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土曜日

【1枚の360°写真から】捨てた城なら拾っておこう

 岡崎城は、言わずと知れた神君・家康公が生まれた城です。(360°写真①)

①岡崎城天守閣から

産湯に使われた井戸も立派に残されており、現在では出世・開運のパワースポットとして大人気。さらには、家康誕生の日に城の楼上に風雲を呼ぶ「金の龍」が現れ、天へと昇っていったというダイナミックな伝承まで残されています。(写真②)

②家康公産湯の井戸

この岡崎城自体も「神君出生の城」として後世まで神聖視され、本多氏(前本多・後本多)、水野氏、松平氏など、歴代の譜代大名が城主を務めました。石高こそ5万石と少なめですが、大名たちはこの城の主になることを何よりの誇りとしていたそうです。(写真③)

③本多忠勝像と岡崎城

そんな、のちに神が宿るかのように特別視された岡崎城ですが、今川家の人質だった家康が桶狭間の戦いの直後にこの城へ戻ってきた時の第一声をご存じでしょうか。

「捨てた城なら、拾っておこう」

天下人の出発点となるお城へのセリフとしては、なんだか随分と情けない響きですよね。

では、なぜ自分の城を「拾う」などと言ったのでしょうか。

桶狭間の戦い以前の家康(当時は松平元康)は、駿府で今川義元の人質として暮らしていました。名前の「元」も義元から偏諱を賜ったものであり、三河国衆のトップでありながら、今川家の厳しい監視下で過酷な生活を強いられていたのです。(写真④)

④駿府人質時代に家康が学んだ寺・臨済寺

そして桶狭間合戦の最中、この岡崎城を守っていたのは今川家の直臣である山田新右衛門です。家格は元康より下ですが、なにせ大国・今川という強力な後ろ盾を持つ城代でした。

この山田新右衛門が城にデーンと居座っている限り、いくら「ここは俺の城だ!」と言っても、元康はずかずかと入城するわけにはいきません。このあたりの関係性、大企業の下請け会社の社長(元康)が、親会社の管理職(山田新右衛門)にどうしても頭が上がらない構図にそっくりですね。

そこで元康は自分の城には直接向かわず(向かえず)、岡崎城から半里程離れた松平家の菩提寺・大樹寺へとひとまず身を寄せます。(写真⑤)

⑤大樹寺の松平家歴代の墓

ところがこの山田新右衛門、桶狭間で主君・義元が討ち死にしたという一報を聞くやいなや、後を追うように岡崎から桶狭間方面へ出陣(あるいは退却)し、織田軍と戦って討死・殉死したと伝えられています(『信長公記』など)。

城代の山田新右衛門が討ち死にし、残された今川方の守備兵(駿河衆)も大混乱の中で退去したため、岡崎城は見事なまでに「もぬけの殻」となりました。

空き城となれば、もう今川家に気を使う必要はありません。大樹寺で待機していた元康は「捨てた城なら拾っておこう」と、悠々と無血入城を果たしたのです。

現在の岡崎城天守を見上げると、最上階の屋根の下には「唐破風(からはふ)」という波打つような美しい曲線があしらわれています。これは格式の高い神社仏閣などの正面にのみ許される、権威とステータスのシンボルです。(写真⑥)

⑥:岡崎城の唐破風、波打った天井であることが分かる

しかし、神君・家康が最初に入城した時の扱いは、まさかの「捨て城」。天下を取ると、城のステータスまで見事に出世するものですね。

もしあの時、山田新右衛門がそのまま岡崎城に立て籠もっていたら、家康はすごすごと彼の指揮下に入っていたのでしょうか?それとも一念発起して一戦交え、力ずくで城を奪還していたのでしょうか。

織田信長との「清須同盟」が結ばれるのはここから2年も先の話ですから、私はおそらく前者のように、ひとまず今川の傘下に留まっていたのではないかという気がします。皆様はどう思われますか?

でも、現在の立派な天守を見上げていると、つい岡崎城に向かってこう呟いてしまいました。 「おまえ、あんとき城主不在になって(拾ってもらえて)本当に良かったなあ!」

ただの「捨て城」から、唐破風を頂く「大名たちの憧れの城」への大躍進。お城にも運命というものがあるのかもしれませんね。

💡歴史のロマン