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土曜日

いなげや⑨ ~渡初式~

《これまでのあらすじ》

1189年、稲毛三郎重成(しげなり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にある枡形城で、病に伏せるようになります。


この原因を江の島の弁財天が何かを知っているとの今若(義経の兄)からの情報に基づき、綾子の父である北条時政(ときまさ:以下、時政)は江の島を訪れました。

時政は、源氏が滅ぼした奥州藤原氏の亡者たちが原因であると弁財天から聞き出します。更に綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要とも。早速、時政は策謀を練り始めます。

1192年の頼朝の上洛時に、時政は三郎と、三郎の従兄弟・畠山重忠(しげただ:以下、重忠)に頼朝暗殺計画を打ち明けます。時政のこの策謀に戸惑いながらも同調した二人、翌年の「富士の巻狩り」の中でこの計画に加担ます。

この計画は、現在では有名となった曾我兄弟の仇討ちを利用し、仇討ちの対象である工藤祐経以外に、頼朝も暗殺してしまうというものでした。仇討ちは成功しましたが、頼朝暗殺は、寸でのところで失敗に終わります。
①伊豆修善寺の片隅にある範頼の墓

しかし、時政は転んでもタダで立ち上がる漢(おとこ)ではありません。頼朝が暗殺されたとの風評を鎌倉へ流し、頼朝の妻・政子を不安にさせます。この時頼朝の異母兄弟である範頼(のりより)が政子に、「鎌倉には範頼がいますのでご安心を」と言うのです。
この一言が仇となり、範頼は謀反の心ありとされ、伊豆へ流刑後、誅殺されました。(写真①

一方、綾子の病状を改善するために、今若は多摩川にいる亡者が見えない自分の寺に綾子を移し、介抱を続けます。三郎は綾子の病状を心配しますが、寺に移ってからは安定してきたという今若の言葉に安心し、頼朝に伴をし、第2回の上洛に旅立つのです。
ところが上洛の帰途、綾子が重態に陥ったとの報告が三郎や頼朝一行にもたらされます。

頼朝から駿馬を与えられた三郎は、綾子の最期を看取ることが出来ました。息を引き取る数刻前、綾子の手を握り続ける三郎は夢を見ます。それは亡者の側に居た綾子が多摩川を泳いで渡ろうとするのですが、弁財天の化身である大蛇が阻むというものでした。


三郎は綾子が息を引き取った即日、稲毛入道と改名し、その後は綾子の追善供養に生きることを決意するのです。

それから、三郎は弁財天に綾子の死の直前に見た夢の解釈を聞きに江の島へ行きます。
現れた弁財天は、多摩川と相模川の2ヵ所に同時に橋を架けることが、綾子を楽にすることであると三郎に勧めます。
早速、渡来人である治水の技術者集団である狛江人を動員し、三郎は橋を架ける事業に着手します。
3年後、立派に出来上がった相模川の大橋の渡初式(落成式)、時政からの進言により、三郎は頼朝を招待します。

落成式まで2か月弱に迫った11月、時政は狛江人の軍事技術者1人を屋敷に呼び寄せます。

【今迄の話 リンク集】
いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~
いなげや② ~弁財天~
いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~
いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~
いなげや⑤ ~富士の巻狩り㊦~
いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~
いなげや⑦ ~綾子~
いなげや⑧ ~綾子の追善供養~

1.相模川の大橋

②現在の相模川にかかる橋
1198年12月27日。鎌倉は小春日和で、この時期には珍しく朝から風も無く、暖かな日となりました。

頼朝は、普段より朝早くに起き出して、朝粥をかっ込み、正午に予定されている相模川の渡初(わたりぞめ)式へ出かける準備を始めました。

鎌倉から相模川までは、約5里(20km)、武士の頭領として橋の渡初式に参加するのですから、騎馬で赴きます。ただ、当然供回りは徒歩の者も居るため、どうしても4時間はかかる道のりです。

「では行って参る。」と政子に行って屋形を出るのが辰の刻(午前7時頃)。政子は妹・綾子の追善供養のための渡初式であるため、本当は自分も参列したいと伝えたのですが、父親である時政が何故か反対したため、自分の分も妹の供養をお願いしたいと出発する頼朝に、もう一度伝えるのでした。

頼朝の一行は、若宮大路を経て、由比ガ浜へ出、そこから海岸沿いに藤沢まで出、更にその先は東海道を西上し、相模川を目指すのです。(写真②

頼朝一行は、予定通り正午ごろに相模川河口に到着しました。

③相模川への木橋のイメージ
ーほお。ー

橋を見た頼朝は呟きました。想像以上に立派な橋です。(イメージ写真③

ーさすが洪水に悩まされる多摩川付近を拠点に持つ三郎は、凄い治水技術者たちを持っているものだ。ー

と感心しながら、馬上から眺めていると、黒い喪服の法衣をまとった三郎が、橋の袂の一群からすたすたと頼朝に近づいてきました。

「こたびは、拙僧と故綾子のために、ご足労頂き、誠にありがとうございます。」

「三郎、いや稲毛入道、数ヶ月前から頑丈で秀麗な橋だとの噂を聞いておったが、流石に現物を目の前にすると圧倒される。綾子の追善供養に恥ずかしくない立派な橋じゃ。」

長さ42m、幅7mの橋が、途中、中洲に盛り土をし土留(とどめ)を築いた両側に2本掛けられています。

④相模川大橋の橋脚跡
橋脚は1幅に3本、それが10m間隔に4組程建てられ、それら12本の橋脚は1本の直径が約60㎝のヒノキで出来ています。多少の増水にはびくともしない安定感がある仕様です。(写真④

「はっ、ありがたきお言葉。こちらに幕屋を用意してございます。式が始まる正午までまだ半刻ございますれば、しばしご休息下さい。」

と慇懃な態度で、頼朝を幕屋へ案内します。

幕屋では、喪服を着た北条時政が待っており、頼朝が入ってくると、こちらも慇懃に挨拶をします。

「本日は綾子のために、ありがとうございます。」
「お義父殿、政子も参加したがっていましたよ。」
「古来、渡初式に女が出ると、川の神の心が乱れ氾濫で橋が流されると言い伝えられていますので。」
「ほう。では綾子の追善供養という事ですが、女を弔う橋であることは良いのですか?」
「・・・」

用意された床机に頼朝が腰をかけると、直ぐに祝酒等が酒肴され、頼朝の家紋である笹竜胆をあしらった陣幕の中は、軽い宴のような状況となりました。

2.渡初式開始

しばらくすると、控えの幕下にいる頼朝を始めとした要人たちは、渡初式の式典会場へと移動し、橋を一望できる席に案内されました。

式典が厳かに開始されます。

⑤擬宝珠
まず、今日の渡初式のために京都の橋姫神社の神官が、お祓いをして持って来たという万度麻(まんどぬさ)を、この大橋の擬宝珠(ぎぼし)の1つに納めることから始められます。(写真⑤

古来、日本では水辺やそこにかかる橋には心霊が宿るとされ、女性神が守る場所とされてきたようです。

脱線しますが、江戸時代初期に造られた横浜の吉田新田も、お三さんという女性が人柱となって荒れる海辺の干拓業が成功したということを、以前拙著Blog「お三の宮 ~吉田新田と人柱~」(ここをクリック)でも描きました。

三郎がこの相模川の大橋の落成を「妻・綾子の追善事業」としたのも、この日本の大動脈である東海道の要所の橋を綾子が守護神となって貰い、ひいては西国からの鎌倉への備え、綾子にとっての姉である政子や義兄である頼朝らを守るためということで起こしたと表向きには成っていたのです。

ですので、万度麻には通常はお札が入っているのですが、三郎は綾子の遺髪を幾重にも紙に包み、それを橋姫神社でお祓いをして、橋がしっかりと押し流されないようにと、1万回祈願しただけのご利益があるとされる万度麻として、擬宝珠に入れるのです。この橋を綾子の霊で守ろうということなのです。

さて、橋姫神社の神官によって、擬宝珠に万度麻が納められる儀式の最中、頼朝は相模川の向う側に見える高麗山に青と赤の煙が立っているのを眺めていました。(写真⑥
⑥高麗山から相模川河口を臨む

ー何かの合図に違いないが、何の合図だろう?ー

と頼朝は思うのでした。

3.多摩川の舟橋開通

こちらは枡形城の本丸にある櫓です。

「おっ!合図があったぞ!予定どおりだ!」

櫓の上でじっと南の空を凝視していた今若が叫びます。彼は南の地平線の先に、わずかに見える青と赤の2つの筋を確認したのです。

彼は早速、神社にあるような大きな丸い鏡を使い、櫓から北側に見える多摩川岸に向けて一定の感覚で揺らします。

揺らした後、狛江方面をじっと見ていると、キラキラとまた一定間隔の反射光が返ってきました。

枡形城では、昔から多摩川の対岸にある狛江人の技術を使い、鏡の反射による通信技術に長けており、現代のモールス信号に近い意味合いの情報伝達を行っていたのです。

この光通信技術は、敵が多摩川対岸から攻めてきた時に、多摩川対岸の狛江人への陽動のために通信をするだけでなく、多摩川の河岸段丘の上にある各城が連携して敵を守るためにも使われました。(写真⑦
⑦連携した多摩川丘陵の城群

また余談になりますが、この多摩川の河岸段丘の上にある各城が連携するという軍事行動例は、実は近年の太平洋戦争まであります。

帝都東京に対する空襲に備え、稲毛三郎が造った近くの小沢城(写真⑦一番左)にサーチライトを設置、これと連動して、枡形城(写真⑦左から3番目)に設置した高射砲で、夜間に来襲してくるB29を射撃したというものです。

話を戻します。狛江人から反射光が枡形城へ返信されてしばらくすると、多摩川に浮かぶ、大きな丸太で連結された約30艘の舟の上流側の縄が外されました。(図⑧

舟橋は、普通は1艘1艘順番に横に並べて川底に錨を落し、船体を固定して川に並べた後にその上に板等を敷いて完成させます。
⑧多摩川に一気に舟橋を架ける方法
しかし、この通常の架け方ですと、狛江側にたむろしている人間には見えない亡者たちが相模大橋が出来上がる前に鎌倉側へ侵入してしまいます。

そこで狛江人の技術者は知恵を絞り、相模川への大橋が開通するのとほぼ同時に、舟橋を一気に開通させる図8の方法で、鬼門(多摩川側)から入り込んだ亡者たちを、鎌倉へ立ち寄る時間を与えずに裏鬼門(相模川)から即追い出せると考えたのです。(前のBlog参照

上流の縄が外されると、連結された30艘の舟は多摩川の流れに乗り、ゆっくりともう片側の縄で繋がれた箇所を要(かなめ)として、扇状に90度転回していきます。そして、縄が外された側が対岸(枡形城側)に近づくと、その外された縄を対岸に居る人が、岸に固定します。(図⑧

これで多摩川への橋は一気に出来上がりました。

この舟橋は、出来た直後から不自然な揺れでギシギシとしばらく鳴り続けました。それは橋の上を何人もの見えない人々が歩いていく感じの揺れでした。

枡形城の櫓の上から見ていた今若は、
「綾子殿。三郎殿が待っているぞ!」
と橋の揺れを見つめながら、呟くのでした。

4.神馬

⑨寒川神社の神馬
さて、一方相模川の式会場では、擬宝珠に万度麻が納められた後、渡初式のメインイベント、武家の頭領である頼朝がこの橋を初めて渡る儀式を行う準備が進められていました。

神馬が引いて来られました。昔からこの相模川と関連の深い寒川神社の神馬です。(写真⑨

頼朝は16年前、頼家が生まれた時に、寒川神社に神馬を奉納しているのです。その良き縁もあって、今回のこの大橋の渡初めには、寒川神社の神馬が曳いて来られたという経緯です。

真っ白な神馬は、少し落ち着かない様子でしたが、関係者が背中を撫でていると、段々と落ち着いてきたようです。

頼朝は床几から立ち上がると、その神馬に向かってゆっくりと歩き、さっと馬上の人となりました。

5.馬入橋のいわれ

頼朝が馬上人になると、轡(くつわ)を神官が取り、厳かに橋の入口に立ち、大音声で祝詞(のりと)を上げます。

「これより初渡りを行いまする。」

水干姿の頼朝を乗せた神馬は、神官に轡を引かれながら、そろそろと大橋を渡り始めました。

2つの橋を併せても約100m弱、そろそろ渡り初めても、四半刻(15分)もあれば終わる儀式です。

ところが、1つ目の橋を渡り終え、中洲にある土留に差し掛かった直後、普段は極めて大人しい神馬が、急に前足を高く宙に上げ、大きく嘶(いなな)きました。そしてそのまま前を歩く神官に体当たりをくらわすと、何かに怯えるように、そのまま土留の急斜面を落ちるように疾走し、ざんぶと川に飛び込みました。

「頼朝殿!」

一瞬の出来事だったので、式を観ていた人々は頼朝も馬と一緒に川に飛び込んだように見えました。

しかし、頼朝は1つ目の橋の欄干脇に立っていました。

彼は、急に神馬があばれ馬となった瞬間、とっさに鐙(あぶみ)を外し鞍から橋へ飛び降りたのです。御歳53になる頼朝ですが、流石は武家の頭領、それ位の馬さばきはまだ十分にできるのです。
⑩馬が川に入ったことから、この橋はこの後
「馬入橋」と呼ばれている

ホッと胸を撫でおろす関係者の中から、三郎が飛び出し頼朝の元に走り寄ります。

「御所殿、お怪我はございませぬか?」
「大丈夫だ!飛び降りた直後、欄干に少し腰を打ったが・・・。」

頼朝は腰にちょっと手を当ててみせませす。

「大事ない。」

と歩き出そうと一歩踏み出した瞬間、倒れるように三郎の肩にぐっと手を掛けてきます。

「御所殿!」
「三郎、少し腰にきたようだが、落馬のせいではない。寒さのせいで、いつもの腰痛が悪化したまでだ、このまま何とか2つ目の橋先まで歩いて渡初めを完遂させるので、私と一緒に歩いてくれ。」
「はっ!」

この後、頼朝は何事も無かったかのように、ゆっくりとではありますが、2つ目の橋を背筋を伸ばし、前を見据えて歩いて渡ります。しかし、三郎は分かっていました。頼朝が、このあばれ馬の不始末に対する責任を三郎に感じさせないように、激しい腰痛を感じながらも、無理をして歩いていることを。

これが、現在も相模川に掛かっている馬入橋の名前の由来です。(写真⑩

6.仕掛け

橋を渡り終え、渡初式完了の祝詞が上げられると、三郎は近隣の薬師(くすし)を呼び寄せ、直ぐに頼朝に「よもぎ」による鎮痛剤と、腰への塗付、更には、さらしによる腰の固定等の応急処置がなされました。

そして、薬師は、腰をがっちり固定した今の状態では、狭い輿に窮屈に背筋を曲げて乗るよりは、馬上で背筋をしっかり立て、ゆっくり移動して帰る方がまだましであろうと診断しました。

三郎は、従者に、新たな馬を曳いて来させます。

ところが頼朝は三郎をしっかりと見据え、次のように言います。

「待て!三郎、あの神馬は土留の辺りで、きっと何かを見て興奮したに違いない。」
「馬が・・・ですか?」

《つづく》

お読み頂き、ありがとうございました。
上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。


【馬入橋】神奈川県平塚市馬入