前回は小栗上野介の足跡を追って横須賀を巡りましたが、今回は地元・横浜へ。幕末・維新の強烈なトリガーとなった「黒船来航」という日本史の重大転換点、その一部始終を静かに見つめていた「玉楠(たまくす)の木」に改めて会ってきました。(360°写真①)
現在は横浜開港資料館の中庭にドッシリと根を下ろすこの大木。せっかくなので、館内に展示されている資料を紐解きながら、歴史の裏側を少し覗いてみましょう。
なぜ「また」なのか?
実はペリー来航の7年前(1846年)、すでにアメリカからジェームズ・ビドル提督率いる「コロンバス号」が浦賀沖に現れていたからです。しかもこのコロンバス号、ペリーの黒船より一回り大きく、なんと大砲74門(ペリーの主力艦は9門)を搭載する超ド級の巨艦。当時の浦賀奉行所を大パニックに陥れていました。(絵④)
なのに、巨大で大砲も圧倒的に多いコロンバス号より、ペリーの黒船4隻の方が歴史に名を残しているのはなぜか?
理由は大きく二つあります。
一つ目は、ビドル提督が超「紳士」だったこと。当時の老中・阿部正弘のもとで協議された「日本はオランダと清以外とは通商を認めない。お引き取り願おう」という幕府の決定に素直に従い、おとなしく帰国してしまったのです。
二つ目は「動力」の違いです。コロンバス号は巨大とはいえ帆船。対するペリーの黒船は最新鋭の蒸気船です。 「あんなデカい鉄の塊が、風に逆らって黒煙を吹きながら走っているぞ!」 当時の日本人にとって、西洋の産業革命の脅威をまざまざと見せつけられた瞬間だったことが大きいようです。(写真⑤)
さて、あっさり帰国したビドル提督の報告を聞いたアメリカ側は「日本に軟弱外交は通用せん!次はガツンと行くぞ」と方針を転換。
一方の江戸幕府は「なんだ、外国のデカい船も虚仮威しじゃん。強気に出れば追い返せるのね」と完全に舐めきった認識を持ってしまいます。
この日米の「ズレ」が、のちの大騒動を引き起こす要因になります。
1853年、「また来たから浦賀で交渉して追い返せばいいや」とタカを括っていた幕府をよそに、ペリー艦隊は「舐めんなよ!」とばかりに勝手に江戸湾をゴリゴリ測量。翌年にはそのデータを元に、なんと江戸城の射程圏内(品川沖)までズカズカと侵入してきます。 「ヤバい!江戸が砲撃されるかも!」と幕府首脳は大パニック。 しかし江戸の市民たちは逞しいもので、「恐ろしい軍艦を一目見よう」と海岸へ繰り出し、お祭り騒ぎで見物していたようです。(写真⑥)
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| ⑥黒船を見物する庶民たち |
品川沖に居座って強烈なプレッシャーをかけるペリーに対し、オロオロと弱腰になった幕府は、慌てて横浜村に仮設の応接所を設置し、そこまで艦隊を引き戻させます。この見通しの甘さと対応のブレが、結果的に倒幕の機運を高める一因になったことは間違いありませんね。
そうしてペリーはついにこの地に上陸します。その歴史的瞬間のドタバタ劇をすぐそばでじっと見つめていたのが、冒頭の「玉楠の木」なのです。ペリー艦隊の随行画家・ハイネが描いた上陸図の右側にも、立派な枝葉を広げる玉楠の木がしっかりと描かれています。(写真⑦)
| ⑦ペリー横浜上陸の図 |
ハイネはこの玉楠の木を、もう1枚単独のスケッチとして残しています。(写真⑧)
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| ⑧ハイネが描いた玉楠の木 |
当時すでに目を引く大木で、ハイネもその姿に感心したのでしょうか。それとも、この木が172年の時を越え、日本史のターニングポイントの生き証人としてこの地に立ち続けることを予感していたのでしょうか。 もし後者だとしたら……なんともロマンチックな話ですよね。
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