍が押し寄せた時にこそ効果が高い馬止鏡を、あんなところに使ったところで、御所殿を暗殺できるとはとても思えない。精々今回のように腰を打ったとか、まるで子供が掘った落とし穴程度の、それこそ児戯にも等しい事を何故するのだろうか・・・。ー
④八的ヶ原(辻堂駅南側)
※左の看板にこの地で頼朝が義経らの亡者と
目を合わせた旨書かれています

これから対応しなければならない事の重大さと、この初渡式までの対応の疲労から、立ち眩みそうになりながら、三郎は、橋の袂にある自陣へ戻ろうと立ち上がりました。

すると、そこから約半丁先に他の参列者の話を聞いているふうの時政と目が合いました。その目が・・・。瞬間、三郎は「あっ!」と小さく叫びました。

ーそうか、そういうことか!-

三郎は、直ぐに近くの下馬所に駆けつけると、そこに留めてある1頭の駿馬の縄を解き、さっと馬上に飛び乗ります。

「はいやー!」ピシッと馬の尻に鞭を当てると、今頼朝らが向かった鎌倉方面へ馬を走らせたのです。

3.八的(やまと)ヶ原

不安定な乗馬で鎌倉へ向かっていた頼朝一行は、相模川から2里程先にある八的ヶ原という土地に差し掛かりました。現在の東海道線「辻堂」駅の辺りです。(写真④

それまで晴れて明るかった周囲が、急に大雨でも降りだす前兆のように、薄暗くなりました。まだ未の刻(午後2時過ぎ)、いくら年末の日の短さとは言え、夕闇には早すぎます。一行は気味の悪い薄黄掛かった暗い中を鎌倉へと急ぐその時です。

「あ、ああ」
と頼朝が、宙を見ながら小さな叫び声を洩らしました。そしてサラシで巻いた腰を伸ばし上体をのけぞらせています。

「ご、御所さま!」
と慌てて近習たちは、自分の馬を降り、頼朝のところに駆けつけます。

ー腰痛による激痛が走ったに違いない。-

と皆は思いましたが、頼朝は「大事ない。」と言い、別段馬上から降りるでもなく、駒を進めようとします。

しかし彼の目はうつろで焦点の定まりはなく、心なしか充血さえしています。
それは、この世のものではないものを見てしまった瞳だったのです。

ー御所様は一体どうされてしまったのか。-

とりあえず、大丈夫だと言う頼朝公を離れ、自分の馬に再び乗り駒を進めようとした近習たちは、なんと自分達も馬に乗っているのではなく、雲の上を歩いているような不思議な感覚にとらわれはじめました。

ーいったい、これはどうしたことか。ー



周囲をよく見ると、いつもの東海道沿いの道の景色、相模の枯れ野原が広がっているのではなく、まるで砂塵の中のように、茫漠たる薄黄掛かった周囲と雲が広がっているだけの景色なのです。

ー靄なのか?これは。私たちは一体どこに来てしまったのだろうか。ー

⑤国宝「赤糸威大鎧」
と思った彼らは、急にその黄色の靄のようなものの先に、蠢く人のかたちのようなものが見えた気がしたのです。

ー敵?ー


朦朧とする影は数十人はいるような気配です。それがこちらに向かっているのかどうかすらはっきりせず、恐怖は感じるものの、自分の動作が段々と緩慢になり、まるで悪い夢の中でもがいているような感覚に皆が陥ったその時。

ーあの鎧は!-

朧げな中に、赤糸威(あかいとおどし)の鎧の武人が浮かび上がります。(写真⑤

武人は頼朝にゆっくりと近づき、そしていきなり宙に舞うと、頼朝の顔近くに立派な鍬形を持つ兜を近づけ、上からじっと彼をみつめました。武人の顔は青く暗く表情等は分かりません。

どれくらい見つめていたでしょうか?

見つめられていた頼朝の体がゆっくりと反対側へ傾いでいきます。

「ああっ、御所さま!」

夢の中を懸命にもがき泳ぐように、近習の何人かが何とか頼朝の元に馳せ参じ、倒れる頼朝の体を支えようとします。頼朝もその聲で我に返り、馬上で何とか持ちこたえました。

「案じるな。大事ない。」

すると不思議なことに、薄黄かかった暗い今迄の景色は消え、いつもの枯れ野原が広がっている景色に戻りました。薄暗い程に立ち込めていた雲も霧散し、寒々とした枯れ野原に陽が当たっています。

ー幻だったのだろうか?-

近習たちは、今見たことが分けも分からず、周囲に不審な武人が居ないか、皆キョロキョロと見まわしています。

ーやはり、ぬしらも見たか?ー
⑥奥州合戦時、源氏の故事に習い、
鼻と耳を削ぎ落し(B,Cの箇所)
八寸釘で柱に打付られた(A箇所)
奥州藤原泰衡の首(ミイラ)
ー見た。ー
ーあの鎧・・・。ー
ーまさしく・・・。ー

そう、あの鎧はまぎれもなく義経のものなのです。木曽義仲追討の宣旨を持って、京入りしてから、壇ノ浦まで、彼がトレードマークのように着ていた赤糸威の大鎧、源平両軍、この鎧兜を知らないものはいないのです。

ーすると、あの武士たちは?-

近習たちは、馬上の頼朝の顔を見上げます。彼の顔は、あきらかに紅潮していました。
その時、虚ろな目をした頼朝がつぶやきます。

「泰衡、おまえもか・・・。」

近習たちは顔を突き合わせます。(写真⑥

ー間違いない。奥州軍の亡霊どもだ。御所殿によって非業の最期を遂げた藤原泰衡や、高館で自害した義経たちだ。-
ー御所様は、まだあの薄黄掛かった世界から抜け出せていないのではないだろうか?大丈夫か?-

その後近習が何度か、頼朝の横に馬を寄せ、「御所殿、大丈夫ですか?」と問い掛けると、虚ろで充血した目をしながらも、頼朝は「大丈夫だ。案じるな。」とか「大丈夫だ。大事ない。」を繰り返すばかりです。

⑦相模川付近にある弁慶塚
※由来はやはり頼朝に会った
義経一族の亡霊の鎮魂のため
とはいうものの、また直ぐに「おまえが武蔵坊か・・・。」等と宙を見ながら言うのです。(写真⑦

頼朝にはどちらの世界も部分的に見えているようです。近習たちは馬を寄せあいながら相談します。

ーどうする?-
ーさっきの義経公の亡霊は怨念が強かったのか我々にも見えたが、他の亡霊も見える御所殿を、このままにしておいて良いものかどうか・・・。-
ー我々では判断が付かない。兎に角鎌倉までこのまま帰るとしよう。あと2里の距離だ。-
ーどうもこの東海道沿いに、亡者が我々とは反対方向に西行しているのではないか?道を変えよう。もっと南下して海岸線沿いを歩き、鎌倉に帰ろう。-

彼らは帰路を変更し、鵠沼海岸へ南下し、海岸沿いに鎌倉へ向かうことにしました。(巻末地図参照)

さて、鵠沼海岸へ出て来た頼朝ら一行を江の島から見ていた弁財天。彼女は予想通りという表情で、海を介しあるところに伝心するのです。

4.稲村ケ崎

一方、慌てて頼朝らの後を追いかけた三郎は、八的ヶ原方面等、東海道沿いを行かず、端から海岸沿いを東向していました。彼は頼朝公が海岸線に出ることを阻止しなければとならないと時政の目を見た瞬間に判断したのです。

しかし、小和田浜あたりで、2里先の鵠沼海岸に頼朝ら一行を視認すると

⑧七里ガ浜から稲村ケ崎を臨む
ーああ、やはり海岸線に出てしまったのか!-

と失望しながらも、早く追い付こうと懸命に馬を走らせるのでした。

ところが、どういう訳か砂は重く、満潮時でもないのに、時々高波が彼を襲います。

思うように前進出来ません。

これが様子を見ていた弁財天の力だとは三郎も気が付きませんでした。

三郎が一行に追いついたのは稲村ケ崎の一丁手前の七里ガ浜でした。(写真⑧

《つづく》

お読み頂き、ありがとうございました。
上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。



【馬入橋】神奈川県平塚市馬入
【八的ヶ原】神奈川県藤沢市辻堂2丁目17−1
【弁慶塚】神奈川県茅ヶ崎市浜之郷841−10
【鵠沼海岸】神奈川県藤沢市鵠沼海岸4丁目4
【七里ガ浜】神奈川県鎌倉市七里ガ浜東2丁目1 七里ケ浜